蛇香(じゃこう)帝、(はく)香樹(こうじゅ)
 齢二十一の若き皇帝には、(つがい)と呼ばれる運命の相手がいる。

 番。
 それは、獣人だけに存在する、魂の伴侶。

 獣人は、生涯でたった一人の相手しか愛さない。
 たった一人しか、愛せない。

 出会えばたちまちに、運命の相手だと気付く。
 彼らは本能で、運命の相手を嗅ぎ分けるのだ。

 この世界には五つの国があり、それぞれ獣人の王が国を治めている。
 つまり、王族にだけ、番と呼ばれる相手が存在するのである。

 このことは、王族と、その伴侶にしか伝えられていない。
 獣人たちは人知れず、伴侶探しをしているのであった。

 香樹の番は、菊花(きっか)という娘だ。
 金の髪に菫色の目。香樹の心を掴んで離さない、柔らかな(にく)

 こう言うと香樹の好みがふくよかな女性だと思われがちだが、そうではない。
 白蛇の獣人である香樹にとって、寝心地の良い菊花は最高の女性なのだ。温度、湿度、匂い、そして感触……どれを取っても、菊花は最高としか言いようがない。

 変温動物である彼には、あたたかい寝床が重要である。
 下手をすれば死んでしまうので、当然とも言えよう。

 さて、その番であるが。

「香樹!」

 香樹が寝所へ入るなり、ドーンと抱きついてきた。
 予想外のことにたたらを踏みながらも、香樹は菊花を抱き留める。

「なんだ」

 どこもかしこも柔らかな菊花だが、特に二の腕とおなかは最高である。
 ()の国にある、マシュマロというお菓子に似ていると、香樹は常々思っていた。

 柔らかな菊花の胸が遠慮なく香樹の体に押し付けられる。
 これで誘っているつもりがないのだから、驚きである。

 自分でなかったら襲われているぞ、と香樹は心配になった。
 菊花は菫色の目をキラキラと輝かせて、香樹を見上げてくる。

 かわいい。率直に言って、かわいい。
 どうしてこいつはこんなにかわいいのか。意味がわからない。
 涼やかな顔をしているその下で、香樹はそんなことを考えた。

 まさか普段「肉」と呼んでくる男が、内心デレデレでそんなことを真剣に考えているとも知らず、菊花は母性を振りまきながらこう言った。

「今日からね、どーんと甘えて良いんだよ!」

「そうか」

 それは良いことだ。
 ではさっそく、甘えさせてもらうとしよう。

 香樹は、菊花を支えていた手を緩め、彼女を抱き上げようとした。
 菊花は一般女性よりもほんの少しふくよかなタイプだが、これぐらいは何ということはない。常人よりも力が強い獣人である香樹には、何の問題もないのである。

 だが、続いて投下された彼女の言葉に、耳元で銅羅(どら)を鳴らされたような気分になった。

「私は何があっても香樹の味方だからね! 今日から私を()()()()()()()()()、甘えてちょうだい!」

 オカアサンダトオモッテ、アマエテチョウダイ、だと?
 聞き捨てならない言葉に、香樹はついうっかり執務中の氷のような声で「あ?」と答える。

 ドスの利いた、聞いている者が震えそうになる声だったが、菊花には照れ隠しのようにしか聞こえない。再びギュウと香樹に抱きつきながら、菊花はさらに言った。

「恥ずかしがらなくても良いのよ? ここには私しかいないのだし。それに私、誰にも言ったりしないわ」

 名前を呼ぶことさえくすぐったくて「肉」と呼んでしまっていたが、それがいけなかったのだろうか。
 それとも、遠回しにあたため係になんて任命したのがいけなかったのか。

 何がいけなかったのだと、香樹の頭の中は疑問でいっぱいである。

 落ちてくるのを待っていたら、とんでもない所へ落ちてきた。
 今の香樹の心境を言い表すのならば、それが一番適切だろう。

「直球で思いを伝えるべきだったか?」

「大丈夫、十分伝わっているわ。香樹はお母様に先立たれて、たった一人で頑張ってきたのよね? それで、私と出会って、お母様の面影を重ねていたのでしょう? 私じゃあ、お母様の代わりなんてできないかもしれないけれど、せめてあたため係として、親友として、あなたを支えさせてほしいの」

「菊花」

「なあに?」

「母のことを、誰から聞いた?」

 私はまだおまえに話したことがなかっただろう、と香樹は訝しげに菊花を見た。
 だいたい察しはつくが、聞いておかなければならない。事と次第によっては、あのふざけた父親(じじい)を締め上げなくてはならないからだ。

蛇晶(じゃしょう)帝……あ、違う。そうじゃなかった。えっと、そう、おじさまよ! おじさまから聞いたの!」

「おじさま……」

 あのじじい、菊花に何と呼ばせているのだ。おじさま、だと?

 父親は、息子しか得られなかった。ゆえに、娘にやたらと執着しているのを香樹は知っている。
 しかし、言うに事欠いておじさま呼びをさせているとは。

 なんとなく変態臭さを覚えて、香樹は額に手を当てながら天井を仰いだ。
 重々しく深いため息が漏れ出る。
 大好きな菊花がすぐそばにいるというのに、気分は一向に改善されない。

「あの……聞いちゃ、ダメだった?」

 香樹の深いため息に、菊花は不安そうな顔で見上げてくる。
 そんな顔をさせたいわけではない。
 だが、執務の疲れとその他諸々のせいで疲れは頂点を超えた。

「駄目ではない。だから、そんな顔をするな」

 しょんぼりと顔を曇らせた菊花の頭に、シュンと伏せられた犬耳の幻覚が見える。
 香樹はそれを、疲れているからだと判断した。

 慰めるように頭を撫でてやると、今度はブンブンと振られる尻尾が見えた気がしたが、これも疲れているせいに違いない。
 香樹は眉間を揉みながら、うなる。

「私は疲れた。もう寝る。ほら、菊花。甘えさせてくれるのだろう? 今日もあたためてくれるな?」

「はい、もちろん!」

 こっちこっちと手を引いて寝台(ベッド)へ案内する菊花に、不埒な気持ちなどひとかけらもないのだろう。
 それに比べて自分は、と香樹は自身の邪な思いにため息を吐きたくなった。