「よほど死に急ぎたいようだな、紫詠明」
声が聞こえただけだ。
ただそれだけなのに、言いようのない恐怖で、体が震えてしまいそうになる。
無数の氷の刃が、突き刺さるような。そんな錯覚を、菊花は感じた。
自分を殺そうとしている男よりも、遥かに恐ろしい。
殺気を向けられている男に、菊花は現状も忘れて同情しそうになった。
続いて聞こえてきたのは、地を這う音だ。
シュルシュル、シュルシュル。
無数の何かが、部屋に入り込んでくる音。
部屋のそこかしこから、その音は聞こえてきた。
シュルシュル、シュルシュル。
一体どれだけの数が、入ってきているのか。
それはあっという間に床を埋め尽くし、それでも足りないというように天井からも攻めてこようとしていた。
「ひっ、ギャァァァァ! 来るな、来るなぁぁぁ!」
暗闇の中、男は小刀を振り回した。
恐怖のあまり、錯乱してしまったらしい。
男は見当違いな場所で小刀を振り回しながら、一目散に部屋の一角──出入り口らしい扉へと逃げていく。
逃げることで頭がいっぱいなのか、菊花にとどめを刺すことも忘れているようだ。
ガチャガチャガチャ!
男は、ご丁寧に内側から鍵までかけていたらしい。
「なんで鍵なんかっ」
男は文句を言いながら、懐から取り出した鍵で解錠し始める。
その間もそれは次々と部屋に侵入してきているようで、まるで足元に剣山があるかのように、男は何度も飛び上がった。
ガチャガチャガチャンッ!
男は悲鳴を上げながら、ようやくの思いで解錠する。
古い建物なのか、扉はギィィと錆びた音を立てた。
扉の隙間から、月明かりが差し込む。
薄暗闇に慣れた菊花の目には、月明かりでさえ眩しく感じた。
菊花は眉を寄せて、ギュッと目を眇める。
開かれた扉の先で待っていたのは、見たこともないくらい巨大な蛇だった。
明るくなった室内の床には、蛇がびっしりとうごめている。
「ひっ」
声にならない悲鳴を上げる男を、巨大な蛇が素早く締め上げていく。
ガタガタと震えながら、菊花はそれを、ただ見ていることしかできなかった。
「菊花」
ぼうぜんと大蛇を見つめ続ける菊花の前に、一人の男がひざまずいた。
縛られたままの彼女をまじまじと見つめ、「焼豚のようだな」なんて失礼なことを言う。
「肉ではありません」
つい先程まで発していた殺気はなりをひそめ、今はただ、静かに菊花を見ている。
感情がうかがえない硝子玉のような目は、菊花をつぶさに観察しているようだった。
白銀の髪が月明かりに照らされて、金にも銀にも見える。
ところどころ乱れた髪が、絡み合っていた。
寝起きだって乱れていないそれが、今乱れているのはどうしてなのか。
(必死になって、探してくれていた?)
皇帝陛下自ら。
菊花のことを。
(そんなに大事にされていたの? 私は)
皇帝陛下のあたため係。
ただ体温を分けるだけのこの役目は、代わりなんて多数いるはずだ。
それこそ、後宮には金を払ってでも志願する者がたくさんいるだろう。
(肉、なんて呼ぶから。だから私は、てっきり……)
代えがきく存在に執着しないように、わざとそう言っているのだと思っていた。
だが、実際はどうだ。どんな危険があるかも分からないというのに、供の一人もつけず、皇帝陛下自ら助けに来た。
(幼馴染みだから、かしら?)
香樹の手によって、拘束が緩む。
自由になった手を伸ばし、菊花は香樹の乱れた髪を指で梳いた。
「髪が、乱れておりました」
「そうか。直ったか?」
「はい」
あるかなしかの笑みを浮かべ、香樹は静かに立ち上がった。
ささやかなその笑みは、菊花を安心させるのには十分で。差し出された手に手を乗せれば、ゆっくりと引き寄せられる。
いつも冷たいはずの手が、熱かった。
たぶん、いやきっと、必死になって探してくれたのだろう。
(だって、汗ばんでいる)
皇帝陛下のあたため係。
菊花が思っているよりもずっと、香樹にとっては重要な役なのかもしれない。
「さて。紫詠明、おまえをどうしてくれようか?」
菊花を隣に置きながら、香樹は蛇に拘束されている男を見た。
その目に菊花へ向けていたようなあたたかさはなく、氷の刃のように鋭く冷たい。
「いやだ、いやだ、いやだ! 俺はこんなところで終わる男ではないのだ!」
半笑いで、この期に及んでまだそんなことを言っている男に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
『黙れ。それ以上はしゃべることも許さん』
蛇は、そう言うかのように男の喉を絞めていく。
(いや、言ったよね⁉)
菊花の耳が、頭がおかしくなっていなければ、蛇は確かにそう言った。
(恐怖のあまり、おかしくなっちゃったのかしら?)
死ぬかもしれない思いをしたのだ。混乱するのも無理はない──だが。
「父上。まだ食うてはなりません。その男には、まだ聞きたいことがありますゆえ」
蛇の声に、香樹は答えた。
『え、駄目? わし、食べたいのじゃけど』
鎌首をもたげて、器用に小首をかしげる蛇は、少しかわいく見えなくもない。
もともと菊花は蛇が大好きだからそう見えるだけで、一般的な感覚で言えば、かわいいどころか恐怖でしかないのだが。
「なりません。全部終わったら、食べても良いですが」
『つまらんのぉ、つまらんのぉ。早うしてくれ』
「分かっております」
涼しい顔をして会話する香樹と蛇を、菊花は驚愕の表情で何度も見た。
「は、え、え? 蛇が、しゃべってる?」
「おまえにも聞こえるか。さすが、私のに……菊花だな」
菊花の言葉に、香樹は一瞬不思議そうな顔をして、それから満足げに表情を緩めた。
「聞こえるって、えぇ⁉︎」
『え、この娘、わしの言葉、分かるの? 良いのぉ、良いのぉ。これでようやく、おまえ以外とおしゃべりできるな』
男の体をミシミシ絞り上げながら、蛇は上機嫌にそう言った。
(ひぃぃ! 死んじゃう、死んじゃうから手加減してあげてっ。ほら、もう降参って手をたたいていますよ!)
「父上。菊花は私のあたため係ですよ」
「え、父上って?」
『わしの話し相手も兼任させよう』
「仕方ありませんね。執務中に口出しされるのが面倒になっていたところですし、許可してあげましょう」
『よしよし! 楽しみじゃ!』
「はいぃ?」
「そういうわけだから。菊花、今日からおまえは皇帝陛下のあたため係兼先帝の話し相手に任命する」
「はい、かしこまり……って、ええ⁉︎ 先帝って、前の皇帝陛下ってことですか⁈
先帝は崩御したはずでは、という菊花の声は華麗に無視される。
「あぁ、肌寒くなってきたな。父上、私は帰ります。その男はまだ食べてはいけませんよ。間もなく武官が到着しますので、それまで捕まえておいてください」
『分かっておる。ではな、菊花。次は茶でも飲みながら話をしよう』
蛇は、別れを告げるようにピルピルと尻尾を揺らした。
菊花はといえば、香樹の小脇に抱えられて、寝所へとお持ち帰りされるところである。
「ちょっと、待って! お願いだから説明! 説明してくださぁぁい!」
菊花の願いは、それから間も無く叶えられることになる。
声が聞こえただけだ。
ただそれだけなのに、言いようのない恐怖で、体が震えてしまいそうになる。
無数の氷の刃が、突き刺さるような。そんな錯覚を、菊花は感じた。
自分を殺そうとしている男よりも、遥かに恐ろしい。
殺気を向けられている男に、菊花は現状も忘れて同情しそうになった。
続いて聞こえてきたのは、地を這う音だ。
シュルシュル、シュルシュル。
無数の何かが、部屋に入り込んでくる音。
部屋のそこかしこから、その音は聞こえてきた。
シュルシュル、シュルシュル。
一体どれだけの数が、入ってきているのか。
それはあっという間に床を埋め尽くし、それでも足りないというように天井からも攻めてこようとしていた。
「ひっ、ギャァァァァ! 来るな、来るなぁぁぁ!」
暗闇の中、男は小刀を振り回した。
恐怖のあまり、錯乱してしまったらしい。
男は見当違いな場所で小刀を振り回しながら、一目散に部屋の一角──出入り口らしい扉へと逃げていく。
逃げることで頭がいっぱいなのか、菊花にとどめを刺すことも忘れているようだ。
ガチャガチャガチャ!
男は、ご丁寧に内側から鍵までかけていたらしい。
「なんで鍵なんかっ」
男は文句を言いながら、懐から取り出した鍵で解錠し始める。
その間もそれは次々と部屋に侵入してきているようで、まるで足元に剣山があるかのように、男は何度も飛び上がった。
ガチャガチャガチャンッ!
男は悲鳴を上げながら、ようやくの思いで解錠する。
古い建物なのか、扉はギィィと錆びた音を立てた。
扉の隙間から、月明かりが差し込む。
薄暗闇に慣れた菊花の目には、月明かりでさえ眩しく感じた。
菊花は眉を寄せて、ギュッと目を眇める。
開かれた扉の先で待っていたのは、見たこともないくらい巨大な蛇だった。
明るくなった室内の床には、蛇がびっしりとうごめている。
「ひっ」
声にならない悲鳴を上げる男を、巨大な蛇が素早く締め上げていく。
ガタガタと震えながら、菊花はそれを、ただ見ていることしかできなかった。
「菊花」
ぼうぜんと大蛇を見つめ続ける菊花の前に、一人の男がひざまずいた。
縛られたままの彼女をまじまじと見つめ、「焼豚のようだな」なんて失礼なことを言う。
「肉ではありません」
つい先程まで発していた殺気はなりをひそめ、今はただ、静かに菊花を見ている。
感情がうかがえない硝子玉のような目は、菊花をつぶさに観察しているようだった。
白銀の髪が月明かりに照らされて、金にも銀にも見える。
ところどころ乱れた髪が、絡み合っていた。
寝起きだって乱れていないそれが、今乱れているのはどうしてなのか。
(必死になって、探してくれていた?)
皇帝陛下自ら。
菊花のことを。
(そんなに大事にされていたの? 私は)
皇帝陛下のあたため係。
ただ体温を分けるだけのこの役目は、代わりなんて多数いるはずだ。
それこそ、後宮には金を払ってでも志願する者がたくさんいるだろう。
(肉、なんて呼ぶから。だから私は、てっきり……)
代えがきく存在に執着しないように、わざとそう言っているのだと思っていた。
だが、実際はどうだ。どんな危険があるかも分からないというのに、供の一人もつけず、皇帝陛下自ら助けに来た。
(幼馴染みだから、かしら?)
香樹の手によって、拘束が緩む。
自由になった手を伸ばし、菊花は香樹の乱れた髪を指で梳いた。
「髪が、乱れておりました」
「そうか。直ったか?」
「はい」
あるかなしかの笑みを浮かべ、香樹は静かに立ち上がった。
ささやかなその笑みは、菊花を安心させるのには十分で。差し出された手に手を乗せれば、ゆっくりと引き寄せられる。
いつも冷たいはずの手が、熱かった。
たぶん、いやきっと、必死になって探してくれたのだろう。
(だって、汗ばんでいる)
皇帝陛下のあたため係。
菊花が思っているよりもずっと、香樹にとっては重要な役なのかもしれない。
「さて。紫詠明、おまえをどうしてくれようか?」
菊花を隣に置きながら、香樹は蛇に拘束されている男を見た。
その目に菊花へ向けていたようなあたたかさはなく、氷の刃のように鋭く冷たい。
「いやだ、いやだ、いやだ! 俺はこんなところで終わる男ではないのだ!」
半笑いで、この期に及んでまだそんなことを言っている男に、香樹は呆れたようにため息を吐いた。
『黙れ。それ以上はしゃべることも許さん』
蛇は、そう言うかのように男の喉を絞めていく。
(いや、言ったよね⁉)
菊花の耳が、頭がおかしくなっていなければ、蛇は確かにそう言った。
(恐怖のあまり、おかしくなっちゃったのかしら?)
死ぬかもしれない思いをしたのだ。混乱するのも無理はない──だが。
「父上。まだ食うてはなりません。その男には、まだ聞きたいことがありますゆえ」
蛇の声に、香樹は答えた。
『え、駄目? わし、食べたいのじゃけど』
鎌首をもたげて、器用に小首をかしげる蛇は、少しかわいく見えなくもない。
もともと菊花は蛇が大好きだからそう見えるだけで、一般的な感覚で言えば、かわいいどころか恐怖でしかないのだが。
「なりません。全部終わったら、食べても良いですが」
『つまらんのぉ、つまらんのぉ。早うしてくれ』
「分かっております」
涼しい顔をして会話する香樹と蛇を、菊花は驚愕の表情で何度も見た。
「は、え、え? 蛇が、しゃべってる?」
「おまえにも聞こえるか。さすが、私のに……菊花だな」
菊花の言葉に、香樹は一瞬不思議そうな顔をして、それから満足げに表情を緩めた。
「聞こえるって、えぇ⁉︎」
『え、この娘、わしの言葉、分かるの? 良いのぉ、良いのぉ。これでようやく、おまえ以外とおしゃべりできるな』
男の体をミシミシ絞り上げながら、蛇は上機嫌にそう言った。
(ひぃぃ! 死んじゃう、死んじゃうから手加減してあげてっ。ほら、もう降参って手をたたいていますよ!)
「父上。菊花は私のあたため係ですよ」
「え、父上って?」
『わしの話し相手も兼任させよう』
「仕方ありませんね。執務中に口出しされるのが面倒になっていたところですし、許可してあげましょう」
『よしよし! 楽しみじゃ!』
「はいぃ?」
「そういうわけだから。菊花、今日からおまえは皇帝陛下のあたため係兼先帝の話し相手に任命する」
「はい、かしこまり……って、ええ⁉︎ 先帝って、前の皇帝陛下ってことですか⁈
先帝は崩御したはずでは、という菊花の声は華麗に無視される。
「あぁ、肌寒くなってきたな。父上、私は帰ります。その男はまだ食べてはいけませんよ。間もなく武官が到着しますので、それまで捕まえておいてください」
『分かっておる。ではな、菊花。次は茶でも飲みながら話をしよう』
蛇は、別れを告げるようにピルピルと尻尾を揺らした。
菊花はといえば、香樹の小脇に抱えられて、寝所へとお持ち帰りされるところである。
「ちょっと、待って! お願いだから説明! 説明してくださぁぁい!」
菊花の願いは、それから間も無く叶えられることになる。