公園に来てずいぶん時間が経ったように思えたけど、いまだに太陽の日差しは地面を刺すように僕らの一歩先を照りつけていて、相変わらず黒ずくめの青年は僕の隣に座っている。
「『自分の時間生きて』、ね」
 青年の声は僕らを嘲笑っているかのようだった。僕は確かにその言葉に憤りを覚えていた。青年にではなく、皐月に。
「彼女に捧げた時間が、僕の時間そのものです。それを、まるで偽物みたいに……」
「まあ、ある意味偽物なんじゃないの。だって今からそれを売り飛ばすわけでしょう、彼女を救うために」
 僕は青年を怒る気力も、睨む気力もなかった。皐月が僕を突き放すのなら、僕が勝手に皐月のあずかり知らないところで彼女を救おうが勝手だと、そう思っていたのに。
「きみはさ、彼女を救う代わりに、つまり彼女にとってのきみの記憶をとどめておく代わりに、今度は彼女を忘れようってわけだ」
 僕は、傲慢なのだろうか。卑怯者に成り下がってまで皐月を好きになったのに、愛して、抱いて、それでも彼女の孤独を生かし続けた卑怯者なのに、この期に及んで皐月を救おうとするなど、そのために皐月を忘れようなど、傲慢なのだろうか。
 たとえそうだとしても、僕は、きみのことが──。
 彼女の単行本から、目が離せない。
 いま僕が持っている本は、彼女が病気になってから書かれた本だった。婚約を解消してから彼女には一度も会っていない。だから、この本は僕が唯一読んでいない作品だった。
 なんとなくめくっていたページのセリフが、目に入ってくる。
『私があなたを忘れても、あなたは私を忘れないで』
 泣かすなよ、皐月。
 もう僕を小説で泣かすなよ。
 彼女の描く小説の世界を守るだけに集中して、付き合っても、婚約しても、ほとんど彼女と会わなかった。彼女の病気が僕と彼女を壊したのか? いいや、あれはきっかけでしかない。
 どうすればよかったというんだ。
 僕は皐月を愛している。だけど、それを言葉にしたことは一度もなかった。彼女と会うことは、彼女とどこかへ行くことは、彼女へ何かをささやくことは、すべて彼女の孤独の世界を壊すことだったから。
 僕は、やっぱりここにきても、後悔しても、彼女を忘れることになっても、たとえエゴイストだと言われても、彼女の世界を壊したくない。
 救いたいんだ。
 だけどせめて、僕の記憶がなくなる前に、愛していると言えばよかった。
 もっと、きみを愛してあげればよかった。
 一度でも、言ってあげればよかったんだ。
「ばかだなぁ、きみ」
 青年の冷水のような声が、一気に僕を現実に引きずり戻した。彼女の本から顔をあげると、青年はもう一度公園の時計を見上げた。
「あと五分あるよ」
「え……」
 ハッとして僕も時計を見る。
 十四時五十五分。
 青年がこの公園を指定したのは、なにかの嫌がらせだと思っていた。
 ──そうだ。彼女のアパートは、目と鼻の先だ。
 本を投げ出して、僕は走った。


 たった一秒足らずの言葉だ。
 五分間、ずっと言い続けよう。
 僕の記憶が消えるまで。きみが救われるまで。
 階段を駆け上がり、未練たらしく持っていた合鍵を出して、ドアを開けて、今日もキーボードを打っているであろう部屋に飛び込んで、きみを抱きしめ、キスをして、そしてこの言葉を言おう。
 愛していると。

〈了〉