リリーベルは、恐るべき行動力ですぐに出立の準備を整えた。

 彼女の本来の目的は、蛇晶(じゃしょう)帝の息の根を止めた毒を特定することだから、最優先されるのは当然のことかもしれない。
 菊花(きっか)の話を聞いた翌日には香樹(こうじゅ)に話をつけ、数日後には菊花の実家がある崔英(さいえい)へ旅立つ用意を調えていた。

 崔英までは駿馬を乗り継いで行くらしい。
 馬に乗れない菊花からすれば、信じられないことだ。
 だが、菊花の実家は馬車で乗り入れるには少々難儀な所であるから、馬で行くのが最適だろう。

「では、行ってくるよ」

「リリーベル様ぁ! お気をつけてぇ!」

「ご無事をお祈りしておりますわぁ!」

 後宮の出口近くで、宮女候補たちがさめざめと泣いている。
 見事な刺繍が刺された綺麗な手巾(ハンカチ)を振りながら、彼女たちは口々に別れの言葉を告げた。

 視線の先には、男装の麗人、リリーベルの姿。
 菊花は見つからないようにひっそりと、扉の陰からリリーベルに手を振った。

 気付いた彼女は笑顔で手を振り返してくれたが、宮女候補たちは自分にだと思ったらしい。
 そこかしこで、「私よ」「私だってば」という言い争いが起きる。

「ああ、かわいいレディたち。どうかけんかをしないで。私は研究のために少し後宮を離れるけれど、必ず戻ってくる。それまで、良い子で待っているのだよ?」

 パッチン。

 一目会うだけで腰砕けになるとうわさの澄んだ青い目で、リリーベルは秋波(ウインク)を送る。
 その途端、宮女候補たちの数人がパタパタと倒れた。

(お、おそるべき、美形……!)

 これで人妻だというのだから、驚きである。

「いや、人妻だからこその色気なのかも?」

『そうじゃのう。愛し愛される者はいつだって綺麗じゃ』

 菊花の足元で、シュルリと蛇晶帝がとぐろを巻く。
 鎌首をもたげてリリーベルを見るその目は、どこか懐かしそうで、それでいて寂しげな色をしていた。

華香(かこう)様のことを思い出しているのかしら)

 蛇晶帝の後宮に花が増えたのは、華香亡き後だと聞いている。
 華香が存命中、後宮の花は彼女だけだったのだとか。

(皇帝陛下は唯一、一夫多妻制を許されているのに)

 それほど彼は、妃を愛していたのだろう。

(皇帝陛下を夢中にさせる、正妃。そんな彼女の代わりなんて、私では無理なのかしら)

 香樹を母のような愛で守り抜くと決めたけれど、果たして菊花は生母である華香のように愛せるのか。
 相変わらず、菊花は香樹の抱き枕でしかない。いつになったらこの愛の本領は発揮できるのかしらと、菊花は憂いの表情を浮かべた。