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その日から数ヶ月後の4月3日、黄竜寺家は、早朝から、騒がしい朝を迎えていた。

使用人たちが働き始めてすぐ、普段ならまだ寝ている筈のこの家の一人息子、もうすぐ8歳になる紫紺が、使用人達の横を、物凄い早さで、パタパタと軽快に走り抜け、玄関から外へ駆け抜けていったのだ。

まだ、小さい紫紺が廊下を走っていくことは、珍しくないが、玄関の外まで駆け抜けていくことはない。

一瞬、驚いて固まったのち、皆が一斉に、紫紺坊っちゃまを追いかけていく。

『紫紺様〜。何処へ行かれるのですか?』
『紫紺坊っちゃま。待って〜。』
という声と、何処かへと走っていった紫紺坊ちゃまを追いかけていくドタドタとした足音が鳴り響いた。

30数分後、いつも落ち着いて、動じることの滅多にないこの家の執事長 道元が慌てた様子で、(あるじ)夫婦の寝室に現れた。

ノックをすることすら忘れ、
『大変です。悠然様。朝、早くに申し訳ありませんが、起きて下さい。』
とドア越しに声を掛ける。

少し前に騒ぎに目を覚ましていた夫婦は、道元までもが慌てていることに、どういうことか?と顔を見合わせた。

『起きているから、入っておいで。』

『はっ。失礼いたします。』
と入ってくるなり、珍しくしどろもどろになりながら話し始めた。

『紫紺坊ちゃんが、走って行きまして、庭に…庭の桜が、桜が……100年以上、咲かずの枝垂れ桜が、咲いています。』

これには、夫婦2人とも驚いた。

暫く、沈黙が流れた。

ふと、何かに気づいた顔をした悠然が、美郷に向かって口を開く。

『あの日から、丁度、10ヶ月くらいだね。美郷ちゃん。』

『あの日って…?』

『あの日だよ。まだ、空が白みもしない時間に、紫紺君が桜を見に行った日だよ。』

『あ〜、天使の羽の。あの日はいつ頃だったかしら。あの日、あの日………』

息子、紫紺が桜を見に行ったことは、すぐ、思い出したみたいだが、それがいつ頃か?思い出せない様子の美郷。

『あ〜、思い出した。あの日、あの後、綺麗に咲いた紫陽花を何輪か、雪音(ゆきね)に切ってきて貰ったわ。あの日は、……6月、…そうだわ。6月末頃だったわ。』

『それでですね。悠然様。紫紺様が、咲いた枝垂れ桜の前で、涙を流されたまま、動こうとなさらず……皆、困っておりまして。』

道元の言葉に、また、夫婦顔を見合わせた。

『とにかく、行こうか。美郷ちゃん。』

道元と共に、悠然、美郷夫婦が、庭の方に向かっていくと、直ぐ 、120年咲かなかった枝垂れ桜が見事な花を咲かせているのが、目に入った。

『本当に咲いているわ。』

『こんなに咲き誇るとは‼︎皆、驚くのも無理はないなあ。』

桜の木の近くまで行くと、桜の幹に手を添えた紫紺が静かに涙を流しているのが見えた。

幼い息子の思い掛けないほどの哀しげな姿に、母親である美郷は、思わず駆け寄った。だが、まだ、幼いというのに、泣きじゃくることもなく、気丈にも、静かに涙を流す姿に、抱きしめたい気持ちを堪え、

『紫紺君、大丈夫。』
と声を掛けた。

『お母さん。僕のお姫様が生まれて来たんだ。可愛い声で泣いたんだ。
だけど……とっても、哀しんでいるんだ。哀しみに心が染まって、今にも、消えてしまいそうなんだ。』

そう話す紫紺は震えている。

何の音も聞こえない沈黙が続いた。

『心が哀しみ染まって消えそうでも、例え、消えたように思えても、心というのは無くなったりしないものだよ。
紫紺君と君のお姫様の絆はとても深いようだ。だから、必ず10数年後、君達は、出逢うべき時に、出逢うさ。
その時、哀しみの分だけ、温もりをあげたらいいさ。』

そう言って、ジッと紫紺を見てから、父である悠然は言った。
『誰に言われなくても、君はきっとそうするだろう?』

『うん。』

『なら、一緒に哀しんでいる時間は無いよ。
僕みたいに、大事な女の子を守れるいい男にならなくちゃいけないからね。』

『……うん。わかったよ。お父さん。』

『じゃ、家の中にに戻ろうか。皆んな心配しているよ。』
と言った。

側にきた息子の頭をぽんぽんと叩くと、肩を抱いて歩き出した。

二人の様子にホッと肩を撫で下した妻の美郷と道元が、後をついていく。

玄関の前で、ソワソワしながら、この家の主一家が戻って来るのを待っていた使用人たちが、悠然に肩を抱かれて、歩いてくる紫紺の姿を見て、一様にホッと胸を撫で下ろした。

『朝から大騒ぎさせたね。もう、息子は大丈夫。それに、きっと、これから毎年、枝垂れ桜は、綺麗な花を咲かせるよ。
さあ、皆、仕事に戻って。』

当主の言葉に、一同、一礼をすると、一斉に、持ち場へ戻って行き、いつもの日常に戻った。