彼女には記憶がすべてだ。
 たとえ僕を失ったとしても、彼女の記憶だけは救わなきゃいけない。

 駅の改札から屋外へ出ると、むせ返るような夏の匂いが鼻の奥をついた。
 先方が指定した待ち合わせの場所は彼女の住むアパート付近の公園だったが、ほんの少し歩いただけでじわりとうなじやこめかみが汗ばんで、目的地に着く頃になると、僕はくたくたのびしょ濡れになっていた。今日の都内はかんかん照りで、夏休みの昼間だというのに公園には人っ子一人いない。日の避けられる場所を無意識に目で追うと、唯一木陰になっているベンチがあった。
 ベンチには先約がいた。全身黒ずくめの男だった。
「あ……」
 〝彼〟だ。
 待ち合わせの時に人相を伺っていなかったけれど、その黒ずくめの男が──茶色のメガネをかけて、いかにも胡散臭さを(ただよ)わせる若く細い青年が──僕の会うべき人間であるということは疑いようがなかった。
 青年は足を組んで、本を読んでいた。ハードカバーの単語本。
 どきりとした。
 青年が手に持っている本は、間違いなく皐月(さつき)の本だった。僕は恐る恐る、青年の横に座った。木陰の下は、先ほどまで日に焼かれていた僕にとってはひんやりするほどに感じられた。
「彼女、作家なんだってね」青年は本から目を離さず、声だけをこちらに向ける。
「は、はい」
 相手が失礼だとは思わなかった。この世で一人でも皐月の本を読んでくれている、つまり、皐月の世界を覚えていてくれることが、僕をひどく安心させた。
 青年の次の一言で、僕はその安心を打ち壊され、残酷な現実に引き戻されることになるのだが。
「──で、あなたは彼女の何を救いたいの?」
 青年には僕と皐月の事情を一切話していない。それなのにも関わらず、彼は僕らをとりまく状況のすべてを把握しているみたいだった。下手をすると、僕よりも。
 彼は本物だ。
「……皐月は、その、若年性アルツハイマー症で」
「へぇ」
「あれ、やっかいなんですよ。何を忘れたかを思い出せないのに、忘れたこと自体は覚えているんです」
「へぇ」
「進行を遅らせられるけど、完全に消すことはできなくて」
「要点を欠く会話はきらいだな」
 青年は一度だって、こちらをちらりと見ようともしない。
 ようやく僕は理解した。青年に逢えたからといって、ゴールというわけじゃない。僕の願いを叶えるかどうかは、彼の興味をどれだけ引けるかにかかっているのだと。
「で、あなたは彼女の何を救いたいの?」
 青年に先ほどとまったく同じ抑揚で再度問いかけられた。……三度目は無さそうだ。
「僕の願いはただ一つです。彼女から病気を取り除きたい」
 青年は背表紙を支えていた片手で本をぞんざいに閉じ、ベンチに置いて、やっとこちらを向いた。
 綺麗で透き通った肌をしていた。この暑さの中で黒づくめの格好をしていながら、一滴の汗もかいていない。とても男性だとは──いや人間だとは思えないほどの、超然とした美しい顔。とはいっても、目元は茶色のサングラスに遮られて、美貌の中の真意を見抜くことはできそうになかった。
「あなた、この本の作者の恋人?」
「婚約者です」
「ここまできて取り繕うことに意味はないよ」
「元、婚約者です」
 なるほど、と青年はつぶやいた。
「きみの願いを叶えるとなると、代わりにあなたの記憶をもらうことになるよ」
「わかっています」
 ──青年は『記憶を差し出す代わりになんでも願いを叶えてくれる』という、都市伝説のような存在だった。僕はどうにかこうにかネットと足を駆使してコンタクトをとって、やっとここまでこぎつけたのだ。心霊現象より荒唐無稽な伝説であろうともかまわない。僕は藁にもすがる思いだった。
「こう言うのはなんだけどさ。あなただけじゃないんだよ、そういう境遇の人。自分の恋人が記憶をどんどん取りこぼして、自分が愛した人間すら忘れるっていう状況。それでもみんな、病気と向き合っているわけでしょう。なのにどうしてこの僕が、ありふれた境遇の一人でしかないきみの願いを叶えなければならないの?」
「彼女は記憶がすべてです」
「だから?」
「たとえ僕を忘れるよりも、文を書けなくなることが、彼女の世界がなくなることのことが、きっと彼女の〝死〟です」
 くっ、と喉を鳴らして、青年はうっすらと口先に笑みを浮かべた。
「口先こそ説得力に欠けるけど、いいよ、叶えよう。代わりにもらうきみの記憶は……」
 意味深に言葉を区切り、茶色い眼鏡の向こう側の視線がこちらを射抜いてくる。
「きみ、生きてきた三十年分の記憶がいきなりごっそり消えるって、どういう気分だと思う?」
「それは」
 彼女を想うどころか、僕自身の今後の生活さえ、おぼつかなくなる。
「おぼつかなくなるだけで済むのならおめでたいねえ。記憶を甘く見ないことだ。自己存在意義(アイデンディディ)が根こそぎ奪われて、箸も満足に握れず、蓄積してきた人間的な感情もなくなる──ははっ、さながら獣だな。発狂するかもしれないし、その間の苦しみこそ地獄かもしれないが、きみ自身はそのことに羞恥を覚えることすらないんだ。だけど周りはどうだろう? そんなきみを構い続けてくれるだろうか」
 干上がってからからの喉の奥がくっついた。声が出ない。これはきっと、暑さのせいだけじゃない。
「怖気づいた?」
「……すこし」ざらついた声が出た。
「素直なのはきらいじゃないな」男は公園の日向(ひなた)にある時計台を見上げた。「十五時まで待ってあげよう。それまでにきみがノーと言わないのなら、十五時ちょうどに記憶をもらう」
 十五時まであと小一時間だ。
 記憶がごっそりなくなる。どんな感覚だろうか。彼女なら描写できるだろうか。
 僕はさきほどまで青年が読んでいた皐月の本に手を伸ばし、表紙を指でなぞっていた。
「あの……これ、借りてもいいですか」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 十五時になるまで、僕には引き返す時間がある。
 十五時を過ぎれば、僕は彼女のことを綺麗さっぱり忘れてしまう。
 覚悟はしてきた。皐月にとっては、僕よりも小説の世界のほうが間違いなく大事だ。物事を忘れるなどという理不尽極まりない病気のせいで筆を折るのは、あまりにも耐えがたい。
 あまりにも……。
 僕は皐月の書いた本を開いた。