完全キャッシュレス社会になって久しい。お釣り・紙幣・硬貨という言葉はとうの昔に死語になった。もはや現金という概念は公民ではなく歴史の教科書に載っている。百歳の老人でさえ、紙幣をその目でみたことはなかった。
それはそうと、日本はかつてない不景気に見舞われていた。短期的な景気循環の波と長期的な波の最低地点が重なり、世界的な恐慌の影響も受けてとにかく最悪の景気だった。デフレスパイラルに陥ったまま何年も抜け出せていない。
次々と企業は倒産した。何度も危機をくぐり抜けてきた昔ながらの町工場は今度こそ壊滅の危機である。大企業も大規模なリストラを行っている。日本は国際社会における競争力を失った。当然、娯楽産業はその煽りを特に強く受けて、崖っぷちに立たされている。
内閣総理大臣、白菊司は現状に頭を抱えていた。よりにもよって、一番どうしようもない時代に史上最年少で首相に就任した。就任と言うより、もはや矢面に立たされる生け贄として党内で押しつけられた状態に近い。
そんなある日、白菊は自分が最も信頼するエリート官僚の黒峰と官邸で話をしていた。黒峰は長年ずっと白菊を支えてきた。
「昔のお金って、紙とか金属だったんだよ。昨日、こんな画像を見つけたんだ」
白菊は手元の端末で、三枚の画像を見せた。一枚目は20世紀前半、第一次大戦後にお金を燃やす成金の風刺画である。二枚目は20世紀後半の漫画の一コマで、金持ちの男が札束で他人をビンタしている。最後は21世紀前半の広告で、悪そうな男がワインを片手に札束風呂に入っている。
「これは興味深いですね」
黒峰はその画像を本能的に「イイ」と思った。
「紙幣を復活させるなんてどうだろう」
「はあ?何言ってんだアンタは」
いつもスマートに振る舞っている黒峰は思わず素が出てしまった。何せ、議員になる前からの付き合いである。昔から白菊は世話の焼けるヤツだと感じていたが、やはり世間知らずの二世議員はやはりどこかずれていると思った。
「失敬。総理のご提案ですが、詳しくお聞かせ願えますか」
「ほら、札束って資産が分かりやすく可視化されているだろう?数字よりも、視覚情報に訴えかけてくると言うか。今、我が国には活気が足りないじゃないか。つまり、目標が必要だと思うんだよ」
澄んだ目で白菊は熱く語った。そういう意図なら、画像のチョイスは悪趣味すぎるだろう。しかし、白菊には大金を持つことによる優越感、他者を見下す快感なんて汚れた発想はない。ただ、小学生が「ひゃくまんえん」というフレーズにロマンを持つのと同じ感覚で札束はかっこいいと言っているのだ。あまりにも純粋な彼が政界で潰されずにここまで登り詰めたのは、ひとえに黒峰のサポートのおかげだった。
「今も昔も、人を動かす原動力は憧れだ」
キラキラした顔で白菊は言った。屈託のない笑顔は学生時代から変わらない。理想論だ、と一蹴するかわりに黒峰は深くため息をついた。
「しかし、今はペーパーレス化という言葉すら死語ですし、今更お札を刷るなんて言ったら税金と資源の無駄遣いで暴動が起きますよ」
「そうか。思慮のないことを言ってすまない」
官邸に重い空気が流れる。黒峰は沈黙が続かないようにと軽口を叩いた。
「それにしても、こんな頭の悪そうなボンボンのマウンティングの道具に使われるなんて福澤諭吉はどういう気持ちなんでしょうね?」
「でも、お札の肖像画になるのってロマンじゃないか?」
「はあ?総理はお札になりたいと?正気ですか?」
「いや、そういうわけじゃない。でも、お札に残るくらいの偉業は成し遂げたいじゃないか。日本を再建したいんだよ、私は」
白菊の行動原理は、「国民の幸せ」だ。しかし、まっすぐな性格をしすぎているゆえ、少々ずれている。世間の人間は白菊ほどお人好しではないので、行動原理が白菊とは違う。黒峰は、自分が意地の悪い性格をしていると自負している。だからこそ、この男に惹かれるのだ。総理としての資質には疑問があるが、私欲と無縁なこの男は間違いなく歴代の総理の中で一番国民のことを考えていると、黒峰は信じていた。
それはそうと、日本はかつてない不景気に見舞われていた。短期的な景気循環の波と長期的な波の最低地点が重なり、世界的な恐慌の影響も受けてとにかく最悪の景気だった。デフレスパイラルに陥ったまま何年も抜け出せていない。
次々と企業は倒産した。何度も危機をくぐり抜けてきた昔ながらの町工場は今度こそ壊滅の危機である。大企業も大規模なリストラを行っている。日本は国際社会における競争力を失った。当然、娯楽産業はその煽りを特に強く受けて、崖っぷちに立たされている。
内閣総理大臣、白菊司は現状に頭を抱えていた。よりにもよって、一番どうしようもない時代に史上最年少で首相に就任した。就任と言うより、もはや矢面に立たされる生け贄として党内で押しつけられた状態に近い。
そんなある日、白菊は自分が最も信頼するエリート官僚の黒峰と官邸で話をしていた。黒峰は長年ずっと白菊を支えてきた。
「昔のお金って、紙とか金属だったんだよ。昨日、こんな画像を見つけたんだ」
白菊は手元の端末で、三枚の画像を見せた。一枚目は20世紀前半、第一次大戦後にお金を燃やす成金の風刺画である。二枚目は20世紀後半の漫画の一コマで、金持ちの男が札束で他人をビンタしている。最後は21世紀前半の広告で、悪そうな男がワインを片手に札束風呂に入っている。
「これは興味深いですね」
黒峰はその画像を本能的に「イイ」と思った。
「紙幣を復活させるなんてどうだろう」
「はあ?何言ってんだアンタは」
いつもスマートに振る舞っている黒峰は思わず素が出てしまった。何せ、議員になる前からの付き合いである。昔から白菊は世話の焼けるヤツだと感じていたが、やはり世間知らずの二世議員はやはりどこかずれていると思った。
「失敬。総理のご提案ですが、詳しくお聞かせ願えますか」
「ほら、札束って資産が分かりやすく可視化されているだろう?数字よりも、視覚情報に訴えかけてくると言うか。今、我が国には活気が足りないじゃないか。つまり、目標が必要だと思うんだよ」
澄んだ目で白菊は熱く語った。そういう意図なら、画像のチョイスは悪趣味すぎるだろう。しかし、白菊には大金を持つことによる優越感、他者を見下す快感なんて汚れた発想はない。ただ、小学生が「ひゃくまんえん」というフレーズにロマンを持つのと同じ感覚で札束はかっこいいと言っているのだ。あまりにも純粋な彼が政界で潰されずにここまで登り詰めたのは、ひとえに黒峰のサポートのおかげだった。
「今も昔も、人を動かす原動力は憧れだ」
キラキラした顔で白菊は言った。屈託のない笑顔は学生時代から変わらない。理想論だ、と一蹴するかわりに黒峰は深くため息をついた。
「しかし、今はペーパーレス化という言葉すら死語ですし、今更お札を刷るなんて言ったら税金と資源の無駄遣いで暴動が起きますよ」
「そうか。思慮のないことを言ってすまない」
官邸に重い空気が流れる。黒峰は沈黙が続かないようにと軽口を叩いた。
「それにしても、こんな頭の悪そうなボンボンのマウンティングの道具に使われるなんて福澤諭吉はどういう気持ちなんでしょうね?」
「でも、お札の肖像画になるのってロマンじゃないか?」
「はあ?総理はお札になりたいと?正気ですか?」
「いや、そういうわけじゃない。でも、お札に残るくらいの偉業は成し遂げたいじゃないか。日本を再建したいんだよ、私は」
白菊の行動原理は、「国民の幸せ」だ。しかし、まっすぐな性格をしすぎているゆえ、少々ずれている。世間の人間は白菊ほどお人好しではないので、行動原理が白菊とは違う。黒峰は、自分が意地の悪い性格をしていると自負している。だからこそ、この男に惹かれるのだ。総理としての資質には疑問があるが、私欲と無縁なこの男は間違いなく歴代の総理の中で一番国民のことを考えていると、黒峰は信じていた。