皇帝陛下のあたため係

紅梅草(こうばいそう)は、何に使われたのですか?」

 蛇晶(じゃしょう)帝と皇子の死因は、毒殺である。
 それも、毒の耐性を持つ彼らをも殺す猛毒。

 となれば、簡単なことではない。
 とびきり強い毒性がなければいけないだろう。

「さっきも言ったけど、紅梅草はあらゆる薬や毒の効果を高めるんだ。蛇晶帝の体から採取された毒は、ほとんど解析できたんだけれど……あと一つが分からない。紅梅草に似ているということは分かったのだけれど、それ以上はさっぱりだ。もしかしたら、新種の毒草か、突然変異の毒草かもしれないね」

「新種に突然変異ですか」

 紅梅草の突然変異。
 その言葉を聞いて、菊花(きっか)の脳裏にふと過ぎるものがある。

 本当に、たまたまだった。
 たまたま、食うに困ってしたことだった。

 紅梅のような赤い花を咲かせる紅梅草。
 菊花は裏山から採ってきたそれを、自宅の畑で量産しようとしたことがあったのだ。

 だが、結果は失敗。
 何がいけなかったのか、紅梅草は赤くなるどころか真っ白な花が咲き、当然のことながら、見たこともない謎の草を買い取ってはもらえなかったのである。

(まさかねぇ?)

 こんな偶然、何度も続くわけがない。
 蝗害(こうがい)の時みたいに、うまくいくわけなんて、あるはずがない。

(だけど、もしも、があったとしたら?)

 そう思ったら、黙っていることなんてできなかった。

「あのぅ……ちょっと、よろしいでしょうか?」

 菊花の声に、リリーベルはキラリと目を輝かせた。
 まるで、待っていましたと言うように、その目は期待に満ちている。

「なんだい? ああ、もしかして何か(ひらめ)いたのかな? ふふ。聞いているよ。()の国の蝗害、その対策を君が献策したって。面白い案だよねぇ。みんなは君を田舎娘って馬鹿にしているけれど、私は不思議でならないよ」

 リリーベルが、ワクワクとした目で菊花を見つめる。
 菊花は、その目を不安そうに見返した。

「違うかもしれません」

「構わない。研究とは、そういうものさ。少しの可能性でもあるのなら、聞く価値はある」

 だから、自信を持って。
 そう言って、リリーベルは優しく菊花の言葉を促した。

 菊花はためらうように唇を噛んで、何度かモニョモニョと動かしてから、ようやく決心したように口を開いた。

「私、昔……食うに困って、裏山から採ってきた紅梅草を畑で栽培しようとしたことがあるんです」

 両親が流行病で亡くなって、菊花は一人で生きていかなくてはならなかった。
 両親のおかげで食べていく術は知っていたけれど、その方法は地道なものだ。

 裏山に分け入り、獣から逃げ回りながら必要な山菜や薬草を採取する。
 採取したものを店で買い取ってもらって、金を得る。

 単純にして明快な方法だが、裏山には猪が生息していて、逃げ回るのも大変なのだ。
 だから菊花は、なるべく簡単で安全に薬草を手に入れる方法を模索した。
 その結果が、紅梅草の栽培だったのである。

「紅梅草を、栽培しようとしたの? 紅梅草の育成方法なんて、まだ確立されていないのに。すごいね、菊花さん」

「すごくないですよ、失敗しましたし」

 全然すごいことなんてないのだ。
 だって菊花が植えた紅梅草は、赤い花を咲かせなかった。
 蕾まではちゃんと育っていたのに、開いた花は真っ白だったのである。

 真っ白な紅梅草なんて、聞いたことがない。
 いや、紅梅草とも言えないだろう。
 あるかどうかは分からないが、これでは白梅草(はくばいそう)である。

 当然のことながら、いつも薬草を買い取ってくれている店では断られた。
 だから結局、菊花は裏山で猪から逃げ回りながら薬草や山菜を採って生計を立てていたのである。

「しかも、真っ白な紅梅草はなぜか大量に繁殖しまして。きっと今頃、実家の畑は真っ白な紅梅草であふれかえっているでしょうね……」

 帰ったら草むしりが大変だと、菊花は重いため息を吐いた。
 金にならないどころか、労力の無駄になったのだ。素人が迂闊(うかつ)なことをするものではないと、菊花はやれやれと首を振る。

 菊花の言葉に、リリーベルは時が止まったように瞬きさえ忘れて菊花を見た。
 それからハッと我に返ると、菊花を逃がさないようにしようとしているのか、両肩をぐわしと掴んでくる。

「……えっと、菊花さん?」

 美しい顔が、間近に迫る。
 こんな距離は、香樹(こうじゅ)以外で初めてである。
 女性であるのは重々承知だが、自分のものではない甘い香りが鼻をくすぐって、菊花は「ぴゃっ」と声を漏らした。

「は、はい、なんでしょう? リリーベル様」

「それを突然変異と言うのだよ?」

「そう、でしょうか?」

「そうなんです!」

 リリーベルは菊花の肩を解放すると、ピョンピョンと嬉しそうに飛び跳ねた。
 束ねた髪が飛び跳ねる度に揺れて、尻尾のようだ。

「うわー! なんでもっと早く言ってくれなかったの⁈」

「え、いや……紅梅草の突然変異とか新種とか、ついさっき聞いたばかりですし」

「そうだよね! あー、なんで私は言わなかったのだろう。もっと早く言っておけば良かった。そうしたら、もっと早く解決したかもしれないのに!」

 一人騒ぎながらしばらく狭い室内を跳ね回って、リリーベルは再び菊花を捕まえた。

「菊花さん、君の家ってどこ? 今すぐ採取に行くから教えてちょうだい!」

 至近距離の美形の顔は心臓に悪すぎる。
 顔を覗き込まれて、菊花は顔を真っ赤にしながら、実家の場所をしどろもどろで答えた。
 リリーベルは、恐るべき行動力ですぐに出立の準備を整えた。

 彼女の本来の目的は、蛇晶(じゃしょう)帝の息の根を止めた毒を特定することだから、最優先されるのは当然のことかもしれない。
 菊花(きっか)の話を聞いた翌日には香樹(こうじゅ)に話をつけ、数日後には菊花の実家がある崔英(さいえい)へ旅立つ用意を調えていた。

 崔英までは駿馬を乗り継いで行くらしい。
 馬に乗れない菊花からすれば、信じられないことだ。
 だが、菊花の実家は馬車で乗り入れるには少々難儀な所であるから、馬で行くのが最適だろう。

「では、行ってくるよ」

「リリーベル様ぁ! お気をつけてぇ!」

「ご無事をお祈りしておりますわぁ!」

 後宮の出口近くで、宮女候補たちがさめざめと泣いている。
 見事な刺繍が刺された綺麗な手巾(ハンカチ)を振りながら、彼女たちは口々に別れの言葉を告げた。

 視線の先には、男装の麗人、リリーベルの姿。
 菊花は見つからないようにひっそりと、扉の陰からリリーベルに手を振った。

 気付いた彼女は笑顔で手を振り返してくれたが、宮女候補たちは自分にだと思ったらしい。
 そこかしこで、「私よ」「私だってば」という言い争いが起きる。

「ああ、かわいいレディたち。どうかけんかをしないで。私は研究のために少し後宮を離れるけれど、必ず戻ってくる。それまで、良い子で待っているのだよ?」

 パッチン。

 一目会うだけで腰砕けになるとうわさの澄んだ青い目で、リリーベルは秋波(ウインク)を送る。
 その途端、宮女候補たちの数人がパタパタと倒れた。

(お、おそるべき、美形……!)

 これで人妻だというのだから、驚きである。

「いや、人妻だからこその色気なのかも?」

『そうじゃのう。愛し愛される者はいつだって綺麗じゃ』

 菊花の足元で、シュルリと蛇晶帝がとぐろを巻く。
 鎌首をもたげてリリーベルを見るその目は、どこか懐かしそうで、それでいて寂しげな色をしていた。

華香(かこう)様のことを思い出しているのかしら)

 蛇晶帝の後宮に花が増えたのは、華香亡き後だと聞いている。
 華香が存命中、後宮の花は彼女だけだったのだとか。

(皇帝陛下は唯一、一夫多妻制を許されているのに)

 それほど彼は、妃を愛していたのだろう。

(皇帝陛下を夢中にさせる、正妃。そんな彼女の代わりなんて、私では無理なのかしら)

 香樹を母のような愛で守り抜くと決めたけれど、果たして菊花は生母である華香のように愛せるのか。
 相変わらず、菊花は香樹の抱き枕でしかない。いつになったらこの愛の本領は発揮できるのかしらと、菊花は憂いの表情を浮かべた。
 リリーベルを見送ってから数日後の夜のことである。
 菊花(きっか)は、あたため係として呼ばれた時にだけ使う寝所の前で立ち止まった。

「……?」

 いつも通り、寝所の扉は閉まっている。

 ここはいつだって、閉じたままだ。
 開けっ放しになっていたことなんて、一度もない。
 扉は、いつもぴっちりと閉め切られていて、菊花は自分で開けて、入るのだから。

 なのに、部屋の中で物音がしたような気がした。

 菊花が寝台(ベッド)に入るまで、香樹(こうじゅ)はただじっと寝台の上で体を丸めて待っている。
 今日に限って、寝台を抜け出して何かしているのだろうか。

 外ではしとしとと雨が降り続けていて、廊下はひんやりとしている。
 こんな日の香樹は、いつも以上に寒がって寝台から出てくることはないはずなのに。

 菊花は不思議に思いながらも、そういうこともあるかと扉を開けた。
 途端、香樹の鋭い声が菊花に向けられる。

「来るな!」

「え?」

 初めて聞いた香樹の大声に、菊花の足が止まる。
 天蓋の布は、開かれていた。
 寝台の上には立ち膝になった香樹がいて、寝台のすぐそばには、人と思しき影がある。

 影はスラリと何かを引き抜いた。

 何か、ではない。
 蝋燭(ろうそく)の明かりで鈍く光るそれを、菊花は前に見たことがあった。

(小刀)

 菊花は目を見開いた。
 そんな彼女の脳裏で、少し前に拉致監禁された時の記憶がありありと蘇る。

「あ……」

 ガクガクと足が震える。
 逃げなくちゃ、と本能が告げてきた。

(だけど、どうやって?)

 足は震えて使いものにならないし、這って逃げたとしても追いつかれるのが関の山。

「菊花、部屋を出ろ! 早く!」

(そうだ、部屋を出なくちゃ。だって、こういう時は逃げましょうって、(せき)先生が言っていたもの)

 女性と子どもは邪魔だから。
 武官の邪魔にならないように。

 大声を上げて助けを呼び、一刻も早くその場から逃げるようにと教えてくれたのは、武術担当の赤先生だった。

「誰か! 誰か来て! 侵入者よ!」

 だけれど、ここで逃げるなんて菊花にはできなかった。
 だって菊花は、香樹の母のつもりでいる。
 母というものは、身の危険も顧みず、我が子を助けるものである。

 部屋の中には、影と香樹しかいない。
 菊花以外に、影と、大切に想っている香樹しかいないのだ。

 素早く周りを見回した菊花は、火鉢に刺さった火箸をつかみ取った。

「香樹!」

 薄い寝間着をはためかせて、菊花は走った。
 履いていた木靴が途中で脱げて、転びそうになる。
 それでも菊花はなんとか踏ん張って、裸足で走った。

「やあぁぁぁぁ!」

 人生で一番速かったのではないかと思うような速度で走りきった菊花は、火箸を構えて寝台に飛び乗った。

「逃げろ、菊花!」

「絶対、嫌! 私は、あなたを守るんだから!」

 菊花は震える手で火箸を握りしめ、影をにらみつけた。
 影は菊花を見るなりニンマリと唇を歪める。

「ちょうど良かった」

 影は、じっとりと陰湿な声でそう言った。
 ゾワリと菊花の腕に鳥肌が立つ。

(ちょうど、良かった……?)

 人は、追い詰められた時ほど頭の回転が速くなるらしい。
 菊花の頭の中で、影の言葉がすごい速さで処理されていく。

 ちょうど良かった。
 それは、菊花に対して言われた言葉。

 つまり影は、菊花に用があったということなのだろう。
 必死になって菊花に逃げろと言っている香樹は、おそらく知っているのだ。この影の狙いが、皇帝陛下ではなく菊花であるということを。

(狙われているのは、香樹じゃなくて、私!)

 それなら、菊花がすることはただ一つ。
 菊花が(おとり)になって引き付けて、香樹から遠ざけることだけである。

(私は香樹のことが大切だから! できることを、精一杯やるだけよ!)

「菊花、逃げるのだ!」

「はい!」

 菊花は、寝台から飛び降りようとした。
 少しでも飛距離を伸ばしたくて、屈み込んだその瞬間、菊花の後ろから腕が伸びてくる。

「危ないっ!」

 くるりと菊花の体が回る。
 気付けば香樹に抱き寄せられていて、その背に守られていた。

 細く頼りなげな背が、今はとても頼もしく見える。
 菊花はすがりたくなる気持ちを我慢して、胸元で両手を握りしめた。

 数回剣戟(けんげき)の音が鳴り響き、影が忌ま忌ましげに舌打ちをする。
 見れば、影の足には大きな蛇が牙を食い込ませていた。

 影は必死に蛇を蹴り落とそうとするが、深々と突き刺さった牙は抜けない。
 とうとう蛇の毒は、影の動きを止めた。

 ドサリ。

 影が、床に崩れ落ちる。

「ひっ」

 死んだかと思って、菊花は小さな悲鳴を上げた。

『安心せい。峰打ちじゃ』

 寝台で腰を抜かす菊花の前で、ニュッと顔を覗かせたのは蛇晶(じゃしょう)帝であった。
 細い舌をピルピルさせて、なんとなく自慢げな表情をしているように見える。

「父上は剣など使っていないでしょう」

『神経毒で動けなくしただけじゃよ。殺しはしておらんから、峰打ちじゃろう? 菊花に手を出していたら、危うく手加減できんかったかもしれんがな。香樹が剣の鍛錬をしていたおかげで、こいつの命はつながったのぉ』

 恐ろしいことをケロリと言いながら、蛇晶帝はカッカッカッと笑った。

(ひぇぇぇ……わ、笑えない)

 皇帝陛下ともなると、人の生き死になんて軽いことなのだろうか。
 そういえば香樹も八つ当たりで毒蛇に噛ませていたことを思い出して、菊花はブルリと体を震わせた。

「菊花、けがはないか?」

 香樹が、菊花を覗き込む。
 けががないか確かめるようにほおを撫でられて、菊花は詰めていた息を吐いた。

「もう、大丈夫だ」

 火箸を持っていた手が、硬直して痙攣していた。
 安心したせいで緩んだ涙腺が、ポロリと涙を零す。

「い、生ぎでるぅぅぅ」

 良かった。本当に、良かった。

 強張る手から火箸を落として、菊花は香樹に抱きつく。
 涙と鼻水でグチャグチャになった菊花を、香樹は構わず抱き寄せた。

 抱き合う二人を見つめ、蛇晶帝は満足そうに頷く。
 それからシュルリと音を立てて床を這い、倒れた影の足に絡み付いた。

『ここはわしに任せよ。賊の検分は登月(とうげつ)とやっておく』

「頼みます。私たちは……そうですね。今夜は菊花の部屋に泊まるとします」

『おお! 初めてのお宅訪問じゃな? どうなるのか、あとで菊花から聞くのが楽しみじゃ』

「何もありませんよ。ただ、寝るだけです。では、頼みます」

『意気地なしめが』

「なんとでも」

 グスグスと鼻を鳴らす菊花の体がふわりと浮く。
 慌ててすがるものを求めた菊花の腕は、香樹の首にしがみついた。

 揺れる体と不安定な浮遊感。

(こ、これは! お姫様抱っこぉぉぉぉ!)

「ぴゃぁぁぁぁ!」

「またその声か。一体、何の鳴き真似なのだ?」

 香樹がクスクスと楽しげに笑う。
 ついでとばかりに涙で濡れるほおを舐められて、菊花は再びおかしな悲鳴を上げた。

 菊花は、自分の体重が一般的な女性よりも重い自覚がある。
 だから、お姫様抱っこなんて夢のまた夢だと思っていたし、まさか、守るべき親友である(はく)が自分のことをお姫様抱っこする日が来るとは、夢にも思っていなかった。

(もう何度もされてますけど! それでも驚くのよ!)

 ひとしきり混乱して奇声を上げて、ようやく落ち着いた菊花は、香樹が無理をしているのではないかと思った。
 だって、菊花は重いのだ。
 せめてもう少しくらい痩せておけば良かったと後悔しても、もう遅い。

「あの……重くない?」

「ああ」

 短く簡潔に答えられる。
 どちらにも取れる答えに、菊花は心の中で「どっちなのよ」と叫んだ。

 だが、香樹の足取りに不安定さなど微塵もない。
 息も乱さず、菊花なんて抱っこしていないような普通の足取りだった。
 しばらく歩いて、香樹(こうじゅ)菊花(きっか)の部屋の前で止まった。
 両手がふさがっている香樹の代わりに、菊花が扉を開ける。

 私物なんてほとんどない、飾り気のない部屋。
 机の上に置かれた小さな置物に気付いた香樹は、あいさつするようにペコリと頭を下げた。
 なんでもないことのように。それが当たり前のことだというように、自然と。

「あ……」

 誰がどう見ても、価値なんてない小さな置物。
 珠瑛(しゅえい)たちでさえ、気にも留めなかったそれに、香樹は気付いてくれた。

 そのことがどうしようもなく、菊花は嬉しかった。
 だってその置物は、菊花の父であり、母だったから。

「ありがとう、香樹」

「礼を言うようなことではないだろう」

「でも、嬉しかったから」

「そうか」

 寝台の上に、(うやうや)しく下ろされる。
 菊花の目の前で、香樹はひざまずくように座った。

 部屋の中に蝋燭(ろうそく)はあるけれど、ついていなかった。
 今夜は満月のはずだけれど、雨雲が隠してしまっている。

 薄暗い中、香樹の深紅の目が菊花を見据えた。

「菊花」

 名前を呼ばれる。
 たったそれだけなのに、菊花の胸はドキリと脈打った。

(言われ慣れていないせい?)

 胸を押さえて息を潜める菊花の手を取った香樹は、無表情だった。
 その顔からは何も読み取れなくて、菊花は不安そうに彼の名前を呼ぶ。

「香樹?」

「……どうして逃げなかった?」

 怒っているような、何かを我慢しているような、静かで低い声だった。
 幼子を叱る母親のように、香樹の両手は菊花の手を掴んでいる。
 赤い目が、責めるように菊花をにらんだ。

「逃げたく、なかった、から」

 香樹が責めるのも、分からなくはない。
 しかし菊花だって、彼女なりの理由があってそうしたのだ。
 悪いことなんてしていないと、菊花は対抗するように香樹をにらみ返す。

(せき)先生は、逃げろと教えなかったか?」

「教わったけど……でも私は、そんな事できない」

「なぜ?」

(なぜ、なんて。そんなの、決まってる)

「だって私は、香樹のお母さんだもの」

 菊花は掴まれていた手で、香樹の手を握り返した。
 いつもなら冷たいはずの手が、今日は菊花よりもあたたかい。

「お母さんって、そういうものなのよ。子どものためなら、身の危険も顧みないの」

「そうか、母か」

 香樹は、笑った。
 美しい人が笑うとこんなにも綺麗なのかと、菊花は感動を覚えた。

 どんなに風光明媚(ふうこうめいび)な風景も、彼の笑顔には敵わない。
 それくらい、香樹の笑顔はとんでもない破壊力があった。

「そう、母よ」

 わかってくれたか、と菊花も笑い返す。

 ニコニコ。ニコニコ。
 笑い合う二人ーーだが、それも少しのこと。

 なぜだか香樹は菊花の手を持ち上げて万歳をさせて、そのまま体重をかけてきた。
 菊花に覆い被さるように、香樹が寝台(ベッド)に上がる。
 二人分の体重を受けて、寝台がギシリと音を立てた。

「あれ?」

「なんだ」

「どうして、私は押し倒されているの?」

 両手を一括りにされて、頭上で縫い止められる。
 そんなことをしなくても逃げたりしないのに、と菊花は不思議に思った。

「さぁて、どうしてだと思う?」

「眠たいの?」

「そうだな、それもある」

「えっと、じゃあ、寝る?」

「そうさせてもらおう」

 香樹の顔が、菊花の顔に近づいてくる。
 いつもなら、後ろから抱きついて首筋に顔を寄せて眠るのに、どうして今夜に限って違うのだろう。
 不思議に思って見つめていると、香樹の顔がどんどん近づいてくる。

 香樹は、それまで菊花が見たこともないような顔をしていた。
 抜けるように白い肌をうっすらと上気させ、熱っぽく目を潤ませている。
 彼の紅玉のような瞳には、仄暗い炎のようなものが揺らいでいた。

「香樹」

「なんだ」

「顔が近い」

「こういう時は目を閉じるものだと習わなかったか?」

「房中術では、そうだけど。でも、私はお母さんだから、関係ないでしょう?」

 香樹の目の揺らぎが大きくなる。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに仄暗い炎に取って変わった。

 そうだ。菊花は母のような気持ちで香樹を想っている。
 だから、房中術なんて関係がないはずである。

 ケロリと答える菊花に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
 それから「まだそんなことを言っているのか」と口の中でボソボソつぶやく。

「なぁ、菊花。私とおまえは、本当の親子ではない。だから、本当の親子のようになるためには、普通の親子以上に密な接触が必要だと私は考えるが……どうだろうか?」

 香樹の提案に、菊花はなるほどとうなずいた。
 だって、本当にその通りだと思ったからだ。

(香樹と私は幼馴染みで親友であたため係だけれど、本当の親子じゃない。さっきのため息も、きっとなにか不足があって呆れてのことなんだわ。それなら私は、香樹が望むように、普通の親子のようになるために要求を飲むべきなんじゃ……?)

 それに、香樹と菊花には離れていた期間もある。
 埋めるためには、より一層仲良くする必要があるだろう。

 香樹の本心も知らず、うぶで無知な菊花は「それもそうね」と答えた。

「その言葉、忘れるなよ?」

 言質はとったからな。
 そう言った香樹の目は、まるで獲物を前にした蛇のように、意地悪で、楽しそうな色をしていた。
『ほうほう、それで? それから、どうしたのじゃ』

「お、お母さんにするとは思えないことを、され、ました」

『なんじゃ、それは。恥ずかしがっとらんで、素直に全部吐け! 母にしないこととは、どんな事なのじゃ!』

「そ、それ以上は、私の口からは、とても……」

 菊花(きっか)石榴(ざくろ)のように顔を真っ赤にして、手で顔を覆った。
 見れば、耳や首、鎖骨のあたりも真っ赤になっている。

()いのぉ』

 ニヤニヤとからかうような蛇晶(じゃしょう)帝の声に、菊花の肩がビクンと揺れる。

「ひっ! それ、その言葉! 使わないで下さい! 思い出しちゃいますから!」

 愛い。
 その言葉を、菊花は寝台(ベッド)の上で何度も聞かされた。

 母親に対して、愛いなんて言葉は使わない。
 さすがの菊花も香樹(こうじゅ)がどういうつもりで言っていたのか理解したらしく、恥ずかしさを爆発させたように奇声を上げた。

「そ、そそそそれよりも。リリーベル様から文が来たのですよね? 結果は、どうだったのですか?」

 わかりやすく話題を転換してくる菊花に、しかしそれ以上揶揄(からか)うつもりもなかった蛇晶帝は、『そうじゃの』と話に乗った。

『結論から言うと。菊花の実家にあった白い紅梅草(こうばいそう)は、似て非なるものだったそうじゃ』

 崔英(さいえい)の田舎にある名もない町の外れ、訳あり皇族の墓がある山の前に、菊花の実家はある。

 菊花が後宮へ行ってから、畑を世話する者など誰もいない。当然のことながら、菊花の小さな畑は荒れ放題だった。
 食べようと思って育てていた菜っ葉や(かぶ)はもちろん、全てを食い尽くそうとするように白い紅梅草は繁殖していたらしい。

 リリーベルは半数を刈り取ってその場で検査し、念のためにともう半分を持ち帰ってくる予定のようだ。
 結果として、菊花の畑は主人が労せず雑草の駆逐に成功したと言えよう。

(そういうつもりはなかったけれど……リリーベル様が戻ってきたら、お礼を言わなくちゃいけないわね)

 お礼の品はなにが良いかしらと思案する菊花の向かいで、蛇晶帝は当てが外れたと不満げに尻尾を振っている。
 リリーベルから文が来たのは昨日のことで、彼女の帰還は数日後になるだろうと蛇晶帝は言った。

「似ているけど、別のものってことですか?」

『ああ、そうじゃ。かなり似ているらしいが、少しだけ違うとリリーベルの文には書いてあった。もしかすると、菊花と同じように紅梅草を繁殖させようとした者が、たまたま作り出してしまったのかもしれぬ』

「そう、ですか」

 リリーベルは言っていた。
 紅梅草の栽培方法はまだ確立されていない、と。

 菊花と同じ理由とはいかないまでも、紅梅草の栽培に情熱を注ぐ人が存在してもおかしくはない。

(だけど、失敗した白い紅梅草の効能を調べて、それで皇帝陛下を毒殺する人というのは、なかなかいないわよね)

 その時、菊花の脳裏に天啓とも思える言葉が思い出された。
 そうだ。柚安(ゆあん)は言っていたじゃないか。「(こう)家は、黒いうわさが絶えないのです。歯向かった人が毒殺されたという話をよく耳にしますし。けれど、証拠がないので捕まえようがないのだとか」と。

(この感覚……なんか、覚えがあるような?)

 まさかね、と菊花は思った。
 だけれど、二度あることは三度あるとも言う。
 タイミング良く以前リリーベルから言われた「少しの可能性でもあるのなら、聞く価値はある」という言葉を思い出して、菊花は思い切ることにした。

「あのぅ……ちょっと、よろしいでしょうか?」

『なんじゃ、菊花』

「おじさまは、黄家と問題なくお付き合いできていましたか?」

『なんじゃ、藪から棒に。だがまぁ、そうだな……良好とは言えんかった』

 黄家の当主である蘭瑛(らんえい)は、若い頃、華香(かこう)を嫁にすると息巻いていた時期がある。

 黄家の分家に生まれた華香は、美しく聡明な女性だと、素晴らしい評判だった。
 黄家本家の嫁にふさわしいと、当時の黄家当主が無理やり縁談を持ってきたらしい。

『そんな中、わしは華香と出会い、婚約した』

 皇太子殿下の正妃ともなれば、黄家に否やは言えない。
 結果、華香は蛇晶帝の正妃となり、蘭瑛は別の女性と結婚した。

 しかし、本当は自分のものになるはずだったという思いが捨てきれない蘭瑛は、しばらく荒れていたのだと聞く。

『だが、華香が死ぬと、憑き物が落ちたように落ち着いたそうじゃ』

 それからしばらく蘭瑛は大人しかったが、また荒れた。
 すると今度は、皇子が死んだ。

 華香と、皇子二人。
 不幸がある度に蘭瑛が落ち着いたものだから、口さがない者は蘭瑛が皇子を殺したのではないか、などとうわさした。

『だが、そんなものは根も葉もないうわさじゃ。息子の死は、他殺ではない。病気や寒さによるものだったのだからな』

 蛇晶帝言う通り、因果関係は証明できない。
 だが、話を聞いた菊花は、嫌な予感が拭えなかった。
 むしろ、聞く前よりも増したくらいである。

 自分なんかが言うことではない。
 そう思ったが、言わないで後悔するより言って後悔した方がマシだ。
 汗がにじむ手で(スカート)手繰(たぐ)るように握りながら、菊花は口を開いた。

「もしも、もしもですよ? 蛇晶帝の家族が死ぬことで留飲を下げていたのだとしたら? それまではたまたま、誰かが不幸になっていたけれど、待っても待っても誰も不幸にならなかったら……我慢できなくなって殺そうとするのではないでしょうか」

『まさか。そんなことがあるわけ……なかろう』

「本当に、ほんの少しも、思わないのですか?」

 畳み掛けるような菊花の問いかけに、蛇晶帝が「ぐ」と押し黙った。

 菊花だって、確証があるわけではない。
 あるのはただ、嫌な予感だけなのだ。

『わしが毒殺されたのも、皇太子が殺されたのも、蘭瑛の仕業だと言うのか?』

「分かりません。でも、本当に蘭瑛様が主犯なのだとしたら……おじさまが毒殺されてから、香樹のお兄様が殺されるまでの間隔が、短くなっています」

 長く我慢していたからなのか、見境がなくなっているのか、それとも別の理由があるのか。
 分からないけれど、もしも、見境がなくなっている場合、香樹を毒殺するのも時間の問題である。

 菊花の言葉に、蛇晶帝は「ううむ」とうなり、それきり何も話さなかった。
 リリーベルが戻ってきたのは、文が届いた三日後のことだった。
 自分がいなかった間に大事な助手が危険な目に遭っていたと聞かされて、彼女はかなりご立腹である。

「きっかぁぁ?」

「は、はい、なんでしょう? リリーベル様」

 美人が怒ると、凡人よりも迫力がある。
 般若の面のような顔をするリリーベルに、菊花(きっか)は顔を引き攣らせた。

 菊花の両肩を掴んで顔を覗き込みながら、リリーベルは武官でもない菊花がどれほど無謀だったのか、それによってもたらされる驚異と結末を懇々(こんこん)と話して聞かせた。

「いい? 今後同じようなことがあったら、絶対に、何がなんでも逃げること。分かった?」

「……わかりました」

「間が気になるけど……分かったのなら、よろしい」

 菊花が渋々うなずいたのを見て、リリーベルはようやく怖い顔をやめた。
 それから優しい笑みを浮かべて、菊花の頭を撫でてくれる。
 お姉さんがいたらこんな感じなのかなと、菊花は目を(すが)めて身を任せた。

「それで? 菊花を狙っていた男の素性は分かったのかい?」

 リリーベルの問いに答えたのは登月(とうげつ)だった。
 いつものようにしれっとした顔で、彼はこの場に立っている。

「ええ。私が検分いたしました」

「登月が?」

「ええ、何か問題でも?」

「いや、ご愁傷様だなぁと思っただけさ。それで?」

「暴漢の見当がつきました。()李平(りへい)(しゅ)家の口添えで地方から異動になってきた、武官です」

 ぞくり。
 その時、菊花の背中を悪寒が走った。

(朱家の口添えってことは、やっぱり黄家が関係している?)

 朱家といえば、朱紅葉(こうよう)が真っ先に思い浮かぶ。
 紅葉は、珠瑛(しゅえい)の取り巻きの一人だ。

 同じことを思ったのだろう。
 菊花の足元にいた蛇晶(じゃしょう)帝が、ゆるりと頭を起こして見上げてくる。

『菊花。あの件を、皆に伝えてくれ』

「父上。あの件、とは?」

 意味深な言葉に、香樹(こうじゅ)が眉をひそめて蛇晶帝を見る。
 登月とリリーベルは蛇晶帝の言葉が聞こえないためか、様子を窺うように静観を保っていた。

「これはあくまで私の推測だけれど……私たちが探している白い紅梅草(こうばいそう)は、(こう)家が栽培しているのではないかと思うのです」

 黄蘭瑛(らんえい)華香(かこう)の過去。それから、荒れた蘭瑛と亡くなった者たち。
 たまたまといえばそれまでだが、菊花はそう思えなくなっていた。

「黄家は昔から、黒いうわさが絶えないそうですね。それも毎回、毒殺と言うではありませんか。蘭瑛様の荒れた時期と、蛇晶帝周辺で起きた不幸の時期、それらを鑑みて、一部の出来事は蘭瑛様が指示していることなのではないかと思ったのです。確証はありません。ただの勘でしかない。けれど今回、暴漢が黄家と無関係ではないかもしれない武官だと聞いて、私はますます怪しいと思いました」

 菊花の言葉を、香樹は難しい顔をして聞いていた。

 彼女が言っていることは、分からなくもない。
 父や兄が毒殺されたと聞いて、香樹がまっさきに疑ったのが蘭瑛だったからだ。

 十七年ぶりに突然現れた末の皇子に、それまで皇太子の正妃にと推していた珠瑛を香樹の嫁にどうかと打診してきた蘭瑛。
 だから香樹は、皇太子を殺す前提で打診してきていたのではないかと考えた。

 だが、それはあくまで香樹の推測に過ぎない。
 毒殺された父や兄の周辺からは黄家の関与を示す証拠は見つからず、犯人は未だ野放しのままだった。

「黄家は前々から怪しい動きをしていた。だが、いずれも証拠がない。証拠がなければ、大々的に家探しすることも難しいだろう」

 頭が痛い。
 鈍い痛みを散らすように、香樹は頭を振った。

「そうですよね。だから、思ったんです。彼らの留守を狙って、こっそり家探しできないかなって。証拠さえ見つかれば、黄家は言い逃れできないでしょう?」

「しかし、そう簡単に留守になることなどあるのだろうか? 毒草を栽培しているのなら、離れることなど考えられまい」

 そうなのである。それが、問題だった。
 しかし菊花はそれ以上を考えておらず、困り果てて(スカート)を握りしめることしかできない。
 そんな中、沈黙を破ったのは登月だった。

「いいえ。留守にさせるのですよ。間もなく、宮女候補たちの最終選考の時期に入ります。陛下はその最終選考の方法として、茶会を提案するのです。自分を最も喜ばせた一族の娘を正妃にする。そう言えば、一族を挙げて茶会を盛り上げようとするのではないでしょうか」

 登月の案に、リリーベルが「まさか」と異を唱えた。

「皇帝陛下を毒殺するような男が、それくらいで尻尾を出すかな?」

 リリーベルの言い分は、もっともだ。

 しかし、もしも蘭瑛が狂っているのだとすれば。
 もしも、香樹や菊花を、蛇晶帝に関係する者を殺すことで気持ちを落ち着けているのだとすれば。

 我慢できずに動くはずだと、菊花は思った。

「茶会は、うってつけの機会だと思います。だって、堂々と毒殺できますから。機会はたくさんある。隙を作ってわざと泳がせたら、もしかすると現行犯で捕まえられるかもしれません」

 言いながら、菊花は足が竦むような思いだった。
 だって、もしかしたら殺されてしまうかもしれない話をしているのだ。怖くないわけがない。
 震える手を押さえつけるように握りしめていたら、ひんやりとした手が菊花の手を包み込む。

「よく分かった。黄家については、私も前々から気にはなっていたのだ。調べられる機会があるのならば、やってみたいと思う。だが、菊花が危険な目に遭うのは困る。万全の態勢で実行できるよう、入念な準備が必要であろうな」

 菊花の手の甲を唇に寄せて、香樹は恭しく口づけを落とした。
 途端、菊花の震えはおさまり、代わりに彼女の肌が真っ赤に染め上がる。

「陛下。ちょっと仲が進展したからって、この場で見せつけないでください」

 登月の冷ややかな視線に、香樹がおかしそうにククッと笑う。

「なんだ、登月。やきもちか?」

「さて、なんのことでしょう?」

 軽口の応酬に、不穏な空気が少しだけ和らぐ。
 ホッと息を吐きながらも、しかし菊花の胸の内は黒い霧がたちこめたままだった。
 香樹(こうじゅ)蛇晶(じゃしょう)帝、登月(とうげつ)とリリーベル、それから菊花(きっか)を交えての話し合いから半月が経った。
 何度も対話を重ね、香樹は茶会を──つまり、自身や菊花を(おとり)にして、(こう)家屋敷を捜索することを決めた。




 講堂へ集められた宮女候補たちを前に、宦官の落陽(らくよう)は鼻息も荒く宣言した。

「宮女候補の最終選考の内容が決まった!」

 ざわり。
 そう多くない宮女候補たちが、顔に喜色を浮かべる。

 当然だろう。
 これでようやく、長かった宮女候補生活が終わるのだから。

 その先へ続く道は、妃への道か、それとも故郷への帰り道か。
 どちらにしても、故郷へ錦を飾れるだろう。
 最終選考に残っているということは、それだけの価値があるという証明になる。

(今日は随分、声が響くわね)

 でっぷりとした腹を揺らし、落陽は試験内容を読み上げている。
 彼の大きな声は、講堂の天井でウワンウワンと反響しているようだった。

 後宮へ初めて来た時、講堂の中にはあふれんばかりに美女や美少女たちが居たというのに、今では数えるほどしかいない。
 講堂がやけに広く感じるのは、今まで人が多かったせいなのだろう。

 菊花は、中央付近の席に座る珠瑛(しゅえい)を盗み見た。
 真っすぐに背を伸ばした、凛とした佇まい。射干玉(ぬばたま)色の髪は結い上げられ、さらけ出された細い首が艶めかしい。

 見えないけれど、その顔はきっと自信満々な表情を浮かべているに違いない。
 先程から、訳知り顔の落陽のニヤケ具合がひどいから。

 珠瑛の隣の席には、距離を置いていたはずの紅葉(こうよう)がいて、親しげに話しかけている。

 おそらく、紅葉の生家である(しゅ)家は、黄家についたのだろう。
 傍観の時期を終え、おもねることにしたようだ。

(朱家は、私を殺しに来た武官を都に呼び寄せたのだものね)

 菊花の暗殺は失敗に終わり、朱家は何を土産にその傘下へ下ったのだろう。

(紅葉が珠瑛の取り巻きに戻るだけでは、割に合わないだろうし)

 菊花は首をかしげながら、落陽の話に耳を傾けた。

「これよりひと月後、後宮の庭を開放し、茶会を開催する。そこで各々の一族が一丸となって、趣向を凝らした茶会で皇帝陛下をもてなすのだ。最も陛下を楽しませた一族の娘が、正妃となる」

 本来、後宮は皇帝陛下以外男子禁制であるが、この茶会の間だけは例外である。
 正妃が決まれば、蛇晶帝の後宮であったここは取り壊される。母との思い出が残るこの場所を、華やかな思い出で終わりにしたい──というのが蛇香(じゃこう)帝からのお言葉らしい。

 蛇香帝の母、華香(かこう)が産後すぐに亡くなっているのは周知の事実である。
 母を早くに亡くし、後宮に残る母の面影を頼りに寂しい幼少期を過ごしていたであろう、かわいそうな蛇香帝を想った宮女候補は、そっと涙を拭った。

 もちろん、菊花は事実を知っているので泣いたりはしない。
 それに、お母さんの代わりになろうと頑張っていた菊花にあんなことをする男が、母恋しさに後宮を彷徨(さまよ)い歩くなんてことをするわけがない。
 彼はなかなかに、ふてぶてしい男なのだ。

(くぅぅ。思い出したら、恥ずかしいやら腹が立つやら……! でも、それでも香樹から離れようと思わない私も、きっと同罪だわ)

 寝台(ベッド)の上でされた恥ずかしいあれこれを思い出さないように、習ったばかりの異国の数式を思い出しながら、菊花は落陽が語る素晴らしい茶会とやらの演説を右から左に聞き流したのだった。
「でもねぇ……私、まだ疑問があるのよ」

 毎夜お馴染みの柚安(ゆあん)とのお茶会で、菊花(きっか)は工芸茶を淹れながら言った。

 今夜のお茶は、花籠という名前のお茶らしい。
 緑茶と薔薇、菊と金盞花(きんせんか)の工芸茶である。

 厨房からくすねてきた饅頭をほお張りながら、柚安が首をかしげた。

「ひほん? はんへふ?」

「どうして蘭瑛(らんえい)様は、自分の娘を宮女候補に送り込んだのかしら。殺したいほど憎い相手の嫁にするなんて、気が狂っているとしか思えないのだけれど」

 柚安は考え込みながら、饅頭を咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。

「狂っているのでしょう。それ以外に考えられることですと……そうですねぇ……乗っ取り、でしょうか」

「乗っ取り?」

「憎くて仕方がなかった男を殺し、自分と血のつながった孫が皇帝になる。孫が幼く、(まつりごと)も行えないような年齢だったら、後見人として権威を振りかざせます。それは、自身が皇帝になったも同然。自分のものになるはずだった女を奪った、憎い男の位を乗っ取る……と。僕だったら、そう考えます」

「でもさ、その場合、憎い男の血も流れているわけでしょう?」

 茶を三つの茶杯に注ぎ入れながら、菊花はますます分からないと困惑の表情を浮かべた。
 差し出された茶杯を受け取りながら、今夜初参加となったリリーベルが「ふむ」と考え込む。

「こうは考えられない? 好きな女と結ばれなかった哀れな男は、自分の娘と好いた女の息子を(つが)わせて、自分の代わりにする……というのは」

 それはそれで、なかなかに気持ち悪い。
 平気な顔で毒殺する男に、そんな乙女な一面があるかと思うと、笑うに笑えない。

 引き攣るほおをごまかすように饅頭を口に放り込んだ菊花に、リリーベルは苦く笑い返した。

「まぁ、理由はなんであれ、罪を犯したら償うのが道理だ。ところで菊花、お茶会の準備は進んでいるかい?」

「ああ、はい。リリーベル様のおかげで、滞りなく」

 菊花の茶会は、()の国式のお茶会を予定している。
 天涯孤独の身の上の彼女を心配したリリーベルが、協力を申し出たのだ。

 戌の国で茶会は、アフタヌーンティーと呼ばれているそうだ。
 三段重ねの皿に軽食や菓子を並べ、紅茶を提供するらしい。

 当日は、菊花自ら厨房で菓子を焼く予定だ。
 今は、こっそりと菓子作りの特訓中である。
 ドレスの採寸はもう済ませているので、試食でサイズアップしないように必死だったりする。

「そうか、それは良かった。私が懇意にしている仕立屋でドレスを仕立ててもらっているから、衣装については安心して。茶葉やティーセットも、もうじき国から届く」

「何から何まで、ありがとうございます」

「ああもう。そんなに畏まらなくて良いんだよ? 私のことは姉だと思って、遠慮なく甘えてほしい」

「姉、ですか?」

「うん、そう。これから私たちは長い付き合いになるだろうからね。ほら、言ってごらん? おねえさまって」

「……リリーベルおねえさま?」

「っっ! なんというか、新しい扉が開きそうだね!」

 楽しげに笑いながら頭を撫でてくるリリーベルに、菊花もつられるように笑う。
 楽しそうにはしゃぐ二人に置いてけぼりを食らったような顔で柚安は寂しそうにしていたが、ほどなく二人に絡まれ始める。

 こうして楽しい夜は、にぎやかに更けていくのであった。
「菊花様、大丈夫ですか?」

「……くぅ!」

 アンダードレスなるものを着せられ、コルセットという拘束具のような服で体を締め上げられる。
 見守る柚安(ゆあん)に、菊花(きっか)ではなくリリーベルが爽やかな笑顔とともに「大丈夫さ」と答えた。

「だいじょうぶじゃ、ない」

 うっぷ。
 菊花は締め上げられてくびれができた腰を撫でさすりながら、胃がせり上がってくるような感覚に涙を浮かべた。

 宮女候補の最終試験であるお茶会まで、二週間を切った。

 最終試験の内容が告知されて以来、菊花は一度も香樹(こうじゅ)に呼ばれていない。
 母のような愛を捧げるつもりだった菊花に、求めているものは別の感情だと行動で示してからは、毎日のようにお呼びの声がかかっていたというのに。

 最終試験の裏側で行われる黄家屋敷の捜索に向けて、多忙な日々を送っているからだと理解していても、なんだか肩透かしを食ったような気分になる。

(でもまぁ、考える時間をもらったと思えば……)

 毎日毎日、考える間もなく「愛い」だの「良い匂い」だの言われて全身を撫で回されていた。
 そうされると菊花は、羞恥のせいなのか、それとも別の何かなのか、頭が沸くような判断しがたい謎の気持ちに支配されて、考えることができなくなる。
 最終的には酒に酔ったように頭がぼんやりして、ぽっぽと火照った体を大事そうに抱きかかえられながら意識を失うというのが常だった。

 香樹のことは、大切だと思っている。幼馴染みとして、親友として、家族として。
 だけれど最近は、それだけでは収まらない域に達している気がする。

(例えば、そう。恋人、とか)

 菊花の頬がほんのりと赤らむ。
 恋人。なんて甘美な響きだろう。

(私は香樹のことが、好き……なのかしら?)

 白蛇時代の香樹を、好きだと思ったことは何度もあった。
 綺麗な見た目が好き。優しい目が好き。なにより、懐いてくれたのが嬉しかった。
 一番の親友で、大切な存在だ。

 だけれど今は。
 それだけではない、と思った。

 姿が見えれば嬉しくて、そばにいたらもっと嬉しくて、見えなければ無性に会いたくてたまらなくなる。
 現に今も、菊花は香樹に会いたいと思っていた。
 ()の国の衣装に身を包んだ自分を見て、かわいいって言ってほしい……なんて思っている。

 こんな気持ちは、初めてだ。
 なんだか気恥ずかしくて、胸がきゅうっと締め付けられる。

(これは本当に、恋というものなのかしら?)

 いまいち、よく分からない。
 なにせ菊花は、恋愛経験がないのである。

 齢十六になるまで両親は町へ菊花を行かせなかったし、両親が亡くなってからは生きることで必死だった。
 恋愛がどういうものなのか、教えてくれる人もいなかった。
 だから、この感情が恋というものなのか、菊花には分かりかねている。

「ぐふぅ……」

「はいはい、菊花。そんな声、出さない。これでも緩くしているくらいだからね? 戌の国じゃ、もっとギュッと締め上げるのだから。おっ! いいねぇ。きみの胸が強調されて、実にエロティックだ」

「えっ、えろ?」

「官能的、という意味さ」

「官能的⁉︎ 私が?」

 烏の濡れ羽色の髪も、射干玉(ぬばたま)色の目もないのに。

 そっと視線を落とせば、ぎゅむっと押し上げられた見事な胸元がそこにある。
 そういえば白蛇時代の香樹はよく胸元に入り込んでいたなぁと思い出して、菊花は猛烈に恥ずかしくなった。

(え……まさか香樹は、そういうつもりで胸にいたわけじゃないよね?)

 香樹はまもなく二十二歳になる。
 白蛇だった香樹が菊花と一緒にいたのは、たぶん、十七歳くらいまで。
 となると、そういったことに興味津々な時期を彼は菊花と過ごしていたわけで──。

(ひえぇぇぇぇ)

「菊花は胸も大きくて綺麗な形をしているよね。普段着ている服もさ、もう少し胸を強調するようにしたら、もっとかわいくなると思うんだよなぁ」

 普段は、上衣の襟を交差して重ねている。
 それを交差させずに並行にして、(スカート)を胸の上まで引き上げたらどうか、とリリーベルは言った。
 そうすると、視線が胸元にいって、足長効果があるらしい。

「リリーベル様。菊花様、苦しそうですよ? 顔が赤いです」

「んー……これはコルセットのせいだけじゃないと思うなぁ。おおかた、香樹様とのあまぁいひとときでも思い出しているのではないかな?」

「そうでしょうか」

 菊花は考え事をしていたので、柚安とリリーベルの破廉恥な会話を聞いていなかった。
 聞いていなくて良かったのかもしれない。聞いていたらきっと、とてもではないけれど、この場にはいられなかっただろうから。