家の中にはお母さんがいた。
お父さんはまだ帰ってきてないようだった。
「…ただいま」と言っても、リビングからお母さんの返事はなく。
リビングでは料理を作っているのだろう。砂糖と醤油で何かを炊き込んでいる甘い匂いがして、それだけでも小さな不快感に襲われた。
自室にそのまま行けば、階段の音で気づいたのかお兄ちゃんが部屋から出てきた。「おかえり」と、言ってきてくれたお兄ちゃんに、僅かに口角が上がる。
「ただいま、」
「壱成さんち、行ってたんだって?」
「うん、壱成さんから聞いたの?」
私が自室に入れば、お兄ちゃんもその中に入ってきて、パタン、とその扉を閉められる。
「まあ、お前ほんと、壱成さんに大事にされてるよ」
大事に……。
確かに、そう。
私はいつも、壱成さんに助けられている。
なんのお返しもできないまま……。
「お兄ちゃん……、私、壱成さん一緒に住まないかって言われたの……」
「一緒に?」
お兄ちゃんが、目を丸くさせた。
驚いているらしいお兄ちゃんは、私の勉強机の椅子に腰掛ける。
「壱成さんが卒業すれば住もうって。それで、私も高校は卒業した方がいいって…」
「すげえな」
「でも無理だよ、できない。壱成さんが私のお世話をするってことでしょう?」
「お世話…、まあ、お前がバイトをして壱成さんに生活費を渡すとか? でもあの人は受けとんねぇと思うぞ?」
そう。
壱成さんは私からのお金を受け取らない。
手紙などで一緒に渡せば受け取ってくれるけど、お金単体では、受け取ってくれない…。
「できないよ。それに一緒に住むって決めても、お父さんたちが許さない」
「確かにな、」
「できない……」
「あいつらのことは置いといて、壱成さんに頼るのはいいと思うけどな?」
「できないよ……」
「普通に考えてみろよ?世の中には旦那が仕事をして嫁は専業主婦っていうの多いぞ?それと同じ考えしてみれば?」
「私は学生だよ?」
「じゃあ、勉強の代わりに家事すればいいじゃん。お前の作った飯、壱成さん喜ぶと思うけどなあ」
お兄ちゃんは、私が壱成さんと一緒に住むという一つの案に、賛成らしく。
私の作った料理……。
料理……。
私は今、作れるのだろうか?
「学費は俺が出すし、それいいんじゃねぇかな。今までバイトしてたの、お前にやるし」
「学費…」
お兄ちゃんが?
それはだめ……。
お兄ちゃんが今まで頑張ってきたバイト代。
「にしても、付き合ってまだ1ヶ月も経ってねぇだろ?」
「え?」
「壱成さん、マジでお前のこと好きなんだな」
付き合って……。
あれ。
私と壱成さんは、付き合っているのだろうか?
私は壱成さんが好き。
壱成さんも私のことを好きでいてくれて。
けれども付き合うなんて言葉は、出てきていない。
付き合ってないのに、一緒に住む……?
私と壱成さんとの関係はなんだろう。
「まあ、いいように考えてみれば?」
お兄ちゃんは笑うと、「戻るわ」と、椅子から立ち上がった。
いいように?
いいように考える。
壱成さんと一緒に住む世界を想像する?
いつも壱成さんと一緒にいることができる……。
それはとても幸せな時間じゃないだろうか?
それでもやっぱり迷惑がかかるかもしれないという気持ちが止まらない。
学費の事だって。
お兄ちゃんが出すなんて……。
私を守ってくれるらしい2人。
先程別れたばかりなのに、壱成さんの声が聞きたくなり、スマホを鞄の中から取り出そうとしたけど、壱成さんの番号を消されたことを思い出した。
「お兄ちゃん、あの、壱成さんの番号教えて」
「え?」
「お母さんが消したから……、私の番号も変わってるの」
「……ありえねぇな……」
お兄ちゃんが不機嫌に呟いたあと、スマホを取りだした。「どうせ壱成さんの番号もブロックされてるだろ」と、私のスマホも取り上げた。
数分間操作すると、お兄ちゃんは私のスマホを返してきて。お礼を言えば、さっきの不機嫌さではなく、落ち着いた声で呟いた。
「俺にもいつでも電話して来いよ」と。