皇帝陛下のあたため係

 ()詠明(えいめい)が起こした事件は、秘密裏に処理されたようだった。

 重臣とまではいかないが、名家といえなくもない家柄である紫家から罪人が出たのである。市井に広まれば、どうなることか。考えるだけで恐ろしい。
 若き皇帝に「それみたことか」と反旗を翻す可能性もあるとされ、この件は極秘扱いとなった。

 犯人である詠明は、十年の懲役を言い渡された。
 表向きは他国に留学ということになっているが、現在は人知れず貴族専用の牢獄の中である。

 彼の(とが)は、彼自身だけでなく彼の身内にも飛び火した。
 詠明の妹であり、珠瑛(しゅえい)の取り巻きの一人であった氷霧(ひょうむ)は、問答無用で後宮を追われた。
 夜逃げをするようにひっそりと、わずかな荷物だけを持って、彼女は姿を消したのである。

 好奇心旺盛な宮女候補たちは、居なくなった氷霧のことを好き勝手にうわさした。

 曰く、好きな男と駆け落ちしたのだ、とか。
 曰く、珠瑛の態度に嫌気がさして逃げたのだ、とか。

 (こう)家姫君である珠瑛を表立って悪く言う者はいなかったが、裏では散々な言われようだった。

 残された取り巻きの二人、紅葉(こうよう)桜桃(おうとう)は、しばらくふさぎ込んでいた。
 親友を失った悲しみからか、それとも別の何かがあったのか。

 二人とも貴族の娘である。
 もしかしたら、事情を知っていたのかもしれない。

 とはいえ、うわさなんてしばらく経てばたち消える。

 宮女候補たちは、慣例にのっとって毎月一定数が里に帰される。
 氷霧が居なくなってすぐは騒がれたものだが、翌月にはその存在も忘れ去られた。

「ねぇ、知っていますか? 最近、皇帝陛下のあたため係は珠瑛様だといううわさが、まことしやかにささやかれているのですよ」

 毎夜恒例のお茶会の場。
 簡素な椅子に腰掛けて、菊花(きっか)が差し出す茶杯を受け取りながら、柚安(ゆあん)はそう言った。

「あなたの身の安全を確保するためです」

 たまに顔を出しては茶を教えてくれるようになった登月(とうげつ)が、涼しい顔をして言う。
 その顔は、なんだかとっても胡散臭い。

「え?」

「紫詠明があなたを拉致監禁したのは、あなたが皇帝陛下のあたため係……つまり、お気に入りだと思われたためです。口添えしろと脅されたのでしょう?」

「ええ、まあ」

「珠瑛様があたため係だと勘違いされていれば、少なくとも本当のあたため係である菊花が危険な目に遭う確率は低くなる」

「でも、それだと珠瑛様が狙われるのでは?」

「珠瑛様といえば、正妃候補と鳴り物入りで後宮へやってきたお方です。相手が黄家の姫君ともなれば、おいそれと手出しできません。もしも手を出そうものならば、恐ろしい報復が待っていますからね」

 登月の意見に頷きながら、柚安は「そうですね」と言った。
 それから、茶杯をふたしていた聞香杯(もんこうはい)をそっと持ち上げ、鼻に寄せる。杯に残る甘い茶の香りを楽しんでから、ふくよかなほおを緩めた。

「珠瑛様は自尊心が高いお人ですから。たとえ自分が皇帝陛下のあたため係でないとしても、自らうわさを否定することはないと思います。それどころか、最近はうわさを助長させるように、自室に引き籠もっているのですよ」

 皇帝陛下のあたため係が、真の正妃候補だとうわさされたのだ。
 正妃になるために生きてきた珠瑛からしてみたら、面白くない。

 だが、新たなうわさによって、珠瑛はやはり正妃にふさわしいと持て囃されている。
 紫詠明が起こした事件を知る者が見れば、引きこもる彼女は皇帝陛下のあたため係のように見えるだろう。
 偉そうに高笑いをする珠瑛を想像して、菊花は乾いた笑みを浮かべた。

「紅葉様と桜桃様は、嫌がらせする元気もないみたい。物がなくなったり、(かわや)に閉じ込められたりすることがなくなったわ」

「取り巻きの紅葉様と桜桃様ですが……ここ最近、珠瑛様のそばに侍らなくなりました。僕の印象ですが、どうやら彼女たちは、少しずつ距離を取っているようです」

「え、どうして?」

 菊花の疑問に、登月は「おそらくは」と前置きすると、長い話になりそうなのか、喉を潤すように茶をクピと飲んだ。

「珠瑛様が皇帝陛下のあたため係だとうわさされているからでしょう。彼女たちは、氷霧様が後宮を去った理由を知っているが、あたため係の正体を知らない。おおかた、珠瑛様があたため係だといううわさを信じた親から、言われたのでしょう。余計なことをするな、と」

 明日は我が身。
 珠瑛の機嫌を損ねたら、どうなるか分かったものではない。
 皇帝陛下のお気に入りである彼女が進言すれば、紅葉も桜桃も氷霧のようになってしまうかもしれないのだ。

 触らぬ神に祟りなし。
 近くで恩恵を受けるより、遠ざかる方がマシだと判断したに違いないと、登月は言った。

「うわぁ」

(女の友情って脆い)

 親から言われただけで離れるなんて、貴族の友情は脆すぎる。
 蛇の友達しかいない菊花には、分からない世界だ。

 しかし、柚安は違ったようである。
 納得するように深く頷きながら、苦く笑んでいた。

「分からなくもないですね。僕も一応、貴族の出ですから。黄家ににらまれたら、こわい」

「黄家って、そんなに怖い家なの?」

「あの家は、黒いうわさが絶えないのです。歯向かった人が毒殺されたという話をよく耳にしますし。けれど、証拠がないので捕まえようがないのだとか」

「なにそれ、怖っ!」

 そういう時に限って、菊花の脳裏に以前登月が言っていた言葉が蘇る。
 彼は言っていた。「黄珠瑛は毒殺も辞さない」と。
 まさかと思って聞き流していたが、今更になって菊花は怖くなった。

「菊花様。前は要らないって言っていましたけど……やっぱり毒の耐性、つけておきますか?」

 心配そうに見遣ってくる柚安に、菊花はブンブンと首を縦に振ったのだった。
 皇族である(はく)一族は、()の国を建国した蛇神様の末裔である。
 卵で生まれ、孵化し、蛇の姿で幼少期を過ごし、人の姿になることで大人と認められる。

 大抵は寿命を迎えて人の姿のままお亡くなりになるのだが、ごく稀に、不慮の事故や何らかの理由があって寿命以外でその命を終えた時、蛇の姿で蘇る。
 それは、邪神の一面を持つ蛇神が、敵討ちのために与えた呪い(チャンス)──らしい。

(え、怖くない? 呪い?)

『つまりわしは、既に一度死んでおるのだ。寿命以外で命を終えたため、こうして蛇の姿になって蘇ったというわけだな。いやぁ、参った参った。死んだ時のことはよおく覚えておる。わしは毒殺されたのじゃ。毒に耐性があるわしをも殺す毒だ、見事だのぉ』

「……」

(いや、あの……そこ、感心するところなんですかね? ちょっと、大丈夫ですか? 一度死んじゃっているのでしょう? 軽く言っていますけど、すごいことじゃないですか。っていうか、私に言っちゃって良い内容な気がしない。こんなの、どこにもしゃべっちゃいけないやつじゃない)

 もしやこれは、菊花(きっか)を後宮から出さない前提で話していやしないか。
 万が一菊花があたため係を解任になったり、宮女候補として残れずに追い出されたりした場合、彼女に残されているのは死──!

(そんなの、嫌ぁぁ!)

 心の中で悲鳴を上げながらも、菊花は慣れた手つきで茶の用意をする。
 茶を得意とする登月の指導の甲斐あってか、彼女のしぐさは洗練されていた。
 どこに出しても恥ずかしくない、登月(とうげつ)自慢の弟子である。

(そろそろ、趣味はお茶だと言っても良いのでは?)

 調子に乗ったせいでカタンと茶杯が傾きそうになる。菊花は慌てて、茶杯を支えた。

(調子に乗ると、ダメね)

 今度は茶をこぼさないように、菊花は慎重に、寝台(ベッド)のそばへ寄せた机へ茶杯を置いた。

 寝台の上では、巨大な蛇がとぐろを巻いている。
 人が上半身を起こすかのように、蛇は鎌首をもたげた。

『すまんの。この姿では香を嗅ぐこともできん。聞香杯(もんこうはい)を鼻先へ近づけてもらっても良いか?』

「かしこまりました」

 菊花は、茶杯をふたしていた聞香杯をそっと外し、蛇の鼻先へと近づけた。
 蛇はまぶたを落とし、しみじみとしているように見える。

『うむ。この姿になって良いことは、茶の香が人であった時よりもよく聞けることだな』

「そうなのですか?」

『ああ。蛇の嗅覚は人のものよりも何十倍も敏感なのじゃ。人の姿の時であっても、常人よりは鋭いが、今は比にならぬ』

「良い匂いの時は良いでしょうが、臭い匂いの時は大変そうですね」

『その通りじゃ』

 カッカッカッと笑う蛇に、菊花は不思議な気持ちだった。
 だって、目の前で好々爺(こうこうや)のように朗らかな笑い声を上げる蛇が、まさか先の皇帝、蛇晶(じゃしょう)帝だなんて、誰が思うだろう。

 蛇晶帝、白晶樹(しょうじゅ)
 彼が崩御した際にはそこかしこに高札が立てられ、皇帝陛下の死を皆が悲しんだ。

 菊花も当然、その高札を見ている。
 もっとも、その時の彼女は文字なんて読めなかったから、人々がささやく言葉を漏れ聞いて、そうなのかと納得していたのだけれど。

 菊花がいた田舎では、皇帝陛下はおとぎ話の登場人物のような感覚である。
 ゆえに、おとぎ話の登場人物が亡くなったと知らされても、心から嘆き悲しめるはずがない。喪に服すように、なんて言われても、もとよりささやかな生活なのでやりようもなく、母が残したボロボロの喪服を着て、菊花なりの哀悼は終わったのだった。

(そんな人が現実に、目の前にいるなんて。なんだか、不思議)

 しかも、見た目はどうしたって蛇である。
 報復の機会を与えるために蘇らせる、なんて蛇神様らしいといえばらしいけれど、そんなおとぎ話のようなことが現実に起こっているとは。

(たしか、異国には『事実は小説より奇なり』なんて言葉があるんだっけ? まさしく、その通りよね)

『うむ。そろそろ茶を飲むとしようかの』

「あ、はい。かしこまりました」

 聞香杯を下げて、今度は茶杯を差し出す。
 机に置くように言われてその通りにすると、蛇はチロチロと小さな舌を伸ばして茶を舐めた。

『ふうむ。菊花よ。そう畏まらずとも良い。一度は死んでいる身だ。気楽に話せ』

「しかし……」

『わしの言葉を理解できる者など、今現在、香樹(こうじゅ)とおまえさんしかおらぬ。誰に責められることもないから、安心せい』

「わかりました」

『わしのことはおじさんとでも呼んでおくれ。かわいらしく、おじさま、でも良いぞ?』

 蛇は口の中で『いずれはお義父様になるだろうがな』と呟いたが、自分の茶を淹れていた菊花には聞こえなかった。
 茶を入れて聞香を省いて茶杯を持った菊花は、蛇と対面するように簡素な椅子へ腰掛けた。

 蛇は、機嫌が良さそうにゆらゆらと揺れる。
 呼ばれるのを待つように、赤い小さな目が菊花を見上げた。

「おじさま?」

『良いのお。おなごにおじさまと呼ばれるのは、なんだかくすぐったい気持ちじゃ』

「そういうものですか? 私には、よく分かりませんが」

『わしには娘がおらんからの。息子は何人かおったが、皆死んでしもうた。生き残っているのは香樹ただ一人。香樹とて、成人して戻るまでは死んだものと思うておった』

 ケロリと、とんでもないことを言われた気がした。
 菊花は聞き間違いかと思って、「え?」と聞き返す。
 そんな彼女に蛇は、茶杯から顔を上げて「なんじゃ」と呆れたように呟いた。

『菊花はまだ知らなかったか。香樹はな、卵のうちに行方不明になり、長く消息不明だったのだよ』

 衝撃的なことを前置きもなく告げられて、菊花は驚いた。

 つるりと手の中で滑った茶杯が、床に落ちてカシャンと音を立てる。
 じんわりと足を濡らす茶の感触が、気持ち悪かった。
 香樹(こうじゅ)が行方不明になったのは、今から二十一年前のことである。

 蛇晶(じゃしょう)帝の正妃、華香(かこう)は四つの卵を産んだ。
 彼女は産後の肥立ちが悪い中、無理を承知で卵をあたため続け、四つのうちの三つが孵化(ふか)し、白蛇が三匹生まれた。

 新たな皇子たちの誕生に、後宮はお祭り騒ぎだったという。
 蛇晶帝も、皇子たちの誕生を大いに喜んだが、それよりも妻である華香の体の方が心配でならなかった。

「四つのうち、三つは孵化した。もう、やめておくれ。おまえが倒れてしまう」

「いいえ。なりません。この子は生きています。必ず、わたくしが孵化させてみます!」

 (はく)家に生まれる卵は、全部が全部、孵化するわけではない。
 四つのうち三つも孵化したのは、幸運な方である。

 それもあって蛇晶帝は妻に懇願したのだが、彼女の答えはいつだって「いいえ」だった。
 最後の一個の卵は、なかなか孵化しなかった。

 もう駄目なのでは……。
 そんな空気が流れても、華香は温めることをやめようとしない。
 最後は卵を温めることに必死になるあまり寝食をおろそかにし、流行病であっけなく息を引き取った。

 皇子誕生でお祭り騒ぎだった後宮は、華香の訃報に水を打ったように静まり返った。
 華香の葬儀はしめやかに営まれ、蛇晶帝は残された皇子三匹を抱き、妻の墓前で誓った。「息子たちは必ずや、立派に育ててみせる」と。

 この時のゴタゴタの最中、華香が最後まで温め続けていた卵はひっそりと消えた。
 もしかしたら華香の遺体とともに埋葬してしまったのではないかと、墓を暴いて探しもしたのだが、卵はついぞ見つからなかったのである。

 それから、十七年の月日が経った。
 ふがいないことに、蛇晶帝は三人いた皇子のうち、たった一人しか守りきることができなかった。

 一人目は、わずか三歳でこの世を去った。
 皇子はもともと体が弱く、長くは生きられない体だったのだ。

 二人目は、十歳で亡くなった。
 その年の冬は凍死者が多数でるくらい寒く、皇子は冬眠から目を覚まさなかったのだ。

 まだ成人していなかった彼らは、蛇の姿のまま、蘇ることはなかった。
 もしかしたら、定められた運命だったのかもしれない。

 三人目は、唯一成人した皇子であった。
 このままいけば、彼が次期皇帝になるだろうと、誰もが思っていた。だが。

『そんな時、香樹が現れた。白蛇の姿で人語をしゃべる者など、白一族以外あり得ない。しかも香樹は、母である華香のことを覚えておった。最期まで必死で温め続けてくれた彼女から離れたくなくて、ずっとそばについていたらしい。改めて墓を暴きにいった時は、もう遅かったようだがの』

「そうだったんだ……」

 皇族である香樹が、崔英(さいえい)の田舎にある山にいたのはそのせいだったのだろう。
 菊花(きっか)の家がある裏山は、昔から訳ありの者が埋葬されているとうわさされていた。
 だからこそ、菊花たち以外にそこへ住む者はいなかったのだ。

「あの……でもそれじゃあ、香樹以外にももう一人、皇子がいたんですよね?」

『ああ、おった。しかし、あの子もまた、わしと時同じくして毒殺されたのじゃ。ほれ、香樹の執務中に足元に居る蛇がいるだろう? あれが、香樹の兄だ』

「え、あれがお兄さん⁉ ︎」

 やたらと攻撃的な蛇だったと記憶している。
 香樹が言うままに刑を執行しようとしていて、すごく懐いているのだなぁなんて菊花は思っていた。

(でもまさか、お兄さんだなんて思わないじゃない⁈)

 顔に出ていたのだろう。
 蛇は笑うように、口をカパっと開いた。

『わしと、香樹の兄を殺した者は、だいたい見当がついておる。いずれ、時が来れば復讐するつもりじゃ』

 鋭い牙が、ギラリと光る。
 さすが蛇神の子孫だと、菊花はブルリと体を震わせた。

 好々爺(こうこうや)のようであっても、やはり冷徹さは薄れていない。
 隠すのがうまくなっただけなのかもしれない。蛇の姿では、人の時ほど表情が分からないから。

『しかしな。それまで香樹としかしゃべれないというのは苦行じゃ。だからその時がくるまで……菊花よ、わしの茶飲み友達になってくれんかの?』

 蛇はそう言うと、ペコリとお辞儀した。
 頭を下げたまま、赤い目がジッと菊花のことを見上げてくる。

(くっ! かわいいじゃない!)

 菊花は、蛇を親友にするような女だ。
 故に、大きな蛇に友達になってと言われて、うれしくないわけがない。
 気付けば「もちろん」と答えて、尻尾の端と握手まで交わしていた。

 しっかりと新たな友情を確かめたところで、蛇は「ところで」と言った。

『菊花は、どうやって香樹のあたため係になった?』

「うーん……偶然が重なって、ですかね? 私は崔英の田舎で生まれ育ちまして。そこで、白蛇だった香樹と出逢いました。友人がいなかった私は、香樹を親友のように思っていたのです。ところが、私が十四の時に彼は突然姿を消しました。今思えば、成人したせいだったのでしょう。五年経って、宮女狩りがあって、宦官の登月(とうげつ)様が私を迎えに来ました。彼はとある方の推薦で私を迎えに来たと言っていて……たぶん、香樹が寄越したのだろうなと、私は思っています」

『ほぉ、なるほどな。香樹は菊花と決めていたか』

 菊花の言葉に、蛇は深々と頷いた。
 なんだか感慨深げに見えるのは気のせいだろうか。

「決めたというか……昔はどうだったか知りませんけど、今は私のことを肉なんて呼びますし、大した意味はないんじゃないですか? 蛇の時、冬の間は私の懐で過ごしていたので、おそらくお布団として恋しいのだと思いますよ?」

 唇を尖らせてムスっとする菊花に、蛇はそれでも楽しそうだ。
 カカカと朗らかに笑い声をあげる。

 しばらく笑い続けて、『笑いすぎて腹が痛いわ』と身をよじった。
 それから何かを考えるようにつぶらな瞳を(すが)めて、口元をモニョモニョとさせる。どうも、まだ笑いを堪えているらしい。

『そうかそうか。もしかしたら香樹は、菊花を母のように思うておるのかもしれぬの』

「お母さんのように、ですか?」

『うむ。最期まで身を賭して温めてくれた母のぬくもりを求めて、菊花の懐に入っていたのかもしれぬ』

「母の、ぬくもり……」

『ああ、そうじゃ。母のぬくもりじゃ。香樹が孵化した時、すでに華香は亡くなっておった。後宮から遠く離れた地でたった一人。甘えたい時に甘えることもできず、寂しい幼少を過ごしたのだろう。そんな時、菊花と出会って、懐を許されたのならば。どんなことがあっても、あたため係に任命したいと思うのは無理からぬことよ』

 菊花は、ずっと昔、香樹がまだ小さな白蛇だった時のことを思い返した。
 小さな白は、他の大きな蛇たちにいじめられるといつも、菊花のところへ逃げ込んで来た。

(あれは、お母さんに甘えられない代わりに、私に甘えていたのね?)

 そう思ったら、菊花はたまらなくなった。
 大きな広間でたった一つの玉座に座り、たくさんの人を束ねていくのはさぞ孤独だろう。必要以上に周囲へ冷たく当たってしまうのは、きっと愛が足りないせいに違いない。

『菊花のことを肉と呼ぶのも、自分より年下の女子を母と思う恥ずかしさからくるものかもしれん』

「そんな!」

 菊花は拳を突き上げながら、立ち上がった。
 菫色の目には決意が宿り、轟々(ごうごう)と燃え盛っているようである。

「なるほど、そういうことですか……香樹が求めているのは、愛! 母のような深い愛なのですね! 世界中が敵でも! 私が、彼を守ります!」

『うむ、その意気じゃ!』

 蛇の唇がグニャグニャ歪む。
 面白くて仕方がない、と笑いを堪えるように。

 母の愛、なんて真っ赤なうそである。
 香樹が菊花に求めるのは、(つがい)としての愛なのだから。
 蛇香(じゃこう)帝、(はく)香樹(こうじゅ)
 齢二十一の若き皇帝には、(つがい)と呼ばれる運命の相手がいる。

 番。
 それは、獣人だけに存在する、魂の伴侶。

 獣人は、生涯でたった一人の相手しか愛さない。
 たった一人しか、愛せない。

 出会えばたちまちに、運命の相手だと気付く。
 彼らは本能で、運命の相手を嗅ぎ分けるのだ。

 この世界には五つの国があり、それぞれ獣人の王が国を治めている。
 つまり、王族にだけ、番と呼ばれる相手が存在するのである。

 このことは、王族と、その伴侶にしか伝えられていない。
 獣人たちは人知れず、伴侶探しをしているのであった。

 香樹の番は、菊花(きっか)という娘だ。
 金の髪に菫色の目。香樹の心を掴んで離さない、柔らかな(にく)

 こう言うと香樹の好みがふくよかな女性だと思われがちだが、そうではない。
 白蛇の獣人である香樹にとって、寝心地の良い菊花は最高の女性なのだ。温度、湿度、匂い、そして感触……どれを取っても、菊花は最高としか言いようがない。

 変温動物である彼には、あたたかい寝床が重要である。
 下手をすれば死んでしまうので、当然とも言えよう。

 さて、その番であるが。

「香樹!」

 香樹が寝所へ入るなり、ドーンと抱きついてきた。
 予想外のことにたたらを踏みながらも、香樹は菊花を抱き留める。

「なんだ」

 どこもかしこも柔らかな菊花だが、特に二の腕とおなかは最高である。
 ()の国にある、マシュマロというお菓子に似ていると、香樹は常々思っていた。

 柔らかな菊花の胸が遠慮なく香樹の体に押し付けられる。
 これで誘っているつもりがないのだから、驚きである。

 自分でなかったら襲われているぞ、と香樹は心配になった。
 菊花は菫色の目をキラキラと輝かせて、香樹を見上げてくる。

 かわいい。率直に言って、かわいい。
 どうしてこいつはこんなにかわいいのか。意味がわからない。
 涼やかな顔をしているその下で、香樹はそんなことを考えた。

 まさか普段「肉」と呼んでくる男が、内心デレデレでそんなことを真剣に考えているとも知らず、菊花は母性を振りまきながらこう言った。

「今日からね、どーんと甘えて良いんだよ!」

「そうか」

 それは良いことだ。
 ではさっそく、甘えさせてもらうとしよう。

 香樹は、菊花を支えていた手を緩め、彼女を抱き上げようとした。
 菊花は一般女性よりもほんの少しふくよかなタイプだが、これぐらいは何ということはない。常人よりも力が強い獣人である香樹には、何の問題もないのである。

 だが、続いて投下された彼女の言葉に、耳元で銅羅(どら)を鳴らされたような気分になった。

「私は何があっても香樹の味方だからね! 今日から私を()()()()()()()()()、甘えてちょうだい!」

 オカアサンダトオモッテ、アマエテチョウダイ、だと?
 聞き捨てならない言葉に、香樹はついうっかり執務中の氷のような声で「あ?」と答える。

 ドスの利いた、聞いている者が震えそうになる声だったが、菊花には照れ隠しのようにしか聞こえない。再びギュウと香樹に抱きつきながら、菊花はさらに言った。

「恥ずかしがらなくても良いのよ? ここには私しかいないのだし。それに私、誰にも言ったりしないわ」

 名前を呼ぶことさえくすぐったくて「肉」と呼んでしまっていたが、それがいけなかったのだろうか。
 それとも、遠回しにあたため係になんて任命したのがいけなかったのか。

 何がいけなかったのだと、香樹の頭の中は疑問でいっぱいである。

 落ちてくるのを待っていたら、とんでもない所へ落ちてきた。
 今の香樹の心境を言い表すのならば、それが一番適切だろう。

「直球で思いを伝えるべきだったか?」

「大丈夫、十分伝わっているわ。香樹はお母様に先立たれて、たった一人で頑張ってきたのよね? それで、私と出会って、お母様の面影を重ねていたのでしょう? 私じゃあ、お母様の代わりなんてできないかもしれないけれど、せめてあたため係として、親友として、あなたを支えさせてほしいの」

「菊花」

「なあに?」

「母のことを、誰から聞いた?」

 私はまだおまえに話したことがなかっただろう、と香樹は訝しげに菊花を見た。
 だいたい察しはつくが、聞いておかなければならない。事と次第によっては、あのふざけた父親(じじい)を締め上げなくてはならないからだ。

蛇晶(じゃしょう)帝……あ、違う。そうじゃなかった。えっと、そう、おじさまよ! おじさまから聞いたの!」

「おじさま……」

 あのじじい、菊花に何と呼ばせているのだ。おじさま、だと?

 父親は、息子しか得られなかった。ゆえに、娘にやたらと執着しているのを香樹は知っている。
 しかし、言うに事欠いておじさま呼びをさせているとは。

 なんとなく変態臭さを覚えて、香樹は額に手を当てながら天井を仰いだ。
 重々しく深いため息が漏れ出る。
 大好きな菊花がすぐそばにいるというのに、気分は一向に改善されない。

「あの……聞いちゃ、ダメだった?」

 香樹の深いため息に、菊花は不安そうな顔で見上げてくる。
 そんな顔をさせたいわけではない。
 だが、執務の疲れとその他諸々のせいで疲れは頂点を超えた。

「駄目ではない。だから、そんな顔をするな」

 しょんぼりと顔を曇らせた菊花の頭に、シュンと伏せられた犬耳の幻覚が見える。
 香樹はそれを、疲れているからだと判断した。

 慰めるように頭を撫でてやると、今度はブンブンと振られる尻尾が見えた気がしたが、これも疲れているせいに違いない。
 香樹は眉間を揉みながら、うなる。

「私は疲れた。もう寝る。ほら、菊花。甘えさせてくれるのだろう? 今日もあたためてくれるな?」

「はい、もちろん!」

 こっちこっちと手を引いて寝台(ベッド)へ案内する菊花に、不埒な気持ちなどひとかけらもないのだろう。
 それに比べて自分は、と香樹は自身の邪な思いにため息を吐きたくなった。
「ねぇ、知っている?」

「なぁに、何の話?」

「あのね──」

 後宮では、また新しいうわさ話が広がっている。

(飽きないわねぇ)

 相変わらず珠瑛(しゅえい)に疎まれているせいで友達がいない菊花(きっか)は、我関せずといった様子でうわさ話に花を咲かせる宮女候補たちの横を通り過ぎた。

 毎日毎日、同じことの繰り返し。
 ただぼんやりと流れに身を任せているだけでも、日々は過ぎていく。

 宮女候補たちが集められて、半年と少し。
 後宮という鳥籠に閉じ込められて、宮女候補たちには自由がない。
 最初こそ三食昼寝付きの待遇に喜んでいた者も、慣れればそれも好待遇とは思えなくなってくる。

 ああ、にぎやかな街が恋しい。
 すてきなお店ですてきなものを眺めて、自由にお買い物がしたい。

 あと数カ月もすれば、正妃やそれ以下の妃たちが決定し、残りの宮女候補たちは里へ帰されると分かっていても、窮屈に思う気持ちは止まらない。
 ただ繰り返すだけの日々に潤いを求めるように、彼女たちは忙しなくうわさ話に花を咲かせる。まるで鳥籠の鳥のように、ピーチクパーチクとさえずるのだ。

 ()の国から訪れた、女学者。
 彼女のことを、宮女候補たちはこう言った。男装の麗人・リリーベル様、と。

 可憐(かれん)な名前に似合わず、男のように凛々(りり)しい顔立ちとスッとした高い背。金色の髪を無造作に一本に束ね、澄んだ青い目は一目会うだけで腰が砕けそうになるという。
 ()の国へは、戌の国の王命でやって来たという女学者に、後宮はお祭り騒ぎである。

 巳の国より与えられた部屋に大量の書物を持ち込み、日がな一日何かを調べていたかと思えば、後宮にいる教官たちと談義をしていたり、かと思えば後宮の庭に生えている草をむしりながらああでもないこうでもないとブツクサ呟いている。
 完全におかしな人だが、見た目が良いおかげで全てカバーしているらしい。

 ここに来てから数日しか経っていないというのに、彼女のうわさは瞬く間に広がった。
 目の保養が来た、という意味で。

 皇帝陛下が来ない後宮など、禁欲的な場所でしかない。
 押し込められた彼女たちが、女であっても美男子にしか見えないリリーベルにうつつを抜かすのは、仕方のないことだった。

「お邪魔します」

 周囲に人がいないのを何度も確認して、菊花はそろりと円い窓のような扉を開いた。
 誰にも見られないように素早く入室して、扉を閉める。

 入った部屋には、人一人通れるくらいの細い通路が、奥まで続いていた。
 通路の右にも左にも、書物が天井近くまで積み上げられ、絶妙なバランスを保って壁と化している。

(下の書物を読みたい時は、どうするのかしら?)

 一番下で押しつぶされている書物を見つめて、菊花は思った。
 なんともぞんざいな扱いである。
 菊花は後宮へ来るまで紙さえ買えなかったというのに、ここでは数えきれないほどの紙や書物がおざなりな扱いを受けていた。

「もったいない。ちゃんと棚へ入れて整頓したら良いのに」

「そうしたいのは山々なんだよ? でも、この部屋じゃあ、収納しきれないのだもの」

 そう言いながら奥からやって来たのはうわさの男装の麗人、リリーベルだった。
 リリーベルは、菊花を見るなり顔をパッと明るくする。

「待っていたよ。私のかわいい菊花さん?」

「待っていたのは私ではなく、これでしょう?」

 そう言って、菊花は一束の草を差し出した。
 リリーベルは草を見るなり、目を輝かせる。

「そう、これだよ! 後宮のどこかにあるとは聞いていたのだけれど、なかなか見つからなくってね」

 リリーベルは草を恭しく手に載せると、くるくると嬉しそうに回った。
 背の高い彼女の腕は長く、積み上げられた書物に当たって、壁がグラグラと揺れる。

「リリーベル様。壁が崩壊する前に落ち着いてくださいね?」

「分かっているとも!」

 菊花が持ってきた草。
 それは、薬草である。

 後宮の隅っこの方、日当たりの悪いジメジメした場所にしか生えていないそれは、紅梅草(こうばいそう)という。
 春先に花を咲かせる紅梅によく似た花を咲かせる草で、さまざまな薬に使うことができる。

 菊花にとっては、なじみのものだ。
 崔英(さいえい)の田舎に住んでいた時、裏山で何度も採集しては売りさばいていた。

「嬉しそうですね、リリーベル様」

「嬉しいよ。だってこれがあれば、研究が進むもの」

「紅梅草は薬の効果を高める効果があるんでしたっけ?」

「よく覚えているね。そうとも。紅梅草は薬の効果を高める効果がある。だがね? 逆に、毒の効果を高める効果もあるんだ。これ一つでは治せもしないし殺せもしないけれど、これがあるというだけで、霊薬にもなれば劇薬にもなるというわけだね」

「リリーベル様は、蛇晶帝(おじさま)に頼まれて、毒の研究をしているのですよね?」

「ああ、そうとも」

 戌の国からやってきた男装の麗人は、後宮の宮女候補たちへ他国の文化を教える教官として招かれたことになっている。
 だが、それは表向きのことだ。
 実際には先帝・蛇晶(じゃしょう)帝を毒殺した犯人を見つけるため、毒の分析をするためにやって来た。

 女学者、リリーベル・ラデライト。
 その真の姿は、戌の国の王族、王位継承権第二位である第二王子の妻だというのだから、さらに驚きである。

 そんな二人が一緒にいるのは、都合が良かったからだ。
 蛇晶帝の事情を知る菊花なら助手に最適だということで、毒の耐性をつけることを交換条件に、こうして手伝いをしている──というわけなのである。

「王子様のお嫁さんが、毒を専門に研究する人というのは、珍しいですよね」

「そうかな? まぁ、夫との出会いも解毒がきっかけだったから、毒の研究家でなかったら、出会うこともなかっただろうね」

 カラッと笑いながらとんでもない出会いをサラリと告白してくるリリーベルに、菊花は目をパチクリとさせた。
 あまりに自然に言うものだから、思わずそういうものかと納得しそうになる。

(いやいやいや。そんな、普通なことじゃないよね⁈)

「ふふ。菊花さん、普通じゃないって顔をしてる。でも、王族なんてそんなものだよ? 権力争いに巻き込まれたり、巻き込んだり、大変なんだ。異母兄弟だったりするとさ、本人にその気がなくても母親の方が殺る気になったりするし、面倒なんだよ、もうほんと。巳の国だって、蛇晶帝と香樹(こうじゅ)様の兄は毒殺されているでしょう? 毒の耐性があるのに毒殺されるなんて、めったにないことだけどさ」

 なんだか聞いてはいけない戌の国の事情を聞いてしまった気がするが、菊花は聞かなかったことにした。そうすることが、正しいと思えたから。
 だって、菊花は皇帝陛下のあたため係で、蛇晶帝の話し相手で、リリーベルの助手だけれど、他国の内情を知れるような立場ではない。

(あぁぁぁぁ。ますます後宮から出してもらえないような気がしてきたわ……)

 気のせいではないのだろうか。
 彼らは、菊花を後宮から出さない前提で話しているのだろうか。

 万が一菊花があたため係を解任になったり、話し相手を解任になったり、助手を解雇されたり、宮女候補として残れずに追い出された場合、彼女に残されているのは死──!

(死にたくなぁぁぁい!)

 ブルブルと震える菊花の肩を、リリーベルはなぜか「分かるよ」とたたいた。
 労るような優しい手つきに、菊花はすがるような目で彼女を見上げる。
 覗き込んだら吸い込まれそうな青い目が、菊花を優しく見つめていた。

「リリーベル様……」

「菊花さん……」

 しばし見つめ合う。
 相手が女性だと分かっているのに、菊花の胸はトクトクと早鐘を打った。

「菊花さん、頑張るんだよ。私は、応援しているからね」

「は、はい……」

 ほんの少し色っぽい展開になったかと思いきや、リリーベルは深々とため息を吐いて菊花の肩をぐわしとつかんだ。

 その目は真剣に、菊花を見つめている。
 一体、何を頑張れと応援されているのだろうか。

(まさか、私と香樹が恋仲だって勘違いされている?)

 しがない田舎娘、それも美人とは対極にいるようなぽっちゃり女子と、地位も名誉も財産も、なにもかもを持っている皇帝陛下の、叶わざる恋……。
 リリーベルは、そんな二人を応援すると言っているのか。

 皇帝陛下のあたため係。
 やはり、この名前がいけないのだろうか。

 単純明快でわかりやすい役職名だが、どうにも色っぽい想像をされやすい。
 実際には、寝る時の抱き枕でしかないのだが。

「あの、リリーベル様? 私と陛下は、リリーベル様が思っているような関係ではないですよ? あたため係っていうといやらしく聞こえるかもしれませんが、実際には抱き枕と変わらないのです。私は彼の幼馴染みとして、彼を母のような気持ちで想っています」

「ああ、いや。菊花さんがどうとかいうわけじゃないんだ。問題は、──の方でね……」

 言いづらいことなのか、リリーベルの言葉は最後まできちんと聞き取れない。
 困ったように眉を下げるリリーベルに、菊花はそれ以上追求することをやめた。

(もしかしたら、だけど。リリーベル様の結婚には何か問題があったのかもしれないわ。だから、私と香樹のことを心配して言ってくれているのね。せっかくのご好意だもの。黙って受け取っておきましょう)

 これ以上突っ込むとリリーベルの方が大変になるような気がして、菊花は一人、訳知り顔で口をつぐんだ。
 近すぎる距離を少しだけ離れて、「そういえば」と話題を変える。
紅梅草(こうばいそう)は、何に使われたのですか?」

 蛇晶(じゃしょう)帝と皇子の死因は、毒殺である。
 それも、毒の耐性を持つ彼らをも殺す猛毒。

 となれば、簡単なことではない。
 とびきり強い毒性がなければいけないだろう。

「さっきも言ったけど、紅梅草はあらゆる薬や毒の効果を高めるんだ。蛇晶帝の体から採取された毒は、ほとんど解析できたんだけれど……あと一つが分からない。紅梅草に似ているということは分かったのだけれど、それ以上はさっぱりだ。もしかしたら、新種の毒草か、突然変異の毒草かもしれないね」

「新種に突然変異ですか」

 紅梅草の突然変異。
 その言葉を聞いて、菊花(きっか)の脳裏にふと過ぎるものがある。

 本当に、たまたまだった。
 たまたま、食うに困ってしたことだった。

 紅梅のような赤い花を咲かせる紅梅草。
 菊花は裏山から採ってきたそれを、自宅の畑で量産しようとしたことがあったのだ。

 だが、結果は失敗。
 何がいけなかったのか、紅梅草は赤くなるどころか真っ白な花が咲き、当然のことながら、見たこともない謎の草を買い取ってはもらえなかったのである。

(まさかねぇ?)

 こんな偶然、何度も続くわけがない。
 蝗害(こうがい)の時みたいに、うまくいくわけなんて、あるはずがない。

(だけど、もしも、があったとしたら?)

 そう思ったら、黙っていることなんてできなかった。

「あのぅ……ちょっと、よろしいでしょうか?」

 菊花の声に、リリーベルはキラリと目を輝かせた。
 まるで、待っていましたと言うように、その目は期待に満ちている。

「なんだい? ああ、もしかして何か(ひらめ)いたのかな? ふふ。聞いているよ。()の国の蝗害、その対策を君が献策したって。面白い案だよねぇ。みんなは君を田舎娘って馬鹿にしているけれど、私は不思議でならないよ」

 リリーベルが、ワクワクとした目で菊花を見つめる。
 菊花は、その目を不安そうに見返した。

「違うかもしれません」

「構わない。研究とは、そういうものさ。少しの可能性でもあるのなら、聞く価値はある」

 だから、自信を持って。
 そう言って、リリーベルは優しく菊花の言葉を促した。

 菊花はためらうように唇を噛んで、何度かモニョモニョと動かしてから、ようやく決心したように口を開いた。

「私、昔……食うに困って、裏山から採ってきた紅梅草を畑で栽培しようとしたことがあるんです」

 両親が流行病で亡くなって、菊花は一人で生きていかなくてはならなかった。
 両親のおかげで食べていく術は知っていたけれど、その方法は地道なものだ。

 裏山に分け入り、獣から逃げ回りながら必要な山菜や薬草を採取する。
 採取したものを店で買い取ってもらって、金を得る。

 単純にして明快な方法だが、裏山には猪が生息していて、逃げ回るのも大変なのだ。
 だから菊花は、なるべく簡単で安全に薬草を手に入れる方法を模索した。
 その結果が、紅梅草の栽培だったのである。

「紅梅草を、栽培しようとしたの? 紅梅草の育成方法なんて、まだ確立されていないのに。すごいね、菊花さん」

「すごくないですよ、失敗しましたし」

 全然すごいことなんてないのだ。
 だって菊花が植えた紅梅草は、赤い花を咲かせなかった。
 蕾まではちゃんと育っていたのに、開いた花は真っ白だったのである。

 真っ白な紅梅草なんて、聞いたことがない。
 いや、紅梅草とも言えないだろう。
 あるかどうかは分からないが、これでは白梅草(はくばいそう)である。

 当然のことながら、いつも薬草を買い取ってくれている店では断られた。
 だから結局、菊花は裏山で猪から逃げ回りながら薬草や山菜を採って生計を立てていたのである。

「しかも、真っ白な紅梅草はなぜか大量に繁殖しまして。きっと今頃、実家の畑は真っ白な紅梅草であふれかえっているでしょうね……」

 帰ったら草むしりが大変だと、菊花は重いため息を吐いた。
 金にならないどころか、労力の無駄になったのだ。素人が迂闊(うかつ)なことをするものではないと、菊花はやれやれと首を振る。

 菊花の言葉に、リリーベルは時が止まったように瞬きさえ忘れて菊花を見た。
 それからハッと我に返ると、菊花を逃がさないようにしようとしているのか、両肩をぐわしと掴んでくる。

「……えっと、菊花さん?」

 美しい顔が、間近に迫る。
 こんな距離は、香樹(こうじゅ)以外で初めてである。
 女性であるのは重々承知だが、自分のものではない甘い香りが鼻をくすぐって、菊花は「ぴゃっ」と声を漏らした。

「は、はい、なんでしょう? リリーベル様」

「それを突然変異と言うのだよ?」

「そう、でしょうか?」

「そうなんです!」

 リリーベルは菊花の肩を解放すると、ピョンピョンと嬉しそうに飛び跳ねた。
 束ねた髪が飛び跳ねる度に揺れて、尻尾のようだ。

「うわー! なんでもっと早く言ってくれなかったの⁈」

「え、いや……紅梅草の突然変異とか新種とか、ついさっき聞いたばかりですし」

「そうだよね! あー、なんで私は言わなかったのだろう。もっと早く言っておけば良かった。そうしたら、もっと早く解決したかもしれないのに!」

 一人騒ぎながらしばらく狭い室内を跳ね回って、リリーベルは再び菊花を捕まえた。

「菊花さん、君の家ってどこ? 今すぐ採取に行くから教えてちょうだい!」

 至近距離の美形の顔は心臓に悪すぎる。
 顔を覗き込まれて、菊花は顔を真っ赤にしながら、実家の場所をしどろもどろで答えた。
 リリーベルは、恐るべき行動力ですぐに出立の準備を整えた。

 彼女の本来の目的は、蛇晶(じゃしょう)帝の息の根を止めた毒を特定することだから、最優先されるのは当然のことかもしれない。
 菊花(きっか)の話を聞いた翌日には香樹(こうじゅ)に話をつけ、数日後には菊花の実家がある崔英(さいえい)へ旅立つ用意を調えていた。

 崔英までは駿馬を乗り継いで行くらしい。
 馬に乗れない菊花からすれば、信じられないことだ。
 だが、菊花の実家は馬車で乗り入れるには少々難儀な所であるから、馬で行くのが最適だろう。

「では、行ってくるよ」

「リリーベル様ぁ! お気をつけてぇ!」

「ご無事をお祈りしておりますわぁ!」

 後宮の出口近くで、宮女候補たちがさめざめと泣いている。
 見事な刺繍が刺された綺麗な手巾(ハンカチ)を振りながら、彼女たちは口々に別れの言葉を告げた。

 視線の先には、男装の麗人、リリーベルの姿。
 菊花は見つからないようにひっそりと、扉の陰からリリーベルに手を振った。

 気付いた彼女は笑顔で手を振り返してくれたが、宮女候補たちは自分にだと思ったらしい。
 そこかしこで、「私よ」「私だってば」という言い争いが起きる。

「ああ、かわいいレディたち。どうかけんかをしないで。私は研究のために少し後宮を離れるけれど、必ず戻ってくる。それまで、良い子で待っているのだよ?」

 パッチン。

 一目会うだけで腰砕けになるとうわさの澄んだ青い目で、リリーベルは秋波(ウインク)を送る。
 その途端、宮女候補たちの数人がパタパタと倒れた。

(お、おそるべき、美形……!)

 これで人妻だというのだから、驚きである。

「いや、人妻だからこその色気なのかも?」

『そうじゃのう。愛し愛される者はいつだって綺麗じゃ』

 菊花の足元で、シュルリと蛇晶帝がとぐろを巻く。
 鎌首をもたげてリリーベルを見るその目は、どこか懐かしそうで、それでいて寂しげな色をしていた。

華香(かこう)様のことを思い出しているのかしら)

 蛇晶帝の後宮に花が増えたのは、華香亡き後だと聞いている。
 華香が存命中、後宮の花は彼女だけだったのだとか。

(皇帝陛下は唯一、一夫多妻制を許されているのに)

 それほど彼は、妃を愛していたのだろう。

(皇帝陛下を夢中にさせる、正妃。そんな彼女の代わりなんて、私では無理なのかしら)

 香樹を母のような愛で守り抜くと決めたけれど、果たして菊花は生母である華香のように愛せるのか。
 相変わらず、菊花は香樹の抱き枕でしかない。いつになったらこの愛の本領は発揮できるのかしらと、菊花は憂いの表情を浮かべた。
 リリーベルを見送ってから数日後の夜のことである。
 菊花(きっか)は、あたため係として呼ばれた時にだけ使う寝所の前で立ち止まった。

「……?」

 いつも通り、寝所の扉は閉まっている。

 ここはいつだって、閉じたままだ。
 開けっ放しになっていたことなんて、一度もない。
 扉は、いつもぴっちりと閉め切られていて、菊花は自分で開けて、入るのだから。

 なのに、部屋の中で物音がしたような気がした。

 菊花が寝台(ベッド)に入るまで、香樹(こうじゅ)はただじっと寝台の上で体を丸めて待っている。
 今日に限って、寝台を抜け出して何かしているのだろうか。

 外ではしとしとと雨が降り続けていて、廊下はひんやりとしている。
 こんな日の香樹は、いつも以上に寒がって寝台から出てくることはないはずなのに。

 菊花は不思議に思いながらも、そういうこともあるかと扉を開けた。
 途端、香樹の鋭い声が菊花に向けられる。

「来るな!」

「え?」

 初めて聞いた香樹の大声に、菊花の足が止まる。
 天蓋の布は、開かれていた。
 寝台の上には立ち膝になった香樹がいて、寝台のすぐそばには、人と思しき影がある。

 影はスラリと何かを引き抜いた。

 何か、ではない。
 蝋燭(ろうそく)の明かりで鈍く光るそれを、菊花は前に見たことがあった。

(小刀)

 菊花は目を見開いた。
 そんな彼女の脳裏で、少し前に拉致監禁された時の記憶がありありと蘇る。

「あ……」

 ガクガクと足が震える。
 逃げなくちゃ、と本能が告げてきた。

(だけど、どうやって?)

 足は震えて使いものにならないし、這って逃げたとしても追いつかれるのが関の山。

「菊花、部屋を出ろ! 早く!」

(そうだ、部屋を出なくちゃ。だって、こういう時は逃げましょうって、(せき)先生が言っていたもの)

 女性と子どもは邪魔だから。
 武官の邪魔にならないように。

 大声を上げて助けを呼び、一刻も早くその場から逃げるようにと教えてくれたのは、武術担当の赤先生だった。

「誰か! 誰か来て! 侵入者よ!」

 だけれど、ここで逃げるなんて菊花にはできなかった。
 だって菊花は、香樹の母のつもりでいる。
 母というものは、身の危険も顧みず、我が子を助けるものである。

 部屋の中には、影と香樹しかいない。
 菊花以外に、影と、大切に想っている香樹しかいないのだ。

 素早く周りを見回した菊花は、火鉢に刺さった火箸をつかみ取った。

「香樹!」

 薄い寝間着をはためかせて、菊花は走った。
 履いていた木靴が途中で脱げて、転びそうになる。
 それでも菊花はなんとか踏ん張って、裸足で走った。

「やあぁぁぁぁ!」

 人生で一番速かったのではないかと思うような速度で走りきった菊花は、火箸を構えて寝台に飛び乗った。

「逃げろ、菊花!」

「絶対、嫌! 私は、あなたを守るんだから!」

 菊花は震える手で火箸を握りしめ、影をにらみつけた。
 影は菊花を見るなりニンマリと唇を歪める。

「ちょうど良かった」

 影は、じっとりと陰湿な声でそう言った。
 ゾワリと菊花の腕に鳥肌が立つ。

(ちょうど、良かった……?)

 人は、追い詰められた時ほど頭の回転が速くなるらしい。
 菊花の頭の中で、影の言葉がすごい速さで処理されていく。

 ちょうど良かった。
 それは、菊花に対して言われた言葉。

 つまり影は、菊花に用があったということなのだろう。
 必死になって菊花に逃げろと言っている香樹は、おそらく知っているのだ。この影の狙いが、皇帝陛下ではなく菊花であるということを。

(狙われているのは、香樹じゃなくて、私!)

 それなら、菊花がすることはただ一つ。
 菊花が(おとり)になって引き付けて、香樹から遠ざけることだけである。

(私は香樹のことが大切だから! できることを、精一杯やるだけよ!)

「菊花、逃げるのだ!」

「はい!」

 菊花は、寝台から飛び降りようとした。
 少しでも飛距離を伸ばしたくて、屈み込んだその瞬間、菊花の後ろから腕が伸びてくる。

「危ないっ!」

 くるりと菊花の体が回る。
 気付けば香樹に抱き寄せられていて、その背に守られていた。

 細く頼りなげな背が、今はとても頼もしく見える。
 菊花はすがりたくなる気持ちを我慢して、胸元で両手を握りしめた。

 数回剣戟(けんげき)の音が鳴り響き、影が忌ま忌ましげに舌打ちをする。
 見れば、影の足には大きな蛇が牙を食い込ませていた。

 影は必死に蛇を蹴り落とそうとするが、深々と突き刺さった牙は抜けない。
 とうとう蛇の毒は、影の動きを止めた。

 ドサリ。

 影が、床に崩れ落ちる。

「ひっ」

 死んだかと思って、菊花は小さな悲鳴を上げた。

『安心せい。峰打ちじゃ』

 寝台で腰を抜かす菊花の前で、ニュッと顔を覗かせたのは蛇晶(じゃしょう)帝であった。
 細い舌をピルピルさせて、なんとなく自慢げな表情をしているように見える。

「父上は剣など使っていないでしょう」

『神経毒で動けなくしただけじゃよ。殺しはしておらんから、峰打ちじゃろう? 菊花に手を出していたら、危うく手加減できんかったかもしれんがな。香樹が剣の鍛錬をしていたおかげで、こいつの命はつながったのぉ』

 恐ろしいことをケロリと言いながら、蛇晶帝はカッカッカッと笑った。

(ひぇぇぇ……わ、笑えない)

 皇帝陛下ともなると、人の生き死になんて軽いことなのだろうか。
 そういえば香樹も八つ当たりで毒蛇に噛ませていたことを思い出して、菊花はブルリと体を震わせた。

「菊花、けがはないか?」

 香樹が、菊花を覗き込む。
 けががないか確かめるようにほおを撫でられて、菊花は詰めていた息を吐いた。

「もう、大丈夫だ」

 火箸を持っていた手が、硬直して痙攣していた。
 安心したせいで緩んだ涙腺が、ポロリと涙を零す。

「い、生ぎでるぅぅぅ」

 良かった。本当に、良かった。

 強張る手から火箸を落として、菊花は香樹に抱きつく。
 涙と鼻水でグチャグチャになった菊花を、香樹は構わず抱き寄せた。

 抱き合う二人を見つめ、蛇晶帝は満足そうに頷く。
 それからシュルリと音を立てて床を這い、倒れた影の足に絡み付いた。

『ここはわしに任せよ。賊の検分は登月(とうげつ)とやっておく』

「頼みます。私たちは……そうですね。今夜は菊花の部屋に泊まるとします」

『おお! 初めてのお宅訪問じゃな? どうなるのか、あとで菊花から聞くのが楽しみじゃ』

「何もありませんよ。ただ、寝るだけです。では、頼みます」

『意気地なしめが』

「なんとでも」

 グスグスと鼻を鳴らす菊花の体がふわりと浮く。
 慌ててすがるものを求めた菊花の腕は、香樹の首にしがみついた。

 揺れる体と不安定な浮遊感。

(こ、これは! お姫様抱っこぉぉぉぉ!)

「ぴゃぁぁぁぁ!」

「またその声か。一体、何の鳴き真似なのだ?」

 香樹がクスクスと楽しげに笑う。
 ついでとばかりに涙で濡れるほおを舐められて、菊花は再びおかしな悲鳴を上げた。

 菊花は、自分の体重が一般的な女性よりも重い自覚がある。
 だから、お姫様抱っこなんて夢のまた夢だと思っていたし、まさか、守るべき親友である(はく)が自分のことをお姫様抱っこする日が来るとは、夢にも思っていなかった。

(もう何度もされてますけど! それでも驚くのよ!)

 ひとしきり混乱して奇声を上げて、ようやく落ち着いた菊花は、香樹が無理をしているのではないかと思った。
 だって、菊花は重いのだ。
 せめてもう少しくらい痩せておけば良かったと後悔しても、もう遅い。

「あの……重くない?」

「ああ」

 短く簡潔に答えられる。
 どちらにも取れる答えに、菊花は心の中で「どっちなのよ」と叫んだ。

 だが、香樹の足取りに不安定さなど微塵もない。
 息も乱さず、菊花なんて抱っこしていないような普通の足取りだった。
 しばらく歩いて、香樹(こうじゅ)菊花(きっか)の部屋の前で止まった。
 両手がふさがっている香樹の代わりに、菊花が扉を開ける。

 私物なんてほとんどない、飾り気のない部屋。
 机の上に置かれた小さな置物に気付いた香樹は、あいさつするようにペコリと頭を下げた。
 なんでもないことのように。それが当たり前のことだというように、自然と。

「あ……」

 誰がどう見ても、価値なんてない小さな置物。
 珠瑛(しゅえい)たちでさえ、気にも留めなかったそれに、香樹は気付いてくれた。

 そのことがどうしようもなく、菊花は嬉しかった。
 だってその置物は、菊花の父であり、母だったから。

「ありがとう、香樹」

「礼を言うようなことではないだろう」

「でも、嬉しかったから」

「そうか」

 寝台の上に、(うやうや)しく下ろされる。
 菊花の目の前で、香樹はひざまずくように座った。

 部屋の中に蝋燭(ろうそく)はあるけれど、ついていなかった。
 今夜は満月のはずだけれど、雨雲が隠してしまっている。

 薄暗い中、香樹の深紅の目が菊花を見据えた。

「菊花」

 名前を呼ばれる。
 たったそれだけなのに、菊花の胸はドキリと脈打った。

(言われ慣れていないせい?)

 胸を押さえて息を潜める菊花の手を取った香樹は、無表情だった。
 その顔からは何も読み取れなくて、菊花は不安そうに彼の名前を呼ぶ。

「香樹?」

「……どうして逃げなかった?」

 怒っているような、何かを我慢しているような、静かで低い声だった。
 幼子を叱る母親のように、香樹の両手は菊花の手を掴んでいる。
 赤い目が、責めるように菊花をにらんだ。

「逃げたく、なかった、から」

 香樹が責めるのも、分からなくはない。
 しかし菊花だって、彼女なりの理由があってそうしたのだ。
 悪いことなんてしていないと、菊花は対抗するように香樹をにらみ返す。

(せき)先生は、逃げろと教えなかったか?」

「教わったけど……でも私は、そんな事できない」

「なぜ?」

(なぜ、なんて。そんなの、決まってる)

「だって私は、香樹のお母さんだもの」

 菊花は掴まれていた手で、香樹の手を握り返した。
 いつもなら冷たいはずの手が、今日は菊花よりもあたたかい。

「お母さんって、そういうものなのよ。子どものためなら、身の危険も顧みないの」

「そうか、母か」

 香樹は、笑った。
 美しい人が笑うとこんなにも綺麗なのかと、菊花は感動を覚えた。

 どんなに風光明媚(ふうこうめいび)な風景も、彼の笑顔には敵わない。
 それくらい、香樹の笑顔はとんでもない破壊力があった。

「そう、母よ」

 わかってくれたか、と菊花も笑い返す。

 ニコニコ。ニコニコ。
 笑い合う二人ーーだが、それも少しのこと。

 なぜだか香樹は菊花の手を持ち上げて万歳をさせて、そのまま体重をかけてきた。
 菊花に覆い被さるように、香樹が寝台(ベッド)に上がる。
 二人分の体重を受けて、寝台がギシリと音を立てた。

「あれ?」

「なんだ」

「どうして、私は押し倒されているの?」

 両手を一括りにされて、頭上で縫い止められる。
 そんなことをしなくても逃げたりしないのに、と菊花は不思議に思った。

「さぁて、どうしてだと思う?」

「眠たいの?」

「そうだな、それもある」

「えっと、じゃあ、寝る?」

「そうさせてもらおう」

 香樹の顔が、菊花の顔に近づいてくる。
 いつもなら、後ろから抱きついて首筋に顔を寄せて眠るのに、どうして今夜に限って違うのだろう。
 不思議に思って見つめていると、香樹の顔がどんどん近づいてくる。

 香樹は、それまで菊花が見たこともないような顔をしていた。
 抜けるように白い肌をうっすらと上気させ、熱っぽく目を潤ませている。
 彼の紅玉のような瞳には、仄暗い炎のようなものが揺らいでいた。

「香樹」

「なんだ」

「顔が近い」

「こういう時は目を閉じるものだと習わなかったか?」

「房中術では、そうだけど。でも、私はお母さんだから、関係ないでしょう?」

 香樹の目の揺らぎが大きくなる。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに仄暗い炎に取って変わった。

 そうだ。菊花は母のような気持ちで香樹を想っている。
 だから、房中術なんて関係がないはずである。

 ケロリと答える菊花に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
 それから「まだそんなことを言っているのか」と口の中でボソボソつぶやく。

「なぁ、菊花。私とおまえは、本当の親子ではない。だから、本当の親子のようになるためには、普通の親子以上に密な接触が必要だと私は考えるが……どうだろうか?」

 香樹の提案に、菊花はなるほどとうなずいた。
 だって、本当にその通りだと思ったからだ。

(香樹と私は幼馴染みで親友であたため係だけれど、本当の親子じゃない。さっきのため息も、きっとなにか不足があって呆れてのことなんだわ。それなら私は、香樹が望むように、普通の親子のようになるために要求を飲むべきなんじゃ……?)

 それに、香樹と菊花には離れていた期間もある。
 埋めるためには、より一層仲良くする必要があるだろう。

 香樹の本心も知らず、うぶで無知な菊花は「それもそうね」と答えた。

「その言葉、忘れるなよ?」

 言質はとったからな。
 そう言った香樹の目は、まるで獲物を前にした蛇のように、意地悪で、楽しそうな色をしていた。