翌日、朝食を食べた後、写真立ての中の母親に頭を下げると、新聞を読んでいた父親が機嫌良さそうに「今日も学校に行って、ハルは偉いな」と言った。

「行ってきます」

 今日はしっかりと挨拶をして、家を出た。
 明日になれば、元の体に戻っているかもしれない。そんな希望的観測はあっけなくも打ち砕かれ、目覚めた時に目に入ったのは、春希の部屋の天井だった。スマホを確認すると、天音から数分前にメッセージが届いていた。

《モーニングコール失礼します。今日はいつもの春希くんに戻ってるかな?》

「戻れなかったよ」

 停留所でバスを待ちながら、遅れてメッセージを投げる。それからすぐに、既読というマークが付いた。昨日言っていた未読無視とかいう奴は、おそらくこの既読マークを付けずに無視することを指していたのだろう。
 そんなことを家でも常に気にしてなきゃいけないなんて、息が詰まる。

《それじゃあ、今日も一緒に元の体に戻る方法を探そうか!》

 たとえ一人でも理解者がいてくれるのは、心強いし何より嬉しい。そう思うのは、今朝起きて、結局のところいつか偶然元に戻るのを待つしかないんじゃないかと、やや後ろ向きなことを考えてしまったからだろう。
もしかすると、俺という存在を思い出すことができれば、この不可思議な現象の解決に繋(つな)がるのかもしれない。それもまた、希望的観測と言うのかもしれない。

 やってきたバスに乗り込むと「今日も工藤いるじゃん……」と、誰かに悪(あく)態(たい)を吐かれた。後ろの座席を見やると、そこにはクラスメイトと思しき女性と、天音が一緒に座っていた。
気付けば俺はこっそり手のひらを開いて、閉じていた。意外だったのか、嬉しそうにそっと同じ仕草を返してくる。

「春希くんは、頑張ってて偉いと思うけどな」

 精一杯、気を使ってくれたんだろう。彼女の言葉はこちらに届いていたが、隣のお友達には聞こえなかったのか、すぐにテレビで人気のアイドルの話を始めていた。きっと都合の悪い言葉は、あのお友達の耳に入らないんだろう。
心の中では天音に「ありがとう」と感謝の言葉を呟いた。
 味方でいてくれることは、素直に嬉しかった。

 工藤春希が真面目に登校することで、いったい周囲の人間に何の不利益があるのかわからないけれど、教室のドアを開けると今日も不快な視線が集まった。臆することなく一緒のバスに乗っていた天音の姿を探していると、偶然にもすぐ近くの席に座っていた女と目が合う。
 宇佐美というネームプレートを見て、そういえば昨日、一方的に因縁を付けられた相手だったことを思い出す。道端に落ちているゴミを見るような目を向けられていて、一瞬の間の後にはそれが笑顔に変わった。

「やーだー、勝手にドア開いたんだけど! 風でゴミが入ってきちゃう!」

 耳の内側に響く、甘ったるく高い声。思わず顔をしかめると、隣で話をしていた別のクラスメイトが、思わずといったように小さく吹き出した。何が面白いのか、それが周囲にささやかな嘲(ちょう)笑(しょう)となって伝(でん)播(ぱ)する。

「やめときなよ、真帆。工藤、また学校来られなくなるよ」
「えー、あー、いたんだ工藤。おはよ」

 まるで、今気付いたかのような態度。
 清々しいほどの棒読みに、俺も思わず乾いた笑いが漏れた。

「ゴミはどっちだよ」

 考えていた言葉が思わず口をついた。無意識に出た侮(ぶ)蔑(べつ)の言葉は、宇佐美だけには聞こえたみたいだ。
「は?」
 ドスの効いた低い声を出し威嚇してくる彼女を睨み返そうとしたところで、しかし唐突に後ろから何者かに肩を叩(たた)かれた。

「春希くん! おっはよ!」

 天音だった。彼女もどこか慌てた様子なのが気になったが、そのおかげで踏みとどまることができて、少し冷静になる。

「……おはよ」

 天音の登場により、しんと静まり返っていた教室内がざわつき始めた。それから彼女は、作ったようなきょとんした表情を浮かべてくる。

「どしたの? 真帆と春希くん、そんな怖い顔して」
「いや、これは……」

 居心地が悪くなって、思わず頭を無造作に搔きむしる。同様に、宇佐美もばつが悪そうに口をすぼめていた。すると宇佐美と話をしていた女の子が、みんなの言葉を代弁するように割って入ってきた。

「なんで昨日から、二人ともそんな仲良さげなわけ?」
「普通にお話してるだけだよ?」
「普通じゃないでしょ。だって昨日、あたし二人で学校から帰ってるとこ見かけたし」

 目撃されていてもおかしくないとは思っていた。昇降口で、テニスラケットの女の子にも見られていたんだから。
このまま会話を続ければ、いずれ天音もいじめの対象にされてしまうかもしれない。それは、俺の望むところではない。だから他人のふりをして席に着こうと歩き出したところで、

「ちょっと、春希くん」

 昨日と同じくこちらの意図を汲(く)んでくれない彼女が、肩を掴んでまで引き止めてきた。振り払っても良かったが、後で何を言われるかわかったものじゃないから、素直に立ち止まる。振り返ると、もう片方の手に持っているものをこちらに見せてきた。

「上履き、落ちてたよ」
「え」

 予想外のものに、目を丸くする。彼女が見せた上履きには、確かに工藤という名前が書かれていた。そういえば昨日『探しといてあげるから』と言われたのを思い出す。

「今度からは、なくさないようにしないとね」

 わざわざ目の前にかがんで、隣に上履きを置いてくれた。その場で履き直すと、今まで俺が履いていたスリッパを持ってくれる。
 それからゆっくり立ち上がると、あらためて宇佐美たちの方へ向き直った。

「一応言っておくと、仲が良いのは私と春希くんが付き合ってるからだよ」
涼しい顔でこともなげに言ったものだから、彼女の発言を一度聞き逃しそうになった。宇佐美も口をぽかんと開けている。俺も、たぶん同じ表情をしていた。
「え、付き合ってるの?」
「うん、隠してたんだけど」

 数秒の静寂の後、霧が晴れるように、そこかしこから動揺の声が上がった。

「え、マジ……?」
「さすがに冗談だろ……」
「なんであんな奴と……」

 その場にいる誰もが、似たような疑問を抱いた。当事者の俺ですら、どうしてこのタイミングで天音が嘘を口にしたのか、意味がわからなかった。それから断りもなく恋人みたいに手を掴んできたかと思えば、こちらにはにかんで「スリッパ、一緒に返しに行こうか」と誘ってきた。

 同意なんてしてないのに、天音が歩き出すと勝手に俺の右足も床から離れ、教室の外へ導かれて行く。手のひらから伝わる生々しい感触が、思考しようとする頭をどうしようもなく鈍化させていった。