香樹(こうじゅ)が行方不明になったのは、今から二十一年前のことである。

 蛇晶(じゃしょう)帝の正妃、華香(かこう)は四つの卵を産んだ。
 彼女は産後の肥立ちが悪い中、無理を承知で卵をあたため続け、四つのうちの三つが孵化(ふか)し、白蛇が三匹生まれた。

 新たな皇子たちの誕生に、後宮はお祭り騒ぎだったという。
 蛇晶帝も、皇子たちの誕生を大いに喜んだが、それよりも妻である華香の体の方が心配でならなかった。

「四つのうち、三つは孵化した。もう、やめておくれ。おまえが倒れてしまう」

「いいえ。なりません。この子は生きています。必ず、わたくしが孵化させてみます!」

 (はく)家に生まれる卵は、全部が全部、孵化するわけではない。
 四つのうち三つも孵化したのは、幸運な方である。

 それもあって蛇晶帝は妻に懇願したのだが、彼女の答えはいつだって「いいえ」だった。
 最後の一個の卵は、なかなか孵化しなかった。

 もう駄目なのでは……。
 そんな空気が流れても、華香は温めることをやめようとしない。
 最後は卵を温めることに必死になるあまり寝食をおろそかにし、流行病であっけなく息を引き取った。

 皇子誕生でお祭り騒ぎだった後宮は、華香の訃報に水を打ったように静まり返った。
 華香の葬儀はしめやかに営まれ、蛇晶帝は残された皇子三匹を抱き、妻の墓前で誓った。「息子たちは必ずや、立派に育ててみせる」と。

 この時のゴタゴタの最中、華香が最後まで温め続けていた卵はひっそりと消えた。
 もしかしたら華香の遺体とともに埋葬してしまったのではないかと、墓を暴いて探しもしたのだが、卵はついぞ見つからなかったのである。

 それから、十七年の月日が経った。
 ふがいないことに、蛇晶帝は三人いた皇子のうち、たった一人しか守りきることができなかった。

 一人目は、わずか三歳でこの世を去った。
 皇子はもともと体が弱く、長くは生きられない体だったのだ。

 二人目は、十歳で亡くなった。
 その年の冬は凍死者が多数でるくらい寒く、皇子は冬眠から目を覚まさなかったのだ。

 まだ成人していなかった彼らは、蛇の姿のまま、蘇ることはなかった。
 もしかしたら、定められた運命だったのかもしれない。

 三人目は、唯一成人した皇子であった。
 このままいけば、彼が次期皇帝になるだろうと、誰もが思っていた。だが。

『そんな時、香樹が現れた。白蛇の姿で人語をしゃべる者など、白一族以外あり得ない。しかも香樹は、母である華香のことを覚えておった。最期まで必死で温め続けてくれた彼女から離れたくなくて、ずっとそばについていたらしい。改めて墓を暴きにいった時は、もう遅かったようだがの』

「そうだったんだ……」

 皇族である香樹が、崔英(さいえい)の田舎にある山にいたのはそのせいだったのだろう。
 菊花(きっか)の家がある裏山は、昔から訳ありの者が埋葬されているとうわさされていた。
 だからこそ、菊花たち以外にそこへ住む者はいなかったのだ。

「あの……でもそれじゃあ、香樹以外にももう一人、皇子がいたんですよね?」

『ああ、おった。しかし、あの子もまた、わしと時同じくして毒殺されたのじゃ。ほれ、香樹の執務中に足元に居る蛇がいるだろう? あれが、香樹の兄だ』

「え、あれがお兄さん⁉ ︎」

 やたらと攻撃的な蛇だったと記憶している。
 香樹が言うままに刑を執行しようとしていて、すごく懐いているのだなぁなんて菊花は思っていた。

(でもまさか、お兄さんだなんて思わないじゃない⁈)

 顔に出ていたのだろう。
 蛇は笑うように、口をカパっと開いた。

『わしと、香樹の兄を殺した者は、だいたい見当がついておる。いずれ、時が来れば復讐するつもりじゃ』

 鋭い牙が、ギラリと光る。
 さすが蛇神の子孫だと、菊花はブルリと体を震わせた。

 好々爺(こうこうや)のようであっても、やはり冷徹さは薄れていない。
 隠すのがうまくなっただけなのかもしれない。蛇の姿では、人の時ほど表情が分からないから。

『しかしな。それまで香樹としかしゃべれないというのは苦行じゃ。だからその時がくるまで……菊花よ、わしの茶飲み友達になってくれんかの?』

 蛇はそう言うと、ペコリとお辞儀した。
 頭を下げたまま、赤い目がジッと菊花のことを見上げてくる。

(くっ! かわいいじゃない!)

 菊花は、蛇を親友にするような女だ。
 故に、大きな蛇に友達になってと言われて、うれしくないわけがない。
 気付けば「もちろん」と答えて、尻尾の端と握手まで交わしていた。

 しっかりと新たな友情を確かめたところで、蛇は「ところで」と言った。

『菊花は、どうやって香樹のあたため係になった?』

「うーん……偶然が重なって、ですかね? 私は崔英の田舎で生まれ育ちまして。そこで、白蛇だった香樹と出逢いました。友人がいなかった私は、香樹を親友のように思っていたのです。ところが、私が十四の時に彼は突然姿を消しました。今思えば、成人したせいだったのでしょう。五年経って、宮女狩りがあって、宦官の登月(とうげつ)様が私を迎えに来ました。彼はとある方の推薦で私を迎えに来たと言っていて……たぶん、香樹が寄越したのだろうなと、私は思っています」

『ほぉ、なるほどな。香樹は菊花と決めていたか』

 菊花の言葉に、蛇は深々と頷いた。
 なんだか感慨深げに見えるのは気のせいだろうか。

「決めたというか……昔はどうだったか知りませんけど、今は私のことを肉なんて呼びますし、大した意味はないんじゃないですか? 蛇の時、冬の間は私の懐で過ごしていたので、おそらくお布団として恋しいのだと思いますよ?」

 唇を尖らせてムスっとする菊花に、蛇はそれでも楽しそうだ。
 カカカと朗らかに笑い声をあげる。

 しばらく笑い続けて、『笑いすぎて腹が痛いわ』と身をよじった。
 それから何かを考えるようにつぶらな瞳を(すが)めて、口元をモニョモニョとさせる。どうも、まだ笑いを堪えているらしい。

『そうかそうか。もしかしたら香樹は、菊花を母のように思うておるのかもしれぬの』

「お母さんのように、ですか?」

『うむ。最期まで身を賭して温めてくれた母のぬくもりを求めて、菊花の懐に入っていたのかもしれぬ』

「母の、ぬくもり……」

『ああ、そうじゃ。母のぬくもりじゃ。香樹が孵化した時、すでに華香は亡くなっておった。後宮から遠く離れた地でたった一人。甘えたい時に甘えることもできず、寂しい幼少を過ごしたのだろう。そんな時、菊花と出会って、懐を許されたのならば。どんなことがあっても、あたため係に任命したいと思うのは無理からぬことよ』

 菊花は、ずっと昔、香樹がまだ小さな白蛇だった時のことを思い返した。
 小さな白は、他の大きな蛇たちにいじめられるといつも、菊花のところへ逃げ込んで来た。

(あれは、お母さんに甘えられない代わりに、私に甘えていたのね?)

 そう思ったら、菊花はたまらなくなった。
 大きな広間でたった一つの玉座に座り、たくさんの人を束ねていくのはさぞ孤独だろう。必要以上に周囲へ冷たく当たってしまうのは、きっと愛が足りないせいに違いない。

『菊花のことを肉と呼ぶのも、自分より年下の女子を母と思う恥ずかしさからくるものかもしれん』

「そんな!」

 菊花は拳を突き上げながら、立ち上がった。
 菫色の目には決意が宿り、轟々(ごうごう)と燃え盛っているようである。

「なるほど、そういうことですか……香樹が求めているのは、愛! 母のような深い愛なのですね! 世界中が敵でも! 私が、彼を守ります!」

『うむ、その意気じゃ!』

 蛇の唇がグニャグニャ歪む。
 面白くて仕方がない、と笑いを堪えるように。

 母の愛、なんて真っ赤なうそである。
 香樹が菊花に求めるのは、(つがい)としての愛なのだから。