本当に、たまたまだった。
 女大学で『歴代皇帝たちの偉業』の勉強をしたばかりで、その授業で疑問に思ったことがあったから、もっと詳しく知りたくて、(じょう)先生のところで教えてもらったのだ。

 飛蝗(ばった)が大量発生するには、条件がある。

 ある年のこと。
 沿岸を台風が直撃し、未曽有(みぞう)の大洪水が起こった。

 川と川が合流するあたりで膨大な樹木が流失した結果、土が露出し、イネ科の植物が生い茂る草原ができ上がる。
 さらにそのあと数年間、好天が続き──飛蝗の大繁殖に適した環境のでき上がり、というわけである。

(でも確か、長雨によって繁殖が失敗して、蝗害が終息したのよね?)

 その当時の皇帝は、雨乞いでもって終息させたと書いてあった。
 だがそれも、現実的とは言い難い。

 だから菊花(きっか)は、授業が終わったあとに橙先生を呼び止め、聞いたのだ。「本当に、雨乞いで終息させたのですか?」と。
 橙先生は言った。

「そうですね……この本にはそう書いてありますが、私個人としては現実的ではないなと思っています」

「と言いますと?」

「あくまで、私個人の意見ですが……飛蝗が大量発生した草原を、焼き払ったのではないかと思っているのです。大規模な火災によって雲が発生し、それによって雨が降ったのではないかと……まぁ、確かめる術はありませんし、想像する他ないのですがね」

「なるほど」

 橙先生の話は、実に興味深かった。
 彼は他にも、飛蝗についていろいろ教えてくれたのだ。
 例えば、飛蝗の卵には殺虫剤が効きづらいとか、駆除するなら幼虫のうちが良いだろうとか、そんなことである。

(今回は雨乞いをするまでもなく長雨が続いているから、終息するかもしれない。けれど、より確実にやるのなら、卵と幼虫の駆除が必要よね。被災地への金銭的な補助の意味合いも兼ねて、飛蝗の卵と幼虫、成虫を買い取る制度を作るっていうのはどうかしら……?)

 菊花は、山で採取していたものを買い取ってもらって生活していた。
 同じように、飛蝗を採ってもらって買い取れば、被災者たちは金銭が手に入り、皇帝のことを恨んだりしないのではないか。

 菊花は思いついた案が、なかなか良いもののように思えた。

 広間では相変わらず、偉そうな大人たちがビクビクおどおどしている。
 意見しようという気概のありそうな者は、見当たらなかった。

(うーん。どうにかして、香樹(こうじゅ)に伝えられないかしら?)

 そうでなくとも、菊花は注目されている。
 氷のように冷ややかな、殺気を放つ男の膝の上に載せられた、謎の仮面の女。
 気になって当然だ。香樹自らが「気にするな」と言っても、気になるのが人というものだろう。

 こんな状況で挙手して意見するなんて、とてもではないが無理である。
 菊花のずぶとい神経だって、無理すぎる。

「おい、これはどういうことだ?」

 悩んでいた菊花の耳に、香樹の冷たい声が届く。
 自分に向けられたものでないことは分かっていても、思わず身が竦む。
 ビリビリと場を震わせるその声は、まるで雷のようだった。

「今度はおまえが噛み殺されるか?」

 ぞんざいに机の上へ投げ出された書簡に、何が書かれているのかまでは読めない。
 しかし、これだけは分かる。
 香樹が視線を向けている相手は、彼の不興を買ったのだ。

 足元でとぐろを巻いていた蛇が、しゅるりと動き出す。

「ひぃぃぃ! お許しください、お許しください!」

 ゆっくりと近づいてくる蛇に、平伏していた男が床に額を擦り付けて命乞いを始めた。
 そんな男の両脇を、屈強な武官が掴み上げる。

「死にたくない、死にたくない! いやだぁぁ!」

 ジタバタと暴れる男を、武官が抱え直す。
 蛇の牙は、もう、すぐそこまで迫っていた。

(嫌だ)

 愚策を出したのは、良くないことだと思う。
 しかし、だからといって命を奪うほどのことだろうか。

 女が政治に口を出すことは、いけないこと。
 皇帝陛下からどんなに寵愛されようと、してはいけないことだと習った。

(だけど、放っておけない!)

 菊花は、しゃんと背を伸ばし、挙手した。

「あのぅ、ちょっと、よろしいでしょうか……?」

 菊花の声に、広間は時間が止まったように静かになった。
 空気が変わったことを察したのか、蛇も鎌首をもたげたまま止まっている。

 ひそり。
 どこからともなく、声がする。

「声を発したぞ」

蛇香(じゃこう)帝の刑執行を、止めたぞ」

 蛇香帝の刑執行を邪魔するなど、前代未聞のことである。
 そんなことをすれば、刑執行よりも前に自分の命が消されるからだ。

 広間中から、菊花に視線が集まる。
 緊張に、喉が震えた。

「なんだ?」

 香樹は、静かな声で問いかけた。
 なんだの後に、菊花に聞こえるだけの小さな声で「菊花」と呼びかけられる。

(嫌だなぁ。ずるいよ。こういう時ばっかり、ちゃんと呼んで)

 いつもだったら「私の肉」だろうに。
 いつもと違う彼の呼びかけに、菊花は少しだけ緊張が和らいだ気がした。

「こういうのは、いかがでしょうか?」

 声が、震える。
 思いついた案に自信はあるけれど、本当に大丈夫だろうかと不安が過った。

 勇気付けるように、菊花の腰に回っていた香樹の手に力がこもる。
 菊花はすぅっと一回深呼吸すると、口を開いた。

「大量発生した飛蝗の卵、幼虫、成虫を、正澄の民たちに採取させるのです。採取されたものは国が買い取り、処分する。そうすれば、被害は食い止められますし、被災地への金銭的な補助もできます」

 猫がネズミを見つけたようにスウッと(すが)められた目が、面白そうに菊花を見つめる。

「殺虫剤をまいて殺せば良いだけでは?」

「飛蝗の卵は、殺虫剤が効きづらいのです。地味ですが、採取した方が結果的には良いかと」

「なるほどな。おい、虫に詳しい学者を呼べ。それから、補助金についても検討したいからその関連の者もな」

 香樹はそう言い放つと、立ち上がった。
 膝に座らされていた菊花は転がると思って目を(つむ)ったが、一向に衝撃は訪れない。
 そろりと薄目を開けてみたら、ニンマリと人の悪そうな笑みを浮かべた香樹が見下ろしていた。

「だ、だだだだ!」

(抱っこされてる! しかも、これは……宮女候補たちが憧れと言っていた、お姫様抱っこというものでは⁉︎)

 目を白黒させる菊花に、香樹は楽しそうだ。
 鼻歌でも歌いそうなくらい、上機嫌。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに冷たい表情に取って代わる。
 冷徹な目で広間を睥睨(へいげい)した彼は、武官に目で合図した。

「おい、そいつを連れて行け」

「はっ!」

 武官たちが男を引き摺るように連行していく。
 よほど怖かったのだろう。綺麗な身なりのその男は、泡を吹いて気絶していた。