どうせ私なんて生きる価値がない。生きる意味もない。消えたい。
 でも、消えない――。
 ならば強制的に私という存在を消したい。
 私なんて――いなくなってもこの世の中は困らない。
 もう、生きることを辞めよう。この大空に羽ばたいて最(さい)期(ご)を迎えよう。
 青空を見る。広い広いこの世界のちっぽけな自分に価値を見出せなくなった私は、飛び降りようとした。この高い世界から――。
 その時――。
「どうせあと一日の命なんだから、好きなことをやってから死んだら?」
 知らない少年らしき声が後ろから聞こえる。声の感じから同じくらいの歳だろうか。思わず振り向く。すると、きれいな顔をした少年が余裕の笑みで見つめていた。
「どうせ私なんて生きる価値がないとか、意味がないって思っていたんだろ」
 心を読まれた? 少年の髪の毛はやわらかそうだ。栗毛色で太陽の光が似合う。顔立ちは優し気で、それでいて少しばかりいたずらな瞳という印象だった。表情はあまり豊かではないが、どこか懐かしい気がする。飛び降りようとした私に声をかけた少年は意外な一言を放つ。
「俺、人の寿命が見えるんだよね」
「ウソばっかり」
「死神だからさ」
「なにそれ。どう見ても、普通の人間にしか見えないんだけど」
「普通の人間に見えなかったらこの社会で目立ちすぎじゃん」
「まぁ、そうだけど……」
 自称死神と名乗る少年の言い分をなぜかとても正しく感じた私は、飛び降りようとした橋から手を離していた。
「私の心の中が見えるかのような言い方ね」
「よく見えるさ。この橋に立つ人間は今まで何人も見たからな」
「死神なら死んでもらったほうが利益になるとか、営業成績が上がるとか、あるんじゃないの?」
「自己の利益とか他者との比較のない世界が死神の世界だから」
 その言葉にはなぜかとても説得力があって、言い返す言葉がなくなっていた。
「どうせ一日って――どうして私はあと一日しか生きられないの?」
「それ、やっぱり気になるんだ」
 にやりと笑う少年は、いたずらな顔をする。
「うん。気になるよ」
「今、死のうとしていたのに、自分の未来が気になるんだ?」
「矛盾しているかもしれないけれど、自分の価値が感じられなくなって、消えようと思っていた。でも、本当は自分には価値があるのではないか、そんな淡い期待の気持ちも否定はしないよ」
 空を見上げる。自分の価値は変わらないけれど、誰かと話をしたら少し気持ちが変化する。私の気持ちはとても単純で、まるで空のように変化しやすいらしい。
「死因は言えないけれど、君にはあと一日という未来がある。どうせ一日だけなんだから、やりたいことをやってみたらいいんじゃない? やりたいことを全部やってこの世界とお別れすればいい」
「やりたいことなんてないよ」
 世界一周旅行とか大金持ちになるとかいった大きな野望は持ち合わせていない。
 私にやりたいことなんてない。親に八つ当たりをされて、ただ学校に行って、つまらない嫌な時間を過ごして。苦しい気持ちが消えることはない。だから、私は消える選択をしたのだ。
 少年はあごを手で触れながら少し思案しているようだ。私なんかのために考えてくれる何者かがいる。そんなことを嬉(うれ)しいと思える私の感覚はおかしいのかもしれない。少し前に、飛び降りようとしていたのだから、感覚がかなりおかしいことは否定しない。
「そうだな。例えば、好きな人に告白するとか。この町の行ってみたい場所に行くとか。好きな物を存分に食べまくるとか。大きなことじゃなくていいから身近なことで気になっていたことをやってみたら。どうせあと一日なんだしね」
 少年の口調は平坦で冷静で感情があまり感じられなかった。
「じゃあ学校をサボろうかな」
 今までできなかったことだった。でも、多分一番やりたかったことだった。
「君のやりたいことって意外と小さなことなんだな」
 少年の言動に怒りを感じる。私の全てを否定されたような気がしたからだ。
 私に怒りという感情が残っていたことに少しばかり驚く。こんな小さなことで悩んできた自分が馬鹿馬鹿しいということに気づく。
 深いため息をつく。自分がいかに小さいことで悩んでいたのか。こんなにたくさんの人がいるのに、誰とも気持ちを共有することのできない自分。不器用な生き方しかできない自分。誰にも好かれない自分。自分が選んだわけではないけれど、こんな風にしか生きることができない自分自身にもどかしさを感じる。
 あぁ、なんてちっぽけなんだろう。
 私は、この空から見たらきっとちいさな粒でしかない。たしかに存在しているのに見えない空気中の気体のような自分。誰かの役に立つこともなく、誰かを困らせることもない。いてもいなくてもどうでもいい存在。
 ――まるで透明人間。
「学校が自分の世界の全てだから。行かなければいけないと思うだけで気が滅入るんだよね」
「学生は学校が世界の全部みたいなところがあるよな」
「世界は広いのに、学校と家庭しか世界はないんだよね」
「家庭も居心地悪いみたいだな」
 全てお見通しのような顔をする。
「まあね。居場所がないし。友達いないし、楽しいことも、何もないんだ。私には何もない」
「何もないってわけじゃない。君はたしかに今ここで生きている。君は存在している。お母さんのこと、大変みたいだな」
 少年はお見通しのような余裕な表情だ。
 この人には隠せない。死神ならば自分をさらけ出してもいいのかもしれない。どうせあと一日ならば、恥ずかしいと思う必要はない。そう思うと自然と言葉が溢れる。
「お母さん……体調悪くて、機嫌も悪くて。母子家庭だから、生活も苦しくてね。お金がないって苦しいね」
「たくさんの人間を見てきた。人間は大なり小なりみんな悩みがある。人から見たらちっぽけなものでも自分の中では超特大の出口のない悩みだったりするよな」
「こういう話ができる大人も友達もいなかったから、今日死ななくてよかった。生きていてよかった」
「感謝されるのも悪くないな。でも、君は生きることができる時間が元々少ない。だから、あえて俺は君に声をかけた。どうせあと少しだけなんだから今すぐ死ぬ必要ないってさ。生きていればいいことがあるっていう人もいるけれど無責任だよな。いいことがあるなんて保証もないし、いいことの基準も曖昧だしな」
「生きていていいことがあったのかもわからないけれど、あと何十年も生きるのは辛い。この世界はある程度決まりごとがあって、急にお金持ちになったりすることは難しい世界だから。私のような底辺の人間は、長く生きても大変な毎日が待っているの。でも、あと一日だけならば生きることができるような気がする。私、同年代の男子と話したことってほとんどないから、新鮮な感じだよ」
「君は、純粋で真面目な人間だ。だから、きっと疲れただけなんじゃないかな。この世界はコミュニケーション力が秀でていたり、世渡り上手と言われるような人間は底辺から這い上がることも容易な世界だ。学校サボってどこ行こうか?」
「あなたは仕事とかないの?」
「死神って束縛された存在じゃないから。好きなように毎日を行動しているんだ。結構気楽なんだよ」
 少しばかり口角が上がるけれど、笑うとまではいかない。死神少年はやはり自分をあまり表に出さない。
「死神が暇人とは意外。今日死ぬ人の枕元に立つとか、それを報告するとか、もっと多(た)忙(ぼう)なのかと思っていた」
「それ、思い込みだよ。君は高校生だろ。義務教育は終わったんだし、法律的には学校に行く義務もないんじゃないの?」
「そうだね。でも、お母さんが厳しいから」
「もう、帰らなければいいんじゃない?」
「でも、お母さんの看病とか家事もやらなきゃいけないし」
「あと一日で死ぬのに、看病と家事で終わってもいいの?」
「……」
 良心が痛む。
「やりたいこと、私なりに考えてみたの。まずは離婚してから会っていないお父さんに会いに行きたい。そして、小さい頃に住んでいた町で夕焼けがきれいな場所があって、そこに行きたいな。お父さんが住んでいる町なんだけどね。小さい頃の思い出がたくさん詰まった町なの」
「君にもやりたいことが実はたくさんあるじゃないか。人間ってさ、消えてしまおうって思う瞬間はとても突発的で衝動的なんだ。だから、その時に、誰かが声をかけると、自殺行為というものはたいてい止めることができるんだ。俺は、人間が残された時間をどう生きるのか、それを見ることが割と好きだ」
 真面目な顔で悪趣味を語る少年はもしかしたら少年ではないのかもしれない。多分、見た目が若いだけで、結構キャリアは長いような気がする。人間で言ったら、おじさんやおじいさんの部類くらい長生きしているのかもしれない。見た目は華奢で若いのに妙に落ち着きがあることにギャップを感じる。
「悪趣味なのね」
「気持ち次第で人はどのように変わるのかを見るのって結構面白いんだよ。好きなことをやっているとあっという間に時間が過ぎるだろ? でも、やりたくないことをやっている時は本当に時間がなかなか過ぎない。人は苦しくなると、どんどん現実逃避していく。そして、命を投げようとする者まで現れる。実に身勝手な生き物だけど、俺はそんな人間が割と好きなんだ」
「やっぱりあなたはおじさんだね」
「おじさんだと?」
 少年は少しばかり渋い顔をする。
「じゃあ、おじいさんかな」
「俺は、気持ちと見た目は若いんだ」
 見た目だけは若いと認めたような発言だ。
「歳を取っていることは否定しないのね」
 少年は少しばかり困った顔で沈黙する。
「やっぱり若くはないのね。あなたの名前を教えて」
「野神いずく」
「いずくおじさん……かな」
「いずくでいい」
 おじさんという言葉を必死に回避しようとするいずくを見ていると、少しばかり滑稽に見える。死神でも年齢を気にするものらしい。
「じゃあ、こっそりお父さんに会いに行こうかな」
「こっそり?」
「ちゃんと会う自信はないから」
「残された人生を選択するのは君自身だ。否定はしない」
「あなたは私を救ってくれたと思う。たとえそれが残り少ない人生でも私にとっては救いの神だよ」
「救いの神だと?」
 とても驚いた顔をするいずく。
「だって、私が今を生きようと思えたのはあなたのおかげだもの。「すくいのかみ」を並び替えると野神いずくにどことなく似ているしね」
「そんなことを言われたのは初めてだな」
 想定外な顔をするいずく。観察すると意外と面白い。
「初めて一番やりたいことをやっているのもあなたのおかげ」
「やりたいことって父親に会いに行くということか?」
「違うよ。学校をサボること。大人って学校という枠に縛られないから、もっと自由なのかなぁ」
 空を見上げる。大きな空を見上げるととてもちっぽけな自分を自覚する。
「大人って意外と不自由なんだよ」
「なんで? 学校がないのに?」
「学校がないから、生活しなきゃいけないから、大人だから不自由なんだよ。でも、大丈夫。君は大人になれないから、自由なまま消えることができるからさ」
 あっさりした顔で答えるいずくはミステリアスだ。そして、大人が不自由だということを断言するいずくは絶対に大人なのだろう。見た目は少年、年齢はおじさんなのだろう。
「さて、君のお父さんの町に行こうか。あそこの星空は最高にきれいだしな」
「たしかに。夕焼けもきれいだけど、星がビーズみたいにきれいなんだよね。見ているだけで、幸せな気持ちになるんだ。あと、さっきから君って言うけど、私には名前があるんだからね」
「さっきまで消えようとしていたのに、急な自己主張。厄介だな」
 いずくは怪訝そうに眉をひそめる。
「厄介って何よ。余命わずかな少女には優しくするべきよ」
「自己主張が強いタイプの人に多いんだよね。命を投げ出す人」
「そうなの? 私って自己主張が強いタイプだった?」
「自分の主張がうまくいかないから、投げ出すんだよ。ポイ捨て人間って俺は名付けているけれどね。人間の脳の思考はそういった理屈で作られているらしい」
「あなたはたくさんのポイ捨て人間に出会ったのね」
「実にポイ捨てする人間が多い。そして、君の名前は知っているぞ。小沢沙奈」
 腕組みをしたいずくと真っ直ぐに目を見て向き合う。
「私の個人情報である名前を知っているなんて、キモイ」
「キモイだと?」
 予想外の言葉に、いずくは反論するかのような勢いだ。
「これは、仕事上手に入れた情報だ。もちろん職務以外で個人情報を拡散させるようなことはないから安心しろ」
 妙に営業風な説明をするいずくは、お堅い行政の人間のようだ。もしかしたら、そちらの世界では公務員のような立ち位置なのかもしれない。
「残り少ない時間をその名前を背負って生きる。俺はそういった人間と向き合うから名前は大切だと思っている」
 やはり少年にしては妙な落ち着きがあると感じる。でも、見た目はとても若くてふわっとした感じのギャップがある。
「じゃあ沙奈って呼んで」
「呼び捨てでいいのか?」
「私、呼び捨てで呼んでくれる友達もいないから。仮の友達になってもらえたら嬉しいな」
「面白い奴だな。沙奈」
「今、呼んでくれたよね」
「あぁ、呼んだが」
「うれしい!!」
「喜怒哀楽が激しい人間だな」
 いずくはため息をつく。
「だから、落ち込むと這い上がれないくらい落ち込むのかな」
「どうせが口癖の小沢沙奈。どうせあと少しなんだから、やりたいことをやれ」
「あなたって、クールな男子って感じよね」
「クールな男子? 俺は現実的な性格なだけだ。無駄なことは嫌いだし、与えられた仕事をこなす義務感も持ち合わせている。それをこの世界ではクールと言うのか?」
「結果的にクールに見えるだけで、ただメンドクサイことが嫌いで真面目な人なんだろうね」
「解釈は勝手にやっていろ」
「そーいう男子ってあんまりいないから、新鮮だ。というか男子じゃなくて中年男性だっけ?」
「中年という響きは好きじゃない」
「否定しないところが割と好きだな」
「じゃあ電車に乗って行くとするか」
「神ならどこでも扉みたいな便利なアイテムを持っていないの?」
「人間、手間をかけたほうがいいこともあるだろ。だから、そういったものを提案はしていないんだ」
「そういう能力がないだけでしょ」
 いずくは無言のまま先を行く。電車に乗るため最寄り駅に行く。
 自分が先程まで行おうとしていたことはなかったことになっているのが不思議だ。多分、いつか迎える最期が近いことに安堵しているのかもしれない。終わりがないことは怖い。終わりがあるから、がんばることができる。試験などがそれにあたるような気がする。そして、卒業があるから、定年があるから、のように人生は多分終わりがあるから頑張ることができる。
 でも、永遠を望む人がいることは否定できない。きっと、そんな人は毎日が楽しいのだろう。死神は永遠なのだろうか? 
 ふと彼を見る。彼の存在は見えないらしく、私以外の人たちは気づくことなくすれ違う。彼に触れることもできないらしい。通りぬける人までいることに驚愕する。本当に、普通の人間ではないという事実。普通の人間が死神を名乗っているわけではないという事実を目の当たりにする。どうやらある意味本物の透明人間らしい。
 きっぷをにぎり、電車に乗る。窓の外を見る。
 懐かしい町に続く空はどこまでも鮮やかな青だ。雲は食べてしまいたいくらいきれいな白色。遠くに見える緑の木々は心を癒す。多分、一人ではないことが、どうせあと少ししか生きられないからということが、行動を起こさせてくれたのかもしれない。もっと早く行動できていたら――。
 私はとてももったいない時間の使い方をしていたような気がする。無限にあると思うと意外と何もしないで終わってしまうことはよくある話だろう。
 見えない死神と共に行く旅は心強く新鮮なものだった。死神というのはとても悪い存在に思えるが、いずくは違うような気がした。死へと導く仕事なのだろうけれど、悪魔みたいに陥れる存在ではなく、いかにいい生き方をして最期を迎えるかという導きを示してくれる存在のような気がした。
「あなたはきっといい死神だね」
 いずくは不思議な顔をして私を見る。今まで言われたことがない台詞なのだろう。
「あなたに出会わなかったら、私はきっとこんなにいい気持ちにならずに最期を迎えていた」
「それは良かったな」
 相変わらずの無表情。でも、整った顔立ちには出会ったことのない美しさがあった。男性に対して美しいと感じるのは多分初めてだ。
「あなたは、監視役なの?」
「そうなるな。わずかな命は最期まで使ってもらわないと困るからな。これは仕事だ」
「役所の人間みたいね」
「人間でいう役所の仕事は詳しくはわからないが、自分の使命はきっちりこなす。これは俺のポリシーだ」
「かっこいいね。死神って骸骨みたいな暗いイメージがあったけれど、あなたは神様みたい。見た感じも不気味さがないし。どちらかというとさわやか系?」
「神様の一種というのは当たっているな。実に勘が鋭い」
 褒めているのに照れた顔ひとつしない彼は純粋さがないのだろうか。そうか、少年じゃなかったんだ。中身はおじさんだ。そう思うと、少し胸のつかえがなくなる。
「神様と一緒に旅をして、好きなことをしてこの世界とさよならするんだ」
 決意を表明する。
「その時、沙奈はもっと生きたいと思うかもしれない。でも、決まったことは覆せないから」
 冷たい瞳の彼が何を考えているのかはわからなかったけれど、一緒にいてくれる人がいることはありがたい。そして、短時間なのに彼のことがとても信頼できる大切な存在だということに気づく。思わず赤面する。
「暑いか?」
 死神のくせに気を遣ってくれるいずくは優しい。その事実に心が揺らぐ。
「ねえ、私が死んだら、あなたと一緒にいることはできるの?」
 電車の中でひとりごとを言っている私の様子をいぶかしげに見る人もいたが、幸い人気は少なく客はまばらだった。はたから見たら私はひとりごとをぶつぶつ言っている変人だろう。そんなことはどうでもいい。どうせあと一日なのだから。
「一緒にいることはできないよ。沙奈は神の類じゃないだろ」
「残念だな」
「沙奈は無になる」
 平気で残酷なことを言う。好きだけど、嫌いだ。
「お父さんに会いたいってずっと思っていたの。でも、行くことができなかった。正確に言うと会いに行く勇気がなかったの」
「君のお父さんはまだ生きている。いつでも会えると思うから、勇気が出ないんだよ。あと一日と思うからできることもある」
 次の駅だ。もう何駅過ぎただろうか。意外と時がたつのは早い。
「ここだね」
 決意を込めて席を立つ。いずくと共に駅へと足を踏み出す。
「今、お父さんは自宅にいるよ」
 涼しげな顔でいずくは断言する。この人には全てお見通しなのだろう。
 神様にはかなわない。
「遠くで見るだけでいいの」
「個人の自由だから、何も言う権利はないけれど、お父さんが君を愛しているのならば、生きているうちに会いたかったと思うだろうな」
「お父さん……優しかったなぁ。でも、お母さんとはうまくいかなくて。お母さんをひとりにできなくて、私はお母さんと住むことにしたの。でも、お母さん、どんどん心も体も病んでいった」
「君が捨てようとしたわずかな命。そういう人に最期まで生きてもらうために俺は仕事をしているんだよ」
「でも、あなたが相手にするのは余命わずかな人だけでしょ?」
「俺の任務は決められている。時間的に何十年も監視することは難しいからな。そして、わずかな時間を有意義に生きてもらいたい。これは俺のポリシーだ」
 駅からすぐの借家にお父さんは住んでいる。昔、私たちが住んでいた家だった。庭の手入れが趣味のお父さんは相変わらず楽しそうにガーデニングをしていた。
「お父さん、変わらないな」
「声、かけたらいいんじゃないの?」
「緊張するよ」
「どうせあと一日なんだから、思い切って会って来い」
 そうか、これを逃したら二度と会えない。今生の別れというやつか。
「どうせっていう言葉はマイナスなイメージがあるけれど……私の場合、勇気がわく言葉になるよ」
 お父さんに向かって、勇気を振り絞り、声をかける。
「お父さん!!」
 お腹の底から声を出したつもりだが、震えた上にかすれてしまった。
「沙奈じゃないか。来るなら連絡してくれればよかったのに。ひさしぶりだな。元気か?」
 驚いた顔をしているお父さん。
 一言会話しただけなのに、涙が自然とこぼれていた。
 お父さんがいなかった時間を埋めるかのようにたくさん話をした。
 これからは私にはないけれど、今があればいい。
 どうせあと少しなのだから。
「どうせ」という言葉が私の背中を押してくれた。
「どうせ」は今の私にとって最強の言葉だ。
「さようなら。ありがとう」
「今日は楽しかったよ。また来なさい」
 お父さんにお礼を言って笑顔で別れた。
 お父さんは何も変わっていなかった。心の底から優しい笑顔で手を振ってくれる。
 これが最期になることはわかっているから、涙が瞳の奥から溢れてくる。
 でも、なんとかして溢れないように笑顔でごまかす。
 お父さんと別れた後、懐かしい町の丘に登り、町を一望することにした。
「きれいな夜景を見たいな」
「じゃあ、行こうか。絶景の夜景を見せてやるから、ついてこい」
 いずくは不思議な扉の前へ案内する。町の片隅に不思議な扉。なんでこんな扉があるのだろう。扉の向こうに足を踏み入れる。
 あれ――? 星ってつかめるんだっけ? 理論的には星をつかむことはできないはずなのに。だけど、私のまわりには事実、たくさんの星がある。それもひとつひとつが輝いていてダイヤモンドみたいにきらきらしている。ビーズをちりばめた世界みたい。きれいな星に囲まれた私はよくよく考える。
 ――気づいてしまった。
 ここは生きていたあの世界ではないということに。
「私、死んじゃったの?」
「あと一日とはいっても正確な時間は言っていなかったからな。正解だ」
「でも、無にはなっていないよ。まだ感情がある。そういうものなの?」
「これは、特別なことで、普通は無になるんだよ」
「どういうこと?」
「――ったく。星空の下で誓った約束を忘れちまったのかよ」
 いずくは少し視線を逸らす。
「ほら、生まれ変わったら一緒になろうって言っただろ」
「なに? 私そんなこと言った?」
「前世、俺は不治の病で死んでしまった。この世界では一緒になれないけれど、次に会ったら一緒になろうって前世で約束しただろ」
「前世?」
 そうだ。今よりももっと電気がなくて、星がよく見えていた時代の記憶が少しだけ脳裏に浮かぶ。
「俺は神として生きなければいけなかった。君は、人間として生きなければいけなかった。神として真面目に仕事をした対価として、好きな人の最期に付き添い、神として共に生きることができる制度を見つけた。だから、俺は君の死期を知ってようやく君を探し当てた」
「私、結局、何で死んでしまったの?」
「君はあのとき飛び降り自殺をしていた。でも、架空の世界に呼び寄せて、一日だけ生きていたら何をしたかを疑似体験させたんだ。君が満足できるように」
「じゃあ、実際私はあのとき死んでいたの?」
「その通り。あと、俺は死神じゃない」
「どういうこと?」
「救い神と言って、自殺をしようとする人が生きたいと思えるようにする仕事をしている。結構難しい仕事だ。でも、今回、君の自殺に間に合わなかった。情けないな」
「ありがとう。どうせあと一日って思ったら結構勇気がわいたよ。でも、あなたのことを思い出せないんだけど」
「俺と君は結婚しようと約束していただろ。じゃあ、思い出すまで俺の元で修行するんだな、救い神として」
「結婚?」
 想定外の言葉だ。
「どうせ俺たちは結婚する予定だったんだから、ついてこい、沙奈」
 無愛想ないずくは結婚を約束した相手だったらしい。でも、普通前世の記憶なんて覚えてないよ。
「どうせ思い出せなくても、あなたの傍にいたいと思っていたんだけどね」
 いずくの頬が赤くなる。見かけによらず意外と感情が豊からしい。
 どうせあと一日だから――どうせという言葉は魔法のようにプラスに働くこともある。言葉は救い神が使う最も有効なアイテムらしい。そして、どうやら目の前の人は前世に固い約束を交わした相手らしい。