皇帝陛下のあたため係のうわさは、またたく間に広がっていった。

 当然のことだろう。
 時として重臣たちの言葉さえ聞こうとしない蛇香(じゃこう)帝が、膝に乗せた謎の仮面の女の制止を無血で受け入れ、さらに彼女の進言を聞き入れたのだから。

 宮城(きゅうじょう)の中は、皇帝陛下のあたため係のうわさで持ちきりである。

 曰く、仮面からわずかに見えた目は理知的な光を宿していた、とか。
 曰く、すっと挙げられた腕は白くしなやかであった、とか。
 曰く、陛下自らが抱き上げるくらい大切にされている、とか。

 最初は当たり障りのないうわさだったのに、尾鰭をつけて泳ぎまくった結果、うわさ話に疎い、後宮の菊花(きっか)のもとまで聞こえるようになる頃には、すっかり本人とはかけ離れた絶世の美女説になっていた。

 皇帝陛下の寵愛を一身に受ける、美女。
 聡明で、博識で、それでいて慈悲深きお心を持っている。

 真の正妃候補は彼女なのではないか。
 そんなうわさが、まことしやかにささやかれていた。

珠瑛(しゅえい)様は、菊花様があたため係だと知らないようですね。僕や菊花様への嫌がらせの回数を増やすことで、なんとか留飲を下げているようです。この前なんて、キィィィッて悔しそうにうなっていましたよ」

 いつものように柚安(ゆあん)を招いたお茶会。
 今夜は珍しく、登月(とうげつ)も参加している。
 一人用の小さな部屋に、男二人と菊花はなかなかに狭い。

「知っていたら、物を隠したり捨てたりする程度では済まなかっただろう。最悪、毒殺も考えかねない」

 クピクピとまるで酒でも飲むように茶を飲む登月は、それまで上機嫌だった顔を、嫌そうにしかめてそう言った。

「そこまでします?」

 つい先日、蛇の毒牙にかかりそうになった男を思い出して、菊花も顔をしかめた。

 できれば、毒殺は勘弁願いたい。
 彼女の顔には、ありありとそう書かれている。

「ああ。彼女は国母となるために、(こう)家で結構えげつない教育をされてきたようだ。ただのわがまま娘と侮らない方が良い」

「未来の正妃様でしたら、毒の耐性もつけておいた方がよろしいかもしれませんね」

 どうしましょうかと登月に問いかける柚安に、菊花は「要らないよ」と笑った。

「だって、私は正妃どころか宮女になれるかも怪しいもの。だって、見て? うわさのあたため係と正反対。きっと陛下だって、そんなつもり、ないわ」

 登月は否定するつもりも肯定するつもりもないのか、素知らぬ顔で茶を飲んでいる。
 そんな彼の茶碗に次の茶を注ぎ入れながら、柚安は「そういえば」と呟いた。

「事情をご存じのはずの落陽(らくよう)様は、せっせと『皇帝陛下のあたため係は黄珠瑛かもしれない』とうわさの上塗りをしているみたいですよ?」

「ああ、知っている。だが、うまくいっていないようだな」

 クク、と登月が意味ありげに笑う。
 菊花と柚安はそれを見て、二人で顔を見合わせて、苦笑いを浮かべ合った。

(ご愁傷様です、落陽様)

 菊花は心の中で落陽に手を合わせた。