8月11日午後18時36分、日の入り時刻を少し過ぎたあたりで夏木家のインターホンが鳴った。今日は、電車で数駅の湖の畔で花火大会が行われる。この家からは市役所の影に隠れて、ギリギリ打ち上げ花火は見えない。

「よっす。元気かよ」

 陽衣奈がドアを開けると、八賀夕夜がコンビニの袋一杯の花火を持って来ていた。

「もう晩飯食っただろ?花火やろうぜ」

 夏木陽衣奈と八賀夕夜は幼馴染である。幼稚園から地元の大学までずっと一緒に育った。そのため、お互いの家の夕食の時間すら把握している。夏木家の夕食はいつも18時に始まる。陽衣奈の両親と兄は医療従事者である。今日は3人とも夜勤のため、暦通り今日は休みの公務員の陽衣奈は一人で軽めの夕食を済ませていた。

 強引な夕夜に流されて、どこか浮かない顔をしている陽衣奈は庭へ連れて行かれた。バケツに水を汲む夕夜を横目に、陽衣奈は冷蔵庫からお盆に麦茶を用意した。縁側に置かれたお盆に、ポットとなみなみと麦茶の注がれたガラスのコップが2つ並び、あっという間に結露がお盆を濡らした。

 新品のライターを使い、慣れない手つきで夕夜がろうそくに火をつけた。そのあと、花火にろうそくから火をつけようとするが、その手つきは輪をかけてぎこちない。

「花火ってさ、最初のろうそくから花火に火をつけるところが一番難しいよな。1回ついちゃえばリレーみたいに、次の花火に火をうつせるけど」

「分かる。小さい頃、みんなで花火したときお父さんも同じこと言ってた」

 陽衣奈は少しだけ笑った。そうこうしているうちに、花火に火がついた。二人は縁側に腰掛けてしゃべりながら花火をする。

「お盆で友達みんな実家に帰ってきてるんだろ?昼にたまたま駅で会ったけど、あいつら陽衣奈に会いたがってたぞ。行かなくてよかったのかよ、花火大会。毎年行ってただろ」

「別に・・・・・・夕夜には関係ないじゃん」

 陽衣奈はそっぽを向いて、麦茶を飲み干した。手に持っていた花火が消えたタイミングで、麦茶を新たに注いだ。心を落ち着けて、新しい花火を取り出した。

 夕夜は失言をしたかもしれないと罪悪感を抱いていた。陽衣奈も言い方がきつくなってしまったことを反省していた。けれども、決定的に悪いことをしたというほどの大事ではない。お互いになんとなく、なかったことにしてしまいたかった。陽衣奈は、何事も無かったかのように夕夜に声をかけた。

「ねえ、火ちょうだい」

 陽衣奈は花火を夕夜の方に向かってつきだした。夕夜は、持っている花火の先をその花火に近づけた。色とりどりの火花が、陽衣奈の持つ花火に降り注いだ。

「なんか、エロいな」

「サイッテー。なんで男ってみんなそうなの?いつまでも中学生みたいに」

「え-、分かんないかな-。火、もらうのってなんかエロくね?」

「こういうときはロマンチックっていうの」

「陽衣奈はロマンチックなシチュエーションの相手が俺でいいのかよ」

 一瞬、二人の間に沈黙が流れる。

「嫌だけど」

「だろうな」

 はあ、と溜息をついて夕夜は麦茶を飲み干した。気まずさを掻き消すように、陽衣奈も麦茶を一口飲んだ。

「でも、やっぱり花火重ねるのってキスみたいでエロいじゃん」

「まだその話続けるの?ドン引きなんですけど」

 おちゃらけた口調の夕夜と、呆れた口調の陽衣奈。しかし、陽衣奈は呆れながらも少なからず沈黙を破ってくれた夕夜には感謝していた。

「でも、キスみたいなのはなんか分かるっしょ?」

「確かに、オリンピックの聖火を繋ぐのもトーチキスって言うけど・・・・・・だとしたら、もっと火って神聖なものでしょ」

「ほら!昔の人も火を移すのはキスって認識してたってことじゃん。俺の感性が正解だな」

「エロいって表現はどうにかならないの?大体、キスなんて幼稚園児でも普通にするじゃない?」

「分かる。今考えると、幼稚園の時ってなんであんなに大胆だったんだろうな?って、それはいいんだよ。逆に陽衣奈はなんで火をそんなに神格化してるわけ?」

「それは、火ってエネルギーの象徴みたいなものだし、トーチキスは一種の宗教的儀式だし・・・・・・生命の源って感じがしない?」

「うへえ。陽衣奈は真面目だなあ」

 花火の音が心なしか力強く聞こえた。原色に近い色の炎の星たちが、地面に向かって落ちていく。

「ほら、俺が言ってるのはアレだよ。シガーキス。二人でタバコ咥えたまま、タバコからタバコに火移して、二人で吸うヤツ」

「何がいいのか全然分かんないわ。趣味悪くない?」

「えー、超エロいじゃん。男のロマンだよ、ロマン」

 夕夜は花火を持っている手と逆の手で、タバコを吸うジェスチャーをした。

「シガーキスに憧れて、ハタチになって秒でタバコ吸ったらさ、陽衣奈が『臭い!近寄らないで!』とか言うんだもん。ひどいよなあ」

 数年前、夕夜は二十歳の誕生日当日に男友達とタバコを吸った後、大学で陽衣奈の隣の席で講義を受けた。タバコの臭いは陽衣奈からは大不評で、その後夕夜がタバコを吸うことは無かった。

「だって、タバコ大キライなんだからしょうがないでしょ」

「でも、センパイはヘビースモーカーじゃん」

 夕夜が陽衣奈の地雷を踏んだ。その瞬間、堰を切ったように陽衣奈が泣き出した。

「なんでっ・・・・・・そういうこと言うの・・・・・・」

「見てられないんだよ。センパイ結婚するんだろ、もういい加減吹っ切れよ」

 陽衣奈は大学時代から、二人の共通の知り合いであるセンパイのことがずっと好きだった。過去に二度告白しているが、いずれも玉砕している。先日センパイのSNSには、婚約の報告が載っていた。そして、今日はその婚約者と花火大会に行くことを知った。

 未練のある相手が他の女性と仲睦まじくしている様子を見るのはきっと耐えられない。だから、センパイと会ってしまうかもしれない花火大会には行けない。

「振られても諦められなかった。ずっと好きだった。私じゃセンパイに釣り合わないって分かってるけど、それでも、やっぱり忘れるなんてできない」

「釣り合わないって、そんな卑下すんなよ。陽衣奈は可愛いって」

「でも、センパイに好きになってもらえないなら意味ない」

「そんなこと言うなって」

「夕夜には関係ないじゃん」

「関係ある!陽衣奈が元気ないと、俺が困るんだよ!」

 二人が持っていた花火はいつの間にか消えて、白い煙だけが上がっていた。夕夜が張り上げた声に気圧された陽衣奈は、ぼそぼそとつぶやいた。

「夕夜のデリカシーない話延々と聞いてるよりは、よっぽど花火の方が癒やされるんだけど」

「そうだなー。じゃあ、花火再開するか」

 陽衣奈は少し落ち着いたが、まだすすり泣いている。夕夜が先ほどよりはスムーズにろうそくから花火に火をつけた。

「火、ちょうだい」

「はいよ」

 二つの花火の先が重なり、やがて陽衣奈の花火に火が灯った。陽衣奈はクロスするように鮮やかな色の火を放ち続ける二つの花火を泣きながらぼーっと見つめている。

「陽衣奈、こっち向けよ」

「何?」

 陽衣奈が夕夜に顔を向けると、夕夜は陽衣奈にキスをした。静寂の中に、花火のパチパチという音だけが響いていた。音が徐々に小さくなり、二つの花火の眩しさが同時に消えた。燃え残った先端からうっすらと煙が上がる中、夕夜は唇を離した。

 陽衣奈は唇をゆっくり二、三回ぱくぱくとさせた後、小さな声で尋ねた。

「なんで、キスしたの」

 嫌だとか、ドキドキするだとか、そういう感情の前に、「なぜ」という気持ちが大きかった。

「うーん、俺の元気を分けてあげようかと思って」

 夕夜は目をそらして、火の消えた花火をバケツへと投げ入れた。

「なんか、幼稚園の時に、同じこと、言われたような、気がする」

 しゃくりあげながら、陽衣奈は言った。その一言にしびれを切らした夕夜は頭をかきむしりながら声を張り上げた。

「あー、もう!ガキの頃と一緒にすんなよ!いい加減気づけよ!」

 その顔は、暗闇の中でも分かるほどに赤らんでいる。

「陽衣奈、好きだよ」

 真剣な眼差しで、夕夜は陽衣奈を見つめた。初めて見せる「男」の表情に、陽衣奈は夕夜が自分の知っている夕夜ではなくなったような気がした。

「やっぱり、夕夜って趣味悪い」

 陽衣奈は、夕夜の顔を直視していられなくて目を反らした。

「悪くねえよ、ずっと陽衣奈のことが好きだった」

「いつから・・・・・・?」

「陽衣奈がセンパイのこと好きになるよりずっと前から。俺がセンパイのこと忘れさせてやるから、俺とつきあえよ」

 陽衣奈は戸惑った。夕夜は勢いで思わず告白したが、慌てふためいているようにも見える陽衣奈を見て徐々に冷静になった。失恋直後につけこむような真似をしてしまったかもしれないと自己嫌悪を覚え、歯切れ悪くフォローした。

「まあ、お試しでもいいから。正式な返事は来年の花火大会までに聞かせてくれればいいからさ」

「そういうことなら」

 陽衣奈にとって、夕夜の提案はありがたかった。夕夜を男性として意識したのは、つい先ほどのことである。夕夜は彼氏として「アリ」か「ナシ」かと聞かれても、そんなことはつゆほども考えたことが無かった。寂しさを埋めるように付き合ってしまうのも、長年の想いを告げた夕夜を何も考えずに一刀両断にするのも、どちらも不誠実であるような気がした。とにかく、時間がほしい。

 夕夜は優しい。不器用だけれど、優しい。今日のような一人でいたくない日に、強引に押しかけてきてくれる気遣いが嬉しかった。女の子として肯定されて嬉しかった。夕夜の愛が温かかった。先ほどとは違う涙があふれてきた。自分でも、なぜ泣いているのかが分からなかった。

「これは、違うから。煙が、目にしみちゃっただけだから」

「そうだよなあ。煙いから仕方ないよなぁ」

 ベタな言い訳を夕夜は肯定した。袋から残り少ない花火を取り出して、火をつける。

「まあ、今日くらいは煙のせいにして泣いてもいいんじゃねえの?でもさ、明日からは元気になれよ。やっぱり陽衣奈は笑ってる方が良いよ」

 火のついた花火を陽衣奈に手渡した。陽衣奈は、ハンカチで涙をぬぐってからそれを受け取る。

「ありがとう。ちょっと元気出たよ」

「じゃあ、もう1回する?」

 夕夜が自分の唇を指さして、男らしい表情で笑った。次にするキスは、子どもの頃の遊びのキスとは違う。困惑する陽衣奈の視界に、手元の花火が入った。空いている手を花火の袋へと伸ばし、花火を一本、夕夜へと手渡した。

「花火でなら、いいよ」

 静かな夏の夜、2本の花火がキスをした。先ほどの唇の感触がまだ残っているような気がして、心臓の鼓動が早くなった。

 夕夜は、次に唇でキスをするときは陽衣奈が笑顔でいてくれたらいいと思った。陽衣奈は、昔から変わらない夕夜の強引さに振り回されっぱなしだと自嘲しながらも、来年の花火大会を夕夜と見に行くのも悪くないと思った。