僕が皐月と出会ったのは、彼女が小説家としてデビューをする前だった。出会ったきっかけはよく覚えていない。僕にとっては、誰かと出会ったきっかけを覚えていないほうが、なにかと人間関係が長く続くというジンクスがあった。
 皐月は当初からほとんど人との交流がなかったので、合コンだとか、婚活パーティだとか、彼女の嫌う〝リア充〟の場で出会ったのではないというのが、少なくとも確かなことだ。
 ああ、そうだ、大学の図書館だ。彼女が普段近寄るところといえばそこしかいない。というか、彼女はほとんど図書館に住まう妖精だった。
 当時大学生だった僕は、好きな小説であれば断固新品を買って読むタイプだった。だけどその時たまたま金欠で、不本意ながら図書館で活字中毒を中和していた。
 あと二時間ほどで閉館になろうかという時刻にさしかかったとき、ふと、僕の席の斜め向かいの椅子が引きっぱなしになっていることに気づいた。テーブルには分厚いコピー用紙の束が置いてある。
 僕は一目で、それが作者以外の誰にも触れられていない、いわゆる別の意味での〝処女作〟であることにすぐ気がついた。誰かが忘れていったのだろう。
 少しばかりためらったけれど、印刷されて乾きたてインクの匂いのする原稿の束に指先で触れて、席に座った。
 なぜそうしたのか? この小説が、本好きでもない誰かに勝手に見られたり、巡回の用務員に捨てられたり、多読で批評家じみているかもしれない司書に回収されて陰でくすくすと笑われるのが、僕にはなんとなくいやだったのだ。
 誰かが作った物語は、それだけで神聖なものだ。
 もしかしたら閉館まぎわに作者が取りに来るかもしれない。取りに来なかったら、表紙に書いてあるペンネームを頼りに本人に返してあげようと思った。
 遠野皐月(とおのさつき)。それが小説の作者の名前だった。本名かもしれない。
 僕はなんと度し難い馬鹿だったのだろう。あれだけ他人に読まれたら嫌だろうなと思っていた原稿の一ページ目を、開いてしまった。
 すべてはその一ページのせいだ。まんまと引き込まれて、気づけば僕は外が暗くなるまで原稿をめくり続けた。だから、僕の真横で顔を真っ赤にしながら鬼の形相で見下ろす女性の気配にも、まるで気づかなかったのだ。
「返してください」
 押し殺した声に、僕は心底びっくりして視線をあげた。とたんに自分が何をしでかしたかに気づいて、そのまま飛び上がれるほどの勢いで立ち上がった。
「す、すいません。誰かが忘れていったみたいで、放置されたら可哀想だとおも──ぶっ」
 強烈な平手をくらった。
 彼女──おそらく皐月という名前の女性は、そのまま原稿用紙をひったくって閲覧室から出ていった。僕は平手の衝撃でほとんど千鳥足に近い歩調になりながら後を追いかけた。
 階段の踊り場で追いついた。女性ははメガネをかけていて、髪は染めておらず、化粧っ気もなかった。今どきの大学生にしては素朴な人だ。振り返った彼女は僕を睥睨(へいげい)していた。
「勝手に読んですみません。でも、これだけは言わせてください。──面白かったです。まだ途中だけど、もしよかったら最後まで読みたい」
「どうして人は原稿用紙を印刷しただけで、その文が何か凄いものだと思い込むんですか。なんでもかんでも面白かったなんて無責任なこと、言わないでください」
 僕はちょっと面食らった。どうやら彼女は僕の言葉をお世辞だと思ったらしい。
「お世辞じゃないです、本当に。最後まで読ませてくれなかったら僕はたぶん夜も眠れない。家にある積読(つんどく)用の小説なんて、きっと頭に入らない」
「いったい、どこがどうよかったというんですか」
「僕の感想を聞いてくれるんですか。だったら、お時間作ります。たぶん一時間じゃあ終わらない」
 僕の言葉を受けて、彼女はうつむいた。原稿用紙をぎゅっと握り、耳まで真っ赤になっていた。
 それが僕たちの出会いだった。