紫詠明が起こした事件は、秘密裏に処理されたようだった。
重臣とまではいかないが、名家といえなくもない家柄である紫家から罪人が出たのである。市井に広まれば、どうなることか。考えるだけで恐ろしい。
若き皇帝に「それみたことか」と反旗を翻す可能性もあるとされ、この件は極秘扱いとなった。
犯人である詠明は、十年の懲役を言い渡された。
表向きは他国に留学ということになっているが、現在は人知れず貴族専用の牢獄の中である。
彼の咎は、彼自身だけでなく彼の身内にも飛び火した。
詠明の妹であり、珠瑛の取り巻きの一人であった氷霧は、問答無用で後宮を追われた。
夜逃げをするようにひっそりと、わずかな荷物だけを持って、彼女は姿を消したのである。
好奇心旺盛な宮女候補たちは、居なくなった氷霧のことを好き勝手にうわさした。
曰く、好きな男と駆け落ちしたのだ、とか。
曰く、珠瑛の態度に嫌気がさして逃げたのだ、とか。
黄家姫君である珠瑛を表立って悪く言う者はいなかったが、裏では散々な言われようだった。
残された取り巻きの二人、紅葉と桜桃は、しばらくふさぎ込んでいた。
親友を失った悲しみからか、それとも別の何かがあったのか。
二人とも貴族の娘である。
もしかしたら、事情を知っていたのかもしれない。
とはいえ、うわさなんてしばらく経てばたち消える。
宮女候補たちは、慣例にのっとって毎月一定数が里に帰される。
氷霧が居なくなってすぐは騒がれたものだが、翌月にはその存在も忘れ去られた。
「ねぇ、知っていますか? 最近、皇帝陛下のあたため係は珠瑛様だといううわさが、まことしやかにささやかれているのですよ」
毎夜恒例のお茶会の場。
簡素な椅子に腰掛けて、菊花が差し出す茶杯を受け取りながら、柚安はそう言った。
「あなたの身の安全を確保するためです」
たまに顔を出しては茶を教えてくれるようになった登月が、涼しい顔をして言う。
その顔は、なんだかとっても胡散臭い。
「え?」
「紫詠明があなたを拉致監禁したのは、あなたが皇帝陛下のあたため係……つまり、お気に入りだと思われたためです。口添えしろと脅されたのでしょう?」
「ええ、まあ」
「珠瑛様があたため係だと勘違いされていれば、少なくとも本当のあたため係である菊花が危険な目に遭う確率は低くなる」
「でも、それだと珠瑛様が狙われるのでは?」
「珠瑛様といえば、正妃候補と鳴り物入りで後宮へやってきたお方です。相手が黄家の姫君ともなれば、おいそれと手出しできません。もしも手を出そうものならば、恐ろしい報復が待っていますからね」
登月の意見に頷きながら、柚安は「そうですね」と言った。
それから、茶杯をふたしていた聞香杯をそっと持ち上げ、鼻に寄せる。杯に残る甘い茶の香りを楽しんでから、ふくよかなほおを緩めた。
「珠瑛様は自尊心が高いお人ですから。たとえ自分が皇帝陛下のあたため係でないとしても、自らうわさを否定することはないと思います。それどころか、最近はうわさを助長させるように、自室に引き籠もっているのですよ」
皇帝陛下のあたため係が、真の正妃候補だとうわさされたのだ。
正妃になるために生きてきた珠瑛からしてみたら、面白くない。
だが、新たなうわさによって、珠瑛はやはり正妃にふさわしいと持て囃されている。
紫詠明が起こした事件を知る者が見れば、引きこもる彼女は皇帝陛下のあたため係のように見えるだろう。
偉そうに高笑いをする珠瑛を想像して、菊花は乾いた笑みを浮かべた。
「紅葉様と桜桃様は、嫌がらせする元気もないみたい。物がなくなったり、厠に閉じ込められたりすることがなくなったわ」
「取り巻きの紅葉様と桜桃様ですが……ここ最近、珠瑛様のそばに侍らなくなりました。僕の印象ですが、どうやら彼女たちは、少しずつ距離を取っているようです」
「え、どうして?」
菊花の疑問に、登月は「おそらくは」と前置きすると、長い話になりそうなのか、喉を潤すように茶をクピと飲んだ。
「珠瑛様が皇帝陛下のあたため係だとうわさされているからでしょう。彼女たちは、氷霧様が後宮を去った理由を知っているが、あたため係の正体を知らない。おおかた、珠瑛様があたため係だといううわさを信じた親から、言われたのでしょう。余計なことをするな、と」
明日は我が身。
珠瑛の機嫌を損ねたら、どうなるか分かったものではない。
皇帝陛下のお気に入りである彼女が進言すれば、紅葉も桜桃も氷霧のようになってしまうかもしれないのだ。
触らぬ神に祟りなし。
近くで恩恵を受けるより、遠ざかる方がマシだと判断したに違いないと、登月は言った。
「うわぁ」
(女の友情って脆い)
親から言われただけで離れるなんて、貴族の友情は脆すぎる。
蛇の友達しかいない菊花には、分からない世界だ。
しかし、柚安は違ったようである。
納得するように深く頷きながら、苦く笑んでいた。
「分からなくもないですね。僕も一応、貴族の出ですから。黄家ににらまれたら、こわい」
「黄家って、そんなに怖い家なの?」
「あの家は、黒いうわさが絶えないのです。歯向かった人が毒殺されたという話をよく耳にしますし。けれど、証拠がないので捕まえようがないのだとか」
「なにそれ、怖っ!」
そういう時に限って、菊花の脳裏に以前登月が言っていた言葉が蘇る。
彼は言っていた。「黄珠瑛は毒殺も辞さない」と。
まさかと思って聞き流していたが、今更になって菊花は怖くなった。
「菊花様。前は要らないって言っていましたけど……やっぱり毒の耐性、つけておきますか?」
心配そうに見遣ってくる柚安に、菊花はブンブンと首を縦に振ったのだった。
重臣とまではいかないが、名家といえなくもない家柄である紫家から罪人が出たのである。市井に広まれば、どうなることか。考えるだけで恐ろしい。
若き皇帝に「それみたことか」と反旗を翻す可能性もあるとされ、この件は極秘扱いとなった。
犯人である詠明は、十年の懲役を言い渡された。
表向きは他国に留学ということになっているが、現在は人知れず貴族専用の牢獄の中である。
彼の咎は、彼自身だけでなく彼の身内にも飛び火した。
詠明の妹であり、珠瑛の取り巻きの一人であった氷霧は、問答無用で後宮を追われた。
夜逃げをするようにひっそりと、わずかな荷物だけを持って、彼女は姿を消したのである。
好奇心旺盛な宮女候補たちは、居なくなった氷霧のことを好き勝手にうわさした。
曰く、好きな男と駆け落ちしたのだ、とか。
曰く、珠瑛の態度に嫌気がさして逃げたのだ、とか。
黄家姫君である珠瑛を表立って悪く言う者はいなかったが、裏では散々な言われようだった。
残された取り巻きの二人、紅葉と桜桃は、しばらくふさぎ込んでいた。
親友を失った悲しみからか、それとも別の何かがあったのか。
二人とも貴族の娘である。
もしかしたら、事情を知っていたのかもしれない。
とはいえ、うわさなんてしばらく経てばたち消える。
宮女候補たちは、慣例にのっとって毎月一定数が里に帰される。
氷霧が居なくなってすぐは騒がれたものだが、翌月にはその存在も忘れ去られた。
「ねぇ、知っていますか? 最近、皇帝陛下のあたため係は珠瑛様だといううわさが、まことしやかにささやかれているのですよ」
毎夜恒例のお茶会の場。
簡素な椅子に腰掛けて、菊花が差し出す茶杯を受け取りながら、柚安はそう言った。
「あなたの身の安全を確保するためです」
たまに顔を出しては茶を教えてくれるようになった登月が、涼しい顔をして言う。
その顔は、なんだかとっても胡散臭い。
「え?」
「紫詠明があなたを拉致監禁したのは、あなたが皇帝陛下のあたため係……つまり、お気に入りだと思われたためです。口添えしろと脅されたのでしょう?」
「ええ、まあ」
「珠瑛様があたため係だと勘違いされていれば、少なくとも本当のあたため係である菊花が危険な目に遭う確率は低くなる」
「でも、それだと珠瑛様が狙われるのでは?」
「珠瑛様といえば、正妃候補と鳴り物入りで後宮へやってきたお方です。相手が黄家の姫君ともなれば、おいそれと手出しできません。もしも手を出そうものならば、恐ろしい報復が待っていますからね」
登月の意見に頷きながら、柚安は「そうですね」と言った。
それから、茶杯をふたしていた聞香杯をそっと持ち上げ、鼻に寄せる。杯に残る甘い茶の香りを楽しんでから、ふくよかなほおを緩めた。
「珠瑛様は自尊心が高いお人ですから。たとえ自分が皇帝陛下のあたため係でないとしても、自らうわさを否定することはないと思います。それどころか、最近はうわさを助長させるように、自室に引き籠もっているのですよ」
皇帝陛下のあたため係が、真の正妃候補だとうわさされたのだ。
正妃になるために生きてきた珠瑛からしてみたら、面白くない。
だが、新たなうわさによって、珠瑛はやはり正妃にふさわしいと持て囃されている。
紫詠明が起こした事件を知る者が見れば、引きこもる彼女は皇帝陛下のあたため係のように見えるだろう。
偉そうに高笑いをする珠瑛を想像して、菊花は乾いた笑みを浮かべた。
「紅葉様と桜桃様は、嫌がらせする元気もないみたい。物がなくなったり、厠に閉じ込められたりすることがなくなったわ」
「取り巻きの紅葉様と桜桃様ですが……ここ最近、珠瑛様のそばに侍らなくなりました。僕の印象ですが、どうやら彼女たちは、少しずつ距離を取っているようです」
「え、どうして?」
菊花の疑問に、登月は「おそらくは」と前置きすると、長い話になりそうなのか、喉を潤すように茶をクピと飲んだ。
「珠瑛様が皇帝陛下のあたため係だとうわさされているからでしょう。彼女たちは、氷霧様が後宮を去った理由を知っているが、あたため係の正体を知らない。おおかた、珠瑛様があたため係だといううわさを信じた親から、言われたのでしょう。余計なことをするな、と」
明日は我が身。
珠瑛の機嫌を損ねたら、どうなるか分かったものではない。
皇帝陛下のお気に入りである彼女が進言すれば、紅葉も桜桃も氷霧のようになってしまうかもしれないのだ。
触らぬ神に祟りなし。
近くで恩恵を受けるより、遠ざかる方がマシだと判断したに違いないと、登月は言った。
「うわぁ」
(女の友情って脆い)
親から言われただけで離れるなんて、貴族の友情は脆すぎる。
蛇の友達しかいない菊花には、分からない世界だ。
しかし、柚安は違ったようである。
納得するように深く頷きながら、苦く笑んでいた。
「分からなくもないですね。僕も一応、貴族の出ですから。黄家ににらまれたら、こわい」
「黄家って、そんなに怖い家なの?」
「あの家は、黒いうわさが絶えないのです。歯向かった人が毒殺されたという話をよく耳にしますし。けれど、証拠がないので捕まえようがないのだとか」
「なにそれ、怖っ!」
そういう時に限って、菊花の脳裏に以前登月が言っていた言葉が蘇る。
彼は言っていた。「黄珠瑛は毒殺も辞さない」と。
まさかと思って聞き流していたが、今更になって菊花は怖くなった。
「菊花様。前は要らないって言っていましたけど……やっぱり毒の耐性、つけておきますか?」
心配そうに見遣ってくる柚安に、菊花はブンブンと首を縦に振ったのだった。