好きになった人は吸血鬼でした。―さくらの血契1―【完】


「真紅―? おーい、ママじゃねーぞー」

「……え。ええっ!?」

がばっと飛び起きた真紅はうす掛け一枚握って窓際まで逃げた。

「なっ! 何あんた! どうやってここに入ったの! 警察呼ぶよ!」

「やっぱ混乱するよな……」

雑に頭を掻く。そりゃ、眠る前は出欠多量で死にかけていた真紅だ。そしてあの口ぶりは、今この場で血を吸いつくされ命を終えることを望んでいる言葉だった。

一瞬、何と言うか考えた。この反応だと、真紅に俺の血が馴染み始めていて、貧血状態からは脱したようだ。でも、落ち着け、と言ってこういう場合で落ち着いてくれたためしがあるだろうか。

いや、ねーな。

「真紅の血は甘い香りで美味しかった」

「はあ!?」

ものすごく危ない人を見る目で見られた。その反応を見てから、またもやそりゃそうだと思う。いきなり血の話って。吸血鬼だとは言ったけど。

「真―紅。憶えてないか? お前が最期まで一緒にいてくれるなら血をやるって言われたんだけど」

「そんな頭悪いこと言う奴がいるか!」

「いや、お前なんだけど」

とは、大声では言えなかったのでぼそっと言った。

「じゃあ、首に手ぇ当ててみ。牙痕(がこん)――この、牙の痕あんだろ」

と、口を開けて自分の牙を指して見せた。人間にはないほど鋭利な。真紅は目を見開き首に手を当てた。そして顔色を変えた。

「――きゅうけつき……?」

……思い出してくれたか?


そうだ。眠る意識の前。何かに襲われて斬りつけられて――殺されかけて、吸血鬼に助けられて、そして、血を求められて――そんな夢を、見ていた。

「……ほんとう…?」

大きく目を見開き、見知らぬはずの青年を見つめる。知らないはずなのに、名前がわかる。私は、彼が誰だか知っている。

「……れい………?」

そんな名前で、

「そうだよ」

「黎、明……の」

そんな意味で、

「憶えてるじゃないか」

「……私、死ななかったの………?」

自分は確かに、この人に命をあげたはずなのに。

「死ぬよ。俺が血をもらうからな」

黎明の吸血鬼が立ち上がった。私はびくりと身体を震わせ、布団で身体を護るように握り締めた。

「じゃあ――」

「でも、今じゃない」

黎明の吸血鬼は、言葉とともに足を停める。

「………」

長身のその瞳を睨み上げる。銀――さっきは月を背負っていた、その瞳の色。人間にこんな目の色はあっただろうか。

「今は死なせてやらない。俺は真紅の血がほしいから、死なせたくない」

「……何、勝手なこと……」

「そうだよ。勝手なことだ。俺の勝手な願望で、真紅を死なせたくないだけだ。真紅の血がほしいだけだ」

「な――」


何故だか顔が熱い。いや、そんな告白みたいな言葉を簡単に吐く奴がいるか。普通に恥ずかしいだけだ。嬉しいわけなんかじゃない――

「生きる理由がないならさ、俺を理由にしろよ」

「………」

「俺に血を与える、主にならないか。お前がいるから俺は生きていられる。それを、真紅が生きて理由にすればいい」

「何で、そんなこと――」

「んー、真紅の血が美味しかったから?」

ち? 血が、美味しかった……? ……それだけ? と言うか、血が美味しいから死なせたくないって、私はエサか?

ぶちいぃっ!

「消えろ変態!」

窓から投げ飛ばしました。

火事場のバカ力ってすごい。

「何なんだ、あいつは……っ」

ぜえぜえ息をして、とりあえず現実を取り戻すために何かしようと考えた。着替えようか、お腹が減っているようだからご飯を食べようか、それとも――あ、まずは服を替えないと。血まみれだって銀の人が心配してくれていたんだ。それから、貧血状態だから早く寝ないと――。あれ? そう言ってくれたのは……?

「………」

首元に手を当てた。続いて、肩口にも。

熱い。一瞬、焼けるような痛みが走った。――確かにここには傷があった。

「………ほんとうに……?」

助けてくれた?

………。

何で自分は眠ってしまったのだろう。ちゃんと起きて、出来事が夢である可能性もないと思える頭だったのなら、総てを信じられたかもしれないのに。

血、が、

  あなたをもとめている。

 あの、こっ恥ずかしいことを平気で言ってしまう――

 違う。

    あなたの息が、私の血を――



「……」

胸を衝く衝動に耐えられなくなって、窓から身を乗り出した。

ここは二階。下は植え込みになっているけれど――

「あ、やっぱ見た」

声は真正面からした。驚いて顔をあげると、私の部屋の前に立つ樹の枝に、黎明の吸血鬼はいた。

「このままシカトされたらさすがにどうしようかと思った」

軽く笑う黎明の吸血鬼を見て、また胸が熱くなる。どうしよう。……どうしよう。その姿を見るだけで、なんでか知らないけど、泣きそうになってしまう。それが恐怖からではないことだけは、わかる。

「ど、どうやって……」

「うん? 投げ飛ばされたのに乗じて飛び移っただけだけど? 距離が近くてよかったよ」

「私、死なせてって、言わなかった……?」

心の、小さな鍵付きの部屋に閉じ込めていた言葉。

誰にも言わないと、言うことはないだろうと思っていた、言葉。

夢か現かの世界で、私はそれを音として自分の耳に聞いていた。

私と同じ高さにある樹の枝に腰掛ける青年は優雅に微笑む。

「言ったよ。死なせてくれるなら、血をあげるって」

「……じゃあ、何で、私……、血、飲まなかったの……?」

「飲んだよ。いただいた」

「――じゃあ!」

「言葉は護るよ。お前は、最期のときに一緒にいてくれるなら、最期のときに傍にいて手を握ってくれるなら、って言ったんだよ」

「………」

「だから、俺はお前と一緒にいるよ。最期の時に手を握っててやる。お前が天命を待って死ぬまで」

「―――」

天命を待って、

  死ぬまで。

「私は今―――」

しぬべきなの。

ずっと鍵のかかった部屋にいた言葉。飛び出すならば、今しかない。


「……あなたは、誰なの? どうして私に、そこまでしてくれる……?」

今しかなかった。でも、もう言うことはない。

鍵のかかった部屋の、私の秘密の言葉。声に出せば叱られる願い。秘密の小さな願いだった。

部屋の鍵は開いた。中は空っぽ。

言葉、消えてしまった。見つめて来る銀の瞳の、その奥に吸い込まれるように。

とても、触れてみたい。この人に、優しくされてみたい。この人は、優しい。

 わたしにやさしい。銀の人。

身のうちの感情に困ってしまう。なんでこんな、初対面の怪しさ満載の人に一喜一憂されなくちゃならない。

この人にたくさん怒られたのは、たくさん心配していてくれたからで。

私の言葉もちゃんと聞いてくれて、この人なりの答えをくれた。

あ――こわく、ない。最初っから感じていたこと。この人は、怖くない、と。

「あの、寒い……でしょ? 投げちゃってごめんなさい……こっち来ていいよ?」

ぶっ飛ばした私が言うのも難だけど、もう冬になりかけている時期の夜だ。

「んー、それは駄目」

彼は困ったように首を傾げてからはっきり断った。さっきまでの強引に奪ってくるような態度とは違う。

「さすがにね、真紅。お前が男に免疫ないのはわかったけど、そういうこと簡単に言うのはやめな? 危ない」

「……あなた以外には言わないと思うよ?」

「………」

正直なことを言ったら、目をまん丸に見開いて顔を背けた。

「あ……の?」

「お前なー……」

低く唸るような声。だけれど、どこか朱を帯びた声音。

「あーもうダメ。絶対そっちへは行けない」


「えっ、でも……」

「だったら、真紅がおいで?」

黎明の吸血鬼は顔を背けたまま、瞳だけで私を見てきた。

「寒いから、ちゃんとあったかくして。俺のこと知りたいんだったら真紅が外に出ておいで。……危ない目には遭わせないから」

鍵を壊した。

自分を閉じ込めていた部屋の、鍵。

私が初めて見た外の世界は夜。銀色の輝きを背負って、優雅に立つ彼の場所。

そこに行きたいと、思った。

そこに、いきたいと。

そこで、生きたいと。





「ん。ちゃんと厚着してきたな」

彼は階段の下で私を待っていた。言われた通りにジャケットを着てマフラーを持ってきた。十月も終わりの今、常用するにはまだ微妙な時期だけど、帰りが遅くなったりするからもう出してあった。

「これ」

白と茶色のチェック模様に、幾筋かのピンク色のマフラー渡すと、黎明の吸血鬼は面食らっていた。

「男の人サイズの服はなくて……ないよりはマシかと」

言い訳をする私を見て、黎明の吸血鬼はまた軽く笑った。おかしそうに。

「ありがと。借りるよ」

受け取り、首に巻きつける。そのまま手を差し出して来た。

「近くに公園あったから、そこに行こうか。道端で話してるのも難だし」

「うん」

嬉しい。

どうしてか、黎明の吸血鬼の一挙手一投足が嬉しい。私は肯いてその手を取った。自分はどんな顔をしているのだろうか。黎明の吸血鬼にはどう見えているのだろうか。

笑っているの、かな?

「さっき起きる前にあったこと、ちゃんと憶えてるか?」


隣を歩く黎明の吸血鬼。背が高いなあ……。私は平均身長だから、その顔を見ようとすれば大分見上げる形になる。

「……私、あなたに助けられた、んだよね……?」

「俺の名前わかるか?」

「……黎。黎明の、れい」

憶えていた。知り合いにはいない名前。眠る前に聞いた名前。この人のものだった。

もう一度呼んだ。「黎?」と。

「あたり。ちゃんとわかってるな」

「黎さん?」

「呼び捨てでいい」

黎明の吸血鬼――黎は続けて説明した。

「俺が知ってることを簡単に言うと、マズい血を食わされて頭に来てたところにうまそうなにおいがして行ってみたら真紅が倒れてた。俺が行ったとき、既に意識は朦朧としてたな。そのときに血をくれって言ったら、約束してくれるならやるって言ったんだよ。で、俺も本当に最初は、血をいただいてそのまま送るつもりだったよ」

「……え?」

「最初は、死にたがってるんだったら死なせてやろうって思った。はっきり言って致死量くらいは流れてたし、俺が何もしなくても時間の問題だったよ」

「………」

「でも、いざ血をもらったら、お前が泣き声あげたんだよ」

「………?」

「指一本動かせなかったお前が、俺にしがみついて、音のない悲鳴あげた。『生きたい』、って」

「……………」

「そしたら何でかなー、死なせたくないって思った」

「………!」

「もしもだけど、俺の隣なら、生きてくれるかなって考えた。……つーか」


「……?」

「この子が生きているのを見たいって思ったんだよ」

「……!」

「あ、理由は訊くなよ? 俺も今んとこわかってないからな」

「あ、あの……ごめん、話が全部わからない……」

「んー、そうだなー。まあ要は」

「!」

黎が私の顎を捉えた。やや上向かされて心臓が跳ねる。

「真紅に生きていてほしい。叶うなら、俺の主となって」

「……えっと」

「言っとくけど、義務とか責任感じるなよ? 俺がお前を助けたのは俺の勝手だし。後悔しちゃいないけど、代わりに俺の言うこと聞こうとかいうのは筋違い。真紅の意思で、俺が近くにいるのを許してくれるんだったら、な」

「私の血でいいの?」

「ん? そこ?」

「いや、さっきマズい血って言ってたから。たぶん私の血はマズいと思うよ? 性格悪いし根性ねじ曲がってるし優しくないし」

「……それがお前の自己評価?」

「うん」

黎は顎から手を離して、私の頭をぽんぽんとした。

「はずれだな、それは。真紅はいいにおいがしてうまいよ」

……血の味の評価なんてされる人生、あるんだろうか。

「……黎がゲテ食いなんじゃなくて?」

「お前……自分のこと何て言い方すんだよ」

さすがに呆れた声を出された。

「つっても、俺は真紅のストーカーじゃねえし、真紅のことは何も知らない」

「知ってたら刑務所」

「俺は有罪確定なのか」

うん、拘置所ではない。

「まー、だから? 真紅のこと教えてくれないか?」

また、背中には銀の月。光を背にしたその姿が、微笑みかけてくる。


「……黎のことも教えてくれるなら」

「お前結構口上手いな」

「どうも」

「小埜黎。十九」

「二十代後半かと思った……」

「それはどういう意味?」

「黎さんが大人びているという意味です。それだけです」

年齢より年上……はっきり言って老けて見られるのは、俺はいつものことだった。けれど真紅に言われると……いじり甲斐がありそうだ。

「二十歳過ぎてたら承諾なしで婚姻届け出せたのになー」

「婚姻⁉ 黎、恋人いるの⁉」

あ、食いついてきた。予想外に反応が大きい。

「ちょ、何夜道ふらふらしてんの! 私彼女さんに申し訳ないことしてるじゃん!」

え。

「ちょっと、まこ

「駄目だよ彼女さんいるのに私にこんなことしたら、私顔向けできな

「落ち着けって真紅。彼女なんていねえし……」

真紅から離されようとした手を、摑み返す。震えていた。細く震えている。

申し訳ない? 顔向けできない? ……真紅に近づいたら、そんな風に思われるのか?

「……俺が真紅に浮気みたいな真似したから、申し訳ないって?」

「………」

真紅は首を横に振った。雫が飛んだ。泣いて……いるのか?

「黎に……彼女いる……いたら………私、……」

「うん。言ってみ?」

「彼女さんに、申し訳ない……」

「どうして?」

「こんな、優しくされたら………だめってわかっても………れいの、こと、………すきになっちゃうじゃん……」

「―――」

「だから、そういう人がいるんだったらもう私のこと……

「それって」

両手で真紅の頬を包む。上向いた真紅と視線が重なる。

「なりかけてくれているってこと?」