四時間目の授業のあとアウトドアサークルの部室に立ち寄った俺は、ドアを開けた瞬間に青褪めた。
入学式が終わってからそろそろ二週間。俺の所属するアウトドアサークルにも、新入生たちが毎日のように見学に来ている。
そんな新入生の輪の中に、今日は大内優芽の姿があったのだ。
どうしてあの子がここに……。
部室の入り口で立ち止まっていると、あとからやってきた同じサークルの浦部に肩を叩かれた。
「入んないの?」
「あー、うん。急用思い出したから今日は帰るわ」
作り笑いを浮かべて部室のドアから一歩二歩とあとずさる俺を、浦部が不思議そうに見てくる。
「琉駕?」
「悪い、今あんまり大きな声で俺の名前呼ばないで」
「何言ってんの、琉駕」
「だから、呼ぶなって」
顔を顰めながら小声でそう言ったとき、大内優芽がこっちを振り向いた。
「リュウガ先輩……!」
俺に気付いた大内優芽がキラリと目を輝かせる。
「あー、もう。だから呼ぶなって言ったのに……!」
浦部に愚痴ったところで、もう遅い。
大内優芽が新入生の輪を抜け出して、俺のほうに近付いてくる。走って逃げようとしたら、浦部のあとから部室に入ってこようとしていた別のサークルの仲間に通り道を塞がれて。俺はあっけなく彼女につかまった。
「やっと会えましたね、リュウガ先輩」
大内優芽が、嬉しそうに頬を紅潮させてにこりと笑いかけてくる。
「ああ、うん。ていうか、どうしてここが……?」
大内優芽と顔を合わせるのは入学ガイダンスの日以来、二週間ぶりだ。
「演劇サークルに行ったら、山口さんって方がリュウガ先輩はアウトドアサークルにいるって教えてくれたんです。友達の彼女の主演舞台のために、わざわざ演劇サークルメンバーのフリをしてサークル勧誘を手伝ってたなんて。リュウガ先輩ってすごく友達思いなんですね」
いったい山口は、大内優芽にどんな話をしたんだろう……。
焼き肉目当てで演劇サークルのチラシ配りを手伝っただけの俺のことを、大内優芽が純粋そうなキラキラした目で見つめてくる。
「リュウガ先輩との約束通り、拾ったチラシは学部の子たちにも協力してもらって全部配りましたよ」
続けて彼女からそんな報告を受けた俺は、「あ、そう……」と、思わず顔を引き攣らせた。
大内優芽に「連絡先を知りたい」と迫られたあの日。俺はもちろん、彼女に連絡先を教えなかった。
初対面で「夢の中で会って好きになった」なんて言ってくる変な女に、個人情報を教えられるわけがない。
だが大内優芽は「先輩がアカウント持ってるSNSのDMでいいです」としつこく食い下がってきて。困った俺は、その場から逃れるために条件をひとつ提示した。
「このチラシを俺の代わりに全部配ってくれたら、連絡先を教えるかどうか考える」
俺の提案を聞いた大内優芽は「約束ですよ」と言って、俺の手から演劇サークルのチラシを奪いとった。
「これ、全部配り切れたらまた先輩に会いに行きます」
にこっと笑って宣言すると、大内優芽は胸にチラシを抱えて、これから入学ガイダンスが始まる大講堂のほうへと歩いて行った。
大内優芽から離れることができてほっとしていると、自分の分のチラシを配り終えて俺を探しにきた山口に出会った。
俺の手元にチラシが一枚も残っていないのを見た山口は、俺が500枚のノルマを全て配り切ったと勝手に勘違いして喜んだ。
「さすが琉駕。約束通り、焼き肉に飲み放も付ける!」
山口が「これでユウミさんの舞台の席も埋まるといいなー」なんて、つりあがった目を細めて嬉しそうに笑うから、チラシの半分以上を地面にぶち撒けて放置してきたとは言い出せなかった。
その夜、山口は約束どおり、飲み放題付きで焼き肉を奢ってくれた。大学の近くにある店で焼き肉を美味しくいただいてしまった俺は、ますます山口にはほんとうのことが言えなくなってしまった。
山口にはこのまま事実を隠し通すしかないし、大内優芽とは今後顔を合わせないように気をつけるしかない。
さいわい、キャンパスは広いし、文学部だと言っていた大内優芽と経済学部の俺が遭遇することも滅多にないだろう。
そう思って、大内優芽の行動力を舐めていた。まさかこんなにも早く、俺を見つけて会いにくるなんて。
「チラシを全部配り切ったので、約束通り会いに来ました。今日こそ、連絡先を教えてくれますよね」
大内優芽がにこにこ笑顔で俺にスマホを見せてくる。
「考えるとは言ったけど、絶対に教えるとは言ってない。ていうか、俺、今日はもう帰るんだ。急用思い出したし。じゃあな」
笑顔の大内優芽から顔をそらして逃げようとすると、「ちょっと待ってください」と彼女が追いかけてくる。
「リュウガ先輩が帰るなら、私も帰ります。駅までご一緒させてください」
「は? なんで。サークル見学は?」
「見学は別に急がないし。私の目的は初めからリュウガ先輩なんで」
「なにそれ。怖ぇんだけど」
ボソリとつぶやいて歩く速度を上げると、大内優芽も俺に遅れまいとついてくる。
「歩きながらでいいんで、連絡先教えてください」
「いやだよ」
「でも、約束しましたよね。私が全部チラシを配れたら、連絡先を教えてくれるって」
「だから、『考える』って言っただけだ」
「えー、そんなのずるいですよ。リュウガ先輩の連絡先を教えてもらうために、初対面の人にも話しかけてめちゃくちゃ頑張ったのに……!」
「あんたのそういうところ、ほんと怖い……」
「え?」
「別に……。とにかく、俺は君のことよく知らないし、連絡を取り合いたいと思ってない。これ以上つきまとわれても迷惑だから」
キツめの口調で言えばさすがに諦めるかなと思ったけど、大内優芽はあまりこたえていない様子で、呑気にへらへらと笑っている。
「リュウガ先輩がつれないのは夢でも現実でも変わりませんね。せっかく二週間ぶりに会えたんだから、少しは愛想よくしてくれてもいいのに」
「会えたんじゃなくて、そっちが勝手に俺のテリトリーを侵略してきたんだろ」
「侵略って、私、怪獣か宇宙人か何かですか?」
冷たい態度で邪険に扱っているつもりなのに、ふふっと笑う大内優芽はなんだか楽しそうだ。
大内優芽に半ば追いかけられるようにしながら歩いているうちに、大学の校舎の外に出てしまう。このままだと、ほんとうに駅までついてこられそうな勢いだ。
どうすりゃいいんだ。俺が諦めて連絡先を教えれば離れてくれるのか? でも、な……。
大内優芽を遠ざける方法を考えながら横目にじっと見つめると、彼女がわずかに頬を染めてうつむく。
変な女だし、「夢の中で会った」って言う話も全く解せないけど、この子が俺を好きだってことは嘘ではないのだろう。目を伏せて照れている彼女の表情からはっきりと好意のサインが伝わってきて、俺は困って頭を掻いた。
女の子に好意を寄せられること自体は嫌じゃない。これまでに、全然話したこともない子から呼び出されて告白されたこともある。
だから大内優芽がもっとふつうに接触してきてくれたら、俺も彼女に対してここまで拒否反応を示さなかったかもしれない。
たとえば、「これまでにどこかで俺を見かけてて一目ぼれした」とか、そんなふうな告白のされ方だったら、多少は理解を示せたと思う。
だけど、「夢の中で出会って好きになった」とか「夢の中で俺と何回かデートした」なんて、どう考えてもやばい妄想の域だし。そんなこと言ってくる女に連絡先を教えた時点で、今度は「彼氏になってくれた」と勘違いされそうな気がする。
怪しいから、絶対優しくなんかしちゃダメだ。
ぐっと目力を入れて睨むと、大内優芽が不思議そうな顔で俺を見てくる。それから「あ」とつぶやくと、まぶしげに目を細めた。
「そういえばリュウガ先輩、二週間前に会ったときと髪型変わりましたね。前もかっこよかったですけど、私にはやっぱり夢の中で何度も見てきた今の髪型のほうがしっくりきます。その髪型、似合ってますよね」
大内優芽に横から顔を覗き込まれて、俺は少し身を引きながら頭の後ろに手をあてた。
今の髪型のほうが何度も見てきてしっくりくるってどういうことだ……?
入学ガイダンスの日から二週間は会っていなかったはずなのに、大内優芽はその間、俺のことをどこかから見てたのか?
俺が美容室に行ったのは一週間前。茶色に染めていた頭のてっぺんから黒い地毛が見え始めていたから元よりワントーン明るい色に染め直し、いつも担当してもらっている美容師さんに勧められて、ノリでゆるくパーマをかけた。
同じ学部の友人たちからは「似合ってるけど、なんか見た目がチャラくなった」と褒められたんだかけなされてんだがわからない評価を受けた髪を撫でつつ、大内優芽を見下ろして顔をしかめる。
「初めて会ったときから、あんたがずっと言ってる夢って何? 本気で俺の気を惹きたいくて言ってるんだとしたら、その妄想はヤバい。引く。ていうか、怖い。二週間ぶりに会ったのに、今の俺の髪型のほうが何度も見てきてしっくりくるってどういうこと? あんた、ほんとうはどこで俺のこと知ったの? ストーカー的なやつ? そうだとしたら、まずは学生課に相談に行くけど」
思わず声を尖らせると、大内優芽の顔から笑みが消えた。
やっと俺が本気で迷惑がっていることが伝わったか。
黙り込んでしまった大内優芽から顔を背けて離れようとすると、彼女が俺のTシャツの裾をつかんでて引っ張ってきた。
「待って、リュウガ先輩」
あれだけ言ってまだ引き止めてくるとか、どんだけメンタル強いんだ。
眉をしかめて振り向くと、大内優芽がやけに真っ直ぐな目で俺を見上げてくる。
おかしなことを言ってくる変な女なのに。できるかぎり関わり合いを持ちたくないのに。
黒目がちの純粋そうな瞳にジッと見つめられて、不覚にも俺の心臓がドクンと大きく脈打つ。大内優芽は変な女だけど、黙っていれば見た目は可愛い系の美人なのだ。
「なに? まだ何か用があるなら、本気で学生課に……」
「困らせてごめんなさい」
胸に過る動揺を抑えるように眉間にぎゅっと力を入れると、大内優芽が眉尻を下げて困ったように微笑んだ。その表情が一瞬泣き顔に見えてドキッとする。
つきまとわれて迷惑だし、できれば彼女を遠ざけたいけど、泣かせようとまで思っていたわけじゃない。
「わかってもらえればそれでいいよ。俺、もう帰るし」
大内優芽につかまれているTシャツを引っ張る。
だけど彼女は、くっきりとシワが寄るくらい力強さで俺のTシャツを握りしめて離してくれなかった。
「いい加減、離せって。伸びる」
俺の話を分かってくれたんじゃないのか。大内優芽の矛盾する行動に若干苛立っていると、彼女が一度きゅっと噛み締めてから唇を開いた。
「ごめんなさい。リュウガ先輩には、私の話なんてきっと意味不明ですよね」
「だから、初めからずっとそう言ってる……」
「夢の中で助けてくれたリュウガ先輩は、かっこいい私のヒーローでした。この半年の間、夢の中に何度も出てきてくれたリュウガ先輩に、私は本気で恋してたんです」
大内優芽が、真面目な顔付でまたわけのわからないことを言い出す。
「私、半年前まで、自分の人生も将来もどうでもよかったんです。だけど、大学生になった自分がリュウガ先輩と過ごす夢を見ているうちに、ちゃんと考えようって思えるようになりました。この大学を受験しようと決めてホームページを見たら、講堂やカフェテリアが夢で見たのと同じで驚きました。さすがにリュウガ先輩までは実在しないだろうと思ってたから、二週間前に現実で巡り会えたときはほんとうに嬉しくてびっくりしたんです」
「ちょっと待って。夢がどうとかって話はあんたの作り話だろ。俺の話、分かってくれたんじゃなかったのかよ」
「はい。あの夢を見ていたのは私だけで、現実のリュウガ先輩には何も共有されていないんだなということが改めてよくわかりました。でも私が半年間ずっと見てきた夢は嘘なんかじゃないし、何かの暗示だったと思うんです」
「は?」
「どうせ夢の中でも片想いだったんです。だからこれから、リアルのリュウガ先輩に好きになってもらえるように頑張ります」
大内優芽が、俺のTシャツの裾をきつく握りしめて宣言する。
にこっと笑いかけてくる彼女は、俺が心配しなくても心折れてなんかいなかったし、諦めてもいなかった。