瞼の上で煌めく光に、はっ、と目が醒めた。

 まだ寝たいと我儘を言う己の瞼をどうにかこじあけて、部屋を出る。トイレと洗面所を経由して、キッチンへ向かえばそこにいるのは愛しの彼。



「おはよう」



 そう声をかければ、ふふ、と小さな笑い声とともに「おはよう」と低い声が耳を撫でる。甘いにおいがふわりと鼻を擽って、わたしは彼の横へつつーっとすり足で近づく。



「危ないから離れてて」



 そう言う彼の言葉を無視して、わたしは彼の顔を覗き込む。ゆるやかに弧を描いた色素の薄い瞳がわたしの視線を受け止める。



「今日は何の日でしょう?」

「もーどうせ答えないと離れないでしょ……君の25歳の誕生日です!」

「せいかーい。ご褒美にちゅーしてあげまーす!」

「わ、ちょっ、あぶな、」



 愛しい人の唇に向かってキスをとばしたら、「コラ」と照れ隠しみたいに目を逸らして怒るあなた。へへっと笑って見せる。



「今日は、」



 あれ、何曜日だったっけ。きょとん、と言葉を切ったわたしの前にフレンチトーストの乗ったお皿を置きながら、彼は言う。



「水曜日ですよ、お嬢さん」



 わたしが言いたいこと、全部わかっちゃうなんてやっぱりすごい。



「あ、そっかそっか、てことはあなたは会社で定例会議ですね?」

「そうでございます。昼はお仕事なので、夜は美味しいディナーを予約させていただきました」

「やったー!」

「サプライズもあるよ」

「それ言ったらサプライズにならないんじゃ……?」

「はっ、そうだった」

「もー!」



 バシンと彼の背を叩く。「いった」と言いながら彼が笑う。わたしも笑いながら、彼の作ってくれたフレンチトーストを口の中にいれる。ふわっと甘さがほどけて、顔が弛んで、また花が咲くみたいに笑顔になる。

 うん。大丈夫。わたしは、まだ、大丈夫。



「じゃあ、いってくるね。仕事終わったら連絡するから、会社の最寄り駅で待ち合わせでもいい?」

「うん! おしゃれして待ってる!」

「おしゃれもいいけど、作家先生は〆切に間に合うようにしてくださいねー」

「分かりましたよぉ、担当さま! 次の〆切にはぜったーい完結させます! いや! 今日! 今日完結させる!」



 ぶーっと不貞腐れてそう言えば、彼はほんの少しだけ哀しそうな目をした気がした。気の所為かな。そう思いながら首を傾げれば彼はにやりと笑って。



「……おしゃれとかしなくても別に可愛いよ?」

「やっだもう、いきなり何!?」

「完結まで頑張るためのエール?」

「ぐぅ」



 くそー、こんな言葉で調子に乗っちゃうわたし。ちょろすぎる。でもさ、すきな人にそんなこと言われたら、嬉しくって笑っちゃうものでしょ?



「じゃあ、いってくるね」

「いってらっしゃい」



 彼がわたしの頭をひとつだけ撫でて、ドアを出て行く。わたしは彼がエレベーターに乗り込むのを見届けて、部屋に戻る。これが、1年間続いている、いつもの朝だ。








 わたしたちが付き合い始めたのは、2年前のわたしの誕生日だった。

 わたしはこんなんでも作家の端くれで、愛しの彼はわたしの才能を見つけてくれた人だった。初めて彼に声をかけられたとき、趣味で書いているだけだったわたしの世界が、誰かに認められて、そうして、必要とされるなんて幸せがあってもいいのかと思った。

 それを彼に話せば、彼は驚いたようにその瞳を大きく見開いて『当たり前じゃないか』と言った。『君の世界は、とても、美しいよ』と、ひどく真剣に私に言ったのだ。あまりにも真剣な顔をしているものだから、思わずふきだしてしまった。



「……ぷっ、」

「……!? え、いや、そのなんていうか」

「……あはは!」



 しどろもどろに弁解しようとする彼に、さらに笑いが零れた。気がつけば、うっすらと視界が滲んでいた。

 彼がくれたその言葉に、わたしは救われた。だからこそ、彼を含むわたしの言葉を認めてくれた人たちに、恩返しをしたい一心で言葉を綴ってきた。

 苦しいこともあった。辛いこともあった。しんどいときもあった。もちろん、自分が書きたいものと周りが求めるものとの間に隙間ができてしまうこともあった。懸命に埋めようと藻掻いて、藻搔いて、藻掻いた。

 そんなわたしだけれども、愛しの彼が日常の中で笑顔をくれるから。だから、まだ、大丈夫。







 洗濯物を干して、掃除機をかけて、朝ご飯の洗い物をして。そうして、カフェオレと小腹が空いた時のクッキーをお盆に乗せて、1年前から書斎として使っている部屋の扉を開けた。大きなデスクトップのPCが青い光を放って、わたしを迎える。

 そうそう、このPCにも思い出があって。

 一緒に住み始めた時に今まで書いていたノートPCが壊れてしまったので、どうせならと買いに行った。電気屋さんで、こんなに大きなPCじゃなくていいよ、と言ったのだけれど、「目が悪くなったら大変だろ」と彼は譲らなかった。



「このくらい大きい方がいい。ついでにブルーライトカットのフィルムも買おう」



 そう言ったのに、家に帰ってきてフィルムを見たらなぜだかブルーライトカット機能がほとんどないものだった。おそらく、隣に置いてあったものと間違えたのだろう。そこまでは普通なのだけれど、この人はいつだって、斜め上を行く。



「ブルーライトカットって、ブルーの光が反射すればいいってこと?」

「……?」

「マーカーで塗っちゃえ」

「本気!?」

「本気と書いてマジと読む」



 そんな冗談にわたしが目を瞬いている間に「ブルーライトカットをする為には何色にすればいいのか」などと言って、真剣に自分のスマホで調べ始めた時は、また涙が出るくらい笑ってしまった。

 PCの前に座って、Wordファイルを呼び出す。今書いている連載物が、もう少しで完結だ。今日は調子がいいし、本当に完結までいっちゃうかも。けっきょく新しく買ってきてもらったブルーライトカットのフィルムが貼られたPC画面をじっと見つめる。



『すきです。君の世界も、そうして、君自身のことも』



 そう告白されて、今日で2年。優しくて、いつだって笑わせてくれる素敵なひとだ。

 だから、わたしも、頑張れる。うん、頑張れる。







 そうして、夜。



「はー、美味しかったなー」



 お風呂を済ませてごろん、とベッドに横になったわたしの横に、相槌を打ちながら彼も寝転がる。窓辺に飾られたドーンピンクの薔薇が、今日の出来事が夢じゃないとわたしに教えてくれる。

 ドーンピンクの和名は“東雲(しののめ)”。夜明けの空を表すその色を湛えた薔薇の花をあなたはわたしに差し出して、『ぼくと、結婚してください』とそう言った。

 嬉しくて、恥ずかしくて、くすぐったくて、なんだか泣いてしまいそうで。ああ、これが、しあわせ、ってやつなんだろうな、と思った。あの時の感覚を、ずっと心に大事に閉じ込めておけたら。そんなことを考えていると。



「今日のメニューだったら何がすき?」



 そう尋ねられたので、うーん、と唸りながら今日食べたものを回想する。



「おさかなも美味しかったし、あーでも、ローストビーフ最高だったなー」



 もう一度食べたい、と笑って、あなたの方を振り向いた。は、と息が零れた。あなたの瞳に灯った憂いに、何故だか呼吸が苦しくなった。



「……どうしたの」



 そう尋ねれば、あなたは「なんでもないよ」と優しく笑って、わたしに言った。



「……そうだね、また、食べたいね」



 きゅっと唇を噛む。あなたがサプライズでくれた指輪をくるりと回す。

 これは、わたしとあなたの永遠の証。
 ねぇ、だから、こんなことを言っても、いいよね。



「来年も再来年も、ずっと一緒に美味しいもの、食べようね」

「……うん」



 視線が逸れる。そっと追いかけるけれど、出逢わない。



「再来年くらいには、こどももいたりして」

「…………うん」



 あなたの長い睫毛に、瞳が隠れる。

 ねぇ、どうして。どうして、そんなに、哀しそうなの。



「今日は、人生で三番目に嬉しかった日だよ」



 にししっ、と笑って見せれば、ようやくあなたはこちらを見た。



「……三番目?」

「一番目は、あなたに見つけてもらった日。二番目は、告白された時だよ」



 小さくそう言えば、あなたはきゅう、とわたしを抱き締める。ぬくもりと鼓動が、ゆるやかに伝わる。



「今日は、三番目。あなたにプロポーズされた、大事な日だから」

「…………」



 きらりとベッドサイドの橙色の灯りを反射して、わたしの薬指にはまった宝石が煌めく。あなたがわたしを抱き締める力が、強くなる。



「じゃあ、四番目はきっとぼくらのこどもが……生まれた時だね」

「そうかも」

「…………、」

「……泣いてるの?」



 涙で揺れた声の輪郭に、そう尋ねれば、数秒間沈黙が落ちて。すん、と鼻を鳴らしたあなたは、そのまま「ちょっと感動しちゃって」と笑った。だから、その頬に小さく口づけを落とす。ちゅっと軽いリップ音が鳴って、あなたが顔を上げる。



「もー。これからだってずっと一緒にいるんだから」

「そう、だね」

「だから泣かないで! ほら、明日になったら、今連載してる作品、完結させるからさ!」

「……あれ、今日完結させるんじゃなかったの」

「それは聞かないで!」



 ちゃんと明日こそ完結させるから、と電気のリモコンへ手を伸ばしたあなたに言えば、少しだけ静止した指先は、方向転換をして、ゆるりとわたしの頭を撫でた。



「……明日が楽しみ、だなぁ」



 そうして、あなたは、また、泣き出しそうに笑った。



「電気消すよー」

「はーい」



 ぱちん、とすべての灯りが消える。辺りが暗闇に染まる。わたしは寝つきが良い方なので、すぐに眠気が訪れる。眠る前に、どうしても、言いたいことがあった。別にいつだって伝えられるのだけれども、今日じゃなくちゃダメな気がした。



「ねね」

「ん?」

「……今日のプロポーズ、本当に嬉しかった」

「それなら、よかった、」

「この嬉しさがあれば、一生笑ってられると思うくらいには、嬉しかったよ」

「……そっか……、」

「ね、わたし、絶対忘れないからね」



 ほんとうに、ありがとう。そっと指先を伸ばして、彼の頬に触れる。暗闇で、彼の吐息が零れる音がする。



「ぼくも、絶対に、……忘れないよ」

「うん……おやすみ」

「……おやすみ」



 そうしてわたしは、すとん、と眠りにつかまって、そのまま、夢に堕ちる。