彼女の才能を、いや彼女の世界を、僕は本物だと思っていた。僕は読むことにかけては誰よりも量をこなしている自覚があったが、皐月は大量に読む上に、大量に書いた。僕は彼女の生活サイクルがいったいどうなっているのか──彼女が何を見て、誰と接して、どのように感じてあの小説の世界を作り出しているのか──とても興味が湧いていた。
たぶん、皐月に惹かれていたのだと思う。
皐月は誰かと接するということに恐怖を抱いているようだった。サークルには入っておらず、単位を取る以外大学に用途はないとでも言いたげに、授業を淡々と受けて寄り道せずに帰る日々だ。学部生とつるむでもなく、飲みにも来ない。
ますます僕は彼女に興味が湧いた。小説は人間を書くとよく言われるらしいのだが、人間とつるまないのになぜあれだけの世界を描くことができるのだろう。
僕が積極的に会おうとすると、彼女は疑いをはらんだ暗い目で僕を見つめてきた。
「何が目的なんですか」
目的などない。下心はなかった。本当だ。彼女にそう言われるまで、僕はまったくもってよこしまな気持ちなどなかった。皐月がそんなことを言うから、僕は否応なしに自覚してしまったのだ。
僕が好きなのは、彼女の小説だけではないのだと。
「僕はきみのことが、たぶん好きなんだよ」
「そんな人間、いるはずがありません」
正直、言われた瞬間は皐月の言葉の意味がわからなかった。
僕はその時、ぽかんと口を開けていたのかもしれない。物分かりの悪い相手に向かって癇癪を起こす寸前の子供のように、皐月は真っ赤になった。
「この世で私を好きになる人間などいません」
「どうしてそう思うの」
「そうじゃなきゃいけないんです」
そのような皐月だから、僕が送ったメッセージにも一切返信を寄越さなかった。だけど書いた小説だけはしっかりと読ませてくれた。
僕は「印刷代は払うから」と言いくるめて、小説をいちいち印刷してくるように皐月に頼んだ。紙の本じゃないと読めないと嘘をついたのだ。そうしないと、彼女は頑なに会おうとしないからだ。
直接もらった原稿をその場で読む数時間だけ、僕は彼女と会うことを許された。
「読んだよ」
僕が原稿を返す瞬間、少しだけ彼女の綺麗な指にあえて触れる。なんて下劣さだ。知っている。僕は卑怯者だ。自分の喉を掻っ切ってしまいたくなる──いや皐月は、僕が自分の喉を喜んで掻っ切ることをしたくなるような存在だ。
今まで感じたことのない一連の思考に僕はときどき絶望した。一瞬の触れ合いを皐月が拒絶しないことが、僕の唯一の救いだった。
「原稿、どうでした?」
「とりあえず、本日もおもしろうございました」
僕が言うと、決まって皐月はほっとした顔になる。
「ただ、ちょっとキス前後の描写は強引だった気がするなぁ」
彼女はびくりと全身を震わせた。
ああ、まただ。また彼女は、僕の無意識から出た言葉を下心に変えてしまった。誓っていい。僕は彼女がそんな初心な反応をするまで、本当にあの言葉は小説の感想でしかなかったのだ。
「し、しかたがないじゃない」彼女は初めて敬語を外した。「し、したことないんだもん」
「なにを?」僕は意地悪な男だ。それは認めよう。
「なにって」皐月は目をそらした。「キスを」
「すればいいじゃない」
「どこで」
「ここで」
「からかわないでください」
「からかってないよ」
僕の低い声が、彼女に真剣さをひしひしと伝えることとなった。皐月はさらに赤らんだ顔で、首が折れてしまうほどにうつむいた。
「皐月は僕がきらい?」
別にそれでも構わなかった。だけど皐月は首がちぎれるほど左右に強く振った。
「そうじゃなくて」
僕は皐月の縮こまった肩を掴んだ。彼女は拒絶しなかったけど、顔は上げてくれなかった。そうだろう。
僕は全部わかっている。
「僕は皐月の描く世界が大好きだ。ただ、それはぜんぶ孤独でできている。僕がきみの孤独を壊すことは、本当に戦犯級のことだよ」
「……書けなくなってしまう。あなたを好きになったら、私はきっと書けなくなってしまうんです。小説は私のすべてです。私が書けなくなったら、あなたはきっと私をきらいになる」
皐月は今度こそ、僕を突き放して、肩にあった手を払って、決然と前をむいた。
「それだけはいやです。だって、私──」
唇を塞いだ。
これ以上の言葉が必要だったと思うか?
肩をきつく抱きしめて、もう片方の指は彼女の柔らかな髪を這った。
呼吸なんてできなくていい。
息なんて忘れて、キスが孤独だとわからせてやればいいんだ。
彼女が固まって、たとえこちらに応じなくても、それでいいんだ。
きみは書けないなんてことはない。何があっても──。
長いキスの間の──たぶん、皐月にとってのはじめてのキスの間の──最後の最後で、彼女は理解してくれた。僕が彼女の孤独を埋めるなどという愚かなことはしないのだと。
彼女は全身の力を抜いた。僕を受け入れてくれた。
「皐月」
たまらなく、愛おしい。
「付き合おうよ」
たぶん、皐月に惹かれていたのだと思う。
皐月は誰かと接するということに恐怖を抱いているようだった。サークルには入っておらず、単位を取る以外大学に用途はないとでも言いたげに、授業を淡々と受けて寄り道せずに帰る日々だ。学部生とつるむでもなく、飲みにも来ない。
ますます僕は彼女に興味が湧いた。小説は人間を書くとよく言われるらしいのだが、人間とつるまないのになぜあれだけの世界を描くことができるのだろう。
僕が積極的に会おうとすると、彼女は疑いをはらんだ暗い目で僕を見つめてきた。
「何が目的なんですか」
目的などない。下心はなかった。本当だ。彼女にそう言われるまで、僕はまったくもってよこしまな気持ちなどなかった。皐月がそんなことを言うから、僕は否応なしに自覚してしまったのだ。
僕が好きなのは、彼女の小説だけではないのだと。
「僕はきみのことが、たぶん好きなんだよ」
「そんな人間、いるはずがありません」
正直、言われた瞬間は皐月の言葉の意味がわからなかった。
僕はその時、ぽかんと口を開けていたのかもしれない。物分かりの悪い相手に向かって癇癪を起こす寸前の子供のように、皐月は真っ赤になった。
「この世で私を好きになる人間などいません」
「どうしてそう思うの」
「そうじゃなきゃいけないんです」
そのような皐月だから、僕が送ったメッセージにも一切返信を寄越さなかった。だけど書いた小説だけはしっかりと読ませてくれた。
僕は「印刷代は払うから」と言いくるめて、小説をいちいち印刷してくるように皐月に頼んだ。紙の本じゃないと読めないと嘘をついたのだ。そうしないと、彼女は頑なに会おうとしないからだ。
直接もらった原稿をその場で読む数時間だけ、僕は彼女と会うことを許された。
「読んだよ」
僕が原稿を返す瞬間、少しだけ彼女の綺麗な指にあえて触れる。なんて下劣さだ。知っている。僕は卑怯者だ。自分の喉を掻っ切ってしまいたくなる──いや皐月は、僕が自分の喉を喜んで掻っ切ることをしたくなるような存在だ。
今まで感じたことのない一連の思考に僕はときどき絶望した。一瞬の触れ合いを皐月が拒絶しないことが、僕の唯一の救いだった。
「原稿、どうでした?」
「とりあえず、本日もおもしろうございました」
僕が言うと、決まって皐月はほっとした顔になる。
「ただ、ちょっとキス前後の描写は強引だった気がするなぁ」
彼女はびくりと全身を震わせた。
ああ、まただ。また彼女は、僕の無意識から出た言葉を下心に変えてしまった。誓っていい。僕は彼女がそんな初心な反応をするまで、本当にあの言葉は小説の感想でしかなかったのだ。
「し、しかたがないじゃない」彼女は初めて敬語を外した。「し、したことないんだもん」
「なにを?」僕は意地悪な男だ。それは認めよう。
「なにって」皐月は目をそらした。「キスを」
「すればいいじゃない」
「どこで」
「ここで」
「からかわないでください」
「からかってないよ」
僕の低い声が、彼女に真剣さをひしひしと伝えることとなった。皐月はさらに赤らんだ顔で、首が折れてしまうほどにうつむいた。
「皐月は僕がきらい?」
別にそれでも構わなかった。だけど皐月は首がちぎれるほど左右に強く振った。
「そうじゃなくて」
僕は皐月の縮こまった肩を掴んだ。彼女は拒絶しなかったけど、顔は上げてくれなかった。そうだろう。
僕は全部わかっている。
「僕は皐月の描く世界が大好きだ。ただ、それはぜんぶ孤独でできている。僕がきみの孤独を壊すことは、本当に戦犯級のことだよ」
「……書けなくなってしまう。あなたを好きになったら、私はきっと書けなくなってしまうんです。小説は私のすべてです。私が書けなくなったら、あなたはきっと私をきらいになる」
皐月は今度こそ、僕を突き放して、肩にあった手を払って、決然と前をむいた。
「それだけはいやです。だって、私──」
唇を塞いだ。
これ以上の言葉が必要だったと思うか?
肩をきつく抱きしめて、もう片方の指は彼女の柔らかな髪を這った。
呼吸なんてできなくていい。
息なんて忘れて、キスが孤独だとわからせてやればいいんだ。
彼女が固まって、たとえこちらに応じなくても、それでいいんだ。
きみは書けないなんてことはない。何があっても──。
長いキスの間の──たぶん、皐月にとってのはじめてのキスの間の──最後の最後で、彼女は理解してくれた。僕が彼女の孤独を埋めるなどという愚かなことはしないのだと。
彼女は全身の力を抜いた。僕を受け入れてくれた。
「皐月」
たまらなく、愛おしい。
「付き合おうよ」