最悪の知らせが俺の耳に届いたのは祐奈と病院で別れた次の日の事。
朝、一件の電話が俺を夢から覚ました。
電話の相手は石橋祐奈だった。でも、声の主は祐奈ではなく、祐奈の母親だった。
『祐奈の容態が悪くなった』
その電話を簡潔にまとめるとこうだった。
その言葉を聞いて、俺は何も言葉に出せなかった。
信じたくなかった。祐奈の容態が悪くなったなんて。
『だから、透夜くん。お願い、病院に……祐奈に会ってあげてください。お願いします』
スマホから聞こえてくる祐奈の母親の声は涙声で、震えていて、何度もお願いしますと繰り返し言っている。
『私は、母親らしいことを祐奈にしてあげられない。祐奈と一緒に居ると辛くて……私のせいで、祐奈がこんなにも辛い思いをしているって思うと合わせる顔が……おねがいします。祐奈にとって、透夜くんは――』
「そんなことないです」
俺は言葉を遮った。
そんなことない。祐奈の母親が母親らしいことをしてあげられてないわけがない。
「この前、石橋さんの家にお邪魔させていただいて、夕飯までご馳走になりました。その節はありがとうございました。その時の夕飯、祐奈の好きなものばかりだったんですよね」
『は、はい。結奈には好きなものを好きなだけ食べてほしいので』
「……僕は、小さい頃に母親を亡くしました。父親は夜遅くまで仕事なので料理は僕がほとんど担当しています。なので料理には自信があります。でも、祐奈のお母さんの作った夕飯は僕なんかと比べ物にならないほどに美味しくて、これはあくまで僕がその時に思った事なんですけど」
結奈の母親は祐奈の事を一番に思っているはず。だからこそ、辛く、自分のせいだと抱えてしまっているんだ。
「祐奈への愛情がそれだけ詰まっているんだろうなって。それだけじゃないです。母親と一緒に母親の手作りのご飯を一緒に食べる。それって当たり前って思うかもしれないですけど、凄く幸せな事なんです。そんな幸せを祐奈に与えれるのは母親であるあなただけです。なので母親らしいことをしてあげられないなんて言わないでください」
「……透夜……くん」
電話越しに聞こえる啜り泣く声。
「直ぐに向かいます」
俺はそう言って電話を切った。
ごめん、約束守れなかった。
昨日の約束を守れなかったことを心の中で謝罪しながら支度を済ませ、病院へ向かった。
病院に着くと、待合室には祐奈の母親。そして隣にはおばあさんらしき人が座ってハンカチで涙を拭いていた。
「あ、透夜くん」
俺に気づいた祐奈の母親は直ぐに立ち上がり俺の元へと駆け寄って来た。
そして深々と俺に頭を下げてきた。
「え、ちょ、ちょっと」
突然の出来事に俺は混乱してしまった。
「あ、頭上げてくださいよ」
どうにか頭をあげてもらおうとお願いしていると、今度は祐奈のおばあちゃんだと思われる人が俺の元にやってきて、俺の手を両手で握って頭を下げてきた。
「ま、待ってください二人とも」
「透夜さん。祐奈ちゃんから話は聞きました。本当にありがとうございます」
「あ、あの」
「私は祐奈の叔母です。昨日祐奈ちゃんから透夜さんとの思い出を楽しそうに話してくれました。あんな表情の祐奈ちゃんを私に見せてもらって、なんとお礼を言ったらいいか」
「ぼ、僕はまだ何も……」
俺は祐奈に何かしてあげれたのだろうか。
祐奈が楽しそうな表情をしたのは、俺と一緒に行ったからじゃなくて、俺と行った場所が楽しかったからなんじゃないのか。
それが分からないから、俺は二人からこんな頭を下げられるようなことはない。
「透夜さん。どうか、どうか祐奈ちゃんをお願いします」
まるで、自分の娘をお嫁に出す時みたいにおばあさんはそう言った。
俺の手を握るおばあさんの手は震えている。力を入れているからか、それとも――。
「はい。祐奈に会ってきます」
結局、俺がその言葉を言うまで二人は頭を下げたままだった。
昨日も同じ場所に立った。
今日もまた、ドアノブに手が行かない。
二人があれだけ悲しい表情をして、俺にあれだけお願いして、あれだけ泣いている。
覚悟を決めないと突きつけられた。
ドアノブを掴んだ手は小刻みに震えている。
深呼吸をして、ドアをゆっくりと開ける。
「…………透夜」
そこには、上半身を起こして目の前の机にノートを広げ、なにかを書いている祐奈の姿があった。
俺の姿を見るなり、直ぐにそのノートを閉じた。
確か、あのノートはあの時の……。
「ごめんね、約束守れなかった」
「俺の方こそ、ごめん。その、大丈夫なのか?」
「出かけてばっかりだったからちょっと体に負担がかかっちゃったみたい」
そう笑いながら言う祐奈。だけど、そんな辛そうな笑顔は見たことない。
「ごめん。俺がもっと祐奈の身体の事気にしていれば」
「ううん。透夜は何も悪くないよ。私が自分の身体の管理もできないからいけないの」
続けて祐奈は、
「透夜、来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。今日も、明日もこれからも一緒に過ごすって約束しただろ」
「そうだね、約束したもんね」
そして祐奈がベッドの隣に置かれた椅子を指さして「座って」と言ったので座った。
「ねぇ、透夜。私透夜の話し聞きたい」
「俺の話?」
「うん! 私もっと透夜の事知りたい」
「でもそんな話すようなことないよ? 今までなにか頑張ってきたわけでもないし、どこか旅行に行ったこともない。楽しかったことなんて祐奈と出会うまでなかったんだから」
毎日同じようなことの繰り返しだった。
朝起きて学校に向い、授業を受け寄り道は一切せずに家に帰り、夕食を作って食べてお風呂を沸かす。学校からだされた課題を終わらせて小説を読んで眠りにつく。
休日は昼まで寝て、起きてもベッドに寝ころびながらスマホを触り、気づいたら夜になっている。
そんなことを繰り返しているだけの日々。
そんな日々を変えてくれたのは祐奈だ。だから、俺も――
「俺も祐奈の事をもっと知りたい」
「え? 私の事?」
「色々知りたい。まだ全然祐奈の事を分かっていないから」
「ふふ、じゃあお互い様って事だね。それじゃあ二人で気になってること聞き合いっこしよっか」
俺は首を縦に振って答えた。
「じゃあまず私から! 透夜の誕生日教えて!」
「そんな事で良いのか?」
「うん!」
「五月二十九日だ」
「え、もう少しじゃん! 祝ってあげるね!」
今まで誕生日なんて親か祖父母からしか祝われてこなかったから少し驚いた。
俺にも、祝ってくれる人ができたんだと。
「ありがとう」
「どういたしまして! じゃあ次は透夜が質問して良いよ」
ずっと、ずっと気になっていた。
その疑問を祐奈に聞くことにした。
「どうして、祐奈はどうしてあの時俺にゴールデンウィークを一緒に過ごそうって言ってくれたんだ?」
祐奈と初めて出会った時、祐奈は俺に手を差し伸べてきた。
「俺は確かにつまらない日々をずっと送って来た。でも、出会って数分しか経ってない俺にどうして一緒に過ごそうって思ったんだ?」
不自然だった。
祐奈が出会って数分しか経ってない、しかも異性に貴重なゴールデンウィークを一緒に過ごそうと言ったのが。
「私ね」
すると祐奈は少し表情を曇らせて口を開いた。
「周りの人を悲しませてばかりだったから。お母さんもお父さんも、大好きなおばあちゃんもおじいちゃんも、友達も。私が病気でいついなくなってもおかしくないって知って凄く泣いちゃって。それが私凄く辛くて、病気って事よりも辛くて、悲しくて」
祐奈は心の底から辛そうな声色で話し続ける。
ああ、胸が痛い。
「私は皆に笑って、明るく過ごしてほしかった。人生は一度きりなんだから、勿体ないよ。私はそんなに頭良くないから、私が笑顔で居れば皆笑顔になってくれるって思って。なるべく笑顔で居ようって決めたの。それくらいしか考えが出なくて。皆っていうのは両親と祖父母だけじゃないよ? 透夜もその一人。私の周りの人みんなの事。だから私は透夜に声をかけたの。透夜に笑顔になって、人生を楽しんでほしかったから」
すると祐奈は顔をあげて俺に微笑んだ。
「だから透夜。透夜は沢山笑って、私がもし居なくなっても沢山笑って、人生を楽しんでね。私からのお願いだよ?」
…………無理だ。
そんなの無理に決まってる。
祐奈が居ないのに笑顔になれるわけがない。
でも、それを言ったら祐奈は辛い思いをしてしまう。それも絶対に嫌だ。
だから俺は――
「うん」
「ありがとう! それじゃあ次に私ね!」
その後も、俺と祐奈は交代で質問をし合った。
でも、祐奈の質問は殆ど大した質問ではなかった。
好きな食べ物、好きな小説。好きな動物、行ってみたい場所。
そんな事ばかりだ。
「じゃあ最後の質問」
祐奈は少しだけ間をおいて、
「透夜の好きな人教えて」
少し恥ずかしがりながら、頬を赤らめて質問をしてきた。
「それは……昨日言った」
「言ってないよ。誰が好きなのかは言ってない」
「…………祐奈」
いざ目の前で伝えると恥ずかしい。
自分が誰かに好きと伝える日が来るなんて思ってもいなかった。
出会ってたった数日しか会ってない祐奈に、俺は恋をした。
すると祐奈はさらに顔を赤らめた。多分、俺も顔は赤い。
「ありがとう、透夜。私を好きになってくれて」
祐奈の頬に一滴の涙が伝った。
「ッ! ご、ごめんね。涙が……泣いちゃダメなのに……ッ‼」
気づいたら、俺は祐奈の事を抱きしめていた。
「とう……や……?」
「ごめん、急にこんなことして。でも、どうしてもこうしたかった。目の前で大好きな人が辛い思いをしているのに何もできなくてごめん」
「うっ……わ、私も……大好きだよ、透夜」
涙を我慢している声色で言う祐奈。だけど、その我慢は長くは持たなかった。
今まで辛かった分の、今まで我慢していた分の涙を祐奈は流した。
俺の胸で、多分今まで誰にも見せてこなかったほどの涙を流した。
ただただ、祐奈の頭を撫でることしかできなかった。
「俺には、ありのままの祐奈で居てくれ」
一人も素の自分で話せる人が居ないのが、更に祐奈を追い詰めていく。
「俺の前では我慢なんてしなくていい。俺は祐奈から色々なものを貰った。俺の一生をかけても返しきれないくらい、色々もらった。祐奈からじゃなかったらもらえてなかった。そんな祐奈にこれくらいの事しかできないのが辛いけど、もう我慢なんてしなくて良いから」
祐奈は俺の言葉を聞いて、さらに強く俺の事を抱きしめた。
「大好きだよ、祐奈。俺の人生に色を塗ってくれてありがとう」
「ッ! 透夜……こほっ、こほっ。私も大好きだよ……」
「だ、大丈夫か!?」
「うん、大丈夫。ちょっと泣きすぎちゃったから」
「そっか。それなら良かった」
もし祐奈に万一の事があったらと気が抜けない。
ナースコールを押す事しか俺にはできないけど……。
「ねぇ、透夜」
「何?」
「……一つだけ我儘言っても良い?」
「一つだけ何て言わないで、幾らでも言っても良いよ」
すると祐奈は俺の目を見つめ口を開いた。
「私と、もう一日だけ付き合ってください」
祐奈の泣いて赤くなった瞳は、真剣に俺の目を見つめている。
「…………いやだ」
「………………だよね。ごめんね。変な事言っちゃって」
「一日だけなんて絶対に嫌だ」
俺は一日だけの恋人関係なんて嫌だ。
ずっと、ずっと祐奈と恋人関係でいたい。
何年も、何十年も。俺の死が訪れるまでずっと祐奈と特別な関係で居たい。
「俺はずっと祐奈と特別な関係で居たい。だから祐奈、俺と付き合っ――」
「それはダメ! …………ダメだよ」
俺の告白を、祐奈は声をあげて遮った。
「私と付き合っても、透夜に良いことなんてないよ」
「そんなわけないだろ!」
「そうだよ。だって私、直ぐに透夜の前から居なくなっちゃうんだよ? 私いやだよ。透夜が、大好きな人が辛い思いをするのは。その原因が私だったら尚更嫌だよ。私、自分の事が大っ嫌いになっちゃう。自分が許せなくなっちゃうよ」
徐々に弱くなっていく祐奈の声。
「それでも……それでも俺は祐奈の彼氏になりたい。俺は、永遠に祐奈の恋人で居たい」
これからの長い人生。俺は祐奈を永遠に愛したい。
俺は祐奈に、永遠の恋をした。
「嬉しい……嬉しいよ。だけど、だけど……」
「俺は、祐奈と特別な関係になれない方が辛い。辛くて辛くて、泣いてしまうかもしれない」
すると祐奈は顔を上げ、膨れっ面をして口を開いた。
「透夜のバカ…………後悔してももう知らないから」
せっかく顔を上げてくれたのに、祐奈は直ぐに俺の胸に顔をうずめた。
もっと、君の顔を見ていたいのに。
けれど、今はしょうがないから胸を貸してあげよう。
「後悔なんてするわけないだろ」
「もう知らない。どうなっても知らないもん。だから――永遠に透夜を私の特別な人で、私を永遠に透夜の特別な人で居させて」
「ああ」
「ありがとう……ありがとう透夜」
その後も、祐奈は中々顔を上げてくれなかった。
「ごめんね、暗い雰囲気になっちゃった。楽しい話しよ、ね?」
「そうしよう。どんな話する?」
「う~ん。じゃあこれからの話をしよう!」
祐奈は人差し指を立てて元気よくそう言った。
さっきまでの祐奈とは違う。元気で明るい祐奈。
「私ね、花火見たい! 七月の終わりくらいにやってる花火大会に透夜と行きたい! それと浴衣着たい! 浴衣を来て透夜と花火見て透夜に浴衣似合ってるねって言ってほしい」
「祐奈ならなんでも似合いそうだな」
「それからそれから、クリスマスも透夜と過ごしたい。透夜と初めて出かけた時に行ったテーマパークのクリスマスツーリーを透夜と一緒に見るの!」
「ああ、見ような」
「透夜は何かしたいことある?」
「俺は……祐奈のやりたいことをしたい。祐奈の行きたい場所に行きたい。沢山出掛けたい。どこでも良い。祐奈とならどこでも楽しめるから」
祐奈と出会ってから、三日連続で遊びに行った。
どこも特別好きな場所でも、気になっている場所でもなかった。
けれど、祐奈と一緒に居ると楽しく思えてきて、どれもかけがえのない思い出になった、
「そっか! じゃあ透夜はすごーく沢山出かけることになるよ? 私やりたいことたくさんあるから!」
そう言って祐奈は他の行きたい場所、やりたいことを俺に楽しそうに話してきた。
今度は海で一緒に泳ぎたい。学校でもう一度二人で昼食を食べたい。文化祭を一緒に回りたい。体育祭を一緒に楽しみたい。新年を一緒に過ごして、初詣も一緒に行きたい。
どれも本当に楽しそうで、一生の思い出になることばかりだった。
「あ、もうこんな時間なんだ」
ふと、窓の外を見ると夕暮れ時だった。
「透夜と一緒に居ると時間があっという間だよ」
「それは俺もだ」
一日がもうすぐで終わってしまう。
祐奈との大切な、貴重な一日が。
俺にとって今までなんてことのない一日の大切さを祐奈が教えてくれた。
「そうだ。私達の記念日として写真撮ろ!」
「うん。良いよ」
「ほら、こっち来て、夕焼けを背景にしよ?」
「夕焼け好きだな」
「綺麗だもん」
そんな話をしながら俺は反対側へと回り、祐奈の頭の位置までしゃがんだ。
「じゃあ撮るよ――――あ」
写真を撮ろうとスマホを持ち上げようとした祐奈だが、スマホが祐奈の手から下へと滑り落ちて行ってしまった。
「大丈夫か? 俺が撮るよ」
祐奈のスマホを拾い、写真を撮ろうとすると祐奈は俺の手を掴んで止めてきた。
――冷たい。
祐奈の手は、指先は凄く冷たかった。
部屋が寒いわけじゃない。俺の手も冷たくはない。
「祐奈……」
「ごめん。手が痺れちゃって。私のじゃなくて透夜のスマホで撮ろ?」
「え、俺ので?」
「うん。だって透夜のスマホでは一枚も私たちの写真撮ったことないでしょ? だから私たちの特別な関係の始まり記念と同時に透夜のスマホでの初めての写真記念!」
確かに、俺のスマホでは一度も写真を撮ってこなかった。
何故、撮らなかったのだろう。
あんなにも楽しいと感じていたのに、写真を一枚も撮らなかった。
もしかしたら、だからこそ撮らなかったのかもしれない。
「じゃあ撮るよ」
俺と祐奈、そして夕暮れ時の景色が映るようにスマホを構えた。
そして、シャッターを切った。
「それ、私にも送って」
「今送る」
「ありがとう」
今まで祐奈から沢山写真は送られてきていた。だけど、俺から写真を送るのはこれが初めてだ。
「ねぇ、透夜」
「ん? ――ッ!」
スマホから祐奈へ目線を向けると、祐奈の顔がゼロ距離にあった。
柔らかい感触と共に、祐奈の良い匂いが鼻孔をくすぐる。
たった数秒の出来事でも、数分の様に思える出来事。
これが、もっと続けば良いのに。
「大好きだよ、透夜」
「…………俺も」
お互い赤くなった顔を隠すようにそっぽを向き、お互いの想いを伝えた。
「あっ」
すると突然祐奈は全身の力が抜けたかのように前へと倒れた。
「おい、大丈夫か」
俺は何とか祐奈がベッドから落ちる前に支えた。
「ごめん。力が入らなくて」
「ちょっと待ってろ、今医者を呼ぶから」
「待って!」
ナースコールを掴もうとする手を祐奈が掴んだ。
「本当に大丈夫だから。本当に」
「大丈夫って、万一の事があったら」
「お願い。もう少し透夜と一緒に居たい。もし今お医者さん呼んじゃったら多分透夜は帰らなくちゃいけないもん。もっと透夜と居たい。今日だけ、今日だけ我儘聞いて、透夜」
祐奈のお願いを聞いても、俺は医者を呼ぼうと思っていた。思っていたけど……手は勝手に自身の太ももに触れていた。
「ありがとう、透夜。私は大丈夫だから。もう少しだけ透夜の隣に居させて」
そう言って祐奈は俺の腰に腕を回した。
「透夜の匂い、安心する」
「俺匂いするの?」
「うん。良い匂い」
「臭いって言われたら泣いてた」
祐奈は笑いながらも、俺の胸に顔をうずめたままだ。
ずっと、ずっとこの時間が続けばいい。
明日なんて来なければいい。
今日がずっと続いてほしい。
永遠に、五月二日で良い。
でも、時間は俺の願いなんて聞いちゃいない。時計の針は一定のリズムで動き続ける。
「石橋さん。入りますよ」
しばらくすると、病室のドアをノックすると同時に声がした。
そして一人の見覚えのある看護師の人が入って来た。
「あ、透夜さんも来ていたのですか。申し訳ないですが今日は少し早いですがおかえりいただいてもよろしいでしょうか」
「そう……ですか」
「すみません。できることならずっと居てもらいたいのですが……」
「はい。わかりました」
俺は聞こえているかも怪しい声量で答える。
「透夜、明日も来てね。絶対だよ」
「当たり前だろ。毎日祐奈に会いに来る」
「約束、だよ」
一つの約束を結び、俺は病室を後にした。
でも、中々ドアのそばを離れることができなかった。
祐奈のそばに居たい思いが強すぎて、身体が言う事を聞かない。
でも、しばらくすると身体が動き始める。
病院を後にし、自身の家へと歩き始める。
明日も、祐奈に逢いに行こう。朝一で逢いに行こう。
――最愛の人に。
でも、祐奈との約束を守ることは、今後一生できなかった。
もっと、祐奈の事を分かっていれば。あの時手が伸びていたら。
祐奈の身体に負担がかからないように支えていれば。
俺の人生、後悔しかない。
次の日の午前六時四十二分。祐奈は静かに息を引き取った。
朝、一件の電話が俺を夢から覚ました。
電話の相手は石橋祐奈だった。でも、声の主は祐奈ではなく、祐奈の母親だった。
『祐奈の容態が悪くなった』
その電話を簡潔にまとめるとこうだった。
その言葉を聞いて、俺は何も言葉に出せなかった。
信じたくなかった。祐奈の容態が悪くなったなんて。
『だから、透夜くん。お願い、病院に……祐奈に会ってあげてください。お願いします』
スマホから聞こえてくる祐奈の母親の声は涙声で、震えていて、何度もお願いしますと繰り返し言っている。
『私は、母親らしいことを祐奈にしてあげられない。祐奈と一緒に居ると辛くて……私のせいで、祐奈がこんなにも辛い思いをしているって思うと合わせる顔が……おねがいします。祐奈にとって、透夜くんは――』
「そんなことないです」
俺は言葉を遮った。
そんなことない。祐奈の母親が母親らしいことをしてあげられてないわけがない。
「この前、石橋さんの家にお邪魔させていただいて、夕飯までご馳走になりました。その節はありがとうございました。その時の夕飯、祐奈の好きなものばかりだったんですよね」
『は、はい。結奈には好きなものを好きなだけ食べてほしいので』
「……僕は、小さい頃に母親を亡くしました。父親は夜遅くまで仕事なので料理は僕がほとんど担当しています。なので料理には自信があります。でも、祐奈のお母さんの作った夕飯は僕なんかと比べ物にならないほどに美味しくて、これはあくまで僕がその時に思った事なんですけど」
結奈の母親は祐奈の事を一番に思っているはず。だからこそ、辛く、自分のせいだと抱えてしまっているんだ。
「祐奈への愛情がそれだけ詰まっているんだろうなって。それだけじゃないです。母親と一緒に母親の手作りのご飯を一緒に食べる。それって当たり前って思うかもしれないですけど、凄く幸せな事なんです。そんな幸せを祐奈に与えれるのは母親であるあなただけです。なので母親らしいことをしてあげられないなんて言わないでください」
「……透夜……くん」
電話越しに聞こえる啜り泣く声。
「直ぐに向かいます」
俺はそう言って電話を切った。
ごめん、約束守れなかった。
昨日の約束を守れなかったことを心の中で謝罪しながら支度を済ませ、病院へ向かった。
病院に着くと、待合室には祐奈の母親。そして隣にはおばあさんらしき人が座ってハンカチで涙を拭いていた。
「あ、透夜くん」
俺に気づいた祐奈の母親は直ぐに立ち上がり俺の元へと駆け寄って来た。
そして深々と俺に頭を下げてきた。
「え、ちょ、ちょっと」
突然の出来事に俺は混乱してしまった。
「あ、頭上げてくださいよ」
どうにか頭をあげてもらおうとお願いしていると、今度は祐奈のおばあちゃんだと思われる人が俺の元にやってきて、俺の手を両手で握って頭を下げてきた。
「ま、待ってください二人とも」
「透夜さん。祐奈ちゃんから話は聞きました。本当にありがとうございます」
「あ、あの」
「私は祐奈の叔母です。昨日祐奈ちゃんから透夜さんとの思い出を楽しそうに話してくれました。あんな表情の祐奈ちゃんを私に見せてもらって、なんとお礼を言ったらいいか」
「ぼ、僕はまだ何も……」
俺は祐奈に何かしてあげれたのだろうか。
祐奈が楽しそうな表情をしたのは、俺と一緒に行ったからじゃなくて、俺と行った場所が楽しかったからなんじゃないのか。
それが分からないから、俺は二人からこんな頭を下げられるようなことはない。
「透夜さん。どうか、どうか祐奈ちゃんをお願いします」
まるで、自分の娘をお嫁に出す時みたいにおばあさんはそう言った。
俺の手を握るおばあさんの手は震えている。力を入れているからか、それとも――。
「はい。祐奈に会ってきます」
結局、俺がその言葉を言うまで二人は頭を下げたままだった。
昨日も同じ場所に立った。
今日もまた、ドアノブに手が行かない。
二人があれだけ悲しい表情をして、俺にあれだけお願いして、あれだけ泣いている。
覚悟を決めないと突きつけられた。
ドアノブを掴んだ手は小刻みに震えている。
深呼吸をして、ドアをゆっくりと開ける。
「…………透夜」
そこには、上半身を起こして目の前の机にノートを広げ、なにかを書いている祐奈の姿があった。
俺の姿を見るなり、直ぐにそのノートを閉じた。
確か、あのノートはあの時の……。
「ごめんね、約束守れなかった」
「俺の方こそ、ごめん。その、大丈夫なのか?」
「出かけてばっかりだったからちょっと体に負担がかかっちゃったみたい」
そう笑いながら言う祐奈。だけど、そんな辛そうな笑顔は見たことない。
「ごめん。俺がもっと祐奈の身体の事気にしていれば」
「ううん。透夜は何も悪くないよ。私が自分の身体の管理もできないからいけないの」
続けて祐奈は、
「透夜、来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。今日も、明日もこれからも一緒に過ごすって約束しただろ」
「そうだね、約束したもんね」
そして祐奈がベッドの隣に置かれた椅子を指さして「座って」と言ったので座った。
「ねぇ、透夜。私透夜の話し聞きたい」
「俺の話?」
「うん! 私もっと透夜の事知りたい」
「でもそんな話すようなことないよ? 今までなにか頑張ってきたわけでもないし、どこか旅行に行ったこともない。楽しかったことなんて祐奈と出会うまでなかったんだから」
毎日同じようなことの繰り返しだった。
朝起きて学校に向い、授業を受け寄り道は一切せずに家に帰り、夕食を作って食べてお風呂を沸かす。学校からだされた課題を終わらせて小説を読んで眠りにつく。
休日は昼まで寝て、起きてもベッドに寝ころびながらスマホを触り、気づいたら夜になっている。
そんなことを繰り返しているだけの日々。
そんな日々を変えてくれたのは祐奈だ。だから、俺も――
「俺も祐奈の事をもっと知りたい」
「え? 私の事?」
「色々知りたい。まだ全然祐奈の事を分かっていないから」
「ふふ、じゃあお互い様って事だね。それじゃあ二人で気になってること聞き合いっこしよっか」
俺は首を縦に振って答えた。
「じゃあまず私から! 透夜の誕生日教えて!」
「そんな事で良いのか?」
「うん!」
「五月二十九日だ」
「え、もう少しじゃん! 祝ってあげるね!」
今まで誕生日なんて親か祖父母からしか祝われてこなかったから少し驚いた。
俺にも、祝ってくれる人ができたんだと。
「ありがとう」
「どういたしまして! じゃあ次は透夜が質問して良いよ」
ずっと、ずっと気になっていた。
その疑問を祐奈に聞くことにした。
「どうして、祐奈はどうしてあの時俺にゴールデンウィークを一緒に過ごそうって言ってくれたんだ?」
祐奈と初めて出会った時、祐奈は俺に手を差し伸べてきた。
「俺は確かにつまらない日々をずっと送って来た。でも、出会って数分しか経ってない俺にどうして一緒に過ごそうって思ったんだ?」
不自然だった。
祐奈が出会って数分しか経ってない、しかも異性に貴重なゴールデンウィークを一緒に過ごそうと言ったのが。
「私ね」
すると祐奈は少し表情を曇らせて口を開いた。
「周りの人を悲しませてばかりだったから。お母さんもお父さんも、大好きなおばあちゃんもおじいちゃんも、友達も。私が病気でいついなくなってもおかしくないって知って凄く泣いちゃって。それが私凄く辛くて、病気って事よりも辛くて、悲しくて」
祐奈は心の底から辛そうな声色で話し続ける。
ああ、胸が痛い。
「私は皆に笑って、明るく過ごしてほしかった。人生は一度きりなんだから、勿体ないよ。私はそんなに頭良くないから、私が笑顔で居れば皆笑顔になってくれるって思って。なるべく笑顔で居ようって決めたの。それくらいしか考えが出なくて。皆っていうのは両親と祖父母だけじゃないよ? 透夜もその一人。私の周りの人みんなの事。だから私は透夜に声をかけたの。透夜に笑顔になって、人生を楽しんでほしかったから」
すると祐奈は顔をあげて俺に微笑んだ。
「だから透夜。透夜は沢山笑って、私がもし居なくなっても沢山笑って、人生を楽しんでね。私からのお願いだよ?」
…………無理だ。
そんなの無理に決まってる。
祐奈が居ないのに笑顔になれるわけがない。
でも、それを言ったら祐奈は辛い思いをしてしまう。それも絶対に嫌だ。
だから俺は――
「うん」
「ありがとう! それじゃあ次に私ね!」
その後も、俺と祐奈は交代で質問をし合った。
でも、祐奈の質問は殆ど大した質問ではなかった。
好きな食べ物、好きな小説。好きな動物、行ってみたい場所。
そんな事ばかりだ。
「じゃあ最後の質問」
祐奈は少しだけ間をおいて、
「透夜の好きな人教えて」
少し恥ずかしがりながら、頬を赤らめて質問をしてきた。
「それは……昨日言った」
「言ってないよ。誰が好きなのかは言ってない」
「…………祐奈」
いざ目の前で伝えると恥ずかしい。
自分が誰かに好きと伝える日が来るなんて思ってもいなかった。
出会ってたった数日しか会ってない祐奈に、俺は恋をした。
すると祐奈はさらに顔を赤らめた。多分、俺も顔は赤い。
「ありがとう、透夜。私を好きになってくれて」
祐奈の頬に一滴の涙が伝った。
「ッ! ご、ごめんね。涙が……泣いちゃダメなのに……ッ‼」
気づいたら、俺は祐奈の事を抱きしめていた。
「とう……や……?」
「ごめん、急にこんなことして。でも、どうしてもこうしたかった。目の前で大好きな人が辛い思いをしているのに何もできなくてごめん」
「うっ……わ、私も……大好きだよ、透夜」
涙を我慢している声色で言う祐奈。だけど、その我慢は長くは持たなかった。
今まで辛かった分の、今まで我慢していた分の涙を祐奈は流した。
俺の胸で、多分今まで誰にも見せてこなかったほどの涙を流した。
ただただ、祐奈の頭を撫でることしかできなかった。
「俺には、ありのままの祐奈で居てくれ」
一人も素の自分で話せる人が居ないのが、更に祐奈を追い詰めていく。
「俺の前では我慢なんてしなくていい。俺は祐奈から色々なものを貰った。俺の一生をかけても返しきれないくらい、色々もらった。祐奈からじゃなかったらもらえてなかった。そんな祐奈にこれくらいの事しかできないのが辛いけど、もう我慢なんてしなくて良いから」
祐奈は俺の言葉を聞いて、さらに強く俺の事を抱きしめた。
「大好きだよ、祐奈。俺の人生に色を塗ってくれてありがとう」
「ッ! 透夜……こほっ、こほっ。私も大好きだよ……」
「だ、大丈夫か!?」
「うん、大丈夫。ちょっと泣きすぎちゃったから」
「そっか。それなら良かった」
もし祐奈に万一の事があったらと気が抜けない。
ナースコールを押す事しか俺にはできないけど……。
「ねぇ、透夜」
「何?」
「……一つだけ我儘言っても良い?」
「一つだけ何て言わないで、幾らでも言っても良いよ」
すると祐奈は俺の目を見つめ口を開いた。
「私と、もう一日だけ付き合ってください」
祐奈の泣いて赤くなった瞳は、真剣に俺の目を見つめている。
「…………いやだ」
「………………だよね。ごめんね。変な事言っちゃって」
「一日だけなんて絶対に嫌だ」
俺は一日だけの恋人関係なんて嫌だ。
ずっと、ずっと祐奈と恋人関係でいたい。
何年も、何十年も。俺の死が訪れるまでずっと祐奈と特別な関係で居たい。
「俺はずっと祐奈と特別な関係で居たい。だから祐奈、俺と付き合っ――」
「それはダメ! …………ダメだよ」
俺の告白を、祐奈は声をあげて遮った。
「私と付き合っても、透夜に良いことなんてないよ」
「そんなわけないだろ!」
「そうだよ。だって私、直ぐに透夜の前から居なくなっちゃうんだよ? 私いやだよ。透夜が、大好きな人が辛い思いをするのは。その原因が私だったら尚更嫌だよ。私、自分の事が大っ嫌いになっちゃう。自分が許せなくなっちゃうよ」
徐々に弱くなっていく祐奈の声。
「それでも……それでも俺は祐奈の彼氏になりたい。俺は、永遠に祐奈の恋人で居たい」
これからの長い人生。俺は祐奈を永遠に愛したい。
俺は祐奈に、永遠の恋をした。
「嬉しい……嬉しいよ。だけど、だけど……」
「俺は、祐奈と特別な関係になれない方が辛い。辛くて辛くて、泣いてしまうかもしれない」
すると祐奈は顔を上げ、膨れっ面をして口を開いた。
「透夜のバカ…………後悔してももう知らないから」
せっかく顔を上げてくれたのに、祐奈は直ぐに俺の胸に顔をうずめた。
もっと、君の顔を見ていたいのに。
けれど、今はしょうがないから胸を貸してあげよう。
「後悔なんてするわけないだろ」
「もう知らない。どうなっても知らないもん。だから――永遠に透夜を私の特別な人で、私を永遠に透夜の特別な人で居させて」
「ああ」
「ありがとう……ありがとう透夜」
その後も、祐奈は中々顔を上げてくれなかった。
「ごめんね、暗い雰囲気になっちゃった。楽しい話しよ、ね?」
「そうしよう。どんな話する?」
「う~ん。じゃあこれからの話をしよう!」
祐奈は人差し指を立てて元気よくそう言った。
さっきまでの祐奈とは違う。元気で明るい祐奈。
「私ね、花火見たい! 七月の終わりくらいにやってる花火大会に透夜と行きたい! それと浴衣着たい! 浴衣を来て透夜と花火見て透夜に浴衣似合ってるねって言ってほしい」
「祐奈ならなんでも似合いそうだな」
「それからそれから、クリスマスも透夜と過ごしたい。透夜と初めて出かけた時に行ったテーマパークのクリスマスツーリーを透夜と一緒に見るの!」
「ああ、見ような」
「透夜は何かしたいことある?」
「俺は……祐奈のやりたいことをしたい。祐奈の行きたい場所に行きたい。沢山出掛けたい。どこでも良い。祐奈とならどこでも楽しめるから」
祐奈と出会ってから、三日連続で遊びに行った。
どこも特別好きな場所でも、気になっている場所でもなかった。
けれど、祐奈と一緒に居ると楽しく思えてきて、どれもかけがえのない思い出になった、
「そっか! じゃあ透夜はすごーく沢山出かけることになるよ? 私やりたいことたくさんあるから!」
そう言って祐奈は他の行きたい場所、やりたいことを俺に楽しそうに話してきた。
今度は海で一緒に泳ぎたい。学校でもう一度二人で昼食を食べたい。文化祭を一緒に回りたい。体育祭を一緒に楽しみたい。新年を一緒に過ごして、初詣も一緒に行きたい。
どれも本当に楽しそうで、一生の思い出になることばかりだった。
「あ、もうこんな時間なんだ」
ふと、窓の外を見ると夕暮れ時だった。
「透夜と一緒に居ると時間があっという間だよ」
「それは俺もだ」
一日がもうすぐで終わってしまう。
祐奈との大切な、貴重な一日が。
俺にとって今までなんてことのない一日の大切さを祐奈が教えてくれた。
「そうだ。私達の記念日として写真撮ろ!」
「うん。良いよ」
「ほら、こっち来て、夕焼けを背景にしよ?」
「夕焼け好きだな」
「綺麗だもん」
そんな話をしながら俺は反対側へと回り、祐奈の頭の位置までしゃがんだ。
「じゃあ撮るよ――――あ」
写真を撮ろうとスマホを持ち上げようとした祐奈だが、スマホが祐奈の手から下へと滑り落ちて行ってしまった。
「大丈夫か? 俺が撮るよ」
祐奈のスマホを拾い、写真を撮ろうとすると祐奈は俺の手を掴んで止めてきた。
――冷たい。
祐奈の手は、指先は凄く冷たかった。
部屋が寒いわけじゃない。俺の手も冷たくはない。
「祐奈……」
「ごめん。手が痺れちゃって。私のじゃなくて透夜のスマホで撮ろ?」
「え、俺ので?」
「うん。だって透夜のスマホでは一枚も私たちの写真撮ったことないでしょ? だから私たちの特別な関係の始まり記念と同時に透夜のスマホでの初めての写真記念!」
確かに、俺のスマホでは一度も写真を撮ってこなかった。
何故、撮らなかったのだろう。
あんなにも楽しいと感じていたのに、写真を一枚も撮らなかった。
もしかしたら、だからこそ撮らなかったのかもしれない。
「じゃあ撮るよ」
俺と祐奈、そして夕暮れ時の景色が映るようにスマホを構えた。
そして、シャッターを切った。
「それ、私にも送って」
「今送る」
「ありがとう」
今まで祐奈から沢山写真は送られてきていた。だけど、俺から写真を送るのはこれが初めてだ。
「ねぇ、透夜」
「ん? ――ッ!」
スマホから祐奈へ目線を向けると、祐奈の顔がゼロ距離にあった。
柔らかい感触と共に、祐奈の良い匂いが鼻孔をくすぐる。
たった数秒の出来事でも、数分の様に思える出来事。
これが、もっと続けば良いのに。
「大好きだよ、透夜」
「…………俺も」
お互い赤くなった顔を隠すようにそっぽを向き、お互いの想いを伝えた。
「あっ」
すると突然祐奈は全身の力が抜けたかのように前へと倒れた。
「おい、大丈夫か」
俺は何とか祐奈がベッドから落ちる前に支えた。
「ごめん。力が入らなくて」
「ちょっと待ってろ、今医者を呼ぶから」
「待って!」
ナースコールを掴もうとする手を祐奈が掴んだ。
「本当に大丈夫だから。本当に」
「大丈夫って、万一の事があったら」
「お願い。もう少し透夜と一緒に居たい。もし今お医者さん呼んじゃったら多分透夜は帰らなくちゃいけないもん。もっと透夜と居たい。今日だけ、今日だけ我儘聞いて、透夜」
祐奈のお願いを聞いても、俺は医者を呼ぼうと思っていた。思っていたけど……手は勝手に自身の太ももに触れていた。
「ありがとう、透夜。私は大丈夫だから。もう少しだけ透夜の隣に居させて」
そう言って祐奈は俺の腰に腕を回した。
「透夜の匂い、安心する」
「俺匂いするの?」
「うん。良い匂い」
「臭いって言われたら泣いてた」
祐奈は笑いながらも、俺の胸に顔をうずめたままだ。
ずっと、ずっとこの時間が続けばいい。
明日なんて来なければいい。
今日がずっと続いてほしい。
永遠に、五月二日で良い。
でも、時間は俺の願いなんて聞いちゃいない。時計の針は一定のリズムで動き続ける。
「石橋さん。入りますよ」
しばらくすると、病室のドアをノックすると同時に声がした。
そして一人の見覚えのある看護師の人が入って来た。
「あ、透夜さんも来ていたのですか。申し訳ないですが今日は少し早いですがおかえりいただいてもよろしいでしょうか」
「そう……ですか」
「すみません。できることならずっと居てもらいたいのですが……」
「はい。わかりました」
俺は聞こえているかも怪しい声量で答える。
「透夜、明日も来てね。絶対だよ」
「当たり前だろ。毎日祐奈に会いに来る」
「約束、だよ」
一つの約束を結び、俺は病室を後にした。
でも、中々ドアのそばを離れることができなかった。
祐奈のそばに居たい思いが強すぎて、身体が言う事を聞かない。
でも、しばらくすると身体が動き始める。
病院を後にし、自身の家へと歩き始める。
明日も、祐奈に逢いに行こう。朝一で逢いに行こう。
――最愛の人に。
でも、祐奈との約束を守ることは、今後一生できなかった。
もっと、祐奈の事を分かっていれば。あの時手が伸びていたら。
祐奈の身体に負担がかからないように支えていれば。
俺の人生、後悔しかない。
次の日の午前六時四十二分。祐奈は静かに息を引き取った。