珠瑛と取り巻き三人娘による嫌がらせは、柚安の尊い犠牲のおかげで数こそ減ったが、完全になくなることはないようだった。
もっとも、山に分け入って猪から逃げまわっていたようなじゃじゃ馬娘である菊花では、厠に閉じ込められたところで痛くもかゆくもない。
ひと気がなくなったのを見計らって、あっさりと脱出していた。
菊花がちっともへこたれないものだから、珠瑛たちはますます躍起になっていく。
正妃候補筆頭の珠瑛が、傍目からでもわかりやすく苛めている菊花と、親しくなろうとする宮女候補はいなかった。誰もが、見て見ぬ振りを突き通す。
だが、菊花はもともと人間の友達なんていなかったから、それも気にならなかった。
空き時間には寄り集まってキャッキャとおしゃべりに花を咲かせる宮女候補たちを尻目に、菊花はせっせと勉強に励んだ。分からないところは積極的に質問しに行ったし、予習復習も忘れない。
おかげで、どの教科の教官からも評判が良くなった。
まだまだ珠瑛に張り合えるとは言えないが、このままいけば、家柄と美貌は無理でも教養くらいは勝てるかもしれない。
そう思わせるものが、菊花にはあった。
唯一、菊花が気になったことと言えば、食事に高級食材が使われていると、取り巻き三人娘がどこからともなくやって来ることだった。
「庶民のお口には合わないでしょう?」
「きっと消化不良を起こしてしまうわ」
「私たちなら食べ慣れているから、代わりに食べてあげるわね」
大好物の鴨肉を掻っ攫われた時は、さすがに菊花もムッとした。
口をへの字にしてにらみつけたら、「なんて卑しい方なの!」と言われたが、卑しいのはどちらだろうか。
(食べ慣れているなら、わざわざ取らなくたって良いじゃない。なんなら、分けてくれても良いのでは?)
三度の食事を勉強の次くらいに楽しみにしている菊花にとって、これはある意味、とても効果的な仕打ちだった。
「それは……ひどいですね」
そう言って頷いた柚安に、菊花はそうでしょうとうなずき返した。
柚安を招いて、部屋で茶を飲む。
二人はすっかり、茶飲み友達となっていた。
今日あったことを語り合い、互いの手を取ってうなずき合う。
『大変だったね』
『頑張ったね』
『また明日もよろしくね』
そうして、明日の糧にするのである。
「でしょう?」
「僕は果物が好物なのですけれど、食後にと思って取っておいたら、隣のやつに取られてしまって。それ以来、好物は最初に食べることにしています」
「そうね。私も今度は、あの人たちが来る前にさっさと食べることにするわ!」
「ええ、そうしましょう! しかし、菊花様は皇帝陛下からあたため係に任命されたのでしょう? それって、珠瑛様やその他の方より有利だと思うのです」
「でも、落陽様が言っていたわよ? 私が選ばれたわけじゃないって」
「悔し紛れに言っただけでは? だって、あの皇帝陛下が菊花様をご指名されているのですよ? それって、とてもすごいことだと思うのです」
柚安の青い目が、キラキラと輝くような視線を菊花に向ける。
まるで、憧れの人を見るような目だ。残念ながら、その視線の先に居るのは菊花なのだけれど。
「うーん……すごいっていうか……たぶん、慣れ親しんだ布団って意味だと思うわよ?」
皇帝陛下のあたため係に任命されて、ふた月が経とうとしている。
長い時で数週間、短い時で数日置きに、菊花は寝所へ呼ばれた。
菊花が落陽のことを告げ口したせいなのかどうかは分からないが、あれ以来彼女を呼びに来るのは月派の宦官ばかりだ。
おかげで、嫌みを言われることがないのは助かっている。
皇帝陛下のあたため係。
言葉だけなら、色っぽい。
だがしかし、その実態は菊花を抱き枕にして「肉」と呼び、おなかの肉を摘まれているだけだ。
むにゅむにゅもにゅんと遠慮なく。色気もへったくれもない。
「この肉……癒やされる」
「肉ではありません。菊花とお呼びくださいませ!」
「そうか。では言い直そう。この菊花……癒やされる」
肉を菊花に言い換えただけ。
あまりの扱いの雑さに、菊花は無礼にもプンスカと怒ったが、香樹はクックと喉で笑うだけだった。
どう考えたって、菊花のことは抱き枕かペットくらいにしか思っていない。
結婚相手だと、女だと認識していないからこそ、菊花が皇帝陛下に対する礼を欠いても何も言わないのだろう。
(これのどこが、有利っていうの?)
正妃候補なんて、夢のまた夢である。
もっとも、菊花にそのような夢はないけれど。
香樹が香樹なら、菊花も菊花である。
絶世の美女ならぬ絶世の美男子に抱きつかれてなんとも思わないわけではない。
だが、『美人は三日で飽きる』という言葉があるように、何度も繰り返せば慣れてくる。
しかも、香樹の正体が親友の白だと早々に教えられては、意識するも何もない。
(だって、白は家族みたいなものだもの)
絶世の美男子に抱きつかれ、腹を撫で回されて困惑したのは最初だけ。数回もされれば諦めもつき、今ではされるがままに腹を出し、抱きつかれたままグーグーと平気で眠れるようになった。
(自分の神経のずぶとさに、感服するわ)
うんうんと一人うなずいていたら、パタパタと駆けてくる足音が聞こえてきた。
茶を啜りながらなんだろうと思っていると、足音は菊花の部屋の前で止まる。
「あら?」
宮女候補たちは仲の良い者同士で部屋を行き来しているようだが、菊花の部屋に来ることはまずない。
この部屋に来るとするならば、珠瑛と取り巻き三人娘、柚安を始めとする宦官だけである。
「なにごとかしらねぇ……?」
のんきな声を出す菊花の前で、バタンと扉が乱雑に開かれる。
廊下に宦官が数人、息を切らせて立っていた。
「菊花様。なにとぞ、なにとぞ、お助けくださいませ!」
「えぇっ?」
驚く菊花の前で、数人の宦官が「ははー」と平伏した。
もっとも、山に分け入って猪から逃げまわっていたようなじゃじゃ馬娘である菊花では、厠に閉じ込められたところで痛くもかゆくもない。
ひと気がなくなったのを見計らって、あっさりと脱出していた。
菊花がちっともへこたれないものだから、珠瑛たちはますます躍起になっていく。
正妃候補筆頭の珠瑛が、傍目からでもわかりやすく苛めている菊花と、親しくなろうとする宮女候補はいなかった。誰もが、見て見ぬ振りを突き通す。
だが、菊花はもともと人間の友達なんていなかったから、それも気にならなかった。
空き時間には寄り集まってキャッキャとおしゃべりに花を咲かせる宮女候補たちを尻目に、菊花はせっせと勉強に励んだ。分からないところは積極的に質問しに行ったし、予習復習も忘れない。
おかげで、どの教科の教官からも評判が良くなった。
まだまだ珠瑛に張り合えるとは言えないが、このままいけば、家柄と美貌は無理でも教養くらいは勝てるかもしれない。
そう思わせるものが、菊花にはあった。
唯一、菊花が気になったことと言えば、食事に高級食材が使われていると、取り巻き三人娘がどこからともなくやって来ることだった。
「庶民のお口には合わないでしょう?」
「きっと消化不良を起こしてしまうわ」
「私たちなら食べ慣れているから、代わりに食べてあげるわね」
大好物の鴨肉を掻っ攫われた時は、さすがに菊花もムッとした。
口をへの字にしてにらみつけたら、「なんて卑しい方なの!」と言われたが、卑しいのはどちらだろうか。
(食べ慣れているなら、わざわざ取らなくたって良いじゃない。なんなら、分けてくれても良いのでは?)
三度の食事を勉強の次くらいに楽しみにしている菊花にとって、これはある意味、とても効果的な仕打ちだった。
「それは……ひどいですね」
そう言って頷いた柚安に、菊花はそうでしょうとうなずき返した。
柚安を招いて、部屋で茶を飲む。
二人はすっかり、茶飲み友達となっていた。
今日あったことを語り合い、互いの手を取ってうなずき合う。
『大変だったね』
『頑張ったね』
『また明日もよろしくね』
そうして、明日の糧にするのである。
「でしょう?」
「僕は果物が好物なのですけれど、食後にと思って取っておいたら、隣のやつに取られてしまって。それ以来、好物は最初に食べることにしています」
「そうね。私も今度は、あの人たちが来る前にさっさと食べることにするわ!」
「ええ、そうしましょう! しかし、菊花様は皇帝陛下からあたため係に任命されたのでしょう? それって、珠瑛様やその他の方より有利だと思うのです」
「でも、落陽様が言っていたわよ? 私が選ばれたわけじゃないって」
「悔し紛れに言っただけでは? だって、あの皇帝陛下が菊花様をご指名されているのですよ? それって、とてもすごいことだと思うのです」
柚安の青い目が、キラキラと輝くような視線を菊花に向ける。
まるで、憧れの人を見るような目だ。残念ながら、その視線の先に居るのは菊花なのだけれど。
「うーん……すごいっていうか……たぶん、慣れ親しんだ布団って意味だと思うわよ?」
皇帝陛下のあたため係に任命されて、ふた月が経とうとしている。
長い時で数週間、短い時で数日置きに、菊花は寝所へ呼ばれた。
菊花が落陽のことを告げ口したせいなのかどうかは分からないが、あれ以来彼女を呼びに来るのは月派の宦官ばかりだ。
おかげで、嫌みを言われることがないのは助かっている。
皇帝陛下のあたため係。
言葉だけなら、色っぽい。
だがしかし、その実態は菊花を抱き枕にして「肉」と呼び、おなかの肉を摘まれているだけだ。
むにゅむにゅもにゅんと遠慮なく。色気もへったくれもない。
「この肉……癒やされる」
「肉ではありません。菊花とお呼びくださいませ!」
「そうか。では言い直そう。この菊花……癒やされる」
肉を菊花に言い換えただけ。
あまりの扱いの雑さに、菊花は無礼にもプンスカと怒ったが、香樹はクックと喉で笑うだけだった。
どう考えたって、菊花のことは抱き枕かペットくらいにしか思っていない。
結婚相手だと、女だと認識していないからこそ、菊花が皇帝陛下に対する礼を欠いても何も言わないのだろう。
(これのどこが、有利っていうの?)
正妃候補なんて、夢のまた夢である。
もっとも、菊花にそのような夢はないけれど。
香樹が香樹なら、菊花も菊花である。
絶世の美女ならぬ絶世の美男子に抱きつかれてなんとも思わないわけではない。
だが、『美人は三日で飽きる』という言葉があるように、何度も繰り返せば慣れてくる。
しかも、香樹の正体が親友の白だと早々に教えられては、意識するも何もない。
(だって、白は家族みたいなものだもの)
絶世の美男子に抱きつかれ、腹を撫で回されて困惑したのは最初だけ。数回もされれば諦めもつき、今ではされるがままに腹を出し、抱きつかれたままグーグーと平気で眠れるようになった。
(自分の神経のずぶとさに、感服するわ)
うんうんと一人うなずいていたら、パタパタと駆けてくる足音が聞こえてきた。
茶を啜りながらなんだろうと思っていると、足音は菊花の部屋の前で止まる。
「あら?」
宮女候補たちは仲の良い者同士で部屋を行き来しているようだが、菊花の部屋に来ることはまずない。
この部屋に来るとするならば、珠瑛と取り巻き三人娘、柚安を始めとする宦官だけである。
「なにごとかしらねぇ……?」
のんきな声を出す菊花の前で、バタンと扉が乱雑に開かれる。
廊下に宦官が数人、息を切らせて立っていた。
「菊花様。なにとぞ、なにとぞ、お助けくださいませ!」
「えぇっ?」
驚く菊花の前で、数人の宦官が「ははー」と平伏した。