すべてを知った俺は、ずっと天音が嘘を吐いていたことを知った。最初から、本当に全部わかっていたなんて、想像すらしていなかった。俺が、工藤春希によって生み出された人格だということも。
「ごめん。今まで黙ってて」
 話せなくても、それはしょうがないと思った。事実、そんな突拍子もないことを打ち明けられたら、俺は取り乱していただろうから。今も、頭が混乱している。
「……俺、どうしたらいいんだ? 消えるのか……?」
 怖かった。だって、せっかくみんなと仲良くなれたのに、俺は初めから存在していなかったなんて。信じたくはなかった。けれども今の話を聞いて、現実逃避ができるほど頭も悪くなかった。
 放心状態でいると、天音はこちらに体を寄せて、そっと抱きしめてくれた。優しい温もりが、全身に溢れた。ここにいていいんだと、言ってくれているようだった。
「杉浦くんは、杉浦くんだよ。春希くんでもあるの。だって、春希くんから生まれた存在なんだから。きっと春希くんがなりたかった、憧れの存在なんだよ」
「俺が、春希の憧れ……?」
「そうだよ。今は受け入れられないかもしれないけど、もう少しだけ落ち着いたら、お父さんにお医者様を紹介してもらおうよ。私、調べたの。人格は、統合することができるんだって。だから、消えたりしない。杉浦くんは、春希くんといつか一つになるの」
 それは、夢のような提案だった。
いつかお母さんがしてくれたように、今度はクラスメイトの女の子が俺の頭を撫でてくれる。取り乱した心を、癒してくれる。本当にそんなことが可能なら、またみんなと一緒にいられる。宇佐美や天音たちと遊べる。明坂とも、バスケができる。
「……そして、今度こそ本当の恋人になろうよ」
 天音が、俺にそう言ってくれた。彼女のことが好きだった。それもまた、心の底から望んでいたことで。俺から一度離れると、ゆっくりと綺麗な顔が近付いてきた。逃げるはずがなかった。俺は、彼女のことを受け入れた。
 ファーストキスは、悲しみの味がしたような気がした。

 逃げるな。逃げるな。
 頭の中で、ずっとそんな言葉がこだまする。
俺は、逃げてなんていない。現実と向き合うことを決めたんだ。落ち着いたら、天音のお父さんに良い精神科医を紹介してもらって、春希の人格と統合される。それが俺にとっての、春希にとっても一番のハッピーエンドなんだから。
 担任教師から呼び出しがあったのは、天音の病室へ行ってから二日後のことだった。反省文を書いたら、また学校に戻ることができるよう取り計らってくれたらしい。本当に、感謝の言葉しか浮かばない。
 天音に電話で伝えると、自分のことのように喜んでくれた。俺も、彼女が笑ってくれて嬉しかった。その日は、一緒に学校へ行こうと約束した。
 翌日、久しぶりに制服に着替えて家を出ると、そこには笑顔の天音がいた。幸福を実感した。何も言わずに手を繋いでくれた。
大丈夫だからと、彼女が言った。たとえ何を言われても、守ってくれるらしい。
一緒にバスに乗った時、同じ学校の生徒に奇異の視線を向けられた。あいつは、クラスメイトを殴ったんだ、と。俺が悪いんだから、その非難は甘んじて受け入れようと思った。彼女も『ビッチ』だと罵られていたけど、まったく気にしていないようだった。
学校に到着して昇降口へ向かう。いろんな人が、手を繋ぐ俺たちを見ていた。気にしなかった。天音が、「大丈夫だよ」と言ってくれたから。
下駄箱に、俺の上履きはなかった。また誰かが捨てたんだろうなと思って、靴下のまま担任教師に指定された進路指導室へと向かった。ドアを開けて中に入る前に、天音は言った。
「反省文をちゃんと書けば戻れるから。教室で待ってるね」
 頷いて、ただ早く戻りたいとだけ思った。緊張していることが伝わったのか、天音が優しく前髪を整えてくれた。そのおかげで、だいぶ落ち着いた。最後に、笑いかけてくれた。
 彼女と別れ進路指導室へ入ると、担任教師が俺を出迎えた。
机の上には、三枚の原稿用紙。
「ここにちゃんと反省を綴(つづ)れば、お前は許されるから。納得してないかもしれないけど、とにかく書け。工藤のためだ」
「納得は、してます」
 理由はどうあれ、手を上げた奴が一番悪い。だから俺はこんなにも多くの人に迷惑を掛けたんだ。本当に、浅はかだった。原稿用紙の三枚くらい、朝礼が始まる頃には書き終わるだろう。
 後は筆を握って、反省の想いを書き留めるだけ。それで、すべて許される。元に戻れる。
 だから俺は、筆を握った。ペン先を、原稿用紙に向ける。
けれどその手が、不意に止まった。
 本当に、これでいいんだろうか。
これが、一番正しかったことなのだろうか。
ずっと、逃げるなという言葉が頭の中で鳴り響いていた。正しいことだと信じて止まなかったのに、こんな土壇場になって俺は、迷った。
 そもそも、どうして春希は俺という人格を作ったんだろう。いじめられて、それに耐えられなくなったという理由は、酷く短絡的な気がした。お母さんが亡くなったからというのも、タイミング的におかしい。それで塞ぎ込んでいるのなら、新学期から登校はしないだろう。
そしてかつて好きだった友人と再会したなら、それこそ頑張って学校へ足を運ぶはずだ。だけど現実はまったく逆で、天音がナルミだということを知ると、次の日からは不登校になった。何か、彼なりの意図があったんじゃないかと勘ぐってしまう。
「どうした? 書けないのか?」
 ペンを握ったまま微動だにしない俺を見てしびれを切らしたのか、担任教師は目の前に椅子を置いて座り込んだ。
「脅すわけじゃないが、それが書けなきゃ工藤は退学だ」
「退学、ですか……」
 それは、困る。けれど、あのまま春希が登校しなければ、どのみち留年か退学は免れなかっただろう。それでも、彼は学校へ行かないことを選択した。
「先生も、そんなことにはしたくない。お前は橋本を殴ったけれど、大切な教え子だからな。もし言葉が思い浮かばなくて書けないなら、先生が手伝ってやるぞ」
 担任教師は、未だ真っ白な原稿用紙を人差し指で三回叩いた。
「お前は、大きな勘違いをした」
「……はい」
「高槻はもう、橋本に気が移っていたのに、それを知らなかった工藤は彼女のことを助けたくて、橋本を殴った。そういう話だったよな?」
「俺が、彼女のことを助けたかった……」
「そうだ」
……俺は、ようやく気付いた。春希と俺が、本当に守りたかったものを。それに気付いた瞬間、存在しないはずの記憶や感情が、頭の中に一斉に流れ込んできた。
あの日、彼女と話をした放課後の空き教室で、工藤春希は誓ったんだ。自分を助けてくれると言った彼女の手を、取らないことを。
その手を取ってしまえば、彼女は必死に積み上げてきたものをすべて投げ捨ててまで、自分のことを守ってくれるから。
だから俺はずっと、勘違いしていた。春希が守りたかったのは、自分の立場や学校生活なんかじゃなく、たった一人の高槻天音だった――

――僕は、守ってあげたかった。大人の都合に振り回され、それでも必死で生きてきた彼女がようやく手にすることのできた、かけがえのない居場所を。そのために、僕という存在は邪魔だったんだ。だから、僕は学校へ行かないということを選択した。

彼女を守るために、俺も必死だった。何とかして、恩返しがしたかった。だから彼女の相談に乗って、修復不可能だと思われていた父親との関係を持ち直すことができた。自分のことのように、心の底から嬉しかった。ただ彼女には、どこにいても笑っていて欲しかったから。
けれど今の俺は、なんだ。自分勝手な都合で、天音の居場所を独占しようとしている。助けてあげるという言葉に縋(すが)っている。守りたかったのは、彼女の居場所のはずなのに。俺が、いつの間にか守られている。
「どうした工藤?」
 担任教師が、未だ反省文を書かない俺のことを、苛立ちを含んだ瞳で見つめてくる。
 もう覚悟は決まった。本当は、俺が杉浦鳴海になる前から、とっくに決まっていた。
 なぜなら、たとえ人格が入れ替わったとしても、愛する人は同じだったから。
 僕(、)は(、)それに気が付いた時、手に持っていたペンを原稿用紙の上に戻した。
「……書けません」
「なに?」
 先生の目が、驚きで見開かれる。僕はそれでも、怯(ひる)んだりはしなかった。
「書かないということは、お前は退学になるぞ」
「構いません」
 ハッキリ口にすると、先生は大きな手のひらを机の上に叩きつけて、聞き分けのない子どもに間接的な暴力で威嚇してきた。
「お前が退学になったら、お父さんとお母さんは悲しむぞ!」
「お母さんは、もう亡くなりました。お父さんは、きっと事情を話せば許してくれます」
「なんて説明するんだ!」
「僕のやったことは、正しかったことだと話します」
 もう一度、先生は机を叩いた。怯むわけにはいかない。僕は毅(き)然(ぜん)とした態度で応戦した。その時、視界の端で黒い大きな眼鏡が一瞬見えた気がした。すぐに隠れたけれど、そこに彼女がいると知れたのは都合が良かった。
 僕はきっと、今から彼女たちを傷付けることになる。鳴海くんの思い出が蘇(よみがえ)ってきて、奥歯を強く噛みしめた。冗談でも、言いたくなかった。だけど、言わなければいけなかった。
 これは、僕が始めてしまった物語だから。
 僕は椅子に背中を預け、挑発するように、笑みを浮かべた。
「だいたい、あいつが悪いんですよ。おれと付き合ってるのに、深夜にこっそり別の男と会おうとしたんですから。中学からの幼馴染か何か知らないけど、彼女が別の男の人と話してるところなんて、見たくないじゃないですか。だから、殴ったんです」
「……お前、仮にもあいつの彼氏だったんだろ? そんなふざけたことばかり言ってたら、本当に嫌われてしまうぞ」
「嫌われても構いませんよ。本当は、初めからあんな女のことなんて好きじゃなかったんですから」
「……なんだと?」
 僕は口元に手を添えて、不敵に笑ってみせた。人を、小馬鹿にするような笑みだ。
「同情ってやつですかね。いじめられてたおれを見て、きっと放っておけなかったんだ。修学旅行で同じ担当になったのは、本当に都合がよかった。おかげで、ちょっと優しくしただけでおれのことを好きになったんだから」
瞬間、先生の目の色が変わった。僕はそれを、見逃したりはしなかった。
「彼女と付き合い始めて、クラスメイトのおれを見る目が変わったのは傑作でした。みんなおれの嘘に騙されて。あいつも結局、最後まで愛されていないことに気付かなかった」
「……高槻はあの時、曲がりなりにもお前を庇おうとしたんだぞ。それをお前は今、無碍(むげ)にしようとしている。その自覚はあるのか? 本当は、クラスメイトを殴ってしまうほどに好きだったんじゃないのか?」
 図星だった。彼女を想う気持ちが抜けない棘となって、僕の心臓に突き刺さった。それでも、こんな中途半端な場所で止まるわけにはいかなかった。だから精一杯の言葉を絞り出した。
「……最初から、好きじゃなかったって言ってるじゃないですか。だいたいあいつは、いちいち細かいんですよ。人の揚げ足ばかり取ってきて、勝手に何でも自分で決めてきて……自分で、背負い込んで……本当に、救いようのない馬鹿ですよ」
 そんな君のことが頭の中から離れなくなって、僕も彼もいつの間にか好きになっていた。だからこんなことを言うのは、嫌だった。だけどこうすることでしか、もう彼女を救うことが、できない。
 そのためには、先生に勘違いをしてもらうしかなかった。
それが最後に残された、たった一つの彼女を救う方法だから。
 僕は、また突然笑った。気味の悪いものを見る目が、僕の体を貫いた。
「彼女のおかげで、宇佐美とも仲良くなれましたから。天音がダメなら、今度は彼女と付き合ってみようかな」
 先生の眉間にしわが寄る。明確に僕を、どうしようもない屑(くず)だと認識したようだ。けれど、それじゃあ足りない。もっと……それこそ、クラスメイトの前に立った時に、苛立ちを隠せなくなるほど挑発しなければ、みんな勘違いをしなくなる。
 だから僕は、再び笑った。その瞬間、彼女が足に包帯を巻いてくれた時の出来事が、脳裏をよぎった。こんなこと、本当は言いたくなかった。でも、退くことは許されなかった。そんな時、彼が背中を押してくれたような気がした。
「……あいつ、最近おれと仲が良いんですよ。ちょっと優しくしたら、ずっと後ろを付いてくるようになっちゃって。先生も知ってるんじゃないですか? あいつが橋本に告白して振られたこと。面白いですよね、おれのことが嫌いだったのに。本当に、女って……」
 すべてを言葉にする前に、先生は怒りのあまり机の上の原稿用紙を握りしめた。それを乱雑に、部屋の隅にあるゴミ箱へ投げ捨てる。
「謝罪すれば許してやったものを、本当にお前は馬鹿だよ工藤。退学したければ、勝手にすればいい。お前の人生はもう破滅だ」
「……おれを助けようとしたのも、結局は自分の保身のためじゃないんですか? 教え子が退学したら、立場が危うくなりますもんね。知ってますか、先生。そういうのは、偽善って言うんですよ」
 最後の言葉が効いたのか、先生は立ち上がって机を蹴り飛ばすと「さっさと帰れ‼」と吐き捨てて進路指導室を出て行った。
気付けば足が震えていて、思わず椅子の背もたれに体を預けた。「ごめん……」と、みんなに謝った。僕に勇気をくれた彼も、泣いているのが、わかった。
「春希……」
 一部始終を見ていた宇佐美が、恐る恐る部屋の中へと入ってくる。僕は、そんな彼女の顔を真正面から見据えることができなかった。
「……今僕が言ったこと、クラスメイトに伝えなよ。そうすればみんな勘違いして、宇佐美も天音も安心して過ごせると思うから……そういうの、得意だろ?」
「でもさっきの、全部嘘だよね……?」
「何言ってんだよ。だって僕、君の傷心に付け込んだじゃないか。忘れちゃったの?宇佐美が、そう周りに話したんじゃなかったっけ。それが正しかったんだよ」
 子どもの頃の出来事を覚えていた僕は、ただ純粋に宇佐美のことを慰めてあげたかった。けれど、僕が未熟だったから、言い方も方法も間違えてしまったんだろう。
「なんでそんな泣きそうな顔してるの。宇佐美は被害者なのに」
「違うよ……」
「もういいから、行ってよ……天音の居場所、奪いたくないんだ。元はと言えば、僕が何も説明せずに逃げたのがいけなかったんだ。僕が現実から逃げ出して、別の人格を作っちゃったから、こんなことになったんだ」
「春希のせいじゃないよ……」
「どのみち、もう無理だよ。あんなに挑発したら、僕は学校に戻ることなんてできない。天音にも、顔向けできない……」
 自分で言ってて、悲しくなった。ようやく再会できたと思ったのに、あまり一緒に過ごせずに別れてしまうなんて。一度くらい自分の言葉でありがとうと伝えたかった。
「……僕にまだ申し訳ない気持ちがあるなら、これぐらいの頼みは聞いてよ。それでもう、全部許すから……」
 震える足で立ち上がって、宇佐美の元へ歩いて行く。この子には、本当に彼が何度も助けられた。彼女とも、もし叶うならちゃんとした友達になりたかった。
「約束、守れなくてごめん……」
「……約束?」
「僕は、天音のことが好きだから。たぶん宇佐美は、僕のことなんて好きじゃないだろうけど。それでも約束、破っちゃったから」
 彼女は、必死に首を振った。それだけで、もう十分だった。
約束も守れない噓つきな僕は、宇佐美の目の前から立ち去った。彼女の泣き声が、いつまでも耳のそばから離れてはくれなかった。