「西崎恭一と申します。ずっと鐘城(かねしろ)先生の大ファンで、一緒にお仕事がしたいと編集長に頼み込んだ甲斐がありました。どうぞよろしくお願いいたします」

 そう名乗った新しい担当編集さんは、私の描いている少年漫画の主人公に雰囲気が似ていた。背が高く男らしくて、垢抜けていて、堂々としている。この若さで凄腕編集者として評判らしい。
 目標のことだけを考えて、恋に現を抜かしている暇すらなかった私ですら、カッコいい人だと思った。彼が声を発した途端、二人しかいない会議室に色が溢れたかのように感じた。

「初めまして。鐘城護(かねしろ・まもる)です。光栄です。よろしくお願いいたします」

 鐘城護、本名・佐藤里桜(りお)。青春時代を少年漫画に捧げ、現在業界最大手の少年漫画雑誌で週間連載中。

「私が女って意外じゃありませんでした?」

 令和の時代だというのに、世間のジェンダーバイアスは未だに根強い。女が少年漫画を描くことをよく思わない人も少なくないので、男らしいペンネームを使っている。

「いいえ、全く」

 彼は微笑みながら即答した。ちらりと見えた歯並びから、持ち物の一つ一つにいたるまで手入れが行き届いていて完璧な人と言う印象を受けた。
 今日は挨拶だけということだが、ここまできちっとした人が相手だと緊張してしまう。私はしっかりした人間ではない。学生時代は忘れ物や遅刻の常習犯だった。
 それでも、人と違う道を生きるためには普通以上にしっかりしないといけない。両親の反対を押し切って上京して漫画家になり、一人で生きていくのは想像以上に大変なことだった。
 クリエイターとして、一社会人として自立すること。男社会で女が勝ちあがることは莫大なエネルギーが必要で、ロクに眠る間もない。今日も目の下のクマがひどい。

「先生はどうして漫画家になろうと思ったんですか?」

 西崎さんは手帳にメモをしながら、私に尋ねた。つけている時計も、手帳もブランドものだ。しかし、彼の持ち物の中で、シャープペンシルだけが浮いていた。透明でラメの入った、まるでキラキラしたガラスや水晶が好きだけれども本物は使えない女子小学生が使うような安物のシャープペンシルだった。

 シャープペンシルから、西崎さんの真剣なまなざしへと視線を移して応える。

「友達が、私の漫画を面白いって言ってくれたんです」

 この話は、誰にもしたことがなかった。メディアのインタビューでも言っていないし、前の担当さんも知らない。

「小学生の頃は両親が忙しくて、放課後は児童館で過ごすことが多かったんです。大体自由帳に漫画を描いて過ごしていたんですけど、自由帳をある時忘れてしまって……。それを同じクラスの子が届けてくれたんですよ。その子は私が漫画を描いてるところを何度か見ていたみたいで、気になって読んだらしいんです。それで、面白かったって。続きが読みたいって」

 私の人生を大きく変えたその子は、分厚い眼鏡の背が低くておとなしい子だった。下の名前は憶えていない。名字で呼んでいた。

「それがきっかけで仲良くなって、その子両親もほとんど帰らないみたいで、家に遊びに行かせてもらうようになったんです。その子の家にもたくさん漫画がありました。将来漫画家になれたらいいなって軽い気持ちで言ったら、絶対なれるよって言ってくれました。それで、その子に宣言したんです。じゃあ私、漫画家になるって」
「その子のこと、好きだったんですか?」

 西崎さんは今日初めて私の顔を見ないで言葉を発した。

「分からないです。恋とか、考えたこもとなくて。いまだに恋が何だか分かりません」
「でも、その子は先生のことが好きだったかもしれませんよ」
「それはないですよ。私は随分と中馬に無神経なことを言ってしまったから。あ、その子、中馬君って言うんですけど」

 突然、自分に縁のなかった恋愛の話題になり動揺した。思わず彼の名前を口走ってしまった。

「中馬君は夜も眠れないくらい悩んでたみたいで、授業中居眠りしてよく怒られてました。でも、私は気づこうともしなかった。中馬君が漫画読んでると嫌なこと忘れられるよねって言ったとき、私は酷いこと言っちゃいました」

 思い出すと涙がこぼれそうになるが、私に泣く資格なんてない。言葉を絞り出した。

「私は今楽しいけど、中馬は楽しくないの? って。そういうつもりじゃなかったって必死に謝られて、それが最後です。そのあと、私は風邪で何日か学校休んでしまって、登校したら中馬君は転校してしまっていたんです」

 私が学校に行ったとき、クラスのみんなはもう中馬のことを話題にしていなかった。中馬が心の内を話せるのはきっと私だけだったのかもしれない。中馬の親が離婚したことを、親経由の風の噂で知った。中馬のことを何も知らなかったのだと思い知らされた。

「家のことで悩んでるの、気づいてあげられなかった。力になれなかった。中馬は私に夢をくれたのに。私は何もできなかった」
「先生は何も悪くありませんよ」
「それで、今も思ってるんです。もし、私が漫画家になって、思いっきり面白い漫画を描いたら中馬もこの世界のどこかで笑ってくれるかなって。その瞬間だけでも、嫌なこと全部忘れてくれるかなって」

 あれから、寝る間も惜しんで漫画を描き続けた。そして漫画家になり、連載を勝ち取った。中馬が私の漫画を読んでくれたか知るすべはない。

「長々と語ってしまってすみません。失礼します」

 椅子から立ち上がり、一礼して西崎さんに背を向ける。部屋を出ようとしたとき、落ち着いた声で呼び止められた。
 
「先生、忘れ物ですよ」

 慌てて鞄を開けて漁りながら、机の上を確認する。私の私物はそこになかった。

「忘れ物だよ、里桜ちゃん」

 王子様がシンデレラにガラスの靴を差し出すように、西崎さんが私にガラスのようなシャープペンシルを差し出した。

「え……?」

 西崎さんは私に詰め寄ると、壁際に腕をついた。いわゆる壁ドンだ。

「僕との思い出語ってくれたのは嬉しいんだけどさあ、その割に僕の顔も名前も忘れてるなんてちょっと酷いんじゃないかなあ? 里桜ちゃん」

 私は西崎さんに本名を名乗っていない。「友達」が男の子だと私が言う前に男だと気づいた。嘘だ、なんで?理解が追い付かなかったが、懐かしいその名を呼ぶ。

「ちゅう……ま……?」
「正解。中馬恭一でーす。名字が変わったくらいで気づいてくれないなんて、傷つくなあ。僕はすぐに分かったのにさ」

 少しだけ不貞腐れたような口調で言う。男性とこんなに至近距離で会話をしたことがないので、心臓がバクバクと鳴っている。

「そんなカッコよくなってたら分かんないよ!」

 天パで、ちょっと出っ歯で、クラスで1番背が低くて、言っては悪いが今の私と同程度にはダサい雰囲気だった中馬がイケメンの好青年になっていたら誰だって驚く。
 パニックになりながら思わずそう答えると、余裕綽々だった中馬が少し頬を赤らめた。

「そりゃ、里桜ちゃんに釣り合う男になりたくて頑張ったからなあ。歯列矯正とか縮毛矯正とか筋トレとか。眼鏡もコンタクトにしたんだよ。あとは……」

 目を逸らしながら、少しおどおどとした口調に戻る。昔の中馬の面影を見た。

「何で初対面のフリなんてしたの?」
「ん? 僕、初めましてなんて言ってないよ? 里桜ちゃん忘れっぽいし、どれくらい僕のこと覚えてるか気になって探り入れてみただけ」

 言われてみれば……。しかし、十七年ぶりの再会だというのに、中馬はやたら落ち着いていた。

「意地悪……。気づいたなら、教えてよ!大体もっと驚いたっていいじゃん!」
「驚かないよ。だって、会う前から鐘城護先生が里桜ちゃんだって分かってたし」

 鐘城護の本名は非公開だ。女性であることすら、一部の人間しか知らない。

「何で分かったの……?」
「そりゃあ、気づくだろ。先生のファン第1号は僕なんだから。デビュー作読んですぐに分かったよ」
「だって……十七年だよ?」
「ああ、もうそんなに経つんだ。じゃあ、これ。里桜ちゃんが僕の家に十七年前に忘れていったシャーペン。ダメじゃん、大事な漫画描く道具忘れちゃ」

 中馬がシャーペンを私の顔の前に持ってきた。あの頃はトーンもGペンも持っていなくて、シャーペンで漫画を描いていたことを思い出す。

「それに、ちゃんと寝れてる? ちゃんとご飯食べてる? 里桜ちゃん体そんなに強くないんだから無理しちゃだめだよ」
「中馬……西崎さんこそ……」

 旧姓で呼びかけて新姓で呼びなおした。中馬は私を心配するが、不眠症気味だった昔の中馬を知っている身からすると中馬の方が心配だ。

「すごく呼びづらそう。中馬でいいよ。なんなら恭一って呼んでくれてもいいよ」

 中馬が悪戯っぽく笑う。どこまで本気なのか分からない。すごくからかわれている気がする。

「もしかして僕のこと心配してくれてる? そういやあの頃やたら寝不足だったなあ。里桜ちゃんのせいで」
「ごめんなさい……」

 そうだ。私はずっと謝りたかった。怒ってるならそれでいい。恨んでるならそれでいい。

「言い方悪かったな、ごめんごめん。親が仲悪いのは里桜ちゃんのせいじゃないし、むしろ里桜ちゃんと里桜ちゃんの漫画に救われてたからすごく感謝してる。さっきの話だけど、憧れの女の子の前で弱音吐く方が悪いっつーの。当時の僕、結構情けなかったからその辺の部分だけ都合よく忘れてくれたりしない?眠れなかったのは単純に恋の病ってオチ。里桜ちゃんは知らないと思うから教えておくけどさ、好きな子のこと考えると夜眠れなくなるんだよ」

 シャープペンシルを受け取る。私が過去の中馬を傷つけたのではなかったことに安堵すると同時に、新たな情報を整理するため復唱する。

「好きな子……?」

 中馬が大きく溜息をついた。

「いや、ここまで鈍いとさすがに漫画家としてどうよ……?」

 中馬の大きな手が私の頬を包み込む。そして、中馬は私にキスをした。

「ずっと好きだった」

 唇と唇が一瞬触れるだけの優しいキスだったけれど、頭がスパークする。中馬ってこんな積極的だったっけ……?

「会いたかったよ、里桜ちゃん」

 ぼーっとした頭の私を、中馬が抱きしめる。

「また中馬と会えるなんて思わなかった、こんな偶然あるわけないって」
「僕は会えるって信じてたけど、里桜ちゃんがそういうなら、運命ってことにしておく?」

 中馬は「偶然」を「運命」にさらりと言い換えた。私の人生の方向性を決めた魔法使いは、キザな王子様になって私の前に現れたようだ。

 中馬の言うことが本当ならば、恋を知りつつある私は、今日から今までとは別の理由で眠れなくなるのかもしれない。