「……おやすみ」



 ぼくは小さくそう呟いた。数秒後、君は眠りに囚われる。その頭に指先を伸ばす。ゆるりとした熱が触れた場所から伝わってくる。そっと指先を動かしてその髪を梳く。ひとすじ、前髪が君の睫毛にぶつかった。目を覚ましてしまうかと思ったのだけれど、君は目を覚まさない。

 憂いの吐息が零れる。夜の闇に紛れて部屋を揺蕩う。

 君が次にその瞼をひらくとき、君はまた。

 そう思って、はは、と乾いた笑いが喉をこじ開けた。

 だって、そんなの――……詮無い事なのだ。どれほど願っても、君が今書いている作品が完結することはない。君の四番目の嬉しい日が訪れる訳でもない。

 君の時計は、ずっと、あの日から動かないのだ。

 窓の外ではザァ、と夏の風が吹いて、木の葉を揺らして過ぎ去っていく。花瓶に生けられたドーンピンクの薔薇は、相変わらず悔しいくらいに凛と月を仰ぐ。目の前ですぅ、と安らかな寝息をたてている君を見て、ぎゅっと唇を噛み締めた。







 アムネシア――まるで物語の中にでも出てきそうなこの病名は、この国の言葉では「記憶障害」と訳される。

 その意味通り、夜を迎える度に君の記憶はリセットされる。君の記憶を司る場所に神様が悪戯をしてしまってから、もう3年が経った。

 毎朝、君よりも先に起きてキッチンに立つぼくに、その大きな瞳を少しだけとろんとさせたまま、「おはよう」と笑う君は、3年前のあの日の君だ。



「今日は何の日でしょう?」



 フレンチトーストの甘い薫りが立ち昇る中、悪戯っ子みたいなお茶目な表情で、ぼくの肩辺りにまとわりついてくるのも、毎朝変わらない。だからぼくも、あの日と同じ様に笑って見せる。



「君の25歳の誕生日です!」



 ほんとうは、もう君は、28歳になる。



「せいかーい。ご褒美にちゅーしてあげまーす!」








 君の職業は、作家だった。君の言葉を借りれば、ことのはを操り、感情を生み出し、誰かに感動を届ける仕事だった。

 趣味として書いていた君をこの世界に引きずり込んだのは、他でもないぼくだった。理由は至極単純で、君の世界の片鱗に偶然触れてしまったのが、たまたま編集の仕事をしているぼくだった、それだけ。

 そんな風にたった1行で語られてしまうくらいの出来事なのだけれど、ぼくにとって君の世界に触れたことは、人生のターニングポイントと名前をつけてもよいほどの出来事だった。

 それほどに君の言葉で描かれる世界は美しくて、尊かった。ぼくが思った通りに、君の世界はたくさんの人に読まれ、感動を届けた。その感動は、つむがれた天の川のように、つぎつぎとまた新しい感動を生みだしていった。

 そうして、君の世界は――君だけのものじゃなくなった。




 それが、君の世界を、破壊した。












 君は頑張り屋さんだった。君は諦めが悪かった。君は負けず嫌いだった。

 それはきっと、長所としてあげられるべき君の性格だ。だけれども、君が「世界が求める君の世界」を創り出すことは、「ほんとうの君の世界」を削り、刻み、壊し、崩していった。

 ぼくはそれに気がついていながら、止めることができなかった。君という人は、恋人であるぼくを含め周りに自分自身の弱い部分を悟られることを嫌ったのだ。

 だからぼくは、君が苦しんでいると知っても、何もできないのだと思い込み、ただ傍観することしか出来なかった。出来ることなど、探せばいくらだって、その辺に転がっていたというのに。

 ああ、だからきっと、神様はあの日を選んだのだ。

 あの日。
 君の25歳の誕生日。



「……ぼくと、結婚してください」

「……はい……!」



 ぼくが、君に、プロポーズをしたあの日。

 君は、君の世界は、遂に決壊した。









 プロポーズをして、君が泣きながら笑って、嬉しそうに頷いた――その次の日、いつもと同じ様にキッチンに立つぼくの背に向かって、「おはよう」と声をかけて、君は言った。



「今日は何の日でしょう?」



 ひゅっと音を立てて、呼吸が止まった。ぼと、と手に持っていたウインナーがフライパンに落下した。油が跳ねて腕に散った。そんなの分からないくらい、心臓が煩く鳴っていた。

 数秒後に再開されたぼくの鼓動は、ひどく歪んでいた。



「……え?」

「だからぁ! 今日は何の日か訊いてるのー!」



 まさか、と思った。ふざけているのかとも思った。だからぼくは、バクバクと居場所を主張する心臓を無視して、笑って言った。



「君の、25歳の、誕生日――」

 ――の次の日。



 その台詞は、君の嬉しそうな笑顔によって、喉の奥に滑り落ちていった。



「せいかーい。ご褒美にちゅーしてあげまーす!」



 目の前が真っ暗になる、というのはこういうことをいうのだ、とぼくはその時、初めて知った。







 それから、毎日、君は「あの日」を繰り返している。

 病院に行った。懸命に状況を説明した。そうして、何処へ行っても、君の脳がキャパを越えてしまったという事実だけが僕等の間にすとんと落とされた。「ほんとうの君の世界」を吐き出すことが出来なくなった君の脳みそは、記憶を司る部分だけが壊れてしまった。どれだけ偉いお医者さんでも、君の病気に対する治療法を解明することは出来なかった。

 だから、繰り返し、繰り返し、君はあの日を繰り返した。

 そうして、ぼくも、繰り返し、繰り返し、あの言葉(プロポーズ)――を繰り返した。







 初めの頃、ぼくは寝る前の君に正直に状況を伝えていた。

 ぼくがそのことを伝えれば、君は、ぼくを疑うことなど一切せずに、君の世界の片鱗をその大きな瞳からぼろぼろと落とすみたいに泣いて、そうして、最後は「大丈夫、今日わたしが寝なかったらいいんでしょ?」と誤魔化すみたいに笑った。

 その笑顔は、痛くて、痛くて、見ているこちらが泣き出してしまいそうなくらい、切なかった。

 そういう日、君はいつだって寝ないように必死に目を見開いて、ぼくも隣でそんな君と一緒に起きていて、だけれども気がつけば、魔法にかかったみたいに眠りに引きずり込まれていて、そうして、は、と目を覚ますのだ。

 だから、いつからか、ぼくは君に正直に話すことを避け始めた。

 何度も何度も自分自身に裏切られたことを知った時の君――苦しい君の笑みなど、誰がみたいと望むものか。

 もう、充分なんだ。君は頑張った。よく、頑張った。苦しくて辛くて、それでも君は、笑って、笑って、……笑った。

 もう、いいよ。
 そんなに、頑張らなくても、いいんだよ。








 安らかに、眠る君。
 眠りは、深い。

 そっとその髪をもう一度梳く。ゆるやかなぬくもりが、ぼくの指先に滲む。君がわずかに身じろぐ。



「……ん」



 小さな声が、唇から零れる。苦しそうに諫められた眉根をそっと撫でる。君は言うんだろうな。おぼえてられなくてごめんって。あんなに大事な日を、繰り返させてごめんって。

 大丈夫だよ。

 今度は、君の代わりに、全部ぼくが、おぼえておくから。君との毎日を、毎時間を、毎分を、毎秒を――絶対に忘れないから。

 だから。君の世界が、また、想い出を刻めるようになるまで。



「――……ゆっくり、おやすみ」



 指先を滑らせて君の薬指で輝く指輪をそっと抜いた。また明日、君の薬指にそれをはめる為に。

 窓辺に飾られたドーンピンクの薔薇(アムネシア)は、今日もぼくの願い(夜明け)をその花びらに湛えて凛と佇む。

 窓の外で笑う月は、ただ世界の美しさを、滔々と照らしていた。

















<Dawnpinkにおやすみ/了>