それから僕たちは、周囲にとってよく言えばで稀有な、悪く言えば冷めきった恋人関係を続けることとなった。
 皐月が会いたいと言うまでは、僕らは一週間でも二ヶ月でも会わなかったし、小説を見せてもらう以外で連絡をしなかった。
 「おまえ、耐えられるのかよ」と言われたこともあったし、「そんなのは付き合ってるって言わないよ」とも言われた。
 そんなことはまったくなかった。彼女の書く小説はたまらなく面白かったし、日に日に愛おしいものになっていく。
 皐月が文壇デビューしたのはなんのことでもなかった。僕のとっては鶏が朝に鳴くくらいに当たり前のことだった。けたたましくも美しい鳴き声に、周囲があまりにも寝ぼけていただけの話だ。
 僕らは小説のことで語り合い、彼女が脱稿したらほんのすこし甘え合うだけで十分だった。彼女の孤独を、決して埋めてはいけないのだ。
 婚約しても同棲はしなかった。結婚したらさすがに一緒に住むことなるだろうが、おそらく僕は皐月を放置するようになるだろう。僕はほとんど一人が好きだったし、苦ではなかった。彼女が自身の愛でる世界を失うことが、僕には恐怖だった。
 皐月は執筆に没頭すると周囲の生活をおろそかにする悪癖があったので、そこだけはケアすることにしていた。
 皐月の文筆業が軌道に乗り、今日も他の日の例に漏れず缶詰のごとくこもりきりだったので、僕は食材を買い込んで皐月のアパート向かった。彼女のおかげで僕の料理の腕はずいぶん上がったものだ。
 チャイムは鳴らさず、合鍵で勝手に部屋にお邪魔して、「来たよ」と挨拶をすることもなく、食材をしまいこむために冷蔵庫を開ける。
「うおっ」
 冷蔵庫のど真ん中に、何か大きな黒光りを見つけて、僕は後じさった。ごきぶりか? そう思ったが、黒い物体はまったく動かなかった。それによく見ると、ごきぶりよりももっと大きい。
 ワイヤレスマウスだった。皐月が執筆で使っているマウスだ。なぜこんなところに?
 僕はマウスを持ってすぐに書斎へ向かった。
「皐月、冷蔵庫にマウスが入ってたよ。とうとうネタが尽きて荒ぶったのかい?」
「あ……ねえ、ちょうどよかった。聞きたいことがあったの」
 皐月はほんのすこしやつれた様子だった。ここ最近は連載が三本に書き下ろしが一本控えていたので、かなり忙しいはずだ。彼女はそれでも、書ける喜びゆえか暗い顔を一切せずに、手元のメモ帳を僕に差し出す。
「ここに予定が書いてあるでしょ。たぶん人に会うはずだったんだけど、思い出せない。編集さんじゃないみたいだし……すっぽかしたらまずいかも。ねえあなたなら覚えてる?」
 僕はマウスを取り落とした。
「皐月……それ、きみの作品の登場人物……」
 ──そのあとのことは、もう、思い出すのも一苦労だった。彼女の取り乱しようといったら、データの入っていたパソコンがお釈迦になったほどだ。僕はジタバタとする皐月を車に乗せて、そのまま病院へ向かった。信号を二回ほど無視したかもしれない。
 皐月は若年性アルツハイマー症と診断された。いっそのこと僕らがお互いに愛したせいで彼女が筆を取れなくなったのなら、どれだけよかったことか。
 彼女の記憶が、孤独が、世界が、病気に蝕まれていく。
「皐月、とにかく外に出て、いっぱい経験をしないと。一日にできるだけ多くの記憶を取り入れるんだよ」
「今までさんざんなにもしてこなかったのに、いきなりそんなことできないよ」
 皐月はメイクも、服も、子供も、ピアノも、絵も、酒も、タバコも、俳優も、映画も、音楽も、何にも興味がなかった。本当の本当に、彼女の世界は純度百パーセント彼女だけでできていて、小説を馬鹿みたいに読む以外、やりたいことがないのだ。
 小説を読むという行為が病気の進行を遅らせることはなかった。彼女の空想を温めてくれるのだろうが、実際、脳の運動としてはあまり大きな刺激ではないのかもしれなかった。
 皐月は忘れていくあらゆるものに対して、暴れ、ヒステリックになり、やがて絶望した。僕は彼女から片時も離れられなくなった。きっと、ほんの少し目を離した隙に彼女は死んでしまうだろう。それだけは確信できた。
「もう、何も思い出せない。あなたからもらった小説の感想も、どこで会ったのかも、指輪がどこにあるのかも」彼女の涙が、随分と前から肌をがさがさにしてしまっていた。「私たち、いつ初めてキスしたんだっけ?」
 僕ももう、限界だったかもしれない。二人で泣きながら、何度もキスをした。
 この記憶すら、皐月はいつか忘れてしまうのだろう。
「ねえ、婚約解消しよう」
 最後のキスの後、皐月はほとんど聞き取れない声で、言った。
「もう、ここには来なくていいよ。明日からは自分の時間を生きて」