ビジネスホテルから出て、壱成さんに「家まで送る」と言われたが、それは本当に申し訳ないし。学校の制服を着ている壱成さんも学校を休んでしまったのには間違いないから、これ以上迷惑をかけるわけにはいかず、顔を横にふった。

「すみません、ホテルの代金まで…」

「いい」

「今度、必ずお返しします…」

「俺はあんたが元気になってくれればそれでいい」

そう言った壱成さんは、駅前に停まっていたタクシーへ私を連れていくと、そこに乗せ。何事かと思っていると、タクシーの運転手にお金を渡していた。

「お釣りはいいから、その子を玄関先まで送ってほしい」と。そんな言葉と共に。
私は躊躇いながら断ったけど、ほぼ強引に扉を閉められ、タクシーは出発していた。
優しい男、私を介抱してくれた人。
タクシーの中から小さくなる壱成さんを見ながら、私は痣のある頬をさすった。
優しくしてくれた壱成さんを思い出しながら、〝嘘をついてごめんなさい〟と、心の中で謝り。

「さすがに貰ったお金、多すぎたから」と、タクシーの運転手の男性は私に5000円札を渡してきた。
家に帰り、私は自室で、それを大事に、親に見つからないように隠した。今度、タクシー代返さないと。あと、ホテルのお金も、返さなければ。
どうしよう。お小遣いがない私には、お金を用意することが出来なくて。
お母さんに言えば、また疑われ、厳しく言われるかもしれない。
〝また〟内出血や、お腹が痛くなるかもしれない。
両親に壱成さんのことは言えない。そう思ったから。この家で唯一私を〝人間〟として見てくれる人に、言うことにした。

その人は夜中に帰ってきた。もう両親も寝ている時間で、パジャマ姿でこっそり音を立てないようにお兄ちゃんの部屋に行けば、「びっくりした」と、声を出した。

「なんだその顔、誰かに殴られたのか?」

まだお風呂に入っていないお兄ちゃんからは香水の匂いがした。けどそれを嫌だとは思わなかった。私の顔を見て、お兄ちゃんは顔を顰めた。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「おねがいがあるの…」

「まさか、〝アイツら〟に殴られたのか?」

「違うよ、お母さんたちじゃないよ。ぶつかってできたの。私の不注意」

「……お願いって?」

眉間に皺を寄せたお兄ちゃんは、ゆっくり私に近づいてきて…。

「…お金を貸して欲しくて…」

「金?」

「絶対に返すから、お願い…」

「それは別にいいけど。いくら?何に使うんだ?」

何に…。
いくら…。

「6980円…」

ホテル代と、タクシー代。
ああ、でも、飲み物代も…。
だったら七千円は超えるかもしれない。

「細かいな」

「あと、そこから、二千円ほど、増やしてほしくて…」

お礼の品物を用意したい。

「全部で1万ぐらいか?遊びに行くのか?」

遊びになんて、いけるはずない。
学校以外はほぼ、家に軟禁状態なのに。
何も言えないでいると、お兄ちゃんは机の上に置いていた財布からお札を取り出した。

「お兄ちゃん…」

「うん?」

「お母さんたちには言わないで…」

「分かってる」

「必ず返すから…」

「いいよ、やる。お前が俺に頼ってくるほどなんだろ?」

そう言って渡されのは、福沢諭吉が描かれたお札が2枚。1枚多い、と焦る私は返そうとするけど。

「持っとけ」

と、受け取ってくれず。

「で、でも、…」

「なんか好きなもん買ってこい、〝アイツら〟にバレないようにな」

「私が働けるようになったら返すから…」

「ああ、いつでもいい、返さなくていいからな」

やっぱり、私には優しいお兄ちゃん…。
壱成さんも優しかった。ほぼ初対面なのに、私を介抱してくれて。

「つか、その傷、やっぱり殴られたんじゃねぇの?」

「殴られてないよ、本当に、あたっただけなの」

「どこに?」

「ふらふらしてて、学校の男の子の…腕あたり」

「それだけでなったのか?」

「……」

「佳乃、俺には嘘をつくなよ」

「嘘じゃない…」

「じゃあ、パジャマから見えてる首のところの痣もただあたったから?」

そう言われて、パジャマの襟元を見えないように掴んだ。こんなところまで内出血が……。お風呂の時気づかなかった。

「学校で虐めとか、カツアゲされてるわけじゃねぇな?」

「そういうのじゃないよ大丈夫」

「……なんかあったら言えよ?」

「うん、大丈夫、ありがとう……」

自室に戻り、お兄ちゃんから借りたお金を、親に見つからない場所に隠した。
その場所を見つめながら、今更なことに気づく。
家にほぼ軟禁状態の私がお礼の品物を買いに行けるはずがないし。いや、そもそも、壱成さんと〝約束〟をしていなかった。
この前は会う約束をしていたけれど、今回はさせずにタクシーで別れてしまったから。
連絡先も知らなければ、どうやって会えばいいか分からなくて。
会うことができなければ、お金を返すこともできなかった。
本当に自分の頭の馬鹿さに嫌気がさす……。
私が知っている情報と言えば、壱成さんという名前で、私と一緒の最寄り駅で、学ランを着ているということだけ。
元々友達が少ない私は、これだけの情報で壱成さんを探しだせる可能性はとても少なくて。門限が16時10分の私は、壱成さんを駅で待つこともできなかった。
夜に時間がとれない私ができることと言えば、朝早くに家から出ることだった。朝だったら、学校で勉強したいからという理由で早く家を出ることができるから。
30分ほど早く家を出て、24時間営業のスーパーで菓子折りを買った。余った時間でもしかしたら会えるかもしれないという気持ちを込めて、最寄り駅の改札付近で壱成さんを待ってみた。
それでも会うことができなかった。