「あら、今日も早いのね」


お母さんの言葉にドキリとした。
急に話しかけられたとかそういう驚きじゃなくて、セリフにドキリとした。
彼氏を作るなというお母さんに、「今から男の人と会う」なんて言えるはずもなく。


「うん、学校に行ってから少し予習しようと思って」

その誤魔化しに、お母さんは「偉いわね」と微笑んだ。


洗面台にたち、鏡を見ながらブラシで髪をとく。少し、いつもより長めに。「行ってきます」と言った後、私は少し小走りで待ち合わせの駅へと向かった。
歩いてでも約束の時間には間に合う。
それでも小走りで向かったのは、壱成さんに早く会いたかったからかもしれない。

10分ほど早くついたはずだった。──待ち合わせの時間は7時。壱成さんは何時に起きたのだろうか。何時に家を出たのだろうか。壱成さんの家は、この近くなのだろうか……。

私よりも先に、待ち合わせの場所で待っている壱成さんを見つけた。平均の男性よりも背の高い壱成さんはすぐに分かってしまう。
目立つ人、なんだろう。
壱成さんにはそういう雰囲気がある。
そんな事を思い浮かべながら待たせてしまって申し訳ないという気持ちで、もう一度小走りで足を動かそうとすれば。


どこかを見ていた壱成さんの視線が、こっちに向くのが分かった。視線が絡む。


──まただ。


まだ何メートルも離れているのに、他の通勤している人達もいるのに。壱成さんはすぐに私を見つける。
この前もそうだった。
壱成さんのように背も高くなく、目立つ特徴がないのに、壱成さんはすぐに私を見つけてくれる。もしかしたら、すごく視力がいいのかもしれない。

私を見つけた壱成さんが、こっちに歩いてくる。その歩いていた足は私のように小走りに変わった。背が高い壱成さんの足は長く、一瞬にしてその距離を縮め──……


「走ってきたのか?」


朝の挨拶をする前に、そう言ってきた壱成さんの声は戸惑っていた。どうして戸惑うのか分からなかった。
私が少し、肩で息をしてるから?


「あ、はい、お、おはようございます…」

「からだは、」

「え?」

「体は、走っても平気なのか?」


走っても平気?
それはこの前貧血で倒れたから?
ううん、違う、私が言ったからだ。
〝病気になりやすい〟と。
壱成さんの中で、私は走ることが出来ない〝病弱〟なのかもしれず。


「大丈夫です、今日は体調がいいので。…ごめんなさい、待たせてしまいましたか?」

「いや、」

「この間は、ありがとうございました。本当にすごく助かりました」

「あれから貧血は……」

「ありません、壱成さんのおかげです」

「それなら良かった」


微笑む壱成さんを見上げていると、本当に優しい人だと思った。


「あの、これ……受け取って下さい」


鞄の中から封筒を取り出し、壱成さんに差し出した。「俺に?」と、壱成さんは少し腕を動かしたけど、直ぐにその手は止まり。
受け取ってくれない壱成さんに私は顔を傾けた。


「あの……」

「…その、中身というか、」


中身?


「金が入ってるなら、受け取れない」


お金……。
ああ、思っていたとおり、優しい壱成さんはお金を返すことを拒絶する。


「て、がみです」

「手紙?」

「お礼の手紙が入っていて……」

「うん」

「……入っているんです……」

「うん」

「……壱成さんの言う通り、お金も入ってます……。でもこれは元々壱成さんので、手紙と一緒に受け取ってくれませんか」


壱成さんを見つめながら言えば、壱成さんは困ったような笑みを浮かべた。けど、すぐに穏やかな顔になった。
壱成さんの腕があがり、私の持っている封筒を手に取った。
受け取ってくれた壱成さんは、私を見つめてくる。


「あんたの字は綺麗だ」

「え……?」



字……、ルーズリーフに書いた文字を思い出す。


「手紙、ありがとう」

「壱成さん……」

「大切にする」


大切に……私の手紙を?
読むのではなく?


「金は──、またあんたと出かけた時に使わせてもらう。これはあんたのものだから」


出かける?
私と?
そのお金は壱成さんのなのに。


「壱成さん、あの、」

「うん」

「他にも、渡したいものがあって……」

「俺に?」

「今日、持っていなくて。──もう一度明日、会っていただけませんか?」