皇帝陛下のあたため係のうわさは、またたく間に広がっていった。
当然のことだろう。
時として重臣たちの言葉さえ聞こうとしない蛇香帝が、膝に乗せた謎の仮面の女の制止を無血で受け入れ、さらに彼女の進言を聞き入れたのだから。
宮城の中は、皇帝陛下のあたため係のうわさで持ちきりである。
曰く、仮面からわずかに見えた目は理知的な光を宿していた、とか。
曰く、すっと挙げられた腕は白くしなやかであった、とか。
曰く、陛下自らが抱き上げるくらい大切にされている、とか。
最初は当たり障りのないうわさだったのに、尾鰭をつけて泳ぎまくった結果、うわさ話に疎い、後宮の菊花のもとまで聞こえるようになる頃には、すっかり本人とはかけ離れた絶世の美女説になっていた。
皇帝陛下の寵愛を一身に受ける、美女。
聡明で、博識で、それでいて慈悲深きお心を持っている。
真の正妃候補は彼女なのではないか。
そんなうわさが、まことしやかにささやかれていた。
「珠瑛様は、菊花様があたため係だと知らないようですね。僕や菊花様への嫌がらせの回数を増やすことで、なんとか留飲を下げているようです。この前なんて、キィィィッて悔しそうにうなっていましたよ」
いつものように柚安を招いたお茶会。
今夜は珍しく、登月も参加している。
一人用の小さな部屋に、男二人と菊花はなかなかに狭い。
「知っていたら、物を隠したり捨てたりする程度では済まなかっただろう。最悪、毒殺も考えかねない」
クピクピとまるで酒でも飲むように茶を飲む登月は、それまで上機嫌だった顔を、嫌そうにしかめてそう言った。
「そこまでします?」
つい先日、蛇の毒牙にかかりそうになった男を思い出して、菊花も顔をしかめた。
できれば、毒殺は勘弁願いたい。
彼女の顔には、ありありとそう書かれている。
「ああ。彼女は国母となるために、黄家で結構えげつない教育をされてきたようだ。ただのわがまま娘と侮らない方が良い」
「未来の正妃様でしたら、毒の耐性もつけておいた方がよろしいかもしれませんね」
どうしましょうかと登月に問いかける柚安に、菊花は「要らないよ」と笑った。
「だって、私は正妃どころか宮女になれるかも怪しいもの。だって、見て? うわさのあたため係と正反対。きっと陛下だって、そんなつもり、ないわ」
登月は否定するつもりも肯定するつもりもないのか、素知らぬ顔で茶を飲んでいる。
そんな彼の茶碗に次の茶を注ぎ入れながら、柚安は「そういえば」と呟いた。
「事情をご存じのはずの落陽様は、せっせと『皇帝陛下のあたため係は黄珠瑛かもしれない』とうわさの上塗りをしているみたいですよ?」
「ああ、知っている。だが、うまくいっていないようだな」
クク、と登月が意味ありげに笑う。
菊花と柚安はそれを見て、二人で顔を見合わせて、苦笑いを浮かべ合った。
(ご愁傷様です、落陽様)
菊花は心の中で落陽に手を合わせた。
「んん……?」
真夜中のことである。
登月と柚安を見送った菊花は、明日の予習をしてから宿舎の寝台で眠りについたはずだった。
「あれ?」
ふと目覚めると、香を焚き染められた柔らかな寝台ではなく、懐かしい藁の匂いが鼻についた。
(もしかして、今までのことは全て夢だったのかしら?)
登月に宮女候補として推薦してもらったことも、珍しい都の風景も、後宮も女大学も、全て。
それにしては随分長い夢だったなと思いつつ、菊花は伸びをしようと腕を上げた──つもりだったのだが。
「な、なんで?」
手も足も、動かない。菊花は、少し動くだけでギチギチと音がするくらい、頑丈な紐で念入りに拘束されていた。
芋虫のような動きしかできない状態で、菊花は粗末な寝台に転がされているらしい。
どうにか抜け出せないかと、悪足掻きするみたいに頑張ってみたけれど、幾重にも巻かれた紐は、緩むどころかますます菊花の体に食い込んだ。
「いてて……一体、誰がこんなことを?」
見回してみても、知らない室内がそこにあるだけだ。
なんとか冷静になろうと頭を振って考えてみても、思い当たることなんて一つしかない。そう、珠瑛である。
「これも、嫌がらせの一環かしら」
だとすれば、もうじき彼女の取り巻きが現れるかもしれない。
紅葉、氷霧、桜桃の三人は、珠瑛のためなら菊花を拘束するくらいのことは平気でしそうだ。
(きっと、高笑いしながら私を馬鹿にするのでしょうね)
その情景がありありと浮かぶようだと、菊花は苦笑いを浮かべた──その時である。
部屋の隅の、暗闇がより濃い所から音がする。
目を凝らしたその先に、人影のようなものが見えた。
凹凸が少ないすっきりとした輪郭は、女のものではない。
(じゃあ、一体、誰なの?)
珠瑛でも、取り巻き三人娘でもない。
印象的なでっぷりとした腹がないから、落陽でもない。
もっとよく見ようと体を捩る菊花に、影は笑った。
「嫌がらせじゃありませんよ」
影が動く。
月明かりに照らされて、影の足先が見えた。
上等そうな革靴だ。
「ふふ。私です」
聞いた覚えのあるような、ないような声。
菊花は見定めるように、息を潜めて影をにらみつけた。
ゆっくりと月明かりの下に出てきたのは、一人の男だった。
黒い髪に、黒い目。巳の国ではありふれた色。
ニタニタと笑う顔には、見覚えがある。
もっとも、菊花が見た時は、恐怖で歪んでいたのだけれど。
「覚えていらっしゃいますよね? 私のこと」
忘れるわけがない。名前は知らないが、菊花はその男を見知っている。
「あなたは……」
「俺の名は、紫詠明。菊花様、先日はどうもありがとうございました」
気障ったらしくあいさつをしてきた男は、菊花が以前、香樹から助けた男だった。
皇帝陛下のあたため係のうわさの発端となった、あの件の男である。
「あの時の」
「覚えておいででしたか? 嬉しいですねぇ」
忘れようにも忘れられない。
最悪な出会いだったと思う。
少なくとも菊花は、再会を喜ぶ気持ちは一切なかった。
(貴族様の考えることは、私には難しいわ)
だが、今はそれについて聞いている場合ではない。
菊花には、聞きたいことが山ほどあるのだから。
「ところで、その……ここはどこなのでしょうか? どうして、私は縛られているのですか?」
菊花の問いかけに、男はニタァリと笑んだ。
なぜだかそれが菊花には唇が裂けたように見えて、思わずヒュッと息を飲む。
「菊花様。あなたのおかげで、俺は無事に生き存えております」
男は、菊花の問いを無視した。
悦に入ったような恍惚とした表情を浮かべ、菊花のそばへ一歩近づく。
「でもねぇ……それだけじゃあ、足りないのですよ。俺は、こんな地位におさまるべき男じゃない。もっともっと上へ行って、豪奢遊蕩な暮らしをするべき男なのです。そう思いませんか? 菊花様」
「さぁ、どうでしょう? 私は、あなたのことをよく知らないので」
菊花は、縛られてままならない体を捻って、ジリジリと後退した。
簡素な寝台の上なんて、逃げ場などないに等しい。菊花の背中はあっという間に壁にくっついてしまった。
「おや、つれないことを言いますね。あなたは、皇帝陛下から俺を助けてくれたではないですか」
「誰だって、目の前で死なれるのは寝覚めが悪いでしょう?」
「そうですね。でも、あの場では誰も俺を助けようとはしてくれなかった。あなただけが、俺を助けてくれました」
(あぁ、そうね。感謝しているなら、今すぐこの縄を切って部屋に帰してもらいたいわ)
男は寝台のそばでひざまずくと、芋虫のように転がされている菊花を見つめた。
その目は黒色をしているはずなのに、菊花の目には、汚泥のような色をしているように感じられる。
「だから、ね?」
(なにが、だからね? よ)
ちっとも意味が分からない。
男は菊花が質問しても何一つ答えてくれないし、好き勝手に捲し立ててくるだけ。
(これだから、貴族様は……)
これまで珠瑛たちにされてきた数々の嫌がらせも思い出し、菊花はだんだん腹が立ってきた。
(黙っていれば、なんなの? 好き勝手してくれちゃって。誘拐、監禁、その上、意味不明な演説……いくら私が庶民だといっても、やって良いことと悪いことがあるわ!)
憤慨する菊花に、男は貴族らしいお綺麗な顔を奇妙に歪めながら、ささやいた。
「菊花様。どうか、あなたから皇帝陛下へお願いしてくれませんか? 紫詠明の地位をもっと上げるように、と」
その瞬間、菊花の頭の中でブチリと音がした──のだと思う。
「うるさぁぁぁい!」
男の言葉を遮るように、菊花は怒鳴った。
至近距離から大声を聞かされて、男は耳を押さえて飛び退く。
「っ! 庶民風情が。こっちが優しくしてやっているからって調子に乗るなよ!」
月明かりに照らされた男の目は、血走っていた。
その手には、ギラギラと光る小刀が握られている。
(あ、やっちゃった)
菊花は瞬時に青ざめたが、もう遅い。
瞳孔が開いた目が菊花を捉え、刀の餌食にしようと迫ってくる。
(白!)
脳裏に浮かぶのは、意地悪そうにクツクツと笑う香樹の顔。
それから、菊花のおなかの肉をつまんでは、眠そうにとろけた顔をしているところ。
白蛇の彼との方が長いのに、思い出すのはなぜだか人間になった白ーー香樹の方だった。
「菊花様は賢明でいらっしゃるから、お分かりでしょう? もし、ここで否と言えばどうなるかなんて、ねぇ?」
男の手に握られたものが、月光を浴びて不穏な光を反射する。
男の持つ小刀は短いが、それでも菊花の命を終わらせるには十分な道具だ。
(死ぬ、の? ここ、で?)
ギラギラと光る刀から、目が離せない。
いつ刺されてしまうのだろう。刺されたら、やっぱり痛いのだろうか。
(痛いとしたら、どれくらい? どのくらいの時間、痛みは続くの?)
こうなったら即死しかないと、菊花は覚悟を決めた。
(白……いえ、香樹。私はここで終わりみたい。もうあたためてあげられないわ、ごめんなさい)
菊花の中に、口添えするという選択肢は最初からなかった。
部下に恵まれていないらしい香樹の、弱みを作るわけにはいかない。そうでなくとも、今このような事態になっているのは、菊花が余計な口出しをしたせいである。
(死ぬのは怖い。お父さんにもお母さんにも申し訳ないと思う。けど……!)
香樹の足を引っ張るくらいなら、潔く散ってしまった方が良い。
怯えた視線を凶器へ注ぐ菊花に、男は苛立たしげに舌打ちした。
脅しでは屈しないと思ったのか、今度は猫撫で声で菊花にささやいてくる。
「菊花様。ちょっと言ってくれるだけで良いのですよ。それだけで、良いのです」
「……」
少し脅せば屈すると思っていたのだろう。
菊花が甘やかされて育った貴族令嬢だったならば、そうなっていたかもしれない。
いつまで経っても承諾しない菊花に、男の怒りはますます募る。
(あぁ。なんて男なのかしら、この人は。自分の力でのし上がれないからって、こんなことをするなんて)
「難しいことなんて、何もないでしょう?」
難しいことばかりだ。もう死ぬっていう時に、思い出すのが父でも母でもなく、ましてや白蛇の白でもない。
たとえ中身が白だったとしても、思い出すのは最近会ったばかりの美しい男だなんて、一体どういうことなのか。
(綺麗なものに、憧れでもあったのかしら?)
だんまりを決め込む菊花に、とうとう男が痺れを切らす。
男の声が、空気を揺らした──その時である。
「よほど死に急ぎたいようだな、紫詠明」
声が聞こえただけだ。
ただそれだけなのに、言いようのない恐怖で、体が震えてしまいそうになる。
無数の氷の刃が、突き刺さるような。そんな錯覚を、菊花は感じた。
自分を殺そうとしている男よりも、遥かに恐ろしい。
殺気を向けられている男に、菊花は現状も忘れて同情しそうになった。
続いて聞こえてきたのは、地を這う音だ。
シュルシュル、シュルシュル。
無数の何かが、部屋に入り込んでくる音。
部屋のそこかしこから、その音は聞こえてきた。
シュルシュル、シュルシュル。
一体どれだけの数が、入ってきているのか。
それはあっという間に床を埋め尽くし、それでも足りないというように天井からも攻めてこようとしていた。
「ひっ、ギャァァァァ! 来るな、来るなぁぁぁ!」
暗闇の中、男は小刀を振り回した。
恐怖のあまり、錯乱してしまったらしい。
男は見当違いな場所で小刀を振り回しながら、一目散に部屋の一角──出入り口らしい扉へと逃げていく。
逃げることで頭がいっぱいなのか、菊花にとどめを刺すことも忘れているようだ。
ガチャガチャガチャ!
男は、ご丁寧に内側から鍵までかけていたらしい。
「なんで鍵なんかっ」
男は文句を言いながら、懐から取り出した鍵で解錠し始める。
その間もそれは次々と部屋に侵入してきているようで、まるで足元に剣山があるかのように、男は何度も飛び上がった。
ガチャガチャガチャンッ!
男は悲鳴を上げながら、ようやくの思いで解錠する。
古い建物なのか、扉はギィィと錆びた音を立てた。
扉の隙間から、月明かりが差し込む。
薄暗闇に慣れた菊花の目には、月明かりでさえ眩しく感じた。
菊花は眉を寄せて、ギュッと目を眇める。
開かれた扉の先で待っていたのは、見たこともないくらい巨大な蛇だった。
明るくなった室内の床には、蛇がびっしりとうごめている。
「ひっ」
声にならない悲鳴を上げる男を、巨大な蛇が素早く締め上げていく。
ガタガタと震えながら、菊花はそれを、ただ見ていることしかできなかった。
「菊花」
ぼうぜんと大蛇を見つめ続ける菊花の前に、一人の男がひざまずいた。
縛られたままの彼女をまじまじと見つめ、「焼豚のようだな」なんて失礼なことを言う。
「肉ではありません」
つい先程まで発していた殺気はなりをひそめ、今はただ、静かに菊花を見ている。
感情がうかがえない硝子玉のような目は、菊花をつぶさに観察しているようだった。
白銀の髪が月明かりに照らされて、金にも銀にも見える。
ところどころ乱れた髪が、絡み合っていた。
寝起きだって乱れていないそれが、今乱れているのはどうしてなのか。
(必死になって、探してくれていた?)
皇帝陛下自ら。
菊花のことを。
(そんなに大事にされていたの? 私は)
皇帝陛下のあたため係。
ただ体温を分けるだけのこの役目は、代わりなんて多数いるはずだ。
それこそ、後宮には金を払ってでも志願する者がたくさんいるだろう。
(肉、なんて呼ぶから。だから私は、てっきり……)
代えがきく存在に執着しないように、わざとそう言っているのだと思っていた。
だが、実際はどうだ。どんな危険があるかも分からないというのに、供の一人もつけず、皇帝陛下自ら助けに来た。
(幼馴染みだから、かしら?)
香樹の手によって、拘束が緩む。
自由になった手を伸ばし、菊花は香樹の乱れた髪を指で梳いた。
「髪が、乱れておりました」
「そうか。直ったか?」
「はい」
あるかなしかの笑みを浮かべ、香樹は静かに立ち上がった。
ささやかなその笑みは、菊花を安心させるのには十分で。差し出された手に手を乗せれば、ゆっくりと引き寄せられる。
いつも冷たいはずの手が、熱かった。
たぶん、いやきっと、必死になって探してくれたのだろう。
(だって、汗ばんでいる)
皇帝陛下のあたため係。
菊花が思っているよりもずっと、香樹にとっては重要な役なのかもしれない。
「さて。紫詠明、おまえをどうしてくれようか?」
菊花を隣に置きながら、香樹は蛇に拘束されている男を見た。
その目に菊花へ向けていたようなあたたかさはなく、氷の刃のように鋭く冷たい。
「いやだ、いやだ、いやだ! 俺はこんなところで終わる男ではないのだ!」
半笑いで、この期に及んでまだそんなことを言っている男に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
『黙れ。それ以上はしゃべることも許さん』
蛇は、そう言うかのように男の喉を絞めていく。
(いや、言ったよね⁉)
菊花の耳が、頭がおかしくなっていなければ、蛇は確かにそう言った。
(恐怖のあまり、おかしくなっちゃったのかしら?)
死ぬかもしれない思いをしたのだ。混乱するのも無理はない──だが。
「父上。まだ食うてはなりません。その男には、まだ聞きたいことがありますゆえ」
蛇の声に、香樹は答えた。
『え、駄目? わし、食べたいのじゃけど』
鎌首をもたげて、器用に小首をかしげる蛇は、少しかわいく見えなくもない。
もともと菊花は蛇が大好きだからそう見えるだけで、一般的な感覚で言えば、かわいいどころか恐怖でしかないのだが。
「なりません。全部終わったら、食べても良いですが」
『つまらんのぉ、つまらんのぉ。早うしてくれ』
「分かっております」
涼しい顔をして会話する香樹と蛇を、菊花は驚愕の表情で何度も見た。
「は、え、え? 蛇が、しゃべってる?」
「おまえにも聞こえるか。さすが、私のに……菊花だな」
菊花の言葉に、香樹は一瞬不思議そうな顔をして、それから満足げに表情を緩めた。
「聞こえるって、えぇ⁉︎」
『え、この娘、わしの言葉、分かるの? 良いのぉ、良いのぉ。これでようやく、おまえ以外とおしゃべりできるな』
男の体をミシミシ絞り上げながら、蛇は上機嫌にそう言った。
(ひぃぃ! 死んじゃう、死んじゃうから手加減してあげてっ。ほら、もう降参って手をたたいていますよ!)
「父上。菊花は私のあたため係ですよ」
「え、父上って?」
『わしの話し相手も兼任させよう』
「仕方ありませんね。執務中に口出しされるのが面倒になっていたところですし、許可してあげましょう」
『よしよし! 楽しみじゃ!』
「はいぃ?」
「そういうわけだから。菊花、今日からおまえは皇帝陛下のあたため係兼先帝の話し相手に任命する」
「はい、かしこまり……って、ええ⁉︎ 先帝って、前の皇帝陛下ってことですか⁈
先帝は崩御したはずでは、という菊花の声は華麗に無視される。
「あぁ、肌寒くなってきたな。父上、私は帰ります。その男はまだ食べてはいけませんよ。間もなく武官が到着しますので、それまで捕まえておいてください」
『分かっておる。ではな、菊花。次は茶でも飲みながら話をしよう』
蛇は、別れを告げるようにピルピルと尻尾を揺らした。
菊花はといえば、香樹の小脇に抱えられて、寝所へとお持ち帰りされるところである。
「ちょっと、待って! お願いだから説明! 説明してくださぁぁい!」
菊花の願いは、それから間も無く叶えられることになる。
ザァァァァ!
「わっぷ!」
ザァァァァ!
「んぶぅ!」
湯殿に張られたお湯に桶を突っ込み、掬った湯を容赦なくぶっかけられる。
その一連の動きに、容赦など微塵もない。
一刻も早く、済ませなければ。
そんな焦りが、見えるような見えないような。
香樹に抱えられて一度は寝所へ行った菊花だったが、今は湯殿にいた。
なぜなのか。
菊花にはよく分かっていないが、香樹の方には立派な理由がある。
それは、寝所で起こった。
菊花のことを抱き枕よろしく抱きかかえた香樹は、彼女の首筋に顔を寄せたところで顔をしかめた。
その表情は、猫が臭いものを嗅いでしまった時のような、間抜けなものだったと後に菊花は言う。
「おい、に……菊花」
「今、肉って言いかけましたよね? いい加減、名前で呼んでくださいよ」
(何回言っても、肉って言うんだから。いつになったら菊花って素直に言ってくれるのかしらね?)
菊花がむくれていると、背後から不穏な空気が漂ってきた。
皇帝陛下を相手に口が過ぎたかと焦る菊花に、香樹の低い声が「そんなことより」とささやく。
「私は今、非常に不愉快だ。どうしようもない衝動が、身の内に渦巻いている」
物騒な言葉に、菊花は震え上がった。
(や、ややややややっぱり、調子に乗り過ぎていた!?)
親友とはいえ、相手は皇帝陛下である。
さすがに礼を失する態度だったかと、菊花は慌てた。
怖いもの見たさで少しだけ背後を振り返ると、爛々と光る赤い目と目が合う。
人間離れした獰猛さを宿すその目は、菊花をじっと見ていた。
(目が、離せない)
見るんじゃなかったと後悔しても遅い。
一度目が合ってしまえば、もう逃げることなどできなかった。
「早急に、その匂いを消させろ」
言うなり、香樹は起き上がり、菊花を抱え上げた。
香樹は細い体をしているのに、通常の女性よりも少しばかり重い彼女を、軽々と持ち上げる。
「え? 匂い?」
てっきり、自分の言動のせいで香樹が怒ったと思っていた菊花は、彼の言葉にきょとんとした。
それからボッと火がつくように、ほおが赤らむ。
「私……臭かった?」
菊花だって女の子である。
美人の、それも男に臭いと言われたら気になるし、恥ずかしい。
あたため係として粗相がないよう、きちんと体は清潔にしているつもりだった。
毎日湯につかるなんて、後宮に来るまでなかった習慣である。
だから以前よりも随分と身綺麗になっているはずなのだが、何がいけなかったのだろう。
しょんぼりと顔をうつむける菊花に、香樹は「そうではない」と怒ったように言った。
「おまえが臭いわけではない。おまえからあの男の匂いがする。私はそれが、我慢ならないのだ。だから早急に、その匂いを洗い流したい」
どうやら菊花に紫詠明の匂いが移っているらしい。
香樹はそれが、気に入らないようだった。
(ああ、もしかして……)
菊花の匂いだけではないから、怒っているのだろうか。
(よく聞くわよね、赤ちゃんはお母さんの匂いに安心するって)
幼い頃から、菊花の服の中で越冬していた香樹である。
慣れ親しんだ菊花の匂いに別の匂いが混じっていたら、気になって眠れないのだろう。
菊花は勝手に、そう解釈した。
まさか香樹が、自分の番である菊花に他の男の匂いがついていることに腹を立てているとは、思いもしない。
そうこうしているうちに湯殿へ到着し、菊花は寝間着のまま床に下ろされた。
香樹が出ていくのを座って待っていた菊花の前で、彼は桶で湯を汲むと、迷うことなく彼女の頭の上でひっくり返す。
ザァァァァ!
容赦なくかけられる湯に、菊花は文句を言う暇もない。
髪やほおを伝って、湯が寝間着を濡らす。
目に入った湯が気持ち悪く、菊花は何度も目を擦った。
「も、やめ……!」
湯に濡れた寝間着が、ぺったりと肌に張り付く。
薄いそれは少し透けて、菊花の体をぼんやりと浮かび上がらせていた。
それがとんでもなく恥ずかしくて。
菊花は必死になって腕で隠そうとしたが、隠したいところが多すぎて困り果てた。
散々湯をかけたあとは、庶民には手の届かないせっけんをぜいたくに泡立てて体を洗われる。
ゴシゴシと容赦なく洗ってくる手は、力任せでぎこちない。
当然だろう。彼は洗ってもらうことはあっても、洗うことなんて初めてなのだから。
菊花は、生まれて初めて、焦げた鍋の気分を味わった。
ザァァァァ!
泡まみれの体に再び湯をかけられる。
泡を全て流して、濡れ鼠ならぬ濡れ子豚のようになった菊花を見下ろした香樹は、ようやく満足したらしい。彼は達成感に満ちた顔で「ふぅ」と息を吐いた。
(やっと終わった)
ホッと安堵したのもつかの間、しゃがみこんだ香樹が菊花の首筋に鼻を寄せてくる。
クンクンと匂いを嗅がれて、菊花はピシッと硬直した。
もう何度もされていることなのに、今更恥ずかしくなるのはなぜなのか。
今までと違うのはなんだと考えて、ふと目に入ったものに「ぴゃっ」と声を上げた。
雨も滴るいい男……ならぬ、湯も滴る美貌の男がそこにいる。
ほんのりと上気した肌から、彼の匂い立つような色香がにじみ出ているようだ。
「うっっ!」
菊花はもう、限界だった。
暴力的なまでに美しい男を正面から見てしまい、菊花は目を回す。
グラリと傾ぐ菊花を片手で受け止めた香樹は、ついでとばかりにやわらかなわき腹を揉んだ。
「ふむ。この程度で目を回すか。先が思いやられるな」
独り言ちると、香樹は悩ましくも楽しげなため息をついたのだった。
紫詠明が起こした事件は、秘密裏に処理されたようだった。
重臣とまではいかないが、名家といえなくもない家柄である紫家から罪人が出たのである。市井に広まれば、どうなることか。考えるだけで恐ろしい。
若き皇帝に「それみたことか」と反旗を翻す可能性もあるとされ、この件は極秘扱いとなった。
犯人である詠明は、十年の懲役を言い渡された。
表向きは他国に留学ということになっているが、現在は人知れず貴族専用の牢獄の中である。
彼の咎は、彼自身だけでなく彼の身内にも飛び火した。
詠明の妹であり、珠瑛の取り巻きの一人であった氷霧は、問答無用で後宮を追われた。
夜逃げをするようにひっそりと、わずかな荷物だけを持って、彼女は姿を消したのである。
好奇心旺盛な宮女候補たちは、居なくなった氷霧のことを好き勝手にうわさした。
曰く、好きな男と駆け落ちしたのだ、とか。
曰く、珠瑛の態度に嫌気がさして逃げたのだ、とか。
黄家姫君である珠瑛を表立って悪く言う者はいなかったが、裏では散々な言われようだった。
残された取り巻きの二人、紅葉と桜桃は、しばらくふさぎ込んでいた。
親友を失った悲しみからか、それとも別の何かがあったのか。
二人とも貴族の娘である。
もしかしたら、事情を知っていたのかもしれない。
とはいえ、うわさなんてしばらく経てばたち消える。
宮女候補たちは、慣例にのっとって毎月一定数が里に帰される。
氷霧が居なくなってすぐは騒がれたものだが、翌月にはその存在も忘れ去られた。
「ねぇ、知っていますか? 最近、皇帝陛下のあたため係は珠瑛様だといううわさが、まことしやかにささやかれているのですよ」
毎夜恒例のお茶会の場。
簡素な椅子に腰掛けて、菊花が差し出す茶杯を受け取りながら、柚安はそう言った。
「あなたの身の安全を確保するためです」
たまに顔を出しては茶を教えてくれるようになった登月が、涼しい顔をして言う。
その顔は、なんだかとっても胡散臭い。
「え?」
「紫詠明があなたを拉致監禁したのは、あなたが皇帝陛下のあたため係……つまり、お気に入りだと思われたためです。口添えしろと脅されたのでしょう?」
「ええ、まあ」
「珠瑛様があたため係だと勘違いされていれば、少なくとも本当のあたため係である菊花が危険な目に遭う確率は低くなる」
「でも、それだと珠瑛様が狙われるのでは?」
「珠瑛様といえば、正妃候補と鳴り物入りで後宮へやってきたお方です。相手が黄家の姫君ともなれば、おいそれと手出しできません。もしも手を出そうものならば、恐ろしい報復が待っていますからね」
登月の意見に頷きながら、柚安は「そうですね」と言った。
それから、茶杯をふたしていた聞香杯をそっと持ち上げ、鼻に寄せる。杯に残る甘い茶の香りを楽しんでから、ふくよかなほおを緩めた。
「珠瑛様は自尊心が高いお人ですから。たとえ自分が皇帝陛下のあたため係でないとしても、自らうわさを否定することはないと思います。それどころか、最近はうわさを助長させるように、自室に引き籠もっているのですよ」
皇帝陛下のあたため係が、真の正妃候補だとうわさされたのだ。
正妃になるために生きてきた珠瑛からしてみたら、面白くない。
だが、新たなうわさによって、珠瑛はやはり正妃にふさわしいと持て囃されている。
紫詠明が起こした事件を知る者が見れば、引きこもる彼女は皇帝陛下のあたため係のように見えるだろう。
偉そうに高笑いをする珠瑛を想像して、菊花は乾いた笑みを浮かべた。
「紅葉様と桜桃様は、嫌がらせする元気もないみたい。物がなくなったり、厠に閉じ込められたりすることがなくなったわ」
「取り巻きの紅葉様と桜桃様ですが……ここ最近、珠瑛様のそばに侍らなくなりました。僕の印象ですが、どうやら彼女たちは、少しずつ距離を取っているようです」
「え、どうして?」
菊花の疑問に、登月は「おそらくは」と前置きすると、長い話になりそうなのか、喉を潤すように茶をクピと飲んだ。
「珠瑛様が皇帝陛下のあたため係だとうわさされているからでしょう。彼女たちは、氷霧様が後宮を去った理由を知っているが、あたため係の正体を知らない。おおかた、珠瑛様があたため係だといううわさを信じた親から、言われたのでしょう。余計なことをするな、と」
明日は我が身。
珠瑛の機嫌を損ねたら、どうなるか分かったものではない。
皇帝陛下のお気に入りである彼女が進言すれば、紅葉も桜桃も氷霧のようになってしまうかもしれないのだ。
触らぬ神に祟りなし。
近くで恩恵を受けるより、遠ざかる方がマシだと判断したに違いないと、登月は言った。
「うわぁ」
(女の友情って脆い)
親から言われただけで離れるなんて、貴族の友情は脆すぎる。
蛇の友達しかいない菊花には、分からない世界だ。
しかし、柚安は違ったようである。
納得するように深く頷きながら、苦く笑んでいた。
「分からなくもないですね。僕も一応、貴族の出ですから。黄家ににらまれたら、こわい」
「黄家って、そんなに怖い家なの?」
「あの家は、黒いうわさが絶えないのです。歯向かった人が毒殺されたという話をよく耳にしますし。けれど、証拠がないので捕まえようがないのだとか」
「なにそれ、怖っ!」
そういう時に限って、菊花の脳裏に以前登月が言っていた言葉が蘇る。
彼は言っていた。「黄珠瑛は毒殺も辞さない」と。
まさかと思って聞き流していたが、今更になって菊花は怖くなった。
「菊花様。前は要らないって言っていましたけど……やっぱり毒の耐性、つけておきますか?」
心配そうに見遣ってくる柚安に、菊花はブンブンと首を縦に振ったのだった。
皇族である白一族は、巳の国を建国した蛇神様の末裔である。
卵で生まれ、孵化し、蛇の姿で幼少期を過ごし、人の姿になることで大人と認められる。
大抵は寿命を迎えて人の姿のままお亡くなりになるのだが、ごく稀に、不慮の事故や何らかの理由があって寿命以外でその命を終えた時、蛇の姿で蘇る。
それは、邪神の一面を持つ蛇神が、敵討ちのために与えた呪い──らしい。
(え、怖くない? 呪い?)
『つまりわしは、既に一度死んでおるのだ。寿命以外で命を終えたため、こうして蛇の姿になって蘇ったというわけだな。いやぁ、参った参った。死んだ時のことはよおく覚えておる。わしは毒殺されたのじゃ。毒に耐性があるわしをも殺す毒だ、見事だのぉ』
「……」
(いや、あの……そこ、感心するところなんですかね? ちょっと、大丈夫ですか? 一度死んじゃっているのでしょう? 軽く言っていますけど、すごいことじゃないですか。っていうか、私に言っちゃって良い内容な気がしない。こんなの、どこにもしゃべっちゃいけないやつじゃない)
もしやこれは、菊花を後宮から出さない前提で話していやしないか。
万が一菊花があたため係を解任になったり、宮女候補として残れずに追い出されたりした場合、彼女に残されているのは死──!
(そんなの、嫌ぁぁ!)
心の中で悲鳴を上げながらも、菊花は慣れた手つきで茶の用意をする。
茶を得意とする登月の指導の甲斐あってか、彼女のしぐさは洗練されていた。
どこに出しても恥ずかしくない、登月自慢の弟子である。
(そろそろ、趣味はお茶だと言っても良いのでは?)
調子に乗ったせいでカタンと茶杯が傾きそうになる。菊花は慌てて、茶杯を支えた。
(調子に乗ると、ダメね)
今度は茶をこぼさないように、菊花は慎重に、寝台のそばへ寄せた机へ茶杯を置いた。
寝台の上では、巨大な蛇がとぐろを巻いている。
人が上半身を起こすかのように、蛇は鎌首をもたげた。
『すまんの。この姿では香を嗅ぐこともできん。聞香杯を鼻先へ近づけてもらっても良いか?』
「かしこまりました」
菊花は、茶杯をふたしていた聞香杯をそっと外し、蛇の鼻先へと近づけた。
蛇はまぶたを落とし、しみじみとしているように見える。
『うむ。この姿になって良いことは、茶の香が人であった時よりもよく聞けることだな』
「そうなのですか?」
『ああ。蛇の嗅覚は人のものよりも何十倍も敏感なのじゃ。人の姿の時であっても、常人よりは鋭いが、今は比にならぬ』
「良い匂いの時は良いでしょうが、臭い匂いの時は大変そうですね」
『その通りじゃ』
カッカッカッと笑う蛇に、菊花は不思議な気持ちだった。
だって、目の前で好々爺のように朗らかな笑い声を上げる蛇が、まさか先の皇帝、蛇晶帝だなんて、誰が思うだろう。
蛇晶帝、白晶樹。
彼が崩御した際にはそこかしこに高札が立てられ、皇帝陛下の死を皆が悲しんだ。
菊花も当然、その高札を見ている。
もっとも、その時の彼女は文字なんて読めなかったから、人々がささやく言葉を漏れ聞いて、そうなのかと納得していたのだけれど。
菊花がいた田舎では、皇帝陛下はおとぎ話の登場人物のような感覚である。
ゆえに、おとぎ話の登場人物が亡くなったと知らされても、心から嘆き悲しめるはずがない。喪に服すように、なんて言われても、もとよりささやかな生活なのでやりようもなく、母が残したボロボロの喪服を着て、菊花なりの哀悼は終わったのだった。
(そんな人が現実に、目の前にいるなんて。なんだか、不思議)
しかも、見た目はどうしたって蛇である。
報復の機会を与えるために蘇らせる、なんて蛇神様らしいといえばらしいけれど、そんなおとぎ話のようなことが現実に起こっているとは。
(たしか、異国には『事実は小説より奇なり』なんて言葉があるんだっけ? まさしく、その通りよね)
『うむ。そろそろ茶を飲むとしようかの』
「あ、はい。かしこまりました」
聞香杯を下げて、今度は茶杯を差し出す。
机に置くように言われてその通りにすると、蛇はチロチロと小さな舌を伸ばして茶を舐めた。
『ふうむ。菊花よ。そう畏まらずとも良い。一度は死んでいる身だ。気楽に話せ』
「しかし……」
『わしの言葉を理解できる者など、今現在、香樹とおまえさんしかおらぬ。誰に責められることもないから、安心せい』
「わかりました」
『わしのことはおじさんとでも呼んでおくれ。かわいらしく、おじさま、でも良いぞ?』
蛇は口の中で『いずれはお義父様になるだろうがな』と呟いたが、自分の茶を淹れていた菊花には聞こえなかった。
茶を入れて聞香を省いて茶杯を持った菊花は、蛇と対面するように簡素な椅子へ腰掛けた。
蛇は、機嫌が良さそうにゆらゆらと揺れる。
呼ばれるのを待つように、赤い小さな目が菊花を見上げた。
「おじさま?」
『良いのお。おなごにおじさまと呼ばれるのは、なんだかくすぐったい気持ちじゃ』
「そういうものですか? 私には、よく分かりませんが」
『わしには娘がおらんからの。息子は何人かおったが、皆死んでしもうた。生き残っているのは香樹ただ一人。香樹とて、成人して戻るまでは死んだものと思うておった』
ケロリと、とんでもないことを言われた気がした。
菊花は聞き間違いかと思って、「え?」と聞き返す。
そんな彼女に蛇は、茶杯から顔を上げて「なんじゃ」と呆れたように呟いた。
『菊花はまだ知らなかったか。香樹はな、卵のうちに行方不明になり、長く消息不明だったのだよ』
衝撃的なことを前置きもなく告げられて、菊花は驚いた。
つるりと手の中で滑った茶杯が、床に落ちてカシャンと音を立てる。
じんわりと足を濡らす茶の感触が、気持ち悪かった。
香樹が行方不明になったのは、今から二十一年前のことである。
蛇晶帝の正妃、華香は四つの卵を産んだ。
彼女は産後の肥立ちが悪い中、無理を承知で卵をあたため続け、四つのうちの三つが孵化し、白蛇が三匹生まれた。
新たな皇子たちの誕生に、後宮はお祭り騒ぎだったという。
蛇晶帝も、皇子たちの誕生を大いに喜んだが、それよりも妻である華香の体の方が心配でならなかった。
「四つのうち、三つは孵化した。もう、やめておくれ。おまえが倒れてしまう」
「いいえ。なりません。この子は生きています。必ず、わたくしが孵化させてみます!」
白家に生まれる卵は、全部が全部、孵化するわけではない。
四つのうち三つも孵化したのは、幸運な方である。
それもあって蛇晶帝は妻に懇願したのだが、彼女の答えはいつだって「いいえ」だった。
最後の一個の卵は、なかなか孵化しなかった。
もう駄目なのでは……。
そんな空気が流れても、華香は温めることをやめようとしない。
最後は卵を温めることに必死になるあまり寝食をおろそかにし、流行病であっけなく息を引き取った。
皇子誕生でお祭り騒ぎだった後宮は、華香の訃報に水を打ったように静まり返った。
華香の葬儀はしめやかに営まれ、蛇晶帝は残された皇子三匹を抱き、妻の墓前で誓った。「息子たちは必ずや、立派に育ててみせる」と。
この時のゴタゴタの最中、華香が最後まで温め続けていた卵はひっそりと消えた。
もしかしたら華香の遺体とともに埋葬してしまったのではないかと、墓を暴いて探しもしたのだが、卵はついぞ見つからなかったのである。
それから、十七年の月日が経った。
ふがいないことに、蛇晶帝は三人いた皇子のうち、たった一人しか守りきることができなかった。
一人目は、わずか三歳でこの世を去った。
皇子はもともと体が弱く、長くは生きられない体だったのだ。
二人目は、十歳で亡くなった。
その年の冬は凍死者が多数でるくらい寒く、皇子は冬眠から目を覚まさなかったのだ。
まだ成人していなかった彼らは、蛇の姿のまま、蘇ることはなかった。
もしかしたら、定められた運命だったのかもしれない。
三人目は、唯一成人した皇子であった。
このままいけば、彼が次期皇帝になるだろうと、誰もが思っていた。だが。
『そんな時、香樹が現れた。白蛇の姿で人語をしゃべる者など、白一族以外あり得ない。しかも香樹は、母である華香のことを覚えておった。最期まで必死で温め続けてくれた彼女から離れたくなくて、ずっとそばについていたらしい。改めて墓を暴きにいった時は、もう遅かったようだがの』
「そうだったんだ……」
皇族である香樹が、崔英の田舎にある山にいたのはそのせいだったのだろう。
菊花の家がある裏山は、昔から訳ありの者が埋葬されているとうわさされていた。
だからこそ、菊花たち以外にそこへ住む者はいなかったのだ。
「あの……でもそれじゃあ、香樹以外にももう一人、皇子がいたんですよね?」
『ああ、おった。しかし、あの子もまた、わしと時同じくして毒殺されたのじゃ。ほれ、香樹の執務中に足元に居る蛇がいるだろう? あれが、香樹の兄だ』
「え、あれがお兄さん⁉ ︎」
やたらと攻撃的な蛇だったと記憶している。
香樹が言うままに刑を執行しようとしていて、すごく懐いているのだなぁなんて菊花は思っていた。
(でもまさか、お兄さんだなんて思わないじゃない⁈)
顔に出ていたのだろう。
蛇は笑うように、口をカパっと開いた。
『わしと、香樹の兄を殺した者は、だいたい見当がついておる。いずれ、時が来れば復讐するつもりじゃ』
鋭い牙が、ギラリと光る。
さすが蛇神の子孫だと、菊花はブルリと体を震わせた。
好々爺のようであっても、やはり冷徹さは薄れていない。
隠すのがうまくなっただけなのかもしれない。蛇の姿では、人の時ほど表情が分からないから。
『しかしな。それまで香樹としかしゃべれないというのは苦行じゃ。だからその時がくるまで……菊花よ、わしの茶飲み友達になってくれんかの?』
蛇はそう言うと、ペコリとお辞儀した。
頭を下げたまま、赤い目がジッと菊花のことを見上げてくる。
(くっ! かわいいじゃない!)
菊花は、蛇を親友にするような女だ。
故に、大きな蛇に友達になってと言われて、うれしくないわけがない。
気付けば「もちろん」と答えて、尻尾の端と握手まで交わしていた。
しっかりと新たな友情を確かめたところで、蛇は「ところで」と言った。
『菊花は、どうやって香樹のあたため係になった?』
「うーん……偶然が重なって、ですかね? 私は崔英の田舎で生まれ育ちまして。そこで、白蛇だった香樹と出逢いました。友人がいなかった私は、香樹を親友のように思っていたのです。ところが、私が十四の時に彼は突然姿を消しました。今思えば、成人したせいだったのでしょう。五年経って、宮女狩りがあって、宦官の登月様が私を迎えに来ました。彼はとある方の推薦で私を迎えに来たと言っていて……たぶん、香樹が寄越したのだろうなと、私は思っています」
『ほぉ、なるほどな。香樹は菊花と決めていたか』
菊花の言葉に、蛇は深々と頷いた。
なんだか感慨深げに見えるのは気のせいだろうか。
「決めたというか……昔はどうだったか知りませんけど、今は私のことを肉なんて呼びますし、大した意味はないんじゃないですか? 蛇の時、冬の間は私の懐で過ごしていたので、おそらくお布団として恋しいのだと思いますよ?」
唇を尖らせてムスっとする菊花に、蛇はそれでも楽しそうだ。
カカカと朗らかに笑い声をあげる。
しばらく笑い続けて、『笑いすぎて腹が痛いわ』と身をよじった。
それから何かを考えるようにつぶらな瞳を眇めて、口元をモニョモニョとさせる。どうも、まだ笑いを堪えているらしい。
『そうかそうか。もしかしたら香樹は、菊花を母のように思うておるのかもしれぬの』
「お母さんのように、ですか?」
『うむ。最期まで身を賭して温めてくれた母のぬくもりを求めて、菊花の懐に入っていたのかもしれぬ』
「母の、ぬくもり……」
『ああ、そうじゃ。母のぬくもりじゃ。香樹が孵化した時、すでに華香は亡くなっておった。後宮から遠く離れた地でたった一人。甘えたい時に甘えることもできず、寂しい幼少を過ごしたのだろう。そんな時、菊花と出会って、懐を許されたのならば。どんなことがあっても、あたため係に任命したいと思うのは無理からぬことよ』
菊花は、ずっと昔、香樹がまだ小さな白蛇だった時のことを思い返した。
小さな白は、他の大きな蛇たちにいじめられるといつも、菊花のところへ逃げ込んで来た。
(あれは、お母さんに甘えられない代わりに、私に甘えていたのね?)
そう思ったら、菊花はたまらなくなった。
大きな広間でたった一つの玉座に座り、たくさんの人を束ねていくのはさぞ孤独だろう。必要以上に周囲へ冷たく当たってしまうのは、きっと愛が足りないせいに違いない。
『菊花のことを肉と呼ぶのも、自分より年下の女子を母と思う恥ずかしさからくるものかもしれん』
「そんな!」
菊花は拳を突き上げながら、立ち上がった。
菫色の目には決意が宿り、轟々と燃え盛っているようである。
「なるほど、そういうことですか……香樹が求めているのは、愛! 母のような深い愛なのですね! 世界中が敵でも! 私が、彼を守ります!」
『うむ、その意気じゃ!』
蛇の唇がグニャグニャ歪む。
面白くて仕方がない、と笑いを堪えるように。
母の愛、なんて真っ赤なうそである。
香樹が菊花に求めるのは、番としての愛なのだから。
蛇香帝、白香樹。
齢二十一の若き皇帝には、番と呼ばれる運命の相手がいる。
番。
それは、獣人だけに存在する、魂の伴侶。
獣人は、生涯でたった一人の相手しか愛さない。
たった一人しか、愛せない。
出会えばたちまちに、運命の相手だと気付く。
彼らは本能で、運命の相手を嗅ぎ分けるのだ。
この世界には五つの国があり、それぞれ獣人の王が国を治めている。
つまり、王族にだけ、番と呼ばれる相手が存在するのである。
このことは、王族と、その伴侶にしか伝えられていない。
獣人たちは人知れず、伴侶探しをしているのであった。
香樹の番は、菊花という娘だ。
金の髪に菫色の目。香樹の心を掴んで離さない、柔らかな体。
こう言うと香樹の好みがふくよかな女性だと思われがちだが、そうではない。
白蛇の獣人である香樹にとって、寝心地の良い菊花は最高の女性なのだ。温度、湿度、匂い、そして感触……どれを取っても、菊花は最高としか言いようがない。
変温動物である彼には、あたたかい寝床が重要である。
下手をすれば死んでしまうので、当然とも言えよう。
さて、その番であるが。
「香樹!」
香樹が寝所へ入るなり、ドーンと抱きついてきた。
予想外のことにたたらを踏みながらも、香樹は菊花を抱き留める。
「なんだ」
どこもかしこも柔らかな菊花だが、特に二の腕とおなかは最高である。
戌の国にある、マシュマロというお菓子に似ていると、香樹は常々思っていた。
柔らかな菊花の胸が遠慮なく香樹の体に押し付けられる。
これで誘っているつもりがないのだから、驚きである。
自分でなかったら襲われているぞ、と香樹は心配になった。
菊花は菫色の目をキラキラと輝かせて、香樹を見上げてくる。
かわいい。率直に言って、かわいい。
どうしてこいつはこんなにかわいいのか。意味がわからない。
涼やかな顔をしているその下で、香樹はそんなことを考えた。
まさか普段「肉」と呼んでくる男が、内心デレデレでそんなことを真剣に考えているとも知らず、菊花は母性を振りまきながらこう言った。
「今日からね、どーんと甘えて良いんだよ!」
「そうか」
それは良いことだ。
ではさっそく、甘えさせてもらうとしよう。
香樹は、菊花を支えていた手を緩め、彼女を抱き上げようとした。
菊花は一般女性よりもほんの少しふくよかなタイプだが、これぐらいは何ということはない。常人よりも力が強い獣人である香樹には、何の問題もないのである。
だが、続いて投下された彼女の言葉に、耳元で銅羅を鳴らされたような気分になった。
「私は何があっても香樹の味方だからね! 今日から私をお母さんだと思って、甘えてちょうだい!」
オカアサンダトオモッテ、アマエテチョウダイ、だと?
聞き捨てならない言葉に、香樹はついうっかり執務中の氷のような声で「あ?」と答える。
ドスの利いた、聞いている者が震えそうになる声だったが、菊花には照れ隠しのようにしか聞こえない。再びギュウと香樹に抱きつきながら、菊花はさらに言った。
「恥ずかしがらなくても良いのよ? ここには私しかいないのだし。それに私、誰にも言ったりしないわ」
名前を呼ぶことさえくすぐったくて「肉」と呼んでしまっていたが、それがいけなかったのだろうか。
それとも、遠回しにあたため係になんて任命したのがいけなかったのか。
何がいけなかったのだと、香樹の頭の中は疑問でいっぱいである。
落ちてくるのを待っていたら、とんでもない所へ落ちてきた。
今の香樹の心境を言い表すのならば、それが一番適切だろう。
「直球で思いを伝えるべきだったか?」
「大丈夫、十分伝わっているわ。香樹はお母様に先立たれて、たった一人で頑張ってきたのよね? それで、私と出会って、お母様の面影を重ねていたのでしょう? 私じゃあ、お母様の代わりなんてできないかもしれないけれど、せめてあたため係として、親友として、あなたを支えさせてほしいの」
「菊花」
「なあに?」
「母のことを、誰から聞いた?」
私はまだおまえに話したことがなかっただろう、と香樹は訝しげに菊花を見た。
だいたい察しはつくが、聞いておかなければならない。事と次第によっては、あのふざけた父親を締め上げなくてはならないからだ。
「蛇晶帝……あ、違う。そうじゃなかった。えっと、そう、おじさまよ! おじさまから聞いたの!」
「おじさま……」
あのじじい、菊花に何と呼ばせているのだ。おじさま、だと?
父親は、息子しか得られなかった。ゆえに、娘にやたらと執着しているのを香樹は知っている。
しかし、言うに事欠いておじさま呼びをさせているとは。
なんとなく変態臭さを覚えて、香樹は額に手を当てながら天井を仰いだ。
重々しく深いため息が漏れ出る。
大好きな菊花がすぐそばにいるというのに、気分は一向に改善されない。
「あの……聞いちゃ、ダメだった?」
香樹の深いため息に、菊花は不安そうな顔で見上げてくる。
そんな顔をさせたいわけではない。
だが、執務の疲れとその他諸々のせいで疲れは頂点を超えた。
「駄目ではない。だから、そんな顔をするな」
しょんぼりと顔を曇らせた菊花の頭に、シュンと伏せられた犬耳の幻覚が見える。
香樹はそれを、疲れているからだと判断した。
慰めるように頭を撫でてやると、今度はブンブンと振られる尻尾が見えた気がしたが、これも疲れているせいに違いない。
香樹は眉間を揉みながら、うなる。
「私は疲れた。もう寝る。ほら、菊花。甘えさせてくれるのだろう? 今日もあたためてくれるな?」
「はい、もちろん!」
こっちこっちと手を引いて寝台へ案内する菊花に、不埒な気持ちなどひとかけらもないのだろう。
それに比べて自分は、と香樹は自身の邪な思いにため息を吐きたくなった。
「ねぇ、知っている?」
「なぁに、何の話?」
「あのね──」
後宮では、また新しいうわさ話が広がっている。
(飽きないわねぇ)
相変わらず珠瑛に疎まれているせいで友達がいない菊花は、我関せずといった様子でうわさ話に花を咲かせる宮女候補たちの横を通り過ぎた。
毎日毎日、同じことの繰り返し。
ただぼんやりと流れに身を任せているだけでも、日々は過ぎていく。
宮女候補たちが集められて、半年と少し。
後宮という鳥籠に閉じ込められて、宮女候補たちには自由がない。
最初こそ三食昼寝付きの待遇に喜んでいた者も、慣れればそれも好待遇とは思えなくなってくる。
ああ、にぎやかな街が恋しい。
すてきなお店ですてきなものを眺めて、自由にお買い物がしたい。
あと数カ月もすれば、正妃やそれ以下の妃たちが決定し、残りの宮女候補たちは里へ帰されると分かっていても、窮屈に思う気持ちは止まらない。
ただ繰り返すだけの日々に潤いを求めるように、彼女たちは忙しなくうわさ話に花を咲かせる。まるで鳥籠の鳥のように、ピーチクパーチクとさえずるのだ。
戌の国から訪れた、女学者。
彼女のことを、宮女候補たちはこう言った。男装の麗人・リリーベル様、と。
可憐な名前に似合わず、男のように凛々しい顔立ちとスッとした高い背。金色の髪を無造作に一本に束ね、澄んだ青い目は一目会うだけで腰が砕けそうになるという。
巳の国へは、戌の国の王命でやって来たという女学者に、後宮はお祭り騒ぎである。
巳の国より与えられた部屋に大量の書物を持ち込み、日がな一日何かを調べていたかと思えば、後宮にいる教官たちと談義をしていたり、かと思えば後宮の庭に生えている草をむしりながらああでもないこうでもないとブツクサ呟いている。
完全におかしな人だが、見た目が良いおかげで全てカバーしているらしい。
ここに来てから数日しか経っていないというのに、彼女のうわさは瞬く間に広がった。
目の保養が来た、という意味で。
皇帝陛下が来ない後宮など、禁欲的な場所でしかない。
押し込められた彼女たちが、女であっても美男子にしか見えないリリーベルにうつつを抜かすのは、仕方のないことだった。
「お邪魔します」
周囲に人がいないのを何度も確認して、菊花はそろりと円い窓のような扉を開いた。
誰にも見られないように素早く入室して、扉を閉める。
入った部屋には、人一人通れるくらいの細い通路が、奥まで続いていた。
通路の右にも左にも、書物が天井近くまで積み上げられ、絶妙なバランスを保って壁と化している。
(下の書物を読みたい時は、どうするのかしら?)
一番下で押しつぶされている書物を見つめて、菊花は思った。
なんともぞんざいな扱いである。
菊花は後宮へ来るまで紙さえ買えなかったというのに、ここでは数えきれないほどの紙や書物がおざなりな扱いを受けていた。
「もったいない。ちゃんと棚へ入れて整頓したら良いのに」
「そうしたいのは山々なんだよ? でも、この部屋じゃあ、収納しきれないのだもの」
そう言いながら奥からやって来たのはうわさの男装の麗人、リリーベルだった。
リリーベルは、菊花を見るなり顔をパッと明るくする。
「待っていたよ。私のかわいい菊花さん?」
「待っていたのは私ではなく、これでしょう?」
そう言って、菊花は一束の草を差し出した。
リリーベルは草を見るなり、目を輝かせる。
「そう、これだよ! 後宮のどこかにあるとは聞いていたのだけれど、なかなか見つからなくってね」
リリーベルは草を恭しく手に載せると、くるくると嬉しそうに回った。
背の高い彼女の腕は長く、積み上げられた書物に当たって、壁がグラグラと揺れる。
「リリーベル様。壁が崩壊する前に落ち着いてくださいね?」
「分かっているとも!」
菊花が持ってきた草。
それは、薬草である。
後宮の隅っこの方、日当たりの悪いジメジメした場所にしか生えていないそれは、紅梅草という。
春先に花を咲かせる紅梅によく似た花を咲かせる草で、さまざまな薬に使うことができる。
菊花にとっては、なじみのものだ。
崔英の田舎に住んでいた時、裏山で何度も採集しては売りさばいていた。
「嬉しそうですね、リリーベル様」
「嬉しいよ。だってこれがあれば、研究が進むもの」
「紅梅草は薬の効果を高める効果があるんでしたっけ?」
「よく覚えているね。そうとも。紅梅草は薬の効果を高める効果がある。だがね? 逆に、毒の効果を高める効果もあるんだ。これ一つでは治せもしないし殺せもしないけれど、これがあるというだけで、霊薬にもなれば劇薬にもなるというわけだね」
「リリーベル様は、蛇晶帝に頼まれて、毒の研究をしているのですよね?」
「ああ、そうとも」
戌の国からやってきた男装の麗人は、後宮の宮女候補たちへ他国の文化を教える教官として招かれたことになっている。
だが、それは表向きのことだ。
実際には先帝・蛇晶帝を毒殺した犯人を見つけるため、毒の分析をするためにやって来た。
女学者、リリーベル・ラデライト。
その真の姿は、戌の国の王族、王位継承権第二位である第二王子の妻だというのだから、さらに驚きである。
そんな二人が一緒にいるのは、都合が良かったからだ。
蛇晶帝の事情を知る菊花なら助手に最適だということで、毒の耐性をつけることを交換条件に、こうして手伝いをしている──というわけなのである。
「王子様のお嫁さんが、毒を専門に研究する人というのは、珍しいですよね」
「そうかな? まぁ、夫との出会いも解毒がきっかけだったから、毒の研究家でなかったら、出会うこともなかっただろうね」
カラッと笑いながらとんでもない出会いをサラリと告白してくるリリーベルに、菊花は目をパチクリとさせた。
あまりに自然に言うものだから、思わずそういうものかと納得しそうになる。
(いやいやいや。そんな、普通なことじゃないよね⁈)
「ふふ。菊花さん、普通じゃないって顔をしてる。でも、王族なんてそんなものだよ? 権力争いに巻き込まれたり、巻き込んだり、大変なんだ。異母兄弟だったりするとさ、本人にその気がなくても母親の方が殺る気になったりするし、面倒なんだよ、もうほんと。巳の国だって、蛇晶帝と香樹様の兄は毒殺されているでしょう? 毒の耐性があるのに毒殺されるなんて、めったにないことだけどさ」
なんだか聞いてはいけない戌の国の事情を聞いてしまった気がするが、菊花は聞かなかったことにした。そうすることが、正しいと思えたから。
だって、菊花は皇帝陛下のあたため係で、蛇晶帝の話し相手で、リリーベルの助手だけれど、他国の内情を知れるような立場ではない。
(あぁぁぁぁ。ますます後宮から出してもらえないような気がしてきたわ……)
気のせいではないのだろうか。
彼らは、菊花を後宮から出さない前提で話しているのだろうか。
万が一菊花があたため係を解任になったり、話し相手を解任になったり、助手を解雇されたり、宮女候補として残れずに追い出された場合、彼女に残されているのは死──!
(死にたくなぁぁぁい!)
ブルブルと震える菊花の肩を、リリーベルはなぜか「分かるよ」とたたいた。
労るような優しい手つきに、菊花はすがるような目で彼女を見上げる。
覗き込んだら吸い込まれそうな青い目が、菊花を優しく見つめていた。
「リリーベル様……」
「菊花さん……」
しばし見つめ合う。
相手が女性だと分かっているのに、菊花の胸はトクトクと早鐘を打った。
「菊花さん、頑張るんだよ。私は、応援しているからね」
「は、はい……」
ほんの少し色っぽい展開になったかと思いきや、リリーベルは深々とため息を吐いて菊花の肩をぐわしとつかんだ。
その目は真剣に、菊花を見つめている。
一体、何を頑張れと応援されているのだろうか。
(まさか、私と香樹が恋仲だって勘違いされている?)
しがない田舎娘、それも美人とは対極にいるようなぽっちゃり女子と、地位も名誉も財産も、なにもかもを持っている皇帝陛下の、叶わざる恋……。
リリーベルは、そんな二人を応援すると言っているのか。
皇帝陛下のあたため係。
やはり、この名前がいけないのだろうか。
単純明快でわかりやすい役職名だが、どうにも色っぽい想像をされやすい。
実際には、寝る時の抱き枕でしかないのだが。
「あの、リリーベル様? 私と陛下は、リリーベル様が思っているような関係ではないですよ? あたため係っていうといやらしく聞こえるかもしれませんが、実際には抱き枕と変わらないのです。私は彼の幼馴染みとして、彼を母のような気持ちで想っています」
「ああ、いや。菊花さんがどうとかいうわけじゃないんだ。問題は、──の方でね……」
言いづらいことなのか、リリーベルの言葉は最後まできちんと聞き取れない。
困ったように眉を下げるリリーベルに、菊花はそれ以上追求することをやめた。
(もしかしたら、だけど。リリーベル様の結婚には何か問題があったのかもしれないわ。だから、私と香樹のことを心配して言ってくれているのね。せっかくのご好意だもの。黙って受け取っておきましょう)
これ以上突っ込むとリリーベルの方が大変になるような気がして、菊花は一人、訳知り顔で口をつぐんだ。
近すぎる距離を少しだけ離れて、「そういえば」と話題を変える。