しばらく歩いて、香樹は菊花の部屋の前で止まった。
両手がふさがっている香樹の代わりに、菊花が扉を開ける。
私物なんてほとんどない、飾り気のない部屋。
机の上に置かれた小さな置物に気付いた香樹は、あいさつするようにペコリと頭を下げた。
なんでもないことのように。それが当たり前のことだというように、自然と。
「あ……」
誰がどう見ても、価値なんてない小さな置物。
珠瑛たちでさえ、気にも留めなかったそれに、香樹は気付いてくれた。
そのことがどうしようもなく、菊花は嬉しかった。
だってその置物は、菊花の父であり、母だったから。
「ありがとう、香樹」
「礼を言うようなことではないだろう」
「でも、嬉しかったから」
「そうか」
寝台の上に、恭しく下ろされる。
菊花の目の前で、香樹はひざまずくように座った。
部屋の中に蝋燭はあるけれど、ついていなかった。
今夜は満月のはずだけれど、雨雲が隠してしまっている。
薄暗い中、香樹の深紅の目が菊花を見据えた。
「菊花」
名前を呼ばれる。
たったそれだけなのに、菊花の胸はドキリと脈打った。
(言われ慣れていないせい?)
胸を押さえて息を潜める菊花の手を取った香樹は、無表情だった。
その顔からは何も読み取れなくて、菊花は不安そうに彼の名前を呼ぶ。
「香樹?」
「……どうして逃げなかった?」
怒っているような、何かを我慢しているような、静かで低い声だった。
幼子を叱る母親のように、香樹の両手は菊花の手を掴んでいる。
赤い目が、責めるように菊花をにらんだ。
「逃げたく、なかった、から」
香樹が責めるのも、分からなくはない。
しかし菊花だって、彼女なりの理由があってそうしたのだ。
悪いことなんてしていないと、菊花は対抗するように香樹をにらみ返す。
「赤先生は、逃げろと教えなかったか?」
「教わったけど……でも私は、そんな事できない」
「なぜ?」
(なぜ、なんて。そんなの、決まってる)
「だって私は、香樹のお母さんだもの」
菊花は掴まれていた手で、香樹の手を握り返した。
いつもなら冷たいはずの手が、今日は菊花よりもあたたかい。
「お母さんって、そういうものなのよ。子どものためなら、身の危険も顧みないの」
「そうか、母か」
香樹は、笑った。
美しい人が笑うとこんなにも綺麗なのかと、菊花は感動を覚えた。
どんなに風光明媚な風景も、彼の笑顔には敵わない。
それくらい、香樹の笑顔はとんでもない破壊力があった。
「そう、母よ」
わかってくれたか、と菊花も笑い返す。
ニコニコ。ニコニコ。
笑い合う二人ーーだが、それも少しのこと。
なぜだか香樹は菊花の手を持ち上げて万歳をさせて、そのまま体重をかけてきた。
菊花に覆い被さるように、香樹が寝台に上がる。
二人分の体重を受けて、寝台がギシリと音を立てた。
「あれ?」
「なんだ」
「どうして、私は押し倒されているの?」
両手を一括りにされて、頭上で縫い止められる。
そんなことをしなくても逃げたりしないのに、と菊花は不思議に思った。
「さぁて、どうしてだと思う?」
「眠たいの?」
「そうだな、それもある」
「えっと、じゃあ、寝る?」
「そうさせてもらおう」
香樹の顔が、菊花の顔に近づいてくる。
いつもなら、後ろから抱きついて首筋に顔を寄せて眠るのに、どうして今夜に限って違うのだろう。
不思議に思って見つめていると、香樹の顔がどんどん近づいてくる。
香樹は、それまで菊花が見たこともないような顔をしていた。
抜けるように白い肌をうっすらと上気させ、熱っぽく目を潤ませている。
彼の紅玉のような瞳には、仄暗い炎のようなものが揺らいでいた。
「香樹」
「なんだ」
「顔が近い」
「こういう時は目を閉じるものだと習わなかったか?」
「房中術では、そうだけど。でも、私はお母さんだから、関係ないでしょう?」
香樹の目の揺らぎが大きくなる。
だがそれも一瞬のことで、すぐに仄暗い炎に取って変わった。
そうだ。菊花は母のような気持ちで香樹を想っている。
だから、房中術なんて関係がないはずである。
ケロリと答える菊花に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
それから「まだそんなことを言っているのか」と口の中でボソボソつぶやく。
「なぁ、菊花。私とおまえは、本当の親子ではない。だから、本当の親子のようになるためには、普通の親子以上に密な接触が必要だと私は考えるが……どうだろうか?」
香樹の提案に、菊花はなるほどとうなずいた。
だって、本当にその通りだと思ったからだ。
(香樹と私は幼馴染みで親友であたため係だけれど、本当の親子じゃない。さっきのため息も、きっとなにか不足があって呆れてのことなんだわ。それなら私は、香樹が望むように、普通の親子のようになるために要求を飲むべきなんじゃ……?)
それに、香樹と菊花には離れていた期間もある。
埋めるためには、より一層仲良くする必要があるだろう。
香樹の本心も知らず、うぶで無知な菊花は「それもそうね」と答えた。
「その言葉、忘れるなよ?」
言質はとったからな。
そう言った香樹の目は、まるで獲物を前にした蛇のように、意地悪で、楽しそうな色をしていた。
両手がふさがっている香樹の代わりに、菊花が扉を開ける。
私物なんてほとんどない、飾り気のない部屋。
机の上に置かれた小さな置物に気付いた香樹は、あいさつするようにペコリと頭を下げた。
なんでもないことのように。それが当たり前のことだというように、自然と。
「あ……」
誰がどう見ても、価値なんてない小さな置物。
珠瑛たちでさえ、気にも留めなかったそれに、香樹は気付いてくれた。
そのことがどうしようもなく、菊花は嬉しかった。
だってその置物は、菊花の父であり、母だったから。
「ありがとう、香樹」
「礼を言うようなことではないだろう」
「でも、嬉しかったから」
「そうか」
寝台の上に、恭しく下ろされる。
菊花の目の前で、香樹はひざまずくように座った。
部屋の中に蝋燭はあるけれど、ついていなかった。
今夜は満月のはずだけれど、雨雲が隠してしまっている。
薄暗い中、香樹の深紅の目が菊花を見据えた。
「菊花」
名前を呼ばれる。
たったそれだけなのに、菊花の胸はドキリと脈打った。
(言われ慣れていないせい?)
胸を押さえて息を潜める菊花の手を取った香樹は、無表情だった。
その顔からは何も読み取れなくて、菊花は不安そうに彼の名前を呼ぶ。
「香樹?」
「……どうして逃げなかった?」
怒っているような、何かを我慢しているような、静かで低い声だった。
幼子を叱る母親のように、香樹の両手は菊花の手を掴んでいる。
赤い目が、責めるように菊花をにらんだ。
「逃げたく、なかった、から」
香樹が責めるのも、分からなくはない。
しかし菊花だって、彼女なりの理由があってそうしたのだ。
悪いことなんてしていないと、菊花は対抗するように香樹をにらみ返す。
「赤先生は、逃げろと教えなかったか?」
「教わったけど……でも私は、そんな事できない」
「なぜ?」
(なぜ、なんて。そんなの、決まってる)
「だって私は、香樹のお母さんだもの」
菊花は掴まれていた手で、香樹の手を握り返した。
いつもなら冷たいはずの手が、今日は菊花よりもあたたかい。
「お母さんって、そういうものなのよ。子どものためなら、身の危険も顧みないの」
「そうか、母か」
香樹は、笑った。
美しい人が笑うとこんなにも綺麗なのかと、菊花は感動を覚えた。
どんなに風光明媚な風景も、彼の笑顔には敵わない。
それくらい、香樹の笑顔はとんでもない破壊力があった。
「そう、母よ」
わかってくれたか、と菊花も笑い返す。
ニコニコ。ニコニコ。
笑い合う二人ーーだが、それも少しのこと。
なぜだか香樹は菊花の手を持ち上げて万歳をさせて、そのまま体重をかけてきた。
菊花に覆い被さるように、香樹が寝台に上がる。
二人分の体重を受けて、寝台がギシリと音を立てた。
「あれ?」
「なんだ」
「どうして、私は押し倒されているの?」
両手を一括りにされて、頭上で縫い止められる。
そんなことをしなくても逃げたりしないのに、と菊花は不思議に思った。
「さぁて、どうしてだと思う?」
「眠たいの?」
「そうだな、それもある」
「えっと、じゃあ、寝る?」
「そうさせてもらおう」
香樹の顔が、菊花の顔に近づいてくる。
いつもなら、後ろから抱きついて首筋に顔を寄せて眠るのに、どうして今夜に限って違うのだろう。
不思議に思って見つめていると、香樹の顔がどんどん近づいてくる。
香樹は、それまで菊花が見たこともないような顔をしていた。
抜けるように白い肌をうっすらと上気させ、熱っぽく目を潤ませている。
彼の紅玉のような瞳には、仄暗い炎のようなものが揺らいでいた。
「香樹」
「なんだ」
「顔が近い」
「こういう時は目を閉じるものだと習わなかったか?」
「房中術では、そうだけど。でも、私はお母さんだから、関係ないでしょう?」
香樹の目の揺らぎが大きくなる。
だがそれも一瞬のことで、すぐに仄暗い炎に取って変わった。
そうだ。菊花は母のような気持ちで香樹を想っている。
だから、房中術なんて関係がないはずである。
ケロリと答える菊花に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
それから「まだそんなことを言っているのか」と口の中でボソボソつぶやく。
「なぁ、菊花。私とおまえは、本当の親子ではない。だから、本当の親子のようになるためには、普通の親子以上に密な接触が必要だと私は考えるが……どうだろうか?」
香樹の提案に、菊花はなるほどとうなずいた。
だって、本当にその通りだと思ったからだ。
(香樹と私は幼馴染みで親友であたため係だけれど、本当の親子じゃない。さっきのため息も、きっとなにか不足があって呆れてのことなんだわ。それなら私は、香樹が望むように、普通の親子のようになるために要求を飲むべきなんじゃ……?)
それに、香樹と菊花には離れていた期間もある。
埋めるためには、より一層仲良くする必要があるだろう。
香樹の本心も知らず、うぶで無知な菊花は「それもそうね」と答えた。
「その言葉、忘れるなよ?」
言質はとったからな。
そう言った香樹の目は、まるで獲物を前にした蛇のように、意地悪で、楽しそうな色をしていた。