夢から醒めて、逢いに行くから


 大内優芽の話がほんとうに見た夢なのか妄想なのかはわからないけど、俺にとっては知らない男とのデートののろけ話を聞かされているのと等しく。少しも楽しくない話を延々と聞かされているあいだに、バイト先のコンビニが見えてきた。

「俺のバイト先、そこ」

 目の前の横断歩道の向こう側にあるコンビニを指差して傘から出ようとすると、大内優芽が「リュウガ先輩」と引き留めてくる。

「一緒にどこかに行こうって話、まだ返事もらってません。夢の中でしたみたいなデート、私としてくれますか?」

 にこっと無邪気に笑いかけてくる彼女に、俺はまた少しもやっとした。

 この子は、俺と《《夢の中でしたみたいなデート》》がしたいのか……。

 《《夢の中で》》。それは、出会ったときからずっと大内優芽に言われ続けている言葉だ。

 今さらその言葉の何に引っかかったのか。自分でもよくわからないけれどイラっとして眉間が寄った。

「夢の中で充分楽しんだんだろ。なのに、現実で俺とデートする必要ある?」

 低い声で言うと、大内優芽の顔がハッとしたように強張る。冷たい言い方をしてしまった自覚はあったけれど、フォローしたり訂正しようとは思わなかった。

 暢気に俺を誘ってくる大内優芽に対して、穏やかな気持ちでいられなかったから。

「じゃあ、傘どうも」

 目の前の歩行者用の信号が青になるのを確かめてから、今度こそ傘を出る。

「リュウガ先輩、あの……」

 まだ俺を呼び止めようとする大内優芽を無視して横断歩道をコンビニ側に向かって走ると、彼女の声や気配はすぐに雨の音に掻き消された。

 結局濡れたな……。

 コンビニの軒先に避難すると、髪や顔についた水滴を軽く拭う。そうしたら、少し冷静な気持ちになった。

 大内優芽は傘を持っていない俺をバイト先まで送ってくれたのに。別れ際の俺は、彼女に嫌な態度をとってしまった。

 大内優芽が変な夢の妄想を語るのなんていつものことなのに。どうしてさっきはイライラして八つ当たりしてしまったんだろう。

 ため息を吐いて振り返ると、大内優芽がまだ横断歩道の向こうに立っていた。傘を持って茫然としていた彼女だったが、俺と目が合うと途端にパァッと表情を明るくする。

「リュウガ先輩!」

 大声で俺の名前を呼んだかと思うと、大内優芽が横断歩道を渡ろうと一歩踏み出した。

 歩行者用の青信号はチカチカと点滅していて、彼女が横断歩道を渡りかけたのと同じタイミングで白い軽自動車が右折してくる。傘で視界を遮られている大内優芽は、真っ直ぐに俺をみていて軽自動車には気付いていなかった。

「優芽……?」

 ほとんど反射的に、俺の足が大内優芽に向かって駆け出す。

 急ブレーキをかけた軽自動車のタイヤが濡れた道路をキュキューッと擦る音が響き、自分の状況に気付いた大内優芽が横断歩道の途中で足を止めて立ちすくむ。

「優芽……!」

 夢中で手を伸ばした俺の顔のそばを、風に飛ばされた大内優芽のビニール傘が掠めていった。


「そういえば琉駕、最近あの子につきまとわれてないよな」

 バイト先のシフト変更のラインに返信しながら日替わり定食を食べていると、俺の向かいで同じく日替わり定食を食べていた山口が、思い出したようにそう言った。

「あの子って?」

 鯖の塩焼きを箸で突きながら聞き返すと、山口がつり目を細めて眉を顰めた。いつもの倍増しで人相が悪くなっている山口を見て笑うと、「とぼけんなよ」と不機嫌そうに言ってくる。

 山口が言う「あの子」は、もちろん大内優芽のことだ。入学してきてから毎日のように付き纏ってきていた彼女を、俺はもう二週間ほど見かけていない。

「ケンカでもしたのか?」

「もともとケンカするほどの仲じゃない」

 山口からの問いかけに、皿の上でほぐした鯖を口の中に放り込みながら素っ気なく答える。

「なんかどうでもよさそうだな」

「山口こそ、なんであの子のこと気にしてんの? 美人な彼女がいるのに、浮気?」

 冗談交じりに笑うと、山口がムッとしたように眉間に力を入れた。

「違うよ」

「じゃあ、なんで?」

「俺はただ、心配してるだけ。なんだかんだ言って、琉駕、毎日つきまとってくるあの子のことを本気で嫌がってなかっただろ。何言われてもにこにこして、多少のことじゃ凹まなさそうだったあの子が来なくなるなんて。琉駕がよっぽどひどいこと言ったのかなーって思って」

 どうやら山口は、大内優芽がつきまとってこなくなった原因が俺にあると思っているらしい。

「俺は何も言ってないよ。向こうが俺のこと忘れちゃったってだけで」

 最後に話したときの大内優芽の顔を思い浮かべて唇を歪めると、山口が「は?」と怪訝そうに首を傾げた。

「2週間前に事故に遭ったって話しただろ。そのときにあの子、頭を打って脳震盪起こしてたんだ。たぶんそれが原因で、大学に入学してから事故までの数ヶ月の記憶が消えたらしい」

「うそだろ」

「びっくりだよな。事故で記憶失くすとかほんとにあるんだなーって、俺もびっくり」

 ハハッと空笑いする俺を、山口が茫然と見つめる。

「いや、笑いごとじゃないだろ」

「そう?」

 俺は大内優芽からそう言われて、笑うしかなかったけどな。


 2週間前の雨の日。大内優芽は信号の変わりかけた横断歩道を俺のほうに向かって駆け出してきた。

 そこへ、交差点を右折した軽自動車が横断歩道に勢いよく侵入してきて。反射的に道路に飛び出した俺は、大内優芽が軽自動車に轢かれる寸前に彼女のことを助けた。

 交差点に突っ込んできた軽自動車の運転手は40代手前くらいの女性で、路肩に車を停めたあと、すぐに俺たちの元に来てくれた。警察と救急車を呼んでくれて、事故後の対応も誠実だった。

 車を避けてふたりで道路に転がるようにして倒れたときに大内優芽はコンクリートで頭をぶつけたらしく、一瞬気を失った彼女は、救急車が来るまで無表情でずっとぼんやりとしていた。

 彼女の様子が気にはなったが、俺はやってきた警察に事故の状況を説明したり、バイト先に事情を説明したりするので忙しくて。安静にできる場所に彼女を座らせたまま、ゆっくり話ができなかった。

 事故のあと、大内優芽は念のため病院で検査を受けることになり、腕に擦り傷を負った俺も病院で治療を受けた。

 別々に診察を受けたあと、待合室にいた俺に声をかけてきたのは大内優芽の母親だった。

 彼女を助けたことを感謝されて、後日きちんとお礼をしたいからと連絡先を聞かれた。彼女のお母さんに差し出された手帳に、俺は少し迷って携帯番号を書いた。

 ラインのIDを書こうとペンを握った俺の脳裏にふっと大内優芽の顔がよぎって。それは、次に大学で会ったときに直接彼女に教えようと決めた。そうすれば、彼女が嬉しそうに笑う顔が見られるような気がしたから。

 だけど……。

 事故から数日後に再会した大内優芽は、待ち合わせ場所のカフェテリアにやってきた俺に他人行儀に話しかけてきた。

「リュウガ先輩……、ですか?」

 上目遣いに、自信なさげな顔でそう言われたときは何の冗談かと思った。

「あの、私、大学に入ってから事故に遭うまでのことをよく覚えてなくて。私とリュウガ先輩は、どういう関係だったんでしょうか」

 だけど、母親に持たされたという焼き菓子を俺に渡しながら訊ねてくる大内優芽の目は真剣そのもので。冗談を言っているふうではなかった。

「私、事故に遭いかけたところをリュウガ先輩に助けてもらったんですよ。夢の中で」

 初めて会ったときにそう言っていた大内優芽は、現実に起きた事故で全部忘れてしまっていた。

 俺のことも、妄想みたいな夢の話も。まるで、夢から醒めたみたいに。

 それ以来、大内優芽は俺につきまとってこなくなった。

 大学の中にいて、彼女と顔を合わさない日は一度だってなかったのに。事故以降は、彼女がどこで何をしているのかわからない。

 あまりに姿を見かけないから、もしかしたら彼女の存在自体が俺の夢だったんじゃないかと思うほどだ。


 俺の話を聞いたあと、山口は表情をなくして無言になった。怖い顔をした山口とともに静かに食事を済ませると、俺たちは午後の講義に出るためにどちらからともなく席を立った。

「琉駕、今日バイト?」

 なんとなく気まずくなってしまった空気を和らげるように、山口が普段通りを装って話しかけてくる。

「うん、さっきシフト変更の連絡がきて、予定よりもちょっと早めに入ることになった。次の授業終わったら、すぐ出る」

「ふーん。あ、来週の舞台の日はバイト入れんなよ」

「わかってるよ」

 来週の日曜日には、山口が入っている演劇サークルの舞台がある。新入生勧誘のために配ったチラシで宣伝していた、山口の彼女が主演を務める舞台だ。俺はもう随分と前に、そのチケットを山口から二枚分強制購入させられていた。

「二枚も買わせて誰と行けって言うんだよ」と、俺が財布から渋々チケット代3000円を支払うところを見ていた大内優芽は、「私がご一緒しましょうか」なんて、にこにこ笑ってたけど。そんな話も、もちろん忘れてるんだろうな。

 うつむいて頬を引き攣らせていると、山口が「あ」と、つぶやく。


 何事かと思って顔をあげたら、カフェテリアの入り口付近に大内優芽が立っていた。同じ学部の友達と連れ立って昼食を食べにきたのか、彼女の周りには他にも三人の学生がいる。

 大内優芽は入り口に置かれたディスプレイを見ながら、隣にいる男と話している。

 俺とは違う別の男に無邪気に笑いかけている彼女は、すごく楽しそうだった。顔色が良くて元気そうなところを見ると、事故後の後遺症も特になかったんだろう。

 山口と一緒にそばを通り過ぎるとき、大内優芽にちらっと視線を向けてみたけど、グループの仲間とのおしゃべりに夢中になっていた彼女は、俺に気付くことはなかった。

「あの子、ついこないだまで毎日琉駕のとこに来て、好き好きって言ってたのにな」

 講義室に向かう途中、山口が憤ったようにそう言った。なんで山口が怒っているのかは全然わからないけど、山口が代わりに愚痴ってくれたおかげで、俺は彼女の態度にあまり落ち込まずに済んだ。

「俺につきまとうのにも飽きたんじゃない? もともと、夢で会ったとかおかしなこと言ってたし」

 つきまとわれてずっと迷惑だったし。出会った頃からおかしなことばかり言う変な女だったし。

 数ヶ月つきまとっても連絡先すら教えない俺に、事故をきっかけに見切りをつけたって言うならそれでもかまわない。

 ただ……。