「それでは、発表いたします。今年度の優勝は……」

 俺は手を合わせて祈った。

「エントリーナンバー1番、姫川美月選手!ワールドレコードを更新しての優勝です!特にミルクパズルのスピードが人間離れしていました!」

 スポットライトが美月を照らす。頭が真っ白になった。

「続いて準優勝は門脇晴臣選手。同一団体所属選手によるワンツーフィニッシュは大会史上初となります。3位は……」

 拍手も何もかもが耳をすり抜けていった。表彰式のことは覚えていない。

 呆然自失状態だったが、誰かの「えー、美月先輩帰っちゃうんですか」の声に反応し、慌てて美月を追いかけた。今日が終われば、美月とはもう「サークルの仲間」から「他人」になってしまう。

「美月、待ってくれ!好きなんだ!9年間ずっと好きだったんだ!」

 みっともなくても、脈が無くても、言わずにはいられなかった。

「結局美月には9年間1度も勝てなかったけど、美月の隣に立てる男にはなれなかったけど、それでも好きなんだ!諦められないんだ!」

 美月が振り返る。

「だから、俺にもう1度チャンスをください!来年絶対勝つから、それまで待っててください!その時は、俺の恋人になってください!」

 俺は頭を下げた。この想いが届くまでずっと顔をあげないつもりだった。

「ごめんね。私は来年の大会には出ないよ」

「何で……?パズルやめるのかよ?」

 俺は驚きのあまり顔をあげた。もう極めたから充分と言うことなのだろうか。女性としても選手としても高嶺の花だったかぐや姫は誰の手にも触れられることなく姿を消すのだろうか。

「やめないけど……昨日、月に帰るって言ったの覚えてる?」

「まさか、本当に美月ってかぐや姫だったのかよ。月から来たのかよ」

「違うよ。さすがにその発想は理系らしくないのではなくて?正確には、月に“帰る”じゃなくて“行く”だけど」

「どういうこと……?」

「卒業したら、NASAに行くの。最近、NASAの有人月面探査計画が話題になっているでしょう?私、宇宙飛行士になるの」

 宇宙飛行士の試験にはミルクパズルがある。美月がそれを得意としていた理由に合点がいった。

「NASAって、アメリカ人じゃないと入れないんじゃないの……?」

「私、生まれがアメリカだから米国籍なの。色々な国に住んでいたけど、卒業後はアメリカに永住するつもり」

 何ということだろう。今日が終われば、二度と会えないかもしれない。

「嫌だよ、会えなくなるなんて……なあ、お試しでいいから俺と付き合ってくれよ。美月とこのまま他人になりたくないよ」

「何言ってるの?恋人として離れ離れになる方がずっと辛いに決まってるじゃない!」


 9年間一緒に過ごしてきて、負の感情を1度も剥き出しにしたことがなかった美月が大声を出した。声は荒げているものの、怒っているというよりは悲しんでいるように見えた。

「遠恋なんて絶対にうまくいかない!後で辛い思いするくらいなら、最初から1人の方がいい!」

「そんなことない!美月に勝つのは無理難題だったけど、海の向こうの美月を思い続けることは簡単だよ。むしろ、美月の忘れ方が分からないくらいだ!

「1番の親友も初恋の人もみんなそう言った!でも、時差があるからって電話もできなくなって、手紙の返事だってくれなかった!みんな私のこと忘れちゃったんだ!忘れないって約束したのに!今更、人のことなんて信じられないよ……」

 美月の頬を涙が伝う。きっと俺だけが今知った、美月の過去。

「だったら、最初からそう言えばよかっただろ。卒業後はアメリカに行くから恋人にはなれないって」

 パズルに正解は一つしかない。リアルでのコミュニケーションでも正論を突きつけてしまうのは俺の悪い癖だ。

「ごめんなさい」

「謝ってほしいわけじゃない。でも、あんなこと言われたら希望持っちゃうだろ。他のみんなは美月に勝つこと諦めてたかもしれないけど、俺にだけは希望をくれたって自惚れたくもなるだろ。美月から見れば俺もみんなも同じような実力だったかもしれないけど、俺だけは特別だって思いたくもなるだろ!」

「そうよ!晴臣くんだけは特別だった!晴臣君なら私に勝ってくれるかもって、晴臣くんなら運命を覆してくれるかもって思ってた!」

 自分から言い出したことだが、美月の返答に時が止まったように感じた。

「晴臣くんの気持ちにはとっくの昔に気づいてた。だって晴臣くんのことずっと見てたんだもの。でも、私から好きだなんて言えないよ。卒業したらアメリカに帰ることは決めてて、離れ離れになっちゃうから。でも、それでも晴臣くんのことが好きだったの。だから、もし奇跡を起こしてくれるような人だったら、もう1回だけ信じて見ようかなって……」

 考えるより先に体が動いていた。俺は美月を強く抱きしめた。

「好きだ。美月、行かないでくれ」

「駄目だよ。もう行くって決めたから」

「美月が恋人になってくれるまで離さない!一生大事にする。地球の裏側にいたって、月に行ったってずっと美月のことだけ考えて待ってる!美月の期待を裏切っちゃったかもしれないけど、それでも、もう1度だけ信じてほしい!」

 ありったけの声でもう1度美月に告白した。月が僕らを照らす中、沈黙が流れる。美月の小さな声がやがて聞こえた。

「私ね、ずっと待ってたんだよ。晴臣くんが私に勝ってくれるまで、他の誰にも負けないように頑張ったんだよ」

「うん、美月は誰よりも頑張ってた。そういう気高くてカッコイイ美月だから、好きだったし、俺も勝ちたいと思った。でも、それがプレッシャーになるなら他の奴らには勝ったら付き合ってあげるなんて言わなきゃよかったのに」

 言った後に後悔した。余計なことをいちいち言ってしまうのは本当に悪い癖だ。

「だって、あんまり酷い振り方してるなんて噂が立ったら、晴臣くんは私に告白してくれなかったでしょ?」

「この悪女……」

 ヘタレな本性をずばり言い当てられ、悪態をついてしまう。

「“恋人”に対して、随分ひどい言い草ではなくて?」

 涙目のまま笑う美月は、俺が身の程知らずにも好きになった高嶺の花そのものだった。

「美月、愛してる」

 俺は平凡な愛の言葉を告げた。美月と俺は月とすっぽんなのかもしれない。それでも、俺は明日も明後日も百年先も美月が好きだ。

「うん、知ってる」

「しばらく会えなくなるけど、その前にキスしてもいい?」

 18歳の春、美月に淡い恋心を抱いた。それが俺の初恋だから、俺は恋愛の作法なんて知らない。だから、カッコ悪くても小細工なしに美月に伝える。

「私のお願い、1個聞いてくれるなら」

「うん、何でも聞く」

「私以外の人に負けないで。私が帰ってくるまで玉座を守り続けて」

 美月が君臨し続けた玉座。僕はそこでこの先何年も美月を待ち続ける。海の向こうに思いを馳せながら、月を仰ぎながら。

「ああ、今度こそ約束するよ。美月が帰って来た時に、美月にふさわしい皇帝でいられるようにずっと勝ち続ける」

 かぐや姫は男に無理難題を突き付けると千年も前から決まっている。でも、美月が「お願い」をしてくれるのも、それを叶えられるのも俺だけだ。それに応えなきゃ男じゃない。

「じゃあ、前払いするね。約束よ」

 ふっと風が吹き抜けた。美しい黒髪をなびかせて、美月が俺にキスをする。満月が1つになった俺たちを照らして影を作った。

 数年後、美月は月面に降り立つだろう。それは静かの海か嵐の大洋か。1つだけ確かなことは、俺は月を見るたびに月の海にいずれ咲くこの世で1番美しい花を思い、そしてこの瞬間に交わしたキスのことを思い出すだろう。