悪党みてぇな貴族だった俺、転生した現代で小動物系美少女をふる

 昼休みに入ったばかりのタイミングで、一学年の桜羽沙羅が生徒会長から唐突な運動対決を求められ、それを了承した。

 しかも、その直後に二人が決めた対決日時は、今日の放課後である。

 一年五組で話し合われた二人の様子については、廊下の外から多くの生徒が見ていた。そのため、実況中継のようにあっという間に一学年のフロアを走り抜け、生徒会長の宮應静と沙羅が話し合いを終了した時には、五組の教室前の廊下には、その話を聞きつけた大勢の一年生が集まっていた。

 五十メートル競走については、勝つまで何度でも沙羅がリベンジ可能のルールとはいえ、運動が苦手だという女子生徒から選ばれるらしい相手の三学年生が、もし彼女より足が速いとしたら、高い確率でほぼ持久力勝負になるだろう。

 宮應が堂々とした足取りで一年五組の教室を出て行ってすぐ、レイが心配でたまらないという顔で沙羅の腕を掴んだ。

「無茶だよ、沙羅ちゃん」
「私、負けないわ」

 そう言った沙羅は、こちらも見ずに踵を返し教室を出て行ってしまった。
 それほどまでに意思が固いことを示すかのように、止めないで、というように彼女から目も向けられなかったレイが、ショックを受けたようにその場に佇んだ。

 騒がしい廊下に対して、五組の教室内は重い沈黙に包まれていた。誰もが「どうする」と目線を交わすだけで動けずにいる中、拓斗が呆気に取られても尚自分ペース、といった様子で教室の入り口にいたレイに声を投げた。

「なぁレイちゃん、沙羅ちゃんはどれくらい運動が出来ないんだ?」
「僕をちゃん付けで呼ぶなッ」

 そうしっかり注意したレイは、迷うような間を置いた後「沙羅ちゃんは、その、僕が知っている子の中では一番足が遅い、かも……」とぎこちなく視線をそらした。

「なるほどね、沙羅ちゃんはかなりの運動音痴ってことか」

 拓斗が「どうしたもんかね」と吐息交じりに続けて、小さく肩を落とした。
 
 スポーツは出来そうにないもんなぁ、とクラスの男子生徒たちが日頃を思い返して呟いた。沙羅が『ぎゅっとします!』と宣言して挑戦し続けているものが、ことごとく失敗に終わっているのを見ていたせいである。
 木島が「そわそわして落ち着かないんだけどッ」と言って立ち上がると、廊下側の窓へ顔を出して、近くの男子生徒を呼んだ。

「おい小林ッ、お前確か一組だよな!?」
「おぅ。あと、こいつらも一組だ」

 廊下にいたスポーツ刈りの少年がそう言って、近くにいた生徒たちを指した。

 木島は「訊きたいんだけどさ」と五組を代表してこう尋ねた。

「桜羽さんは走れるのか!?」
「俺が知ってる限り、ちょっと厳しいな」
「女子なんて、慌てて桜羽を追い駆けていったぜ。残ってるのは青崎くらいか」

 そう口にした彼らは、未だ動けずにいるレイを気遣うように見た。どうすんだろうな、と困ったような互いの顔を確認したところで、意見を求めるように廊下にいた生徒たちを見渡す。
 集まっていた二組、三組、四組の一部の少年少女たちも、一学年で一番有名な沙羅と理樹について知っているからこそ心配だ、という様子で「どうなるんだろう」と同じ不安事を口にした。
 木島が廊下から頭を引っ込めて、放心状態のまま自分の席へと戻って、疲れ切ったように椅子に腰を落とした。

「やべぇ。不安が返って倍増された…………」
「木島、見事に表情が抜け落ちてるな、相当混乱中だ」
「どんまい、木島。お前はよくやったよ」
「私もあんたのこと、ちょっと見直したわ」

 教室内にいた五組の女子生徒の一人が、木島にそう声をかけて「そもそも体力測定、ほとんど「一」だったって聞いたのよねぇ……」と不安そうに友人らと話す。

 一通り現状を眺め。拓斗は「なんだかなぁ」と頭をかいて視線を流し向けた。

「大事になっちまったなぁ――で、どうするよ、親友?」
「不可抗力だ」

 理樹は、顰め面で床を睨みつけた。彼女たちは当時者を差し置いて、一体何をしているんだろうと思う。そもそも……


 そもそも、どうして勝負を受け入れた?


 理樹は静かな表情のまま、知らず拳を握り締めた。

 俺は、彼女が運動出来るような女の子ではないと知っている。そして、そういった争うような勝負事に、自ら踏み出すような子でもないとも分かっている。

 何故なら、自分が生まれ変わってもなお『リチャード』と同じ人間の思考をしているのと同じように、前世の記憶がない彼女もまた『サラ』のままなのだ。育つ過程での喜怒哀楽に僅かな差異があろうと、だからといって、それを別人と位置付けることが出来ないほどに。
 十歳も年下の少女だった。そして、数十年も早くに逝ったのを見届けた。

 汚名だと嗤われた悪役令嬢の名が、社交界から消えることはなかった。そして自分もまた、悪党みたいな貴族だった。
 結婚は共同経営のようなものでしょう、次は私なんていががかしら……そう何人の女性に声を掛けられたか分からない。


 そう、悪党みたいな人間だったのだ。だから、きっと罰(バチ)が当たった。

 神様は奇跡を起こしてはくれなかった。どうせなら、出会う前からやり直してくれれば良かったのだ。彼女があの令息と婚約する前に戻して、彼女が一番目に愛し続けられる別の誰かを与えてくれれば。


 そうすれば、俺が声を掛けずに済んだ。
 出会わずに済んだ。

 黙りこむ理樹を、レイはチラリと見やった。無愛想な顔の眉間に珍しく皺も刻んでいない、どこか遠い昔を思い出すような顔をしている横顔に声を掛けられなくて、その視線を拓斗へと戻した。

「……僕は、少しでも彼女の助けになれるように、走るコツとか教えてくる」
「それがいいだろうな。つか、それくらいしか出来ないよなぁ」

 本人がやるって決めちまったことだしなぁ、と拓斗は言って、見送るようにレイに向かって小さく手を振った。

 理樹は蘇った前世の光景の一部を押し留めるように、ぐっと拳を作った。
 放課後になってしばらくもしないうちに、校舎に面した運動場側に勝負の場として用意が整えられた。敵無しと知られる最強生徒会長と、一人の男子生徒にアプローチを続けていることでも有名な、一学年の小動物系美少女の対決勝負である。

 種目は五十メートル競走だ。そのトラック競技のレーンがある場所には、沙羅のクラスである一組と、理樹がいる五組の、部活動で来られなかったメンバーを除いたクラスメイトたちが集まっていた。
 その見物人の中には、話を聞きつけた彼女を知っている他クラスの一学年生と、数人の三学年生も混じっている。

 急きょ五十メートル競走の場所を貸すことになった陸上部たちが、そこから少し離れた場所で準備運動をしながら、チラチラとこちらを見ていた。校舎の窓から顔を覗かせて、始まるのを待って見守っている生徒たちの姿も多くあった。

 五十メートル競走の二つのレーンには、運動着に身を包んだ二人の少女が立っていた。
 第一レーンには、長い髪を後頭部の高い位置で一つにまとめた沙羅。そして、競技開始前の彼女と向かい合うようにして第二レーン上に立っているのは、華奢な彼女よりも背丈が高い三年生の女子生徒だった。
 その三年生の少女は、全体的に痩せ形で、少し癖の入ったふんわりとしたショートカットの髪型をしていた。体育着のズボンから覗くふくらはぎは、筋肉がなくて細い。互いに自己紹介した際、彼女は簡単に美術部部長の森田だと名乗った。

「走るのは苦手なんだけれど……。静ちゃんに全力で走れって言われているから、よろしくね」

 森田はぎこちなく笑って、そう挨拶した。

 五十メートル競走用の各レーンからほんの少しの距離には、校舎を背景に、審判を務める男子生徒が一人立っていた。
 三年生にしては小柄で細く、女性のように艶があるさらりとした癖のない髪に、運動場にいようともその存在感を際立たせる黒い制服と、美し過ぎる美貌を持った――風紀委員長の西園寺(さいおんじ)瑛士(えいじ)だ。

 西園寺は渡されたホイッスルを首にさげたまま、競技開始の合図を前に、沙羅が真面目な表情で森田と向かい合う様子をしばし眺めていた。彼女たちの挨拶が済んだところで、思わずといった様子で溜息をこぼす。
「やれやれ、まさか君がそういう動きに出るとは思わなかったよ」

 話しを振られ、隣にいた生徒会長の宮應静が、秀麗な眉をきゅっと寄せた。

 彼とは対照的に、柔和さの全くない氷のような美貌を持った彼女は、自分と同じ身長の西園寺を冷やかに睨みつけた。

「面倒ならやらなければいいじゃない。私は、あなたにスターターを頼んだ覚えはないわよ。いつも思うのだけれど、どうして毎回あなたが来るのかしら?」
「あのね、君が動くと嫌でも僕のところに情報が上がってくるんだよ。学校の秩序と共に、生徒の安全を守るのも僕らの仕事なの」
「だからって、あなたが来る必要なんてないじゃないの」

 彼女が続けてそう言い、西園寺が「はぁ」と溜息をこぼした。

 この勝負については、昼休みの際に一気に全校生徒に広まったようで、沙羅を心配する声が圧倒的に多く、それはたった一時間の間に風紀委員会を動かすほどに発展した。
 この場所に教師や、煩く騒ぎ立てるような他学年の生徒などがいないのは、風紀委員長が腕っ節のある二人の風紀部員と、最強の新人である一年生の青崎レイを連れて、直々にやってきたせいでもある。
 青崎レイと、黒い制服姿の二人の風紀部員は、見届けるために集まった生徒たちの前に、ここから前に出ないようにと線を引くように、後ろに手を組んだ状態で並んで立っていた。
 普段は番犬みたいであるレイも、今はいっぱいの不安をこらえた表情をしていた。本当は止めたくて、そばに行きたくてたまらないのだという目を沙羅に向けている。

 五十メートル競走場の隣には、急きょ野球部から借りてきた休憩用テントも置かれていた。そこに用意された見学席へ宮應が腰かけたタイミングで、西園寺は見物人がいる場所よりも手前の、自分の斜め後ろという位置に立っていた理樹を振り返った。

「レイ君から話は聞いたけど、君も災難だったね。というか、宮應君がその手に弱かったというのも意外だったよ」
「俺も助けた時は、まさか武道派の生徒会長だとは思わなかった」

 ここへ来てから、理樹はようやくそう口を開いた。

 集まった見物人の脇に立つ拓斗と離れてから、理樹は今までずっと、無言のままこの場の状況をじっと見つめていた。彼とは二回目の顔合わせとなった西園寺は、「タメ口のままで安心したよ」と微笑み、それから思案気に胸の前にさがったホイッスルに指先で触れた。