傘を使って自宅に戻り、私は仕事帰りのお母さんに言ってみた。基本、私はお金を持っていない。家に帰れば勉強ばかりでアルバイトはしていないのはもちろんだけど、電車に乗るには定期があるし、お昼ご飯はお母さんが作ってくれるし、飲み物は水筒があるから。
友達と遊ぶことをしない私は、お母さんからお小遣いを貰っていない。

「お金?いくら?何に使うの?」

「分からない、お礼をしたいの。今日ね、電車の中で助けてくれて」

「助けてくれた?」

「電車の中に忘れていた傘をわざわざ追いかけて持ってきてくれたの」

「その人と、会う約束はしてるの?」

「うん、月曜日に」

「じゃあお母さんがお礼を買ってくるわ、それを持っていきなさい」

お母さんが買う?

「あなたは土日、勉強しなさい」

「でも、」

「でもなに?」

「ううん、なんでもない。じゃあ任せてもいい?」

ニコリと笑った私は、自室に戻り、参考書を開いた。私はお母さんの言う通りにしなくちゃいけない。お兄ちゃんみたいになってはいけないから。
土曜日、お母さんはお礼の品物を買ってきてくれた。それは紙袋に入っていた。私でも知っているほどの有名な菓子……だったけれど。

その袋を見てしまった、と思った私は、顔を出さないように「ありがとう」とお母さんからその紙袋を受け取った。
すごくすごく女の子らしい、ピンク色の紙袋を。
お母さんの頭の中は、きっと私を助けてくれた子は〝女の子〟。少なくとも〝女性〟だとは思っていたはずだ。
これは私の失態だ、お母さんにちゃんと『同い年ぐらいの男性が助けてくれた』と言えばよかったと後悔した。お金を持っていない私は、その菓子を渡すしか無かった。
──月曜日の夕方、その日は雨が降っていなかった。学校の鞄とピンク色の可愛い紙袋を持ち、電車から下りたあと私が改札を出ようとした時、黒色の学ランが視界に入ってくるのが分かった。
その人の背が高いから、目立つのかもしれない。それとも見知った人だから、すぐに分かったのか。腕時計を見ると、約束の10分ほど前だった。私は昨日よりも1本早い電車に乗っていた。それなのに、金曜日の日の私を追いかけてきてくれたその場所にいたってことは、私よりも早く待ち合わせの場所に来てくれていたということ。
少し怖い顔をしているけど、この前助けてくれた事といい、優しい人、なんだろう。
そんな事をぼんやりと考えていると、いつのまにか彼と目が合っていた。帰宅ラッシュで沢山の人がいる中、彼がキョロキョロと辺りを見渡していたわけでもない。ただ、自然と視線が重なっていた。
彼は私の方を見つめたまま、ゆっくりと足を進めてきた。近づいてくる彼はやっぱり背が高かった。私が155センチで、いったい何センチ差なのか。お兄ちゃんが175センチだからきっとそれよりも──…

「…こんにちは、あの、待たせてしまってごめんなさい」

「いや、」

「結構、待たれましたか?」

「待ってない、俺も来たばっかりで」

「そうですか、でも、待ち合わせをした私が待たせてしまって…。本当にごめんなさい」

頭を下げると、彼は少し焦ったように「いや、俺が早く来すぎたんだ」と、声を出した。

「あの、これ、お礼のお菓子なのですが、すみません。少し手違いで…色が…」

そんな彼に戸惑いながらピンク色の紙袋を差し出した。その色を見た彼は、特に躊躇った様子もなくて少しだけ口角を上げた。
笑っている。

「ありがとう。本当によかったのに」

彼の様子を見て、もしかすると彼はピンク色が好きなのかもしれないと、勝手に脳が判断してしまった。
菓子の入った紙袋を受け取った彼は、優しく微笑んでくれていた。
でも、見た目が怖くて、背が高く、真っ黒な学ランを来ている彼にピンク色の紙袋はやっぱりバランスがとれていなく合っていなかった。きっと白色なら違和感が無かったのかもしれない。

「なにか、」

「え?」

「これをくれた礼というか」

「?」

「俺も礼をしたいんだが…」

そう言った彼の言葉の意味がよく分からなった。日本語の意味しては分かる。彼が英語や中国語を喋っているわけではないから。
言葉の意味が分からないというのは、話の流れがよく分からなかったということで。

「お礼ですか?」

「ああ」

「私に?」

「あんたに」

「でも、これはこの前の…助けてくれたお礼であって…」

「この前のは大したことじゃなかったから。なんというか説明し辛いんだが、俺のしたことと、あんたの礼には差があるというか」

した事と、私のお礼の差?

「よく分かりません、傘のことは本当に助かったので…差、と言われても」

「じゃあ、俺の勝手な我儘っていうことで、礼をさせてくれないか?」

我儘?

「もっと我儘を言うなら、あんたの名前を教えてほしい」