リリーベルが戻ってきたのは、文が届いた三日後のことだった。
自分がいなかった間に大事な助手が危険な目に遭っていたと聞かされて、彼女はかなりご立腹である。
「きっかぁぁ?」
「は、はい、なんでしょう? リリーベル様」
美人が怒ると、凡人よりも迫力がある。
般若の面のような顔をするリリーベルに、菊花は顔を引き攣らせた。
菊花の両肩を掴んで顔を覗き込みながら、リリーベルは武官でもない菊花がどれほど無謀だったのか、それによってもたらされる驚異と結末を懇々と話して聞かせた。
「いい? 今後同じようなことがあったら、絶対に、何がなんでも逃げること。分かった?」
「……わかりました」
「間が気になるけど……分かったのなら、よろしい」
菊花が渋々うなずいたのを見て、リリーベルはようやく怖い顔をやめた。
それから優しい笑みを浮かべて、菊花の頭を撫でてくれる。
お姉さんがいたらこんな感じなのかなと、菊花は目を眇めて身を任せた。
「それで? 菊花を狙っていた男の素性は分かったのかい?」
リリーベルの問いに答えたのは登月だった。
いつものようにしれっとした顔で、彼はこの場に立っている。
「ええ。私が検分いたしました」
「登月が?」
「ええ、何か問題でも?」
「いや、ご愁傷様だなぁと思っただけさ。それで?」
「暴漢の見当がつきました。茶李平。朱家の口添えで地方から異動になってきた、武官です」
ぞくり。
その時、菊花の背中を悪寒が走った。
(朱家の口添えってことは、やっぱり黄家が関係している?)
朱家といえば、朱紅葉が真っ先に思い浮かぶ。
紅葉は、珠瑛の取り巻きの一人だ。
同じことを思ったのだろう。
菊花の足元にいた蛇晶帝が、ゆるりと頭を起こして見上げてくる。
『菊花。あの件を、皆に伝えてくれ』
「父上。あの件、とは?」
意味深な言葉に、香樹が眉をひそめて蛇晶帝を見る。
登月とリリーベルは蛇晶帝の言葉が聞こえないためか、様子を窺うように静観を保っていた。
「これはあくまで私の推測だけれど……私たちが探している白い紅梅草は、黄家が栽培しているのではないかと思うのです」
黄蘭瑛と華香の過去。それから、荒れた蘭瑛と亡くなった者たち。
たまたまといえばそれまでだが、菊花はそう思えなくなっていた。
「黄家は昔から、黒いうわさが絶えないそうですね。それも毎回、毒殺と言うではありませんか。蘭瑛様の荒れた時期と、蛇晶帝周辺で起きた不幸の時期、それらを鑑みて、一部の出来事は蘭瑛様が指示していることなのではないかと思ったのです。確証はありません。ただの勘でしかない。けれど今回、暴漢が黄家と無関係ではないかもしれない武官だと聞いて、私はますます怪しいと思いました」
菊花の言葉を、香樹は難しい顔をして聞いていた。
彼女が言っていることは、分からなくもない。
父や兄が毒殺されたと聞いて、香樹がまっさきに疑ったのが蘭瑛だったからだ。
十七年ぶりに突然現れた末の皇子に、それまで皇太子の正妃にと推していた珠瑛を香樹の嫁にどうかと打診してきた蘭瑛。
だから香樹は、皇太子を殺す前提で打診してきていたのではないかと考えた。
だが、それはあくまで香樹の推測に過ぎない。
毒殺された父や兄の周辺からは黄家の関与を示す証拠は見つからず、犯人は未だ野放しのままだった。
「黄家は前々から怪しい動きをしていた。だが、いずれも証拠がない。証拠がなければ、大々的に家探しすることも難しいだろう」
頭が痛い。
鈍い痛みを散らすように、香樹は頭を振った。
「そうですよね。だから、思ったんです。彼らの留守を狙って、こっそり家探しできないかなって。証拠さえ見つかれば、黄家は言い逃れできないでしょう?」
「しかし、そう簡単に留守になることなどあるのだろうか? 毒草を栽培しているのなら、離れることなど考えられまい」
そうなのである。それが、問題だった。
しかし菊花はそれ以上を考えておらず、困り果てて裳を握りしめることしかできない。
そんな中、沈黙を破ったのは登月だった。
「いいえ。留守にさせるのですよ。間もなく、宮女候補たちの最終選考の時期に入ります。陛下はその最終選考の方法として、茶会を提案するのです。自分を最も喜ばせた一族の娘を正妃にする。そう言えば、一族を挙げて茶会を盛り上げようとするのではないでしょうか」
登月の案に、リリーベルが「まさか」と異を唱えた。
「皇帝陛下を毒殺するような男が、それくらいで尻尾を出すかな?」
リリーベルの言い分は、もっともだ。
しかし、もしも蘭瑛が狂っているのだとすれば。
もしも、香樹や菊花を、蛇晶帝に関係する者を殺すことで気持ちを落ち着けているのだとすれば。
我慢できずに動くはずだと、菊花は思った。
「茶会は、うってつけの機会だと思います。だって、堂々と毒殺できますから。機会はたくさんある。隙を作ってわざと泳がせたら、もしかすると現行犯で捕まえられるかもしれません」
言いながら、菊花は足が竦むような思いだった。
だって、もしかしたら殺されてしまうかもしれない話をしているのだ。怖くないわけがない。
震える手を押さえつけるように握りしめていたら、ひんやりとした手が菊花の手を包み込む。
「よく分かった。黄家については、私も前々から気にはなっていたのだ。調べられる機会があるのならば、やってみたいと思う。だが、菊花が危険な目に遭うのは困る。万全の態勢で実行できるよう、入念な準備が必要であろうな」
菊花の手の甲を唇に寄せて、香樹は恭しく口づけを落とした。
途端、菊花の震えはおさまり、代わりに彼女の肌が真っ赤に染め上がる。
「陛下。ちょっと仲が進展したからって、この場で見せつけないでください」
登月の冷ややかな視線に、香樹がおかしそうにククッと笑う。
「なんだ、登月。やきもちか?」
「さて、なんのことでしょう?」
軽口の応酬に、不穏な空気が少しだけ和らぐ。
ホッと息を吐きながらも、しかし菊花の胸の内は黒い霧がたちこめたままだった。
自分がいなかった間に大事な助手が危険な目に遭っていたと聞かされて、彼女はかなりご立腹である。
「きっかぁぁ?」
「は、はい、なんでしょう? リリーベル様」
美人が怒ると、凡人よりも迫力がある。
般若の面のような顔をするリリーベルに、菊花は顔を引き攣らせた。
菊花の両肩を掴んで顔を覗き込みながら、リリーベルは武官でもない菊花がどれほど無謀だったのか、それによってもたらされる驚異と結末を懇々と話して聞かせた。
「いい? 今後同じようなことがあったら、絶対に、何がなんでも逃げること。分かった?」
「……わかりました」
「間が気になるけど……分かったのなら、よろしい」
菊花が渋々うなずいたのを見て、リリーベルはようやく怖い顔をやめた。
それから優しい笑みを浮かべて、菊花の頭を撫でてくれる。
お姉さんがいたらこんな感じなのかなと、菊花は目を眇めて身を任せた。
「それで? 菊花を狙っていた男の素性は分かったのかい?」
リリーベルの問いに答えたのは登月だった。
いつものようにしれっとした顔で、彼はこの場に立っている。
「ええ。私が検分いたしました」
「登月が?」
「ええ、何か問題でも?」
「いや、ご愁傷様だなぁと思っただけさ。それで?」
「暴漢の見当がつきました。茶李平。朱家の口添えで地方から異動になってきた、武官です」
ぞくり。
その時、菊花の背中を悪寒が走った。
(朱家の口添えってことは、やっぱり黄家が関係している?)
朱家といえば、朱紅葉が真っ先に思い浮かぶ。
紅葉は、珠瑛の取り巻きの一人だ。
同じことを思ったのだろう。
菊花の足元にいた蛇晶帝が、ゆるりと頭を起こして見上げてくる。
『菊花。あの件を、皆に伝えてくれ』
「父上。あの件、とは?」
意味深な言葉に、香樹が眉をひそめて蛇晶帝を見る。
登月とリリーベルは蛇晶帝の言葉が聞こえないためか、様子を窺うように静観を保っていた。
「これはあくまで私の推測だけれど……私たちが探している白い紅梅草は、黄家が栽培しているのではないかと思うのです」
黄蘭瑛と華香の過去。それから、荒れた蘭瑛と亡くなった者たち。
たまたまといえばそれまでだが、菊花はそう思えなくなっていた。
「黄家は昔から、黒いうわさが絶えないそうですね。それも毎回、毒殺と言うではありませんか。蘭瑛様の荒れた時期と、蛇晶帝周辺で起きた不幸の時期、それらを鑑みて、一部の出来事は蘭瑛様が指示していることなのではないかと思ったのです。確証はありません。ただの勘でしかない。けれど今回、暴漢が黄家と無関係ではないかもしれない武官だと聞いて、私はますます怪しいと思いました」
菊花の言葉を、香樹は難しい顔をして聞いていた。
彼女が言っていることは、分からなくもない。
父や兄が毒殺されたと聞いて、香樹がまっさきに疑ったのが蘭瑛だったからだ。
十七年ぶりに突然現れた末の皇子に、それまで皇太子の正妃にと推していた珠瑛を香樹の嫁にどうかと打診してきた蘭瑛。
だから香樹は、皇太子を殺す前提で打診してきていたのではないかと考えた。
だが、それはあくまで香樹の推測に過ぎない。
毒殺された父や兄の周辺からは黄家の関与を示す証拠は見つからず、犯人は未だ野放しのままだった。
「黄家は前々から怪しい動きをしていた。だが、いずれも証拠がない。証拠がなければ、大々的に家探しすることも難しいだろう」
頭が痛い。
鈍い痛みを散らすように、香樹は頭を振った。
「そうですよね。だから、思ったんです。彼らの留守を狙って、こっそり家探しできないかなって。証拠さえ見つかれば、黄家は言い逃れできないでしょう?」
「しかし、そう簡単に留守になることなどあるのだろうか? 毒草を栽培しているのなら、離れることなど考えられまい」
そうなのである。それが、問題だった。
しかし菊花はそれ以上を考えておらず、困り果てて裳を握りしめることしかできない。
そんな中、沈黙を破ったのは登月だった。
「いいえ。留守にさせるのですよ。間もなく、宮女候補たちの最終選考の時期に入ります。陛下はその最終選考の方法として、茶会を提案するのです。自分を最も喜ばせた一族の娘を正妃にする。そう言えば、一族を挙げて茶会を盛り上げようとするのではないでしょうか」
登月の案に、リリーベルが「まさか」と異を唱えた。
「皇帝陛下を毒殺するような男が、それくらいで尻尾を出すかな?」
リリーベルの言い分は、もっともだ。
しかし、もしも蘭瑛が狂っているのだとすれば。
もしも、香樹や菊花を、蛇晶帝に関係する者を殺すことで気持ちを落ち着けているのだとすれば。
我慢できずに動くはずだと、菊花は思った。
「茶会は、うってつけの機会だと思います。だって、堂々と毒殺できますから。機会はたくさんある。隙を作ってわざと泳がせたら、もしかすると現行犯で捕まえられるかもしれません」
言いながら、菊花は足が竦むような思いだった。
だって、もしかしたら殺されてしまうかもしれない話をしているのだ。怖くないわけがない。
震える手を押さえつけるように握りしめていたら、ひんやりとした手が菊花の手を包み込む。
「よく分かった。黄家については、私も前々から気にはなっていたのだ。調べられる機会があるのならば、やってみたいと思う。だが、菊花が危険な目に遭うのは困る。万全の態勢で実行できるよう、入念な準備が必要であろうな」
菊花の手の甲を唇に寄せて、香樹は恭しく口づけを落とした。
途端、菊花の震えはおさまり、代わりに彼女の肌が真っ赤に染め上がる。
「陛下。ちょっと仲が進展したからって、この場で見せつけないでください」
登月の冷ややかな視線に、香樹がおかしそうにククッと笑う。
「なんだ、登月。やきもちか?」
「さて、なんのことでしょう?」
軽口の応酬に、不穏な空気が少しだけ和らぐ。
ホッと息を吐きながらも、しかし菊花の胸の内は黒い霧がたちこめたままだった。