夕飯を終えて自室へ戻り、今日習ったばかりの『巳の国の歴史』と『歴代皇帝たちの偉業』を復習しようとしていた時だった。
「おい、おまえ。ちょっと来い」
扉をたたかれ、男が勝手に入ってくる。
振り返った菊花の目に入ったのは、油で撫で付けたような髪に、残念な頭頂部。見事に育った腹が、歩く度にポヨンポヨンと揺れる。
鼻の下のささやかなひげを大事そうに弄るその男は、宦官の落陽であった。
「落陽様。ですが、夕食後の外出は禁止されております」
ここでの決まり事は多い。
夕食後の外出禁止もその一つである。
決まり事を破る。
それは、ここを追い出されることを意味していた。
菊花は、ここでの生活を気に入っている。
三食昼寝付き。その上、無償で勉強までできる。
こんな好待遇、どこへ行ったって見つからないだろう。
だから、追い出されるわけにはいかないのだ。
しかも、呼び出そうとしている落陽は、菊花のことを良く思っていない。
機会さえあれば、菊花を出し抜き、自身が推薦する黄珠瑛の株を上げようと必死である。
大して優秀な部類でもない菊花が、目の敵にされるのはなぜなのか。
それは、彼女を推薦した宦官が、落陽が好敵手と認識している登月だからである。もっとも、登月には出世意欲などないので、落陽の独り相撲ではあるのだが。
「うるさい。口答えするな。いいから、とっととついて来い!」
まるで子供のように、落陽はその場で地団駄を踏む。菊花はそれを、少々哀れみがにじむ目で眺めた。
(宦官になると怒りっぽくなるとは言うけれど、それにしたって落陽様は怒り過ぎだわ。いつもカッカしているから頭頂部がなくなってしまったのね)
「おい、どこを見ている」
裳がはだけてしまった女性が恥じらうように、落陽が頭を撫でる。
言いたいことは山ほどあったが、言わぬが花だ。菊花はしれっと視線をさ迷わせながら答えた。
「外を見ておりました。真っ暗だなぁって」
「ふんっ。まあ、良い。それより、早く来い。あの方がお待ちなのだ」
「ですから、夕食後の外出は……ん? あの方、とは?」
「あの方はあの方だ。早くしないと、大変なことになる。決まり事などと言っていられない事態になるぞ」
落陽の言っていることは、抽象的でよく分からない。
だが、少なくとも彼が本気で焦っているのは確かなようだ。
先程から、ひげを弄る手が止まらない。
落陽は、不安になるとひげを弄る癖があった。
「分かりました。そのような緊急事態に私なんぞが役に立つとは思えませんが、行きましょう」
ようやく行く気になったかと、落陽は鼻息も荒く歩き出した。その後ろを、菊花も小走りでついて行く。
(落陽様は、どこへ向かっているのかしら?)
右へ左へ、落陽は何度も廊下を曲がる。
記憶力には自信がある菊花だが、帰り道が怪しくなりそうだ。
(もしかして、私を迷わせようとしている?)
もしやこの所業はイビリかと菊花が疑い出した時、落陽は止まった。
あまりに唐突に止まったものだから、菊花は裾を踏んで転びそうになる。
たたらを踏んでいる間にタイミング悪く落陽が扉を開けたものだから、菊花はそのまま部屋の中へ倒れ込んだ。
「いったぁ」
「これは仕方のないことで、決しておまえが選ばれたわけではない。それだけは、忘れるなよ」
「え?」
倒れたまま振り返ると、ギリギリと口惜しそうな顔をした落陽の顔が見えなくなった。
扉を閉められたのだ。
ガタン、ガチャガチャガチャン!
ご丁寧に、施錠までされる。
菊花は閉まりきった扉を見上げ、ぼうぜんと呟いた。
「なんなのよ、もう。やっぱりイビリだったの?」
油断した自分が悪いが、まさか閉じ込められるとは。
菊花は諦めたようにため息を吐くと、のろのろと立ち上がった。
「油断するといつもこう。足を引っ張り合って、みにくいったらないわ。せっかく素晴らしい機会に恵まれたのに、こんなんじゃあ追い出されるのも時間の問題じゃない」
独り言ち、菊花は再びため息を吐いた。
だが、いくらため息を吐こうと事態が改善するわけもなく。菊花は最後にもう一度だけため息を吐くと、気を取りなおすように裳を払った。
「確か、あの方が待っているって言っていたわよね。施錠したってことは、既に来ているのかしら?」
周囲を見回すと、奥に灯りが見えた。
灯りに誘われるように、菊花は部屋の奥へと歩いて行く。
部屋の奥には、天蓋付きの寝台が鎮座していた。
菊花が三人は眠れそうな大きな寝台。
あまりの大きさに「ほぁぁ」と呆けた声を漏らしていたら、中から衣擦れの音が聞こえてきた。
「来たか」
ボソリと呟かれた声は低く、掠れた音をしている。
男にも女にも聞こえる声だが、どちらだろうか。
(もしかして……?)
この人が、落陽の言っていた『あの方』だろうか。
とはいえ、他人の寝台を勝手に暴くのは恥ずかしい。
モジモジしていると、寝台の中から再び衣擦れの音がした。
音は、ズリ、ズリ、と這うように近づいてくる。
「早くしろ。寒くて死にそうだ」
「……⁉︎」
ニュッと飛び出てきた白い腕が、菊花の脇の下に入る。
悲鳴を上げる間もなく、菊花は寝台の中へ引き摺り込まれた。
「ああ、これだ、この肉。これを待っていたのだ、私は」
「は? えっ? 肉ぅ⁈」
素っ頓狂な声を上げる菊花に構わず、寝台の主人は彼女の体に自身の長い腕を巻き付け、それでも足りないとばかりに足を絡みつかせた。
まるで菊花が抱き枕であるかのように、寝台の主人は隙間なく体を密着させてくる。
「ひゃっ。つ、冷たっ!」
寝台の主人の肌は、氷のように冷たかった。人間のものとは思えない温度に、菊花の肌が粟立つ。
「どうしてこんなに冷たいのですか⁉︎」
これじゃあ、冬眠中の蛇みたい。
そう言った菊花に、寝台の主人は「そうか」と笑った。
「今夜は冷える。仕方がないことなのだ」
「仕方がない? でもこれじゃあ、心臓が止まってしまいます」
人は、体温が二十度以下になると死に至ります。
そう教えてくれたのは、藍先生だったか。
温める方法までは教わっていなかったと、菊花は焦った。
「そうだ。だから、おまえを呼んだ。菊花、あたためてくれ」
「…………はい?」
思わず見上げると、至近距離でじっと見つめられる。
赤い目だ。眠そうにトロリとした目は、ずっと昔に一度だけ食べた、真っ赤な林檎飴のよう。
(甘そう)
知らず、舌舐めずりをしていたらしい。
寝台の主人の長い指が、菊花の濡れた唇を拭うように動いた。
「ひゃっ!」
冷たい指先に、反射的に身が竦む。
ブルリと震える菊花の熱をさらに奪うように、寝台の主人の生足が菊花の裳の隙間から侵入し、彼女の足にねっとりと絡みつく。
(お、おおおお男の人だ!?)
身じろいだ拍子に、菊花は気がついてしまった。
なぜ、どうして。意味が分からない。
ここは後宮で、男の人は入れない。そう、宦官にならなければ入れないはずなのだ。
知らない間に、後宮の外に連れ出されていたのだろうか。
それとも、まさか……?
思い当たる答えに、でもでもだってと自問自答する。
後宮に入れる男の人。それも、宦官じゃない男の人。
それはこの世でただ一人である。
「寒い。あたためてくれ」
「ふぇっ⁈」
「おまえしかいないのだ。頼む」
「うえぇぇ⁈」
寝台の主人の手が、上衣を裳から引っ張り出して、裾から侵入してくる。
菊花の柔らかな腹を、無遠慮に撫で回した。
それから満足したように「ほぅ」と妙に色気のある吐息を漏らし、彼女の腹の肉を摘みながらこう言った。
「この肉……癒やされる」
(にく……肉って言ったよ、この人!)
確かに、菊花のおなかはポヨンポヨンである。触り心地だって抜群だ。
(だけど! 肉って言わなくたって良いじゃない!)
こう見えて、年頃の女の子なのだ。
遠慮なく肉肉言われて、傷つかないこともない。
(事実だけれども! でも!)
そういえば、先程も肉と言っていなかったか。
思い出すとますます腹が立ってきた。
プクリと頬を膨らませて、分かりやすく不満を表す菊花に、寝台の主人がククッと笑う。
「愛いな」
寝台の主人の手が、楽しげに肉を──否、菊花のおなかを摘む。
「菊花。おまえを、私のあたため係に任命する。私が呼んだらやって来て、こうしてあたためよ。良いな?」
最後の方は、まるで寝言を言っているように判然としない。
菊花の返答を待たずして寝入ってしまった寝台の主人に、彼女は今更ながらに思った。
(どうして、こうなったの……?)
菊花がこの度、冷たい男にあたため係を任命されるまでには、さまざまな経緯があった。
どこから回想するのが妥当だろうか。
それはもう、当然のことながら、彼女がここ──後宮へ来るまでのところからであろう。
「おい、おまえ。ちょっと来い」
扉をたたかれ、男が勝手に入ってくる。
振り返った菊花の目に入ったのは、油で撫で付けたような髪に、残念な頭頂部。見事に育った腹が、歩く度にポヨンポヨンと揺れる。
鼻の下のささやかなひげを大事そうに弄るその男は、宦官の落陽であった。
「落陽様。ですが、夕食後の外出は禁止されております」
ここでの決まり事は多い。
夕食後の外出禁止もその一つである。
決まり事を破る。
それは、ここを追い出されることを意味していた。
菊花は、ここでの生活を気に入っている。
三食昼寝付き。その上、無償で勉強までできる。
こんな好待遇、どこへ行ったって見つからないだろう。
だから、追い出されるわけにはいかないのだ。
しかも、呼び出そうとしている落陽は、菊花のことを良く思っていない。
機会さえあれば、菊花を出し抜き、自身が推薦する黄珠瑛の株を上げようと必死である。
大して優秀な部類でもない菊花が、目の敵にされるのはなぜなのか。
それは、彼女を推薦した宦官が、落陽が好敵手と認識している登月だからである。もっとも、登月には出世意欲などないので、落陽の独り相撲ではあるのだが。
「うるさい。口答えするな。いいから、とっととついて来い!」
まるで子供のように、落陽はその場で地団駄を踏む。菊花はそれを、少々哀れみがにじむ目で眺めた。
(宦官になると怒りっぽくなるとは言うけれど、それにしたって落陽様は怒り過ぎだわ。いつもカッカしているから頭頂部がなくなってしまったのね)
「おい、どこを見ている」
裳がはだけてしまった女性が恥じらうように、落陽が頭を撫でる。
言いたいことは山ほどあったが、言わぬが花だ。菊花はしれっと視線をさ迷わせながら答えた。
「外を見ておりました。真っ暗だなぁって」
「ふんっ。まあ、良い。それより、早く来い。あの方がお待ちなのだ」
「ですから、夕食後の外出は……ん? あの方、とは?」
「あの方はあの方だ。早くしないと、大変なことになる。決まり事などと言っていられない事態になるぞ」
落陽の言っていることは、抽象的でよく分からない。
だが、少なくとも彼が本気で焦っているのは確かなようだ。
先程から、ひげを弄る手が止まらない。
落陽は、不安になるとひげを弄る癖があった。
「分かりました。そのような緊急事態に私なんぞが役に立つとは思えませんが、行きましょう」
ようやく行く気になったかと、落陽は鼻息も荒く歩き出した。その後ろを、菊花も小走りでついて行く。
(落陽様は、どこへ向かっているのかしら?)
右へ左へ、落陽は何度も廊下を曲がる。
記憶力には自信がある菊花だが、帰り道が怪しくなりそうだ。
(もしかして、私を迷わせようとしている?)
もしやこの所業はイビリかと菊花が疑い出した時、落陽は止まった。
あまりに唐突に止まったものだから、菊花は裾を踏んで転びそうになる。
たたらを踏んでいる間にタイミング悪く落陽が扉を開けたものだから、菊花はそのまま部屋の中へ倒れ込んだ。
「いったぁ」
「これは仕方のないことで、決しておまえが選ばれたわけではない。それだけは、忘れるなよ」
「え?」
倒れたまま振り返ると、ギリギリと口惜しそうな顔をした落陽の顔が見えなくなった。
扉を閉められたのだ。
ガタン、ガチャガチャガチャン!
ご丁寧に、施錠までされる。
菊花は閉まりきった扉を見上げ、ぼうぜんと呟いた。
「なんなのよ、もう。やっぱりイビリだったの?」
油断した自分が悪いが、まさか閉じ込められるとは。
菊花は諦めたようにため息を吐くと、のろのろと立ち上がった。
「油断するといつもこう。足を引っ張り合って、みにくいったらないわ。せっかく素晴らしい機会に恵まれたのに、こんなんじゃあ追い出されるのも時間の問題じゃない」
独り言ち、菊花は再びため息を吐いた。
だが、いくらため息を吐こうと事態が改善するわけもなく。菊花は最後にもう一度だけため息を吐くと、気を取りなおすように裳を払った。
「確か、あの方が待っているって言っていたわよね。施錠したってことは、既に来ているのかしら?」
周囲を見回すと、奥に灯りが見えた。
灯りに誘われるように、菊花は部屋の奥へと歩いて行く。
部屋の奥には、天蓋付きの寝台が鎮座していた。
菊花が三人は眠れそうな大きな寝台。
あまりの大きさに「ほぁぁ」と呆けた声を漏らしていたら、中から衣擦れの音が聞こえてきた。
「来たか」
ボソリと呟かれた声は低く、掠れた音をしている。
男にも女にも聞こえる声だが、どちらだろうか。
(もしかして……?)
この人が、落陽の言っていた『あの方』だろうか。
とはいえ、他人の寝台を勝手に暴くのは恥ずかしい。
モジモジしていると、寝台の中から再び衣擦れの音がした。
音は、ズリ、ズリ、と這うように近づいてくる。
「早くしろ。寒くて死にそうだ」
「……⁉︎」
ニュッと飛び出てきた白い腕が、菊花の脇の下に入る。
悲鳴を上げる間もなく、菊花は寝台の中へ引き摺り込まれた。
「ああ、これだ、この肉。これを待っていたのだ、私は」
「は? えっ? 肉ぅ⁈」
素っ頓狂な声を上げる菊花に構わず、寝台の主人は彼女の体に自身の長い腕を巻き付け、それでも足りないとばかりに足を絡みつかせた。
まるで菊花が抱き枕であるかのように、寝台の主人は隙間なく体を密着させてくる。
「ひゃっ。つ、冷たっ!」
寝台の主人の肌は、氷のように冷たかった。人間のものとは思えない温度に、菊花の肌が粟立つ。
「どうしてこんなに冷たいのですか⁉︎」
これじゃあ、冬眠中の蛇みたい。
そう言った菊花に、寝台の主人は「そうか」と笑った。
「今夜は冷える。仕方がないことなのだ」
「仕方がない? でもこれじゃあ、心臓が止まってしまいます」
人は、体温が二十度以下になると死に至ります。
そう教えてくれたのは、藍先生だったか。
温める方法までは教わっていなかったと、菊花は焦った。
「そうだ。だから、おまえを呼んだ。菊花、あたためてくれ」
「…………はい?」
思わず見上げると、至近距離でじっと見つめられる。
赤い目だ。眠そうにトロリとした目は、ずっと昔に一度だけ食べた、真っ赤な林檎飴のよう。
(甘そう)
知らず、舌舐めずりをしていたらしい。
寝台の主人の長い指が、菊花の濡れた唇を拭うように動いた。
「ひゃっ!」
冷たい指先に、反射的に身が竦む。
ブルリと震える菊花の熱をさらに奪うように、寝台の主人の生足が菊花の裳の隙間から侵入し、彼女の足にねっとりと絡みつく。
(お、おおおお男の人だ!?)
身じろいだ拍子に、菊花は気がついてしまった。
なぜ、どうして。意味が分からない。
ここは後宮で、男の人は入れない。そう、宦官にならなければ入れないはずなのだ。
知らない間に、後宮の外に連れ出されていたのだろうか。
それとも、まさか……?
思い当たる答えに、でもでもだってと自問自答する。
後宮に入れる男の人。それも、宦官じゃない男の人。
それはこの世でただ一人である。
「寒い。あたためてくれ」
「ふぇっ⁈」
「おまえしかいないのだ。頼む」
「うえぇぇ⁈」
寝台の主人の手が、上衣を裳から引っ張り出して、裾から侵入してくる。
菊花の柔らかな腹を、無遠慮に撫で回した。
それから満足したように「ほぅ」と妙に色気のある吐息を漏らし、彼女の腹の肉を摘みながらこう言った。
「この肉……癒やされる」
(にく……肉って言ったよ、この人!)
確かに、菊花のおなかはポヨンポヨンである。触り心地だって抜群だ。
(だけど! 肉って言わなくたって良いじゃない!)
こう見えて、年頃の女の子なのだ。
遠慮なく肉肉言われて、傷つかないこともない。
(事実だけれども! でも!)
そういえば、先程も肉と言っていなかったか。
思い出すとますます腹が立ってきた。
プクリと頬を膨らませて、分かりやすく不満を表す菊花に、寝台の主人がククッと笑う。
「愛いな」
寝台の主人の手が、楽しげに肉を──否、菊花のおなかを摘む。
「菊花。おまえを、私のあたため係に任命する。私が呼んだらやって来て、こうしてあたためよ。良いな?」
最後の方は、まるで寝言を言っているように判然としない。
菊花の返答を待たずして寝入ってしまった寝台の主人に、彼女は今更ながらに思った。
(どうして、こうなったの……?)
菊花がこの度、冷たい男にあたため係を任命されるまでには、さまざまな経緯があった。
どこから回想するのが妥当だろうか。
それはもう、当然のことながら、彼女がここ──後宮へ来るまでのところからであろう。