────彼の名前は、壱成。
「難しい方の数字の〝壱〟に成功の〝成〟」と言っていたから、漢字は間違いないと思う。
彼が──……、壱成さんがそう言ってきたから私も答えた。
「佳乃と言います、人偏に、圭という字を書き。乃は乃ちという字を書きます」
「ありがとう」
「あの、本当にお礼なんて…」
「飯とか」
「え?」
「あんたが暇な日に、飯とか食いに行かないか?」
その返答に、私は困ってしまった。
お金が無いからとかそういうのではなくて、私はそもそも外食ができない。家以外、というよりも、お母さんが作った料理しか口にできない。
「…ごめんなさい…食事は…」
申し訳なくて、顔を下に向けた。
「…男とかいるのか?」
静かに壱成さんが呟いた。
男とか?どういう意味だろうか?
彼氏がいるか、いないかということだろうか?
「彼氏がいるからという意味ですか?そういうのではなくて…」
「門限があるなら、昼間でも」
「…ごめんなさい…」
門限とか、そういうのじゃない。
ただ〝私の身体〟に問題があるだけ。
でもそれをわざわざ言えば、壱成さんが申し訳なく思ってしまってはいけないから。
「本当にお礼はいいです。傘、ありがとうございました。失礼します」
深く頭を下げた後、私はその場を離れた。とくに引き止められたりとか、呼び止められたりとか、そういうのは無かった。
もしかすると、同じ電車に乗るから、また会えるかもしれない。そんなことが頭の中によぎった。
家に帰り、自室で学校で習った復習をしていると、お母さんが部屋の中へ来た。
そんなお母さんは「お礼、渡せた?」と聞いてきた。そう言われて思い出すのは、ピンク色が似合わない壱成さんの微笑んでいる姿だった。もう会うことがないかもしれない…。
「うん、渡せた」
「良かったわね」
「…うん」
「どんな人だったの?」
「少し見た目が怖いけど、今度は彼がお礼をしたいって言ってきてくれるぐらい優しい人…」
「彼?男の人だったの?」
その瞬間、お母さんの声のトーンが変わるのが分かった。その声は驚いている声じゃなくて、低く、あんまりよく思っていない声のトーンだった。
思わず、握っていたシャーペンの動きが止まる。
「うん、でも、もう会わないと思う…」
慌ててそう言ったけど、もう遅かったのかもしれない。勉強が疎かになるからと、お母さんはよく『彼氏を作ってはいけない』と言っていたから。
「…佳乃、分かっているとは思うけど。彼氏なんか作って困るのは佳乃だからね」
「お礼を渡しただけだよ…」
「ならいいわ。…どこかの学生?」
そう聞かれて、「お父さんぐらいの歳の人」
と私は嘘をついた。
その日の夜、お母さんが勉強している私へ自室にコーヒーを届けてくれた。
そのコーヒーを泣きそうになりながら、私は喉の奥に通した。
翌朝、新聞を読んでいるお父さんが、朝食時、コーヒーを飲んでいる私に向かって口を開いた。
「門限は今日から4時10分だからな」と。
きっとお母さんが、昨日のことを言ったらしい。
門限が、4時半から4時10分に変わった。
4時10分なんて、寄り道なんてできるはずがない。
「…うん」
「また〝アイツ〟は遊びに行ってるのか」
お父さんが、お母さんの方に顔を向ける。
「そうみたいね」
「本当に〝アイツ〟は…」
「佳乃、お弁当置いとくわよ」
「うん、ありがとうお母さん」
その日、朝も夕方も、壱成さんの姿を見ることは無かった。