また新しい春が来て、新品のスーツに身を包み、僕は宇佐美と一緒に大学の入学式に参列した。高校を卒業した彼女は、どこか垢(あか)抜(ぬ)けたようにも見えて、けれどトレードマークの黒い眼鏡はそのまま掛けてくれていた。
式が終わった後「これからまた四年間よろしくね!」と、嬉しそうに話す。以前告白されて振ったから気まずくなると思ったけど、そういうことはなく、いつもの元気な彼女がそこにいた。失恋しても、暴走しないくらいには成長したということだ。
「私、実家を出た時、思わず泣いちゃったよ。今日も夜に涙で枕を濡らしそう」
「天音に電話して、慰めてもらいなよ」
「無理無理。天音も初出勤だし、疲れてると思うから心配掛けられないよね」
「杉浦病院の、医療事務だっけ」
「そうそう。明坂と橋本はスポーツ推薦で、風香は看護の専門学校だよ」
「みんな、それぞれ大変そうだね」
「でも、頑張ってると思うから。私も頑張れる。春希もそうでしょ?」
「まあ、そうかな」
「久しぶりに、電話でもしてみる?」
訊かれて、僕は首を振っていた。なぜなら、大学に合格はしたけれど、僕という人間の時間はあの日から止まったままだったから。成長した彼ら、彼女たちと話をするには、まだそれなりの時間が必要だった。
「そっか」
「気を使ってくれて、ありがとね」
「ううん。でも、放っといたら天音、取られちゃうよ。モテモテだし」
「その時は、その時だよ。それは、新しい居場所を見つけたってことなんだから」
それに今は、夢を叶えることを一番に頑張りたかった。彼女と再び会うことがあるとすれば、それは大学を卒業した時だろう。
それから僕は適度に力を抜きつつも、大学の勉強に真面目に取り組んだ。居酒屋でアルバイトも始めた。目まぐるしく変わる日常の中で、僕にとっての居場所は一つ、また一つと増えていった。
真帆と一緒に入った、学園祭を盛り上げるためのサークル。あるいは、居酒屋でのアルバイト。あるいは、三年次に入ったゼミ。
教職を目指すために集まった同志たちの中には、真帆もいた。広がった世界では誰かを蹴落とそうと画策する人もいたけど、助けてくれる仲間も大勢いた。アルバイトでジョッキを割って店長に叱られても、次の日にはゼミのみんながドンマイと言って慰めてくれた。だからまた次も頑張ろうと、前向きな気持ちで出勤することができた。
立ち上がれそうにないぐらい躓いた時は、彼女との短い日々に想いを馳せた。天音やみんなとまた会う時のために、胸を張れる自分になろうと努力した。その努力が報われて、僕と真帆は大学四年次に小学校教諭第一種免許状を取得した。
そして、地元で受けた教員採用試験も、晴れて二人とも合格を掴み取った。
二人の進路が決まった日、アルバイトをしていた居酒屋で、真帆と一緒に飲み明かした。この四年間の苦労を話し合って、涙が枯れるまでお酒を飲んだ。
帰る時には真帆がダウンしていて、仕方なくおぶって送ることになった。昔から何も変わっていないことを嬉しく思いながら、僕は道を歩き遠い過去に想いを馳せた。
今の僕なら、彼女に会うことが許されるのだろうか。
大学の卒業式を終えて、四年間住み続けた六畳一間のアパートもすべての整理が終わった。地元へ戻ったら父と一緒に暮らすことも考えたけど、荷物は実家へ送らなかった。一人でも大丈夫だと思ったから、また新しいアパートを借りた。居場所はもう、自分の手で作れる。真帆も、実家には戻らなかった。
新しい部屋の整理が終わって外へ出ると、太陽の光が新しい門出を祝福してくれた。今日は最高の、お墓参り日和だった。
事前にその日はお母さんのところへ行くと真帆に伝えてあり、「私も手を合わせに行っていい?」と言ってくれた。もちろん、了承した。アパートの二階から駐車場へ降りると、新品の真っ赤な軽自動車が停まっていた。すぐに真帆のものだとわかった。
助手席に乗り込むと「どう? かわいいでしょ」と、自慢げに鼻を高くする。僕も免許を持っているから、そろそろ車を買おうと思った。
「高かったんじゃない?」
「ママが買ってくれたの。卒業祝いと、教員採用試験合格のお祝いだって」
「優しいママだね」
「今度お礼に、仕事が始まる前に温泉旅行をプレゼントするの。お父さんとお母さんをこの車に乗せてね!」
「僕も、新品のスーツをプレゼントする予定だよ。ところでペーパードライバーだろうから、運転は十分気を付けてね」
「わかってるよ。今度レンタカー借りてみんなで遊びに行くから、今日はその予行演習も兼ねてるし」
真帆の運転は、久しぶりにしては上出来だった。酷く揺られることもなく、目的地の霊園へと到着した。車を降りて、いつものようにお墓へと向かう。今日は、親友の真帆を連れて。
彼女はお墓の掃除を手伝ってくれた。事前に花屋で買っておいたお花をお供えして、真帆はマッチで線香に火を付けて立ててくれた。煙が、空高くゆらゆらと昇っていく。
ふと、修学旅行で乗った飛行機のことを思い出した。天音はあの時、見渡す限りの雲海を見て、それを天国のようだと形容した。そこにお母さんがいるとすれば、空の彼方から僕らのことを見守ってくれているのだろうか。彼女の、弟さんも。
手を合わせて、喪に服した。僕はもう、逃げずに立ち向かえるほど強くなりましたと、お母さんに伝えた。
「それじゃ、私はこれで」
「は?」
目を開けたら、隣で手を合わせていた真帆が、笑顔でひらひらと手を振ってきた。
「真帆が一人で帰ったら、歩いて帰らなきゃいけないんだけど」
「大丈夫。迎えの人は寄越してあるから」
「迎えの人って……明坂くんでも呼んだの?」
にやにやと笑って、真帆は勝手にも駐車場の方へと歩いて行った。ため息を吐いて、腰を上げる。すると、暖かな一陣の風が吹いた。髪の毛が、はらはらと揺れて、思わず目を閉じる。
その瞬間、懐かしい鈴の音がちりんと鳴ったような気がした。
再び目を開けた時、そこには一人の女の子が立っていた。
「……久しぶり、春希くん」
「あ……」
本当に、久しぶりだった。
五年ぶりの再会だというのに、連れてきた真帆は隣でまたにやにやと笑っていて「それじゃあ、お邪魔だから本当に帰るね」と言った。そして本当に、帰って行った。墓前に残ったのは、僕と、彼女の二人だけ。
とりあえず、「あの、えっと、久しぶり……」と言葉にした。それからなんと呼べばいいか迷って「……高槻さん」と口にする。彼女は、首を振った。
「ううん。もう、高槻じゃないよ。今は、宮(みや)園(ぞの)」
「……そっか」
結婚、したんだ。そりゃあ、そうだよな。高校を卒業して、四年も経っているんだから。美人で、愛想が良くて、元気な彼女に彼氏ができて、結婚しないはずがない。ましてや大学生ではなく、社会人なんだから。あの日からずいぶん伸びてしまった髪が、どうしようもないほどの時間の経過を僕に突き付けた。
予想はしていたけど、自分勝手にも泣きそうになった。初恋が、終わったんだから。
宮園さんは墓前にしゃがみ込んで、手を合わせてくれた。そういえば以前、今度はお墓に手を合わせたいですと話していたのを思い出す。今日来てくれたのもきっと、その約束を果たすためだったんだろう。
「実は、真帆から定期的に春希くんの近況を聞いてたの」
「……そうだったんだ」
そんなことは一言も言ってなかったけど、話しているのはなんとなく予想してた。だから、驚きはしなかった。
閉じていた目を開いて、宮園さんはこちらに微笑みかけてくる。
「教員採用試験、合格おめでとう。これから晴れて、小学校の先生だね」
「……ありがとう」
それから何を話そうか迷って、言いたいことはたくさんあったけど、とりあえず例の件について話すことに決めた。
「四年前、真帆から答辞の動画、見せてもらったんだ。すごい、かっこ良かった。ずっと言えなくて、本当に今さらだけどさ、卒業、おめでとう……」
「ありがとね」彼女が笑う。
「……写真も、見せてもらったんだ。絶交するって言ったのに、ちゃんと橋本くんと和解できて、やっぱりすごいなって思った……本当に、また何も言わずに君の前から姿を消すようなことをして、ごめん……本当に、ごめんなさい……!」
謝罪の言葉を口にしたら、涙がこぼれ落ちた。思わず膝から崩れ落ちて、地面に手をつく。こんなつもりじゃなかったのに。彼女と会えた時に泣くつもりなんて、なかったのに……。
「顔、上げて」
彼女が、優しく言った。僕は、涙で歪む視界を上げる。そこには、いつの間にか随分大人になってしまった彼女の姿が、あった。その事実が、また僕の心を刺激した。
「実は、ずっと落ち込んでたら、真帆に怒られたの」
「……え?」
「春希くんのためだって言うけど、それはただの逃げなんじゃないかって。春希くんを言い訳にするなって」
ポケットから取り出したハンカチで、彼女は僕の涙を拭いてくれた。必死で、顔をそらした。彼女はもう、どこかの誰かの妻なんだから。そんなことをしてもらう資格なんて、今の僕にはない。
「そう言われて、初めて気付いた。春希くんが、私の前からいなくなった理由。全部捨てようとした私のため、なんだよね」
「違う……違うんだよ、僕は……!」
逃げたんだ。そこに彼女を想う気持ちはあったのかもしれないけど、一度は明確に逃げた。
「でも君は、あれからまた学校に来てくれた」
「それは、僕じゃなくて……!」
「ううん。君は、君だよ」
それから彼女は優しく僕のことを抱きしめてくれた。あの日、彼に病室でそうしたように。
「君のおかげで、康平も変わったの。君が私のために、ハッキリと困ってるんだって言ってくれたから。あの言葉があったから、自分が間違っていたことに気付いて目が覚めたみたい。君がいなくなった後、私や隼人くんや、真帆にも謝ってた。君にも、謝りたいって言ってた」
「やめろよ……結婚してるんだろ? こんなところを見られたら、また変に噂されるから……」
今度は、ただのいじめなんかじゃ済まない。大人になれば、司法が僕らのことを裁いてくる。
狭い世界だ。
噂は、それこそあっという間に広がる。せっかく就職した杉浦病院も、退職しなければいけなくなるかもしれない。それなのに、彼女はいっそう僕のことを強く抱きしめてきた。
「実は、離婚したの」
「……え?」
「私が高校を卒業して、しばらく経ってから。お父さんが耐え切れなくなったみたい」
悲しいことのはずなのに、おどけたように彼女は言った。
「私のお母さん、自分勝手なところがあるから。感情の制御も苦手だし、しょっちゅう喧嘩してたし、本当のお父さんが出て行った理由も今になってみればよくわかるの」
「そんな……」
「それでも、私はお母さんのことが大好きだよ」
いつの間にか心まで大人になった彼女は、もうわだかまりなんて一つもないかのように、笑顔を浮かべていた。
「私が倒れた日、誰よりも先に病室に来て泣いてくれたの。今まで、散々迷惑を掛けてごめんって。本当にどうしようもなくて、みんなから嫌われるような人で、康平が毒親だって言いたくなる気持ちもわかるの。だけどそれじゃあ、あの人は本当に一人になってしまうから。だから、私だけは愛してあげようって決めたの。だって、最愛の息子を小児がんで亡くして、愛していた人に裏切られたのに、それでも私のことを泣きながら抱きしめて、受け入れてくれたんだから」
恨みを抱く前に、感謝しなきゃいけなかった。彼女は清々しい表情をたたえ、そう言った。
「今は、お母さんと弟と一緒に暮らしてる。正直、離婚するだろうなっていう予感はずっとあったから、大学には行かずに就職することにしたの。お金のことで、二人に迷惑掛けちゃうから」
「でも今は、杉浦病院で働いてるんでしょ? あの人も、働いてるよね……?」
「そうだよ。でも、別にあの人と私の仲が悪くなったわけじゃないから。春希くん、言ってくれたでしょ? 友達から始めてみても、いいんじゃないかって。だから、たまに会って、変わらずにお酒とか飲んで話してる。私に申し訳ないと思ってるから、お母さんもそれくらいは許してくれてるみたい」
「……そうだったんだ」
「弟の輝幸は、小学生になってから野球を始めたの。休日は私がたまに教えてあげて、バッティングが随分上手になった。ボールも速く投げられるから、もしかすると将来はピッチャーをやるのかも!」
「そっか……」
本当に、見違えるほど彼女は強くなった。成海から宮園に変わって、それから高槻に。そして高槻から、また宮園に戻って。
大人の都合に翻弄され続けたのに、本当に、強く……。
「春希くん」
彼女が、優しく僕の名前を呼んでくれる。
「だからもう、大丈夫だよ」
安心させるように、そっと肩を撫でてくれた。
もう、いいのだろうか。
ずっと秘めていた想いを、言葉にしても。
僕らはみんな、嘘を吐きすぎてしまった。
たくさんの勘違いや、すれ違いの果てで。
いつかの僕は、この想いさえも嘘で塗り潰した。
ずっと、一緒にいたいと望んでいた。
今度会った時、彼女に意中の相手がいなかったとしたら、伝えたいことがあった。
本当に、僕は。
心の底から、子どもの頃から、ずっと、君のことが。
「好きです」
きっと二人なら、どこまでも歩いて行ける。
一番大切な人は、子どもの頃からずっと変わっていなかったから。
それだけは、嘘を吐けなかった。
式が終わった後「これからまた四年間よろしくね!」と、嬉しそうに話す。以前告白されて振ったから気まずくなると思ったけど、そういうことはなく、いつもの元気な彼女がそこにいた。失恋しても、暴走しないくらいには成長したということだ。
「私、実家を出た時、思わず泣いちゃったよ。今日も夜に涙で枕を濡らしそう」
「天音に電話して、慰めてもらいなよ」
「無理無理。天音も初出勤だし、疲れてると思うから心配掛けられないよね」
「杉浦病院の、医療事務だっけ」
「そうそう。明坂と橋本はスポーツ推薦で、風香は看護の専門学校だよ」
「みんな、それぞれ大変そうだね」
「でも、頑張ってると思うから。私も頑張れる。春希もそうでしょ?」
「まあ、そうかな」
「久しぶりに、電話でもしてみる?」
訊かれて、僕は首を振っていた。なぜなら、大学に合格はしたけれど、僕という人間の時間はあの日から止まったままだったから。成長した彼ら、彼女たちと話をするには、まだそれなりの時間が必要だった。
「そっか」
「気を使ってくれて、ありがとね」
「ううん。でも、放っといたら天音、取られちゃうよ。モテモテだし」
「その時は、その時だよ。それは、新しい居場所を見つけたってことなんだから」
それに今は、夢を叶えることを一番に頑張りたかった。彼女と再び会うことがあるとすれば、それは大学を卒業した時だろう。
それから僕は適度に力を抜きつつも、大学の勉強に真面目に取り組んだ。居酒屋でアルバイトも始めた。目まぐるしく変わる日常の中で、僕にとっての居場所は一つ、また一つと増えていった。
真帆と一緒に入った、学園祭を盛り上げるためのサークル。あるいは、居酒屋でのアルバイト。あるいは、三年次に入ったゼミ。
教職を目指すために集まった同志たちの中には、真帆もいた。広がった世界では誰かを蹴落とそうと画策する人もいたけど、助けてくれる仲間も大勢いた。アルバイトでジョッキを割って店長に叱られても、次の日にはゼミのみんながドンマイと言って慰めてくれた。だからまた次も頑張ろうと、前向きな気持ちで出勤することができた。
立ち上がれそうにないぐらい躓いた時は、彼女との短い日々に想いを馳せた。天音やみんなとまた会う時のために、胸を張れる自分になろうと努力した。その努力が報われて、僕と真帆は大学四年次に小学校教諭第一種免許状を取得した。
そして、地元で受けた教員採用試験も、晴れて二人とも合格を掴み取った。
二人の進路が決まった日、アルバイトをしていた居酒屋で、真帆と一緒に飲み明かした。この四年間の苦労を話し合って、涙が枯れるまでお酒を飲んだ。
帰る時には真帆がダウンしていて、仕方なくおぶって送ることになった。昔から何も変わっていないことを嬉しく思いながら、僕は道を歩き遠い過去に想いを馳せた。
今の僕なら、彼女に会うことが許されるのだろうか。
大学の卒業式を終えて、四年間住み続けた六畳一間のアパートもすべての整理が終わった。地元へ戻ったら父と一緒に暮らすことも考えたけど、荷物は実家へ送らなかった。一人でも大丈夫だと思ったから、また新しいアパートを借りた。居場所はもう、自分の手で作れる。真帆も、実家には戻らなかった。
新しい部屋の整理が終わって外へ出ると、太陽の光が新しい門出を祝福してくれた。今日は最高の、お墓参り日和だった。
事前にその日はお母さんのところへ行くと真帆に伝えてあり、「私も手を合わせに行っていい?」と言ってくれた。もちろん、了承した。アパートの二階から駐車場へ降りると、新品の真っ赤な軽自動車が停まっていた。すぐに真帆のものだとわかった。
助手席に乗り込むと「どう? かわいいでしょ」と、自慢げに鼻を高くする。僕も免許を持っているから、そろそろ車を買おうと思った。
「高かったんじゃない?」
「ママが買ってくれたの。卒業祝いと、教員採用試験合格のお祝いだって」
「優しいママだね」
「今度お礼に、仕事が始まる前に温泉旅行をプレゼントするの。お父さんとお母さんをこの車に乗せてね!」
「僕も、新品のスーツをプレゼントする予定だよ。ところでペーパードライバーだろうから、運転は十分気を付けてね」
「わかってるよ。今度レンタカー借りてみんなで遊びに行くから、今日はその予行演習も兼ねてるし」
真帆の運転は、久しぶりにしては上出来だった。酷く揺られることもなく、目的地の霊園へと到着した。車を降りて、いつものようにお墓へと向かう。今日は、親友の真帆を連れて。
彼女はお墓の掃除を手伝ってくれた。事前に花屋で買っておいたお花をお供えして、真帆はマッチで線香に火を付けて立ててくれた。煙が、空高くゆらゆらと昇っていく。
ふと、修学旅行で乗った飛行機のことを思い出した。天音はあの時、見渡す限りの雲海を見て、それを天国のようだと形容した。そこにお母さんがいるとすれば、空の彼方から僕らのことを見守ってくれているのだろうか。彼女の、弟さんも。
手を合わせて、喪に服した。僕はもう、逃げずに立ち向かえるほど強くなりましたと、お母さんに伝えた。
「それじゃ、私はこれで」
「は?」
目を開けたら、隣で手を合わせていた真帆が、笑顔でひらひらと手を振ってきた。
「真帆が一人で帰ったら、歩いて帰らなきゃいけないんだけど」
「大丈夫。迎えの人は寄越してあるから」
「迎えの人って……明坂くんでも呼んだの?」
にやにやと笑って、真帆は勝手にも駐車場の方へと歩いて行った。ため息を吐いて、腰を上げる。すると、暖かな一陣の風が吹いた。髪の毛が、はらはらと揺れて、思わず目を閉じる。
その瞬間、懐かしい鈴の音がちりんと鳴ったような気がした。
再び目を開けた時、そこには一人の女の子が立っていた。
「……久しぶり、春希くん」
「あ……」
本当に、久しぶりだった。
五年ぶりの再会だというのに、連れてきた真帆は隣でまたにやにやと笑っていて「それじゃあ、お邪魔だから本当に帰るね」と言った。そして本当に、帰って行った。墓前に残ったのは、僕と、彼女の二人だけ。
とりあえず、「あの、えっと、久しぶり……」と言葉にした。それからなんと呼べばいいか迷って「……高槻さん」と口にする。彼女は、首を振った。
「ううん。もう、高槻じゃないよ。今は、宮(みや)園(ぞの)」
「……そっか」
結婚、したんだ。そりゃあ、そうだよな。高校を卒業して、四年も経っているんだから。美人で、愛想が良くて、元気な彼女に彼氏ができて、結婚しないはずがない。ましてや大学生ではなく、社会人なんだから。あの日からずいぶん伸びてしまった髪が、どうしようもないほどの時間の経過を僕に突き付けた。
予想はしていたけど、自分勝手にも泣きそうになった。初恋が、終わったんだから。
宮園さんは墓前にしゃがみ込んで、手を合わせてくれた。そういえば以前、今度はお墓に手を合わせたいですと話していたのを思い出す。今日来てくれたのもきっと、その約束を果たすためだったんだろう。
「実は、真帆から定期的に春希くんの近況を聞いてたの」
「……そうだったんだ」
そんなことは一言も言ってなかったけど、話しているのはなんとなく予想してた。だから、驚きはしなかった。
閉じていた目を開いて、宮園さんはこちらに微笑みかけてくる。
「教員採用試験、合格おめでとう。これから晴れて、小学校の先生だね」
「……ありがとう」
それから何を話そうか迷って、言いたいことはたくさんあったけど、とりあえず例の件について話すことに決めた。
「四年前、真帆から答辞の動画、見せてもらったんだ。すごい、かっこ良かった。ずっと言えなくて、本当に今さらだけどさ、卒業、おめでとう……」
「ありがとね」彼女が笑う。
「……写真も、見せてもらったんだ。絶交するって言ったのに、ちゃんと橋本くんと和解できて、やっぱりすごいなって思った……本当に、また何も言わずに君の前から姿を消すようなことをして、ごめん……本当に、ごめんなさい……!」
謝罪の言葉を口にしたら、涙がこぼれ落ちた。思わず膝から崩れ落ちて、地面に手をつく。こんなつもりじゃなかったのに。彼女と会えた時に泣くつもりなんて、なかったのに……。
「顔、上げて」
彼女が、優しく言った。僕は、涙で歪む視界を上げる。そこには、いつの間にか随分大人になってしまった彼女の姿が、あった。その事実が、また僕の心を刺激した。
「実は、ずっと落ち込んでたら、真帆に怒られたの」
「……え?」
「春希くんのためだって言うけど、それはただの逃げなんじゃないかって。春希くんを言い訳にするなって」
ポケットから取り出したハンカチで、彼女は僕の涙を拭いてくれた。必死で、顔をそらした。彼女はもう、どこかの誰かの妻なんだから。そんなことをしてもらう資格なんて、今の僕にはない。
「そう言われて、初めて気付いた。春希くんが、私の前からいなくなった理由。全部捨てようとした私のため、なんだよね」
「違う……違うんだよ、僕は……!」
逃げたんだ。そこに彼女を想う気持ちはあったのかもしれないけど、一度は明確に逃げた。
「でも君は、あれからまた学校に来てくれた」
「それは、僕じゃなくて……!」
「ううん。君は、君だよ」
それから彼女は優しく僕のことを抱きしめてくれた。あの日、彼に病室でそうしたように。
「君のおかげで、康平も変わったの。君が私のために、ハッキリと困ってるんだって言ってくれたから。あの言葉があったから、自分が間違っていたことに気付いて目が覚めたみたい。君がいなくなった後、私や隼人くんや、真帆にも謝ってた。君にも、謝りたいって言ってた」
「やめろよ……結婚してるんだろ? こんなところを見られたら、また変に噂されるから……」
今度は、ただのいじめなんかじゃ済まない。大人になれば、司法が僕らのことを裁いてくる。
狭い世界だ。
噂は、それこそあっという間に広がる。せっかく就職した杉浦病院も、退職しなければいけなくなるかもしれない。それなのに、彼女はいっそう僕のことを強く抱きしめてきた。
「実は、離婚したの」
「……え?」
「私が高校を卒業して、しばらく経ってから。お父さんが耐え切れなくなったみたい」
悲しいことのはずなのに、おどけたように彼女は言った。
「私のお母さん、自分勝手なところがあるから。感情の制御も苦手だし、しょっちゅう喧嘩してたし、本当のお父さんが出て行った理由も今になってみればよくわかるの」
「そんな……」
「それでも、私はお母さんのことが大好きだよ」
いつの間にか心まで大人になった彼女は、もうわだかまりなんて一つもないかのように、笑顔を浮かべていた。
「私が倒れた日、誰よりも先に病室に来て泣いてくれたの。今まで、散々迷惑を掛けてごめんって。本当にどうしようもなくて、みんなから嫌われるような人で、康平が毒親だって言いたくなる気持ちもわかるの。だけどそれじゃあ、あの人は本当に一人になってしまうから。だから、私だけは愛してあげようって決めたの。だって、最愛の息子を小児がんで亡くして、愛していた人に裏切られたのに、それでも私のことを泣きながら抱きしめて、受け入れてくれたんだから」
恨みを抱く前に、感謝しなきゃいけなかった。彼女は清々しい表情をたたえ、そう言った。
「今は、お母さんと弟と一緒に暮らしてる。正直、離婚するだろうなっていう予感はずっとあったから、大学には行かずに就職することにしたの。お金のことで、二人に迷惑掛けちゃうから」
「でも今は、杉浦病院で働いてるんでしょ? あの人も、働いてるよね……?」
「そうだよ。でも、別にあの人と私の仲が悪くなったわけじゃないから。春希くん、言ってくれたでしょ? 友達から始めてみても、いいんじゃないかって。だから、たまに会って、変わらずにお酒とか飲んで話してる。私に申し訳ないと思ってるから、お母さんもそれくらいは許してくれてるみたい」
「……そうだったんだ」
「弟の輝幸は、小学生になってから野球を始めたの。休日は私がたまに教えてあげて、バッティングが随分上手になった。ボールも速く投げられるから、もしかすると将来はピッチャーをやるのかも!」
「そっか……」
本当に、見違えるほど彼女は強くなった。成海から宮園に変わって、それから高槻に。そして高槻から、また宮園に戻って。
大人の都合に翻弄され続けたのに、本当に、強く……。
「春希くん」
彼女が、優しく僕の名前を呼んでくれる。
「だからもう、大丈夫だよ」
安心させるように、そっと肩を撫でてくれた。
もう、いいのだろうか。
ずっと秘めていた想いを、言葉にしても。
僕らはみんな、嘘を吐きすぎてしまった。
たくさんの勘違いや、すれ違いの果てで。
いつかの僕は、この想いさえも嘘で塗り潰した。
ずっと、一緒にいたいと望んでいた。
今度会った時、彼女に意中の相手がいなかったとしたら、伝えたいことがあった。
本当に、僕は。
心の底から、子どもの頃から、ずっと、君のことが。
「好きです」
きっと二人なら、どこまでも歩いて行ける。
一番大切な人は、子どもの頃からずっと変わっていなかったから。
それだけは、嘘を吐けなかった。