皇族である白一族は、巳の国を建国した蛇神様の末裔である。
卵で生まれ、孵化し、蛇の姿で幼少期を過ごし、人の姿になることで大人と認められる。
大抵は寿命を迎えて人の姿のままお亡くなりになるのだが、ごく稀に、不慮の事故や何らかの理由があって寿命以外でその命を終えた時、蛇の姿で蘇る。
それは、邪神の一面を持つ蛇神が、敵討ちのために与えた呪い──らしい。
(え、怖くない? 呪い?)
『つまりわしは、既に一度死んでおるのだ。寿命以外で命を終えたため、こうして蛇の姿になって蘇ったというわけだな。いやぁ、参った参った。死んだ時のことはよおく覚えておる。わしは毒殺されたのじゃ。毒に耐性があるわしをも殺す毒だ、見事だのぉ』
「……」
(いや、あの……そこ、感心するところなんですかね? ちょっと、大丈夫ですか? 一度死んじゃっているのでしょう? 軽く言っていますけど、すごいことじゃないですか。っていうか、私に言っちゃって良い内容な気がしない。こんなの、どこにもしゃべっちゃいけないやつじゃない)
もしやこれは、菊花を後宮から出さない前提で話していやしないか。
万が一菊花があたため係を解任になったり、宮女候補として残れずに追い出されたりした場合、彼女に残されているのは死──!
(そんなの、嫌ぁぁ!)
心の中で悲鳴を上げながらも、菊花は慣れた手つきで茶の用意をする。
茶を得意とする登月の指導の甲斐あってか、彼女のしぐさは洗練されていた。
どこに出しても恥ずかしくない、登月自慢の弟子である。
(そろそろ、趣味はお茶だと言っても良いのでは?)
調子に乗ったせいでカタンと茶杯が傾きそうになる。菊花は慌てて、茶杯を支えた。
(調子に乗ると、ダメね)
今度は茶をこぼさないように、菊花は慎重に、寝台のそばへ寄せた机へ茶杯を置いた。
寝台の上では、巨大な蛇がとぐろを巻いている。
人が上半身を起こすかのように、蛇は鎌首をもたげた。
『すまんの。この姿では香を嗅ぐこともできん。聞香杯を鼻先へ近づけてもらっても良いか?』
「かしこまりました」
菊花は、茶杯をふたしていた聞香杯をそっと外し、蛇の鼻先へと近づけた。
蛇はまぶたを落とし、しみじみとしているように見える。
『うむ。この姿になって良いことは、茶の香が人であった時よりもよく聞けることだな』
「そうなのですか?」
『ああ。蛇の嗅覚は人のものよりも何十倍も敏感なのじゃ。人の姿の時であっても、常人よりは鋭いが、今は比にならぬ』
「良い匂いの時は良いでしょうが、臭い匂いの時は大変そうですね」
『その通りじゃ』
カッカッカッと笑う蛇に、菊花は不思議な気持ちだった。
だって、目の前で好々爺のように朗らかな笑い声を上げる蛇が、まさか先の皇帝、蛇晶帝だなんて、誰が思うだろう。
蛇晶帝、白晶樹。
彼が崩御した際にはそこかしこに高札が立てられ、皇帝陛下の死を皆が悲しんだ。
菊花も当然、その高札を見ている。
もっとも、その時の彼女は文字なんて読めなかったから、人々がささやく言葉を漏れ聞いて、そうなのかと納得していたのだけれど。
菊花がいた田舎では、皇帝陛下はおとぎ話の登場人物のような感覚である。
ゆえに、おとぎ話の登場人物が亡くなったと知らされても、心から嘆き悲しめるはずがない。喪に服すように、なんて言われても、もとよりささやかな生活なのでやりようもなく、母が残したボロボロの喪服を着て、菊花なりの哀悼は終わったのだった。
(そんな人が現実に、目の前にいるなんて。なんだか、不思議)
しかも、見た目はどうしたって蛇である。
報復の機会を与えるために蘇らせる、なんて蛇神様らしいといえばらしいけれど、そんなおとぎ話のようなことが現実に起こっているとは。
(たしか、異国には『事実は小説より奇なり』なんて言葉があるんだっけ? まさしく、その通りよね)
『うむ。そろそろ茶を飲むとしようかの』
「あ、はい。かしこまりました」
聞香杯を下げて、今度は茶杯を差し出す。
机に置くように言われてその通りにすると、蛇はチロチロと小さな舌を伸ばして茶を舐めた。
『ふうむ。菊花よ。そう畏まらずとも良い。一度は死んでいる身だ。気楽に話せ』
「しかし……」
『わしの言葉を理解できる者など、今現在、香樹とおまえさんしかおらぬ。誰に責められることもないから、安心せい』
「わかりました」
『わしのことはおじさんとでも呼んでおくれ。かわいらしく、おじさま、でも良いぞ?』
蛇は口の中で『いずれはお義父様になるだろうがな』と呟いたが、自分の茶を淹れていた菊花には聞こえなかった。
茶を入れて聞香を省いて茶杯を持った菊花は、蛇と対面するように簡素な椅子へ腰掛けた。
蛇は、機嫌が良さそうにゆらゆらと揺れる。
呼ばれるのを待つように、赤い小さな目が菊花を見上げた。
「おじさま?」
『良いのお。おなごにおじさまと呼ばれるのは、なんだかくすぐったい気持ちじゃ』
「そういうものですか? 私には、よく分かりませんが」
『わしには娘がおらんからの。息子は何人かおったが、皆死んでしもうた。生き残っているのは香樹ただ一人。香樹とて、成人して戻るまでは死んだものと思うておった』
ケロリと、とんでもないことを言われた気がした。
菊花は聞き間違いかと思って、「え?」と聞き返す。
そんな彼女に蛇は、茶杯から顔を上げて「なんじゃ」と呆れたように呟いた。
『菊花はまだ知らなかったか。香樹はな、卵のうちに行方不明になり、長く消息不明だったのだよ』
衝撃的なことを前置きもなく告げられて、菊花は驚いた。
つるりと手の中で滑った茶杯が、床に落ちてカシャンと音を立てる。
じんわりと足を濡らす茶の感触が、気持ち悪かった。
卵で生まれ、孵化し、蛇の姿で幼少期を過ごし、人の姿になることで大人と認められる。
大抵は寿命を迎えて人の姿のままお亡くなりになるのだが、ごく稀に、不慮の事故や何らかの理由があって寿命以外でその命を終えた時、蛇の姿で蘇る。
それは、邪神の一面を持つ蛇神が、敵討ちのために与えた呪い──らしい。
(え、怖くない? 呪い?)
『つまりわしは、既に一度死んでおるのだ。寿命以外で命を終えたため、こうして蛇の姿になって蘇ったというわけだな。いやぁ、参った参った。死んだ時のことはよおく覚えておる。わしは毒殺されたのじゃ。毒に耐性があるわしをも殺す毒だ、見事だのぉ』
「……」
(いや、あの……そこ、感心するところなんですかね? ちょっと、大丈夫ですか? 一度死んじゃっているのでしょう? 軽く言っていますけど、すごいことじゃないですか。っていうか、私に言っちゃって良い内容な気がしない。こんなの、どこにもしゃべっちゃいけないやつじゃない)
もしやこれは、菊花を後宮から出さない前提で話していやしないか。
万が一菊花があたため係を解任になったり、宮女候補として残れずに追い出されたりした場合、彼女に残されているのは死──!
(そんなの、嫌ぁぁ!)
心の中で悲鳴を上げながらも、菊花は慣れた手つきで茶の用意をする。
茶を得意とする登月の指導の甲斐あってか、彼女のしぐさは洗練されていた。
どこに出しても恥ずかしくない、登月自慢の弟子である。
(そろそろ、趣味はお茶だと言っても良いのでは?)
調子に乗ったせいでカタンと茶杯が傾きそうになる。菊花は慌てて、茶杯を支えた。
(調子に乗ると、ダメね)
今度は茶をこぼさないように、菊花は慎重に、寝台のそばへ寄せた机へ茶杯を置いた。
寝台の上では、巨大な蛇がとぐろを巻いている。
人が上半身を起こすかのように、蛇は鎌首をもたげた。
『すまんの。この姿では香を嗅ぐこともできん。聞香杯を鼻先へ近づけてもらっても良いか?』
「かしこまりました」
菊花は、茶杯をふたしていた聞香杯をそっと外し、蛇の鼻先へと近づけた。
蛇はまぶたを落とし、しみじみとしているように見える。
『うむ。この姿になって良いことは、茶の香が人であった時よりもよく聞けることだな』
「そうなのですか?」
『ああ。蛇の嗅覚は人のものよりも何十倍も敏感なのじゃ。人の姿の時であっても、常人よりは鋭いが、今は比にならぬ』
「良い匂いの時は良いでしょうが、臭い匂いの時は大変そうですね」
『その通りじゃ』
カッカッカッと笑う蛇に、菊花は不思議な気持ちだった。
だって、目の前で好々爺のように朗らかな笑い声を上げる蛇が、まさか先の皇帝、蛇晶帝だなんて、誰が思うだろう。
蛇晶帝、白晶樹。
彼が崩御した際にはそこかしこに高札が立てられ、皇帝陛下の死を皆が悲しんだ。
菊花も当然、その高札を見ている。
もっとも、その時の彼女は文字なんて読めなかったから、人々がささやく言葉を漏れ聞いて、そうなのかと納得していたのだけれど。
菊花がいた田舎では、皇帝陛下はおとぎ話の登場人物のような感覚である。
ゆえに、おとぎ話の登場人物が亡くなったと知らされても、心から嘆き悲しめるはずがない。喪に服すように、なんて言われても、もとよりささやかな生活なのでやりようもなく、母が残したボロボロの喪服を着て、菊花なりの哀悼は終わったのだった。
(そんな人が現実に、目の前にいるなんて。なんだか、不思議)
しかも、見た目はどうしたって蛇である。
報復の機会を与えるために蘇らせる、なんて蛇神様らしいといえばらしいけれど、そんなおとぎ話のようなことが現実に起こっているとは。
(たしか、異国には『事実は小説より奇なり』なんて言葉があるんだっけ? まさしく、その通りよね)
『うむ。そろそろ茶を飲むとしようかの』
「あ、はい。かしこまりました」
聞香杯を下げて、今度は茶杯を差し出す。
机に置くように言われてその通りにすると、蛇はチロチロと小さな舌を伸ばして茶を舐めた。
『ふうむ。菊花よ。そう畏まらずとも良い。一度は死んでいる身だ。気楽に話せ』
「しかし……」
『わしの言葉を理解できる者など、今現在、香樹とおまえさんしかおらぬ。誰に責められることもないから、安心せい』
「わかりました」
『わしのことはおじさんとでも呼んでおくれ。かわいらしく、おじさま、でも良いぞ?』
蛇は口の中で『いずれはお義父様になるだろうがな』と呟いたが、自分の茶を淹れていた菊花には聞こえなかった。
茶を入れて聞香を省いて茶杯を持った菊花は、蛇と対面するように簡素な椅子へ腰掛けた。
蛇は、機嫌が良さそうにゆらゆらと揺れる。
呼ばれるのを待つように、赤い小さな目が菊花を見上げた。
「おじさま?」
『良いのお。おなごにおじさまと呼ばれるのは、なんだかくすぐったい気持ちじゃ』
「そういうものですか? 私には、よく分かりませんが」
『わしには娘がおらんからの。息子は何人かおったが、皆死んでしもうた。生き残っているのは香樹ただ一人。香樹とて、成人して戻るまでは死んだものと思うておった』
ケロリと、とんでもないことを言われた気がした。
菊花は聞き間違いかと思って、「え?」と聞き返す。
そんな彼女に蛇は、茶杯から顔を上げて「なんじゃ」と呆れたように呟いた。
『菊花はまだ知らなかったか。香樹はな、卵のうちに行方不明になり、長く消息不明だったのだよ』
衝撃的なことを前置きもなく告げられて、菊花は驚いた。
つるりと手の中で滑った茶杯が、床に落ちてカシャンと音を立てる。
じんわりと足を濡らす茶の感触が、気持ち悪かった。