リリーベルを見送ってから数日後の夜のことである。
 菊花(きっか)は、あたため係として呼ばれた時にだけ使う寝所の前で立ち止まった。

「……?」

 いつも通り、寝所の扉は閉まっている。

 ここはいつだって、閉じたままだ。
 開けっ放しになっていたことなんて、一度もない。
 扉は、いつもぴっちりと閉め切られていて、菊花は自分で開けて、入るのだから。

 なのに、部屋の中で物音がしたような気がした。

 菊花が寝台(ベッド)に入るまで、香樹(こうじゅ)はただじっと寝台の上で体を丸めて待っている。
 今日に限って、寝台を抜け出して何かしているのだろうか。

 外ではしとしとと雨が降り続けていて、廊下はひんやりとしている。
 こんな日の香樹は、いつも以上に寒がって寝台から出てくることはないはずなのに。

 菊花は不思議に思いながらも、そういうこともあるかと扉を開けた。
 途端、香樹の鋭い声が菊花に向けられる。

「来るな!」

「え?」

 初めて聞いた香樹の大声に、菊花の足が止まる。
 天蓋の布は、開かれていた。
 寝台の上には立ち膝になった香樹がいて、寝台のすぐそばには、人と思しき影がある。

 影はスラリと何かを引き抜いた。

 何か、ではない。
 蝋燭(ろうそく)の明かりで鈍く光るそれを、菊花は前に見たことがあった。

(小刀)

 菊花は目を見開いた。
 そんな彼女の脳裏で、少し前に拉致監禁された時の記憶がありありと蘇る。

「あ……」

 ガクガクと足が震える。
 逃げなくちゃ、と本能が告げてきた。

(だけど、どうやって?)

 足は震えて使いものにならないし、這って逃げたとしても追いつかれるのが関の山。

「菊花、部屋を出ろ! 早く!」

(そうだ、部屋を出なくちゃ。だって、こういう時は逃げましょうって、(せき)先生が言っていたもの)

 女性と子どもは邪魔だから。
 武官の邪魔にならないように。

 大声を上げて助けを呼び、一刻も早くその場から逃げるようにと教えてくれたのは、武術担当の赤先生だった。

「誰か! 誰か来て! 侵入者よ!」

 だけれど、ここで逃げるなんて菊花にはできなかった。
 だって菊花は、香樹の母のつもりでいる。
 母というものは、身の危険も顧みず、我が子を助けるものである。

 部屋の中には、影と香樹しかいない。
 菊花以外に、影と、大切に想っている香樹しかいないのだ。

 素早く周りを見回した菊花は、火鉢に刺さった火箸をつかみ取った。

「香樹!」

 薄い寝間着をはためかせて、菊花は走った。
 履いていた木靴が途中で脱げて、転びそうになる。
 それでも菊花はなんとか踏ん張って、裸足で走った。

「やあぁぁぁぁ!」

 人生で一番速かったのではないかと思うような速度で走りきった菊花は、火箸を構えて寝台に飛び乗った。

「逃げろ、菊花!」

「絶対、嫌! 私は、あなたを守るんだから!」

 菊花は震える手で火箸を握りしめ、影をにらみつけた。
 影は菊花を見るなりニンマリと唇を歪める。

「ちょうど良かった」

 影は、じっとりと陰湿な声でそう言った。
 ゾワリと菊花の腕に鳥肌が立つ。

(ちょうど、良かった……?)

 人は、追い詰められた時ほど頭の回転が速くなるらしい。
 菊花の頭の中で、影の言葉がすごい速さで処理されていく。

 ちょうど良かった。
 それは、菊花に対して言われた言葉。

 つまり影は、菊花に用があったということなのだろう。
 必死になって菊花に逃げろと言っている香樹は、おそらく知っているのだ。この影の狙いが、皇帝陛下ではなく菊花であるということを。

(狙われているのは、香樹じゃなくて、私!)

 それなら、菊花がすることはただ一つ。
 菊花が(おとり)になって引き付けて、香樹から遠ざけることだけである。

(私は香樹のことが大切だから! できることを、精一杯やるだけよ!)

「菊花、逃げるのだ!」

「はい!」

 菊花は、寝台から飛び降りようとした。
 少しでも飛距離を伸ばしたくて、屈み込んだその瞬間、菊花の後ろから腕が伸びてくる。

「危ないっ!」

 くるりと菊花の体が回る。
 気付けば香樹に抱き寄せられていて、その背に守られていた。

 細く頼りなげな背が、今はとても頼もしく見える。
 菊花はすがりたくなる気持ちを我慢して、胸元で両手を握りしめた。

 数回剣戟(けんげき)の音が鳴り響き、影が忌ま忌ましげに舌打ちをする。
 見れば、影の足には大きな蛇が牙を食い込ませていた。

 影は必死に蛇を蹴り落とそうとするが、深々と突き刺さった牙は抜けない。
 とうとう蛇の毒は、影の動きを止めた。

 ドサリ。

 影が、床に崩れ落ちる。

「ひっ」

 死んだかと思って、菊花は小さな悲鳴を上げた。

『安心せい。峰打ちじゃ』

 寝台で腰を抜かす菊花の前で、ニュッと顔を覗かせたのは蛇晶(じゃしょう)帝であった。
 細い舌をピルピルさせて、なんとなく自慢げな表情をしているように見える。

「父上は剣など使っていないでしょう」

『神経毒で動けなくしただけじゃよ。殺しはしておらんから、峰打ちじゃろう? 菊花に手を出していたら、危うく手加減できんかったかもしれんがな。香樹が剣の鍛錬をしていたおかげで、こいつの命はつながったのぉ』

 恐ろしいことをケロリと言いながら、蛇晶帝はカッカッカッと笑った。

(ひぇぇぇ……わ、笑えない)

 皇帝陛下ともなると、人の生き死になんて軽いことなのだろうか。
 そういえば香樹も八つ当たりで毒蛇に噛ませていたことを思い出して、菊花はブルリと体を震わせた。

「菊花、けがはないか?」

 香樹が、菊花を覗き込む。
 けががないか確かめるようにほおを撫でられて、菊花は詰めていた息を吐いた。

「もう、大丈夫だ」

 火箸を持っていた手が、硬直して痙攣していた。
 安心したせいで緩んだ涙腺が、ポロリと涙を零す。

「い、生ぎでるぅぅぅ」

 良かった。本当に、良かった。

 強張る手から火箸を落として、菊花は香樹に抱きつく。
 涙と鼻水でグチャグチャになった菊花を、香樹は構わず抱き寄せた。

 抱き合う二人を見つめ、蛇晶帝は満足そうに頷く。
 それからシュルリと音を立てて床を這い、倒れた影の足に絡み付いた。

『ここはわしに任せよ。賊の検分は登月(とうげつ)とやっておく』

「頼みます。私たちは……そうですね。今夜は菊花の部屋に泊まるとします」

『おお! 初めてのお宅訪問じゃな? どうなるのか、あとで菊花から聞くのが楽しみじゃ』

「何もありませんよ。ただ、寝るだけです。では、頼みます」

『意気地なしめが』

「なんとでも」

 グスグスと鼻を鳴らす菊花の体がふわりと浮く。
 慌ててすがるものを求めた菊花の腕は、香樹の首にしがみついた。

 揺れる体と不安定な浮遊感。

(こ、これは! お姫様抱っこぉぉぉぉ!)

「ぴゃぁぁぁぁ!」

「またその声か。一体、何の鳴き真似なのだ?」

 香樹がクスクスと楽しげに笑う。
 ついでとばかりに涙で濡れるほおを舐められて、菊花は再びおかしな悲鳴を上げた。

 菊花は、自分の体重が一般的な女性よりも重い自覚がある。
 だから、お姫様抱っこなんて夢のまた夢だと思っていたし、まさか、守るべき親友である(はく)が自分のことをお姫様抱っこする日が来るとは、夢にも思っていなかった。

(もう何度もされてますけど! それでも驚くのよ!)

 ひとしきり混乱して奇声を上げて、ようやく落ち着いた菊花は、香樹が無理をしているのではないかと思った。
 だって、菊花は重いのだ。
 せめてもう少しくらい痩せておけば良かったと後悔しても、もう遅い。

「あの……重くない?」

「ああ」

 短く簡潔に答えられる。
 どちらにも取れる答えに、菊花は心の中で「どっちなのよ」と叫んだ。

 だが、香樹の足取りに不安定さなど微塵もない。
 息も乱さず、菊花なんて抱っこしていないような普通の足取りだった。