前回のあらすじ
そこに命はなく。心はなく。魂はなく。
すでに死したものの残響だけなのだとしても。
それは、確かに遺言だった。
トルンペートとウルウの後を追って《塔》を登っていくのは、なかなかに難儀な話でした。
ヒトグモたちは数限りなく、それらを退けることもまた数限りなく。いったい何度剣をふるって、こぶしをふるって、蹴り足を振り上げたことでしょう。
辺境貴族は無尽蔵の体力を持っている、なんてもてはやされることもありますが、普通に疲れます。さすがにしんどいですね。飛竜だって体力を削っていけば農民でも殺すことができるのです。さしもの元気花丸印の私と言えど何度か休憩を挟まなければ息が上がってしまうほどです。
特にあの、階段と言うのがよろしくないですね。
登っていくのが普通にしんどいです。最初は余裕で一段飛ばしで駆け上がっていたのですけれど、どれだけ登っても果てというものが見えません。しかも階段がずっと上まで続いているわけではなく、上り詰めた先が行き止まりで、いったん戻って廊下を駆け抜けて別の階段まで行かなければならなかったりとまるで迷路のような作りです。
要塞というものは進入された後も敵の足を惑わすためのつくりがなされていると言いますけれど、なるほどこれは厄介です。
ウルウも途中で気づいたのか、道々に矢印を書いて道順を残しておいてくれているのですけれど、なにしろ灯りが少なくて薄暗いですし、ヒトグモたちを相手取っての大立ち回りを演じながらの攻略ですから、たまに矢印を見失ってうろうろしたりもしてしまいます。
しかし、そうやってなかなか進めないのが逆に良かったかもしれません。
いえ、別に自分の遅さを正当化しようというわけではなくてですね。
『なにやってんのよ!』
『しかたないでしょ! まさか逃げるとは思わなかったんだから!』
『とにかくあたしの拘束といて……ああでも逃がす方がダメ!?かも!?』
『どっち!? どうしたらいいの!?』
念話でウルウとトルンペートがワイワイやりあっているのが聞こえて、私はちょっとの間立ち止まりました。別に耳から聞こえる音ではないのですけれど、なんとなく聞こえがいい気がして、片耳に手を当ててその話を聞いていました。
どうも、敵が、敵の親玉が逃げたようです。
トルンペートはまだ拘束されたままで、ウルウはそれを解放するのと敵を追うのとで混乱している、と。
ふたりともこういう時の判断はあんまり得意ではないですよね。優先順位というものは日頃から気を付けておかないと咄嗟には決められないことが多いのです。
仮に私がつかまっていたなら、トルンペートは迷うことなく私の解放を優先したでしょう。トルンペートの優先順位は私がいちばんだからです。ウルウがつかまっててもたぶん同じです。
私も二人の解放を優先するでしょうね。安全を確保するためというか、その方が選択肢と手札が増えるからです。敵を追っても追いつけないかもしれませんし、その間に残した仲間がどうなるかわからないですし。
まあ、私もトルンペートも確実性優先ですね。
ウルウは単純にこういう選択に慣れていないので、トルンペートの判断に頼ろうとしましたね。でも自分の価値を低めに評価したトルンペートが判断に迷ったので、混乱してると。
『ウルウ、トルンペートを解放してください。敵の追跡が可能であればふたりでお願いします』
『わ、わかった』
『リリオ、あんたも気をつけなさいよ! 敵はウルウの攻撃から逃げきったわよ!』
『フムン……敵というのは医者なのでしたか?』
『医者っていうか学者っていうか……白衣着た痩せ男よ。白髪で赤目。戦闘でボロボロになってる』
トルンペートの教えてくれた特徴を反芻しながら、私は廊下の向こうを見据えました。
「フムン」
いままさに階段を転げ落ちるように下ってきて、その勢いをほとんど壁にぶつかりながら殺す人影が、そこにありました。
白衣を着た医者風の痩せ男で、髪は白く、眼は赤く。ボロボロに傷つきながらも、その足取りはしっかりしています。
この《塔》に入ってから、鼻が麻痺するほどに嗅ぎなれた腐臭と死臭と血臭。
誰よりも濃いそれをまとう男。
私は兜を脱ぎ、その男を見ました。
男もまた廊下の向こう側から私を見つけ、どこか呆然としたような視線を投げかけてきました。
それはまるで素人のように隙だらけで、途方に暮れた迷子のように無防備でした。
『たぶん見つけました。接敵します』
『ちょっと!? すぐ追いつくから待ってなさいよ!』
わめきたてる念話を、私は意識の外に追い出します。
剣を改めて構え、息を一つ、二つ、三つ。
腕は重く、肩は重く、足は重く、慣れ親しんだ鎧や剣までもが重く、深い疲労が全身にしみ込んでいました。
けれど。
それでも。
だけれども。
私は高らかに名乗りをあげます。
「私は辺境伯の娘、竜の落とし子、《三輪百合》のリリオ・ドラコバーネ! この《塔》を攻略し、屍者を再殺して埋葬するものです!」
名乗りとは、宣言です。
己が何者か。何をすべき者か。何を為さんとする者か。
そしてまた名乗りとは誰何の問いかけです。
お前は何者か。何をすべき者か。何を為さんとする者か。
獣にも。竜にも。屍者にも。名乗りは不要です。
彼らはその存在そのものが名であり、在り方であり、答えなのですから。
しかし相手が人であるならば。
私は名乗りましょう。
そして相手の名乗りを受けましょう。
男はなにか眩しいものを見るように目をすがめ、それから困惑したように己を見下ろしました。
己の姿を見下ろし、己の両手を見下ろし、己自身を見下ろしました。
男の目が不規則に揺れました。知らないものを見るように、不思議そうに己の手を見つめました。受け入れがたいものを飲み下すようにしゃくりあげ、取りこぼしてきたすべてを思い出したかのように両の手を投げ出して脱力しました。
そして、男は不意に背を伸ばしました。
男の肩が左右に開かれ、やせぎすの胸が堂々と張られました。
震えていた足が床をしっかりと踏みしめ、うつむいていた顔がまっすぐに私に向けられました。
脂気のないざんばらの髪が揺れ、血の色を透かした瞳が、まるで冷たい火のようにきらめきました。
「我こそは──!」
男の痩躯から、信じられないほど堂々と張りのある声が、返ってきました。
「我こそは第六代ポリドリ伯爵ジョージ・ポリドリ! 《打ち払いしものミネルウァ・メディカ》! 誉れ高き《ウィザード》の名を汚す大罪人! 救った数よりなお多くの命を弄んだ大悪党! 止めたくば止めてみせろ──できるものなら!」
それが答えでした。
それが彼の名乗りであり、答えでした。
命乞いでもなく。弁明でもなく。
敵対し、立ち向かうことが、彼の答えでした。
瞬きと同時、男の──伯爵の足が床を粉砕し、恐るべき踏み込みがただの一足で廊下を飛び越え、私の眼前に迫っていました。振りかざされた腕に剣をかざすことができたのは、ほとんど反射でした。繰り返された鍛錬による反射行動が、私の命を救いました。
空気を打ち抜く音とともに、男の平手打ちが繰り出され、その爪が私の剣とかち合って鋭い金属音を響かせました。
「獣の爪……よりも!」
「鋭いとも!」
恐るべき斬撃、その圧力!
ほとんど咄嗟の構えだったとはいえ、この私の膂力でさえ押し込まれかける凶悪な一撃。
しかしてそれと反するように、あまりにも軽やかに男の体は私を飛び越えて背後に回りました。それはほとんど、自分自身の力で吹き飛ばされたようでさえありました。
痩躯に、怪力。己の力が、己自身を空に飛ばしかねない。見た目にそぐわないその膂力。
「私と同じような性質のようですね……!」
「この爪はケラチン質に事象操作コードを三重に刻み込んでいる! 『硬化』、『強靭』、『切断』! 生半の剣でいつまでも耐えられると思うなよ!」
「そして私にはよくわかんないことをおっしゃる……!」
「…………硬くて強くて鋭い! のだ!」
「お気遣いどうもッ!」
矮躯に剛力の私と、痩躯に怪力のポリドリ卿。
同じような性質ですけれど、戦い方は別物。
獣のような体さばきで、ポリドリ卿は跳ねまわります。
最初こそ自分自身の力に振り回されるような不安定な挙動だったものが、数を重ねるごとに洗練され、床を、壁を、天井を、縦横無尽に飛び回り、鋭い爪が私の防御をそぎ落とそうとするように襲い掛かります。
風よりも速く、目で追いきれないほど速く、脳が追い付かないほどに速く。
しかし。
それでも。
「速い……ッ! でも、まだ……ッ!」
「これでも反応するか…………貴様、視えているなッ!」
──ゆあん、ゆあん。
私を中心に広がる雷精と風精の網が、ポリドリ卿の動きをとらえ、追いすがる。
そして雷精が直接私の体に走り、目で追うよりも速く、頭で考えるよりも速く、肉体に刻まれた記憶通りに剣が振るわれます。
ほとんど小さな嵐の如き回転速度に至ったポリドリ卿の爪を、私はさばいていきます。
重なり合う金属音がもはや途切れないほどのそれは、一息の呼吸さえ許さない刹那に重なる無限の剣戟。
「だがッ! しかしッ! スタミナ勝負で勝てると思うなッ!」
「ぐ、ぅううッ!」
理性的な死なず者ッ!
しかも時とともに馴染み、成長するッ!
それが、これほどまでに恐るべき相手とは!
同じような性質とはいえ、私は生者。ポリドリ卿は死なず者。
私は疲労がたまり、ポリドリ卿は疲れ知らず。
私は呼吸を必要として、ポリドリ卿は無呼吸で暴れ続けられる。
その差が、徐々に私を追い詰め始めていました。
剣でさばくことが困難になり、いくらかは鎧で直接受けてそらし、かわすようになってきました。
飛竜革の鎧にさえ、ポリドリ卿の硬く強く鋭い爪は、はっきりと爪痕を残していきました。恐るべき鋭さと膂力。かろうじてかすらせる程度でそらしていますけれど、直撃すれば、貫通しかねません。
そして、私がついに疲労に負けて致命的な隙をさらした瞬間を、この短い戦闘経験を余すことなく吸収しつくしたポリドリ卿は見逃しませんでした。
「これで終わりだッ!」
誤って学習した戦闘経験から、そうせずにいられませんでした。
ポリドリ卿の爪が私の胴に突き込まれ、その切っ先が触れた瞬間、激しい閃光がほとばしり、ポリドリ卿の痩躯が爆発したかのように弾き飛ばされました。その体は激しく痙攣し、黒煙がその皮膚から、薄く立ち上ります。
「き、さまァ……ッ! 自分の体に、高圧電流をッ!?」
「消費は激しいですけれど……わかっていれば、この程度の芸当は!」
「誘い込んだというのか……顔に似合わず、抜け目のないッ!」
ポリドリ卿の焼けこげた肌が、ボロボロと炭化して崩れます。
不死にして不滅の肉体が、その細胞が灼かれて、焦がされ、朽ちていきます。
彼の体に残っていた切り傷は、恐らくウルウの残した傷だったのでしょう。あらゆるものを殺してしまう恐るべきまじないの刃。
しかし私の刃では彼の命には届きません。
体を真っ二つにしてもなお自分で自分をつなげようとするのが死なず者の恐るべき継戦能力。高度な知性を保有したポリドリ卿ならば、それは比べるべくもなく恐るべき脅威となるでしょう。
だからこその、いかずち。細胞を焼き、《流血詛》を焼く高圧電流。
確実に叩き込み、確実に削る。それが、それだけが私の勝機!
構える私に、警戒したように距離を取るポリドリ卿。
私もまた、呼吸を整え、魔力を練り、間合いをはかります。
これは互いに互いを削る、しのぎ合い。
私とポリドリ卿。
竜人と死なず者。
根競べが得意なのはお互い様なら、あとはどちらが先に参るか。
「リリオ!」
「ああもう、待ってろって言ったでしょ!」
そこに、ふたりが追い付きました。
好都合にポリドリ卿を挟み撃ちにする構図。
ポリドリ卿もその不利はわかっているのか、目に迷いが生じました。
ウルウは彼が再び逃走を選ぶことを警戒してか、猫足立の姿勢でいつでも動けるように構えています。トルンペートもまた、捕り物用のボーラを牽制のために構えていました。
しかし私は、あえて剣を下ろして二人を制します。
「二人とも、離れてください」
「はあ? なに言ってんのよ!」
「手を出さないで、そこで見ていてください」
「リリオ、そいつはただものじゃない。危険だ」
「私の」
私は息を整えます。
「私の物語は、ここで終わることはありません。あなたを倒して、冒険譚に刻みましょう」
「……………傲慢なことだ」
ポリドリ卿は、かすかに笑ったようでした。
ああ。それは、確かに。
確かに、ウルウと少し似ていたかもしれません。
「──伯爵! ポリドリ卿! ジョージ・ポリドリ伯爵! 《打ち払いしものミネルウァ・メディカ》!」
「…………博士も付け加えてくれ給え、リリオ・ドラコバーネ」
「ポリドリ博士! いざ、尋常に!」
「ああ──終わりにしよう! 屍者の呪いを断ち切って見せろ!」
交錯は一瞬で、そして永遠のようでした。
私の一太刀が、ずぶずぶと肉を割き、べきばきと骨を断ち、そして薄っぺらなその体に詰まっているとはとても思えないほどの、分厚ななにかを切り裂いていきました。
私の剣は確かにそのなにかを断ち切り、終わらせたのでした。
春雷の如き雷鳴の中で、確かに柔らかな声が聞こえた気がしました。
「最期がいかずちとは、出来過ぎか……なあ、▒░▒……?」
そこに命はなく。心はなく。魂はなく。
すでに死したものの残響だけなのだとしても。
それは、確かに遺言だった。
トルンペートとウルウの後を追って《塔》を登っていくのは、なかなかに難儀な話でした。
ヒトグモたちは数限りなく、それらを退けることもまた数限りなく。いったい何度剣をふるって、こぶしをふるって、蹴り足を振り上げたことでしょう。
辺境貴族は無尽蔵の体力を持っている、なんてもてはやされることもありますが、普通に疲れます。さすがにしんどいですね。飛竜だって体力を削っていけば農民でも殺すことができるのです。さしもの元気花丸印の私と言えど何度か休憩を挟まなければ息が上がってしまうほどです。
特にあの、階段と言うのがよろしくないですね。
登っていくのが普通にしんどいです。最初は余裕で一段飛ばしで駆け上がっていたのですけれど、どれだけ登っても果てというものが見えません。しかも階段がずっと上まで続いているわけではなく、上り詰めた先が行き止まりで、いったん戻って廊下を駆け抜けて別の階段まで行かなければならなかったりとまるで迷路のような作りです。
要塞というものは進入された後も敵の足を惑わすためのつくりがなされていると言いますけれど、なるほどこれは厄介です。
ウルウも途中で気づいたのか、道々に矢印を書いて道順を残しておいてくれているのですけれど、なにしろ灯りが少なくて薄暗いですし、ヒトグモたちを相手取っての大立ち回りを演じながらの攻略ですから、たまに矢印を見失ってうろうろしたりもしてしまいます。
しかし、そうやってなかなか進めないのが逆に良かったかもしれません。
いえ、別に自分の遅さを正当化しようというわけではなくてですね。
『なにやってんのよ!』
『しかたないでしょ! まさか逃げるとは思わなかったんだから!』
『とにかくあたしの拘束といて……ああでも逃がす方がダメ!?かも!?』
『どっち!? どうしたらいいの!?』
念話でウルウとトルンペートがワイワイやりあっているのが聞こえて、私はちょっとの間立ち止まりました。別に耳から聞こえる音ではないのですけれど、なんとなく聞こえがいい気がして、片耳に手を当ててその話を聞いていました。
どうも、敵が、敵の親玉が逃げたようです。
トルンペートはまだ拘束されたままで、ウルウはそれを解放するのと敵を追うのとで混乱している、と。
ふたりともこういう時の判断はあんまり得意ではないですよね。優先順位というものは日頃から気を付けておかないと咄嗟には決められないことが多いのです。
仮に私がつかまっていたなら、トルンペートは迷うことなく私の解放を優先したでしょう。トルンペートの優先順位は私がいちばんだからです。ウルウがつかまっててもたぶん同じです。
私も二人の解放を優先するでしょうね。安全を確保するためというか、その方が選択肢と手札が増えるからです。敵を追っても追いつけないかもしれませんし、その間に残した仲間がどうなるかわからないですし。
まあ、私もトルンペートも確実性優先ですね。
ウルウは単純にこういう選択に慣れていないので、トルンペートの判断に頼ろうとしましたね。でも自分の価値を低めに評価したトルンペートが判断に迷ったので、混乱してると。
『ウルウ、トルンペートを解放してください。敵の追跡が可能であればふたりでお願いします』
『わ、わかった』
『リリオ、あんたも気をつけなさいよ! 敵はウルウの攻撃から逃げきったわよ!』
『フムン……敵というのは医者なのでしたか?』
『医者っていうか学者っていうか……白衣着た痩せ男よ。白髪で赤目。戦闘でボロボロになってる』
トルンペートの教えてくれた特徴を反芻しながら、私は廊下の向こうを見据えました。
「フムン」
いままさに階段を転げ落ちるように下ってきて、その勢いをほとんど壁にぶつかりながら殺す人影が、そこにありました。
白衣を着た医者風の痩せ男で、髪は白く、眼は赤く。ボロボロに傷つきながらも、その足取りはしっかりしています。
この《塔》に入ってから、鼻が麻痺するほどに嗅ぎなれた腐臭と死臭と血臭。
誰よりも濃いそれをまとう男。
私は兜を脱ぎ、その男を見ました。
男もまた廊下の向こう側から私を見つけ、どこか呆然としたような視線を投げかけてきました。
それはまるで素人のように隙だらけで、途方に暮れた迷子のように無防備でした。
『たぶん見つけました。接敵します』
『ちょっと!? すぐ追いつくから待ってなさいよ!』
わめきたてる念話を、私は意識の外に追い出します。
剣を改めて構え、息を一つ、二つ、三つ。
腕は重く、肩は重く、足は重く、慣れ親しんだ鎧や剣までもが重く、深い疲労が全身にしみ込んでいました。
けれど。
それでも。
だけれども。
私は高らかに名乗りをあげます。
「私は辺境伯の娘、竜の落とし子、《三輪百合》のリリオ・ドラコバーネ! この《塔》を攻略し、屍者を再殺して埋葬するものです!」
名乗りとは、宣言です。
己が何者か。何をすべき者か。何を為さんとする者か。
そしてまた名乗りとは誰何の問いかけです。
お前は何者か。何をすべき者か。何を為さんとする者か。
獣にも。竜にも。屍者にも。名乗りは不要です。
彼らはその存在そのものが名であり、在り方であり、答えなのですから。
しかし相手が人であるならば。
私は名乗りましょう。
そして相手の名乗りを受けましょう。
男はなにか眩しいものを見るように目をすがめ、それから困惑したように己を見下ろしました。
己の姿を見下ろし、己の両手を見下ろし、己自身を見下ろしました。
男の目が不規則に揺れました。知らないものを見るように、不思議そうに己の手を見つめました。受け入れがたいものを飲み下すようにしゃくりあげ、取りこぼしてきたすべてを思い出したかのように両の手を投げ出して脱力しました。
そして、男は不意に背を伸ばしました。
男の肩が左右に開かれ、やせぎすの胸が堂々と張られました。
震えていた足が床をしっかりと踏みしめ、うつむいていた顔がまっすぐに私に向けられました。
脂気のないざんばらの髪が揺れ、血の色を透かした瞳が、まるで冷たい火のようにきらめきました。
「我こそは──!」
男の痩躯から、信じられないほど堂々と張りのある声が、返ってきました。
「我こそは第六代ポリドリ伯爵ジョージ・ポリドリ! 《打ち払いしものミネルウァ・メディカ》! 誉れ高き《ウィザード》の名を汚す大罪人! 救った数よりなお多くの命を弄んだ大悪党! 止めたくば止めてみせろ──できるものなら!」
それが答えでした。
それが彼の名乗りであり、答えでした。
命乞いでもなく。弁明でもなく。
敵対し、立ち向かうことが、彼の答えでした。
瞬きと同時、男の──伯爵の足が床を粉砕し、恐るべき踏み込みがただの一足で廊下を飛び越え、私の眼前に迫っていました。振りかざされた腕に剣をかざすことができたのは、ほとんど反射でした。繰り返された鍛錬による反射行動が、私の命を救いました。
空気を打ち抜く音とともに、男の平手打ちが繰り出され、その爪が私の剣とかち合って鋭い金属音を響かせました。
「獣の爪……よりも!」
「鋭いとも!」
恐るべき斬撃、その圧力!
ほとんど咄嗟の構えだったとはいえ、この私の膂力でさえ押し込まれかける凶悪な一撃。
しかしてそれと反するように、あまりにも軽やかに男の体は私を飛び越えて背後に回りました。それはほとんど、自分自身の力で吹き飛ばされたようでさえありました。
痩躯に、怪力。己の力が、己自身を空に飛ばしかねない。見た目にそぐわないその膂力。
「私と同じような性質のようですね……!」
「この爪はケラチン質に事象操作コードを三重に刻み込んでいる! 『硬化』、『強靭』、『切断』! 生半の剣でいつまでも耐えられると思うなよ!」
「そして私にはよくわかんないことをおっしゃる……!」
「…………硬くて強くて鋭い! のだ!」
「お気遣いどうもッ!」
矮躯に剛力の私と、痩躯に怪力のポリドリ卿。
同じような性質ですけれど、戦い方は別物。
獣のような体さばきで、ポリドリ卿は跳ねまわります。
最初こそ自分自身の力に振り回されるような不安定な挙動だったものが、数を重ねるごとに洗練され、床を、壁を、天井を、縦横無尽に飛び回り、鋭い爪が私の防御をそぎ落とそうとするように襲い掛かります。
風よりも速く、目で追いきれないほど速く、脳が追い付かないほどに速く。
しかし。
それでも。
「速い……ッ! でも、まだ……ッ!」
「これでも反応するか…………貴様、視えているなッ!」
──ゆあん、ゆあん。
私を中心に広がる雷精と風精の網が、ポリドリ卿の動きをとらえ、追いすがる。
そして雷精が直接私の体に走り、目で追うよりも速く、頭で考えるよりも速く、肉体に刻まれた記憶通りに剣が振るわれます。
ほとんど小さな嵐の如き回転速度に至ったポリドリ卿の爪を、私はさばいていきます。
重なり合う金属音がもはや途切れないほどのそれは、一息の呼吸さえ許さない刹那に重なる無限の剣戟。
「だがッ! しかしッ! スタミナ勝負で勝てると思うなッ!」
「ぐ、ぅううッ!」
理性的な死なず者ッ!
しかも時とともに馴染み、成長するッ!
それが、これほどまでに恐るべき相手とは!
同じような性質とはいえ、私は生者。ポリドリ卿は死なず者。
私は疲労がたまり、ポリドリ卿は疲れ知らず。
私は呼吸を必要として、ポリドリ卿は無呼吸で暴れ続けられる。
その差が、徐々に私を追い詰め始めていました。
剣でさばくことが困難になり、いくらかは鎧で直接受けてそらし、かわすようになってきました。
飛竜革の鎧にさえ、ポリドリ卿の硬く強く鋭い爪は、はっきりと爪痕を残していきました。恐るべき鋭さと膂力。かろうじてかすらせる程度でそらしていますけれど、直撃すれば、貫通しかねません。
そして、私がついに疲労に負けて致命的な隙をさらした瞬間を、この短い戦闘経験を余すことなく吸収しつくしたポリドリ卿は見逃しませんでした。
「これで終わりだッ!」
誤って学習した戦闘経験から、そうせずにいられませんでした。
ポリドリ卿の爪が私の胴に突き込まれ、その切っ先が触れた瞬間、激しい閃光がほとばしり、ポリドリ卿の痩躯が爆発したかのように弾き飛ばされました。その体は激しく痙攣し、黒煙がその皮膚から、薄く立ち上ります。
「き、さまァ……ッ! 自分の体に、高圧電流をッ!?」
「消費は激しいですけれど……わかっていれば、この程度の芸当は!」
「誘い込んだというのか……顔に似合わず、抜け目のないッ!」
ポリドリ卿の焼けこげた肌が、ボロボロと炭化して崩れます。
不死にして不滅の肉体が、その細胞が灼かれて、焦がされ、朽ちていきます。
彼の体に残っていた切り傷は、恐らくウルウの残した傷だったのでしょう。あらゆるものを殺してしまう恐るべきまじないの刃。
しかし私の刃では彼の命には届きません。
体を真っ二つにしてもなお自分で自分をつなげようとするのが死なず者の恐るべき継戦能力。高度な知性を保有したポリドリ卿ならば、それは比べるべくもなく恐るべき脅威となるでしょう。
だからこその、いかずち。細胞を焼き、《流血詛》を焼く高圧電流。
確実に叩き込み、確実に削る。それが、それだけが私の勝機!
構える私に、警戒したように距離を取るポリドリ卿。
私もまた、呼吸を整え、魔力を練り、間合いをはかります。
これは互いに互いを削る、しのぎ合い。
私とポリドリ卿。
竜人と死なず者。
根競べが得意なのはお互い様なら、あとはどちらが先に参るか。
「リリオ!」
「ああもう、待ってろって言ったでしょ!」
そこに、ふたりが追い付きました。
好都合にポリドリ卿を挟み撃ちにする構図。
ポリドリ卿もその不利はわかっているのか、目に迷いが生じました。
ウルウは彼が再び逃走を選ぶことを警戒してか、猫足立の姿勢でいつでも動けるように構えています。トルンペートもまた、捕り物用のボーラを牽制のために構えていました。
しかし私は、あえて剣を下ろして二人を制します。
「二人とも、離れてください」
「はあ? なに言ってんのよ!」
「手を出さないで、そこで見ていてください」
「リリオ、そいつはただものじゃない。危険だ」
「私の」
私は息を整えます。
「私の物語は、ここで終わることはありません。あなたを倒して、冒険譚に刻みましょう」
「……………傲慢なことだ」
ポリドリ卿は、かすかに笑ったようでした。
ああ。それは、確かに。
確かに、ウルウと少し似ていたかもしれません。
「──伯爵! ポリドリ卿! ジョージ・ポリドリ伯爵! 《打ち払いしものミネルウァ・メディカ》!」
「…………博士も付け加えてくれ給え、リリオ・ドラコバーネ」
「ポリドリ博士! いざ、尋常に!」
「ああ──終わりにしよう! 屍者の呪いを断ち切って見せろ!」
交錯は一瞬で、そして永遠のようでした。
私の一太刀が、ずぶずぶと肉を割き、べきばきと骨を断ち、そして薄っぺらなその体に詰まっているとはとても思えないほどの、分厚ななにかを切り裂いていきました。
私の剣は確かにそのなにかを断ち切り、終わらせたのでした。
春雷の如き雷鳴の中で、確かに柔らかな声が聞こえた気がしました。
「最期がいかずちとは、出来過ぎか……なあ、▒░▒……?」


