職員室の先生に上履きをなくしたと伝えたら、すんなりと来客用のスリッパを貸してもらえた。
 それから校内をうろつき三階に上ったところで、あっさり二年三組とやらを見つける。ここに辿(たど)り着(つ)くまでにかかった苦労に、思わずため息が漏れた。

 そもそも春希がしばらく学校を休んでいたなら、代わりに登校する必要はないんじゃないか。けれど回れ右をして帰ろうと試みるたびに、今朝写真で見た母親の笑顔がちらついて、どうにも足がそちらへと向かなかった。

 教室へと足を踏み入れた途端、刺すような視線を浴びたような気がしたけれど、とりあえず入口一番近くの席に座っていたミディアムヘアの女の子に「おはよ」と笑顔で挨拶してみた。こちらを振り返った女の子は、不機嫌そうに思いっ切り顔を歪ませてくる。その敵対心剥き出しの表情に、聞く相手を間違えてしまったことをすぐに察した。

「ちょ、なに、馴れ馴れしいんだけど。私が工藤の友達と勘違いされるじゃん。話し掛けんな、サイアク」 

 一言挨拶を交わしただけなのに悪態を吐かれ、苦笑いを浮かべるしかなかった。胸元のネームプレートには、『宇佐美』と書かれている。極力この女には話し掛けないでおこうと決めた。それから舌打ちをされ、そっぽを向かれる。

 あらためて教室を見渡してみるが、皆一様に視線が合った途端に目をそらしてしまう。唯一違ったのは、先ほど昇降口で話をした高槻だった。こちらを呆れたように見つめていて、それから何も言わずに自分の後ろの席を指差した。ここだよ、と教えてくれているかのよう。

 窓際一番奥の席に座り、前を向く彼女に小声で「ありがとう」と伝えた。するとこちらを振り返らずに「あんまりクラスメイトに話し掛けない方がいいよ」と忠告してくれる。

 もしかして、春希は嫌われているのだろうか。

 平穏無事に生活するためには、大人しくしているに越したことはない。机に突っ伏して朝の時間をやり過ごし、授業が始まる前に一応ノートと教科書だけは開いておいた。

 どうすれば、元の体に戻ることができるんだろう。それが今の一番大きな悩みで、戻ることさえできれば杉浦鳴海という人間のことも自ずとわかるような気がした。
 しかし下校の時間になっても、解決方法は何も思い浮かばなかった。


 自宅へ帰るために、カバンの中へ適当に教科書やノートを詰め込む。すると目の前に座っていた高槻の元に、一人の男が近寄ってきた。彼は一瞬こちらを見たが、すぐに興味が失せたのか彼女の方へ視線を戻した。

「天音、帰ろう。今日は部活が休みなんだ」

 彼女は高槻天音というらしい。そして名前で呼んでいるということは、おそらく恋人か何かだろう。彼氏の一人や二人はいることに、驚きは感じなかった。

「ごめん、今日は先約があるの」
「先約? 誰?」
「春希くん」

 いきなり飛び出したその名前に、カバンを肩に掛けようとしていた手が止まる。気付けば高槻はこちらを振り返り、にんまりと笑っていた。

「だよね、春希くん」
「え、いや……」

 思わず彼氏の方を見ると、どこか冷めた目で俺のことを見下ろしている。

「なんだ、今日は来てたのか」

さっき目が合ったのは、どうやら気のせいだったらしい。

「それって、修学旅行の打ち合わせの奴? 早く終わるなら待ってるよ」
「うーん、どうかなぁ。それに今日は、もう春希くんと一緒に帰ろって約束しちゃったんだよね」
「別に、そんな約束は……」

 言い終える前に、高槻は一瞬こちらを睨(にら)みつけてきた。話を合わせなければ後で殴ると暗に言われているかのようで、誤魔化すようにへらへらと笑っておいた。

「そうか、優しいな天音は。それじゃあ仕方がない」
「ごめんね、康平」

 彼は「気にしないで」と言い口元を緩め、他の友人たちと教室を出て行った。康平という男が去った後、高槻は疲れたように肩を落とす。何か話し掛けようかとも思ったが、先ほどの彼と同じように彼女を誘おうとするクラスメイトたちがやってきて、そのたびに俺を口実にして断り続けるのを見ていることしかできなかった。

 勝手に名前を使うのは構わないが、高槻が春希という単語を口にするたび、汚物を見るかのような視線を向けられるのは、さすがに心が痛んだ。

 それからクラスメイトの波がはけたタイミングをを見計らって、
「俺のことなんか気にせずに、友達との約束を優先すれば良かったのに」
 そもそも今朝少し会話をしただけで、放課後に何かしようと約束をした覚えはない。
「ここじゃあ目立つから、場所変えようよ。ついてきて」

 こちらの言葉なんて耳に入れず、一方的に会話を進めてくる。いったい俺が何をしたんだろう。仕方なくカバンを背負い直して彼女に同行した。