俺は、どこへ行ったんだろう。久しぶりに見た春希の夢の終わりで、思った。
手がかりは、見つからなかった。あの意味深な態度も、春希に話したかったことも、すべてが想像すらできなかった。いったい、俺は何を言いたかったんだ。無事に、学校には通えたんだろうか。
「春希……」
呟くと、ベッドの上に無造作に置かれたスマホが鳴った。明坂からのメッセージだった。確認すると、それはあの日から学校を休んでる俺を心配する内容だった。
《橋本のこと殴ったって噂流れてるけど大丈夫か? 宇佐美も、ついでに姫森も心配してんぞ》
まさか、姫森も心配してくれているなんて。
天音の様子を訊ねてみると、おそらく授業中であるにもかかわらず、すぐに返信が来た。
《めっっちゃ意気消沈してる。全然話さなくなったし。というか、高槻さんも周りからいろいろ言われ始めてるんよ。橋本に浮気したとか、どうとか。もう、意味わかんねーよ。姫森とか宇佐美が、頑張って励ましてあげてるけどよ。橋本も、なんか学校休みがちになったし》
胸が痛んだ。俺が彼を殴らなければ、こんなことにはならなかった。もし過去をやり直せるなら、思いとどまりたかった。けれど悔やんでも、過去は決して変わらないし、戻ることもできない。
一度、天音に連絡を取ろうか迷った。連絡先を呼び出して、通話ボタンを押そうとしたところで、指が動かなくなってしまった。電話を掛けたところで、何を話せばいいかわからなかったからだ。
彼女のことだから、声が聞けただけでも嬉しいと言ってくれるかもしれない。それでも、怖かった。怒っているかもしれないから。
何より、夢で見た子どもの頃の自分から、結局何一つ変われていなかったことが恥ずかしかった。春希と、約束したのに。結局俺はいつまでも弱いままで、誰かを助けることのできるような人間じゃなかった。春希のことも、あの病院に置き去りにした。何も理由を告げずに。
天音から、また着信が来た。今度は留守番電話サービスに繋がるまでコール音が響いて、耳にも視界にも入れたくなかったから布団でスマホを押し潰した。
「ごめん……」
本当に、ごめん。日に日に申し訳なさは積もっていくばかりだった。
しばらく日にちが空き、また宇佐美から着信があった。ちょうど学校では、お昼ご飯の時間だったようだ。彼女は謹慎中の俺に定期報告をしてくれている。けれど状況は芳しくはないらしい。毎日飽きもせず、クラスメイトが裏でコソコソ俺と天音と橋本の話をしているんだとか。
言葉にはしなかったけど、現状をどうにかしようと頑張ってくれているんだろう。いつかの天音のように。嬉しいけれど、それが原因で仮に宇佐美がいじめられるようなことがあるなら、もうやめて欲しいと思った。この件に、彼女はまったく関与していないんだから。
今日も、その連絡だろうと思っていた。釘を刺すつもりだった。俺のことは気にするな、と。そのつもりだったのに、電話を掛けてきた今日の宇佐美は取り乱した声で。
『天音が、倒れた……!』
頭の中が、真っ白になる。あの健康優良児の天音が、倒れた。病気とは、まったく縁がなさそうなのに。そんな彼女が、倒れた。
「……どうして?」
『二時間目の体育の時間に、過呼吸起こしてっ……! 理由はよくわからないけど、たぶん、ストレスの限界が来たんだと思う……!』
説明してくれる宇佐美も、今にも過呼吸になりそうなくらい息が乱れていた。だから「宇佐美も落ち着け」と、冷静な言葉を掛けることができた。
呼吸を整えた彼女は『……ありがとう』と、落ち着いた声で答えた。
「それで、天音は保健室に行ったの……?」
『……ううん。救急車が来て、病院に運ばれてった……』
それは、重症なんだろうか。天音に限って、そんなことはないと思いたかった。
「……どこの病院に運ばれたのかはわかる?」
『わかんないけど、たぶん杉浦病院だと思う……』
「そっか。ごめん、一回切ってもいい?」
『天音に会いに行ってくれるの……?』
「そのつもり。会えるかは、わからないけど」
『……それじゃあ、もし会えたら後で大丈夫だったか聞かせてね』
「わかったよ」
電話を切ると共に、久しぶりに外出する服装へ着替えた。自宅謹慎中だから、本当は外出もしたらダメだけど。さっきの話を聞いて、大人しく部屋に閉じこもって反省し続けるのは無理だ。
家を飛び出して、杉浦病院へと走った。久しぶりの運動で体がなまっていて、足がもつれてころびそうになった。それでも、ただ走った。
杉浦病院のエントランスをくぐると、以前もかいだ消毒液の臭いが鼻をついた。嫌な臭いだけれど、そんなことに構っている暇はない。とにかく行き当たりばったりでここへ来てしまったが、向かう場所は決めていた。
ひとまず、ナースステーションへ行く。仮に天音が入院するのだとしたら、お見舞いだと一言伝えれば通してくれるかもしれない。とはいえ、二時間目に倒れたということだから、大ごとになっていたとしたら、今は会えない可能性の方が高い。その時のことは、考えていなかった。
「君、ちょっと待ちなさい」
帰宅する人たちがひしめき合っているロビーで、誰かに呼び止められた。振り返ると、そこには白衣を着た天音のお父さんが立っていた。
「あ、こんにちは……」
「偶然では、なさそうだね。もしかして、お見舞いに来てくれたの?」
ちょうどいいと思った。頷くと、それ以上は何も言わずに「おいで」と手招きされる。おかげでナースステーションをパスできた。病院の廊下を歩きながら、訊ねる。
「天音は、大丈夫なんですか?」
「持病を患ってるとかじゃないからね。疲労が溜まってたみたいで、それが突然爆発したらしい。今は落ち着いてるけど、妻が心配しているから念のため検査入院させることになったんだ」
「そうですか……」
安心した。もう会えなくなるといったような、最悪の事態になっていなくて。
「学校、抜け出してきたの?」
「いや……実は、自宅謹慎中で」
「へぇ、何か悪いことでもやっちゃった?」
「……クラスメイトを、殴りました」
「そうか。もしや、天音くんが最近元気ないのは、それが関係してるのかな?」
鋭い。そして、この人は娘の不調を察せられるほど、最近はちゃんとコミュニケーションを取っているらしい。上手くやれているようで、場違いにも安堵した。
お父さんと一緒にエレベーターへと乗り込み「すみません……」と謝罪する。
「どうして謝るんだい?」
「天音が倒れたのは、たぶん俺のせいです。余計な負担を、掛けてしまったので……」
「残念だけど、それは自惚れだよ。春希くん」
「……どういうことですか?」
「君の今回の件で、瞬間的に強いストレスがかかってしまったのかもしれないけど、そんなことで倒れたりするほど、あの子は弱くないんだ。自分で自覚してしまっているのがとても申し訳ないが、抱えている爆弾を爆発寸前まで持って行ったのは、僕と、それから妻のせいなんだよ。数年間、僕らは家庭で娘にストレスを与えすぎてしまった。いつ爆発してしまっても、おかしくはなかったと思う。君のおかげで、最近は少しだけ持ち直していたみたいだけど」
だから、君だけが悪いわけじゃないんだよ。安心させるように言って、お父さんは右肩に手を乗せた。引き金を引いた事実に変わりはないけれど、少しだけ心が軽くなったような気がした。
「それに、君にはとても感謝しているんだ。今も、昔もね」
「昔、ですか?」
「芳子さん……いや、妻にこの前聞いたんだけど、子どもの頃に君は、天音くんと遊んでくれていたんだろう?」
曖昧に頷く。そんな話は、一度たりとも天音の口から聞いたことがなかった。勝手に、春希とは高校に上がってからの付き合いなんだと思っていた。
「大変だったろう。子どもの頃の彼女は」
「今も、十分大変ですけどね」
今のは失礼だったかもしれない。けれど、笑ってくれた。
エレベーターを降りて、またしばらく廊下を歩く。それから病室の前で立ち止まった。見ると、入院患者のプレートには『高槻』と書かれていた。
「とにかく、君には本当に感謝してる。反省しなきゃいけないことはあるだろうけど、僕は君たちの交際に反対なんてしないから、安心してくれていい。むしろ包み隠さずにちゃんと話してくれて、好感が持てたよ」
「……ありがとうございます」
お礼を言うと、お父さんは病室のドアを三回ノックした。返事はなかったけど「入るよ」と言って、ドアをスライドさせる。うかがうように中を覗き見ると、その部屋のベッドで天音が病院服を着て座っていた。
俺には、まだ気付いていないようだった。
「さっき、病室にお母さんが来てね。すごく、泣かれた」
「へぇ、そうなんだ」
「倒れてしまうくらい、ずっと追い詰められてたんだねって。気付いてあげられなくて、本当にごめんなさいって、謝られた……」
「芳子さんは、天音くんのことを放任してはいるけれど、蔑ろにはしてないよ。少し前までは、どうすればまた話せるようになれるのか、僕に相談してくれていたからね」
俺は黙ったまま、親子の会話を聞いてしまっていた。また、盗み聞きしてしまった。これ以上は、聞かない方がいいのかもしれない。耳を塞ごうとしたら、お父さんが「その話は後で聞くとして。さっき、ロビーで見かけたんだ」と、俺の出るタイミングを作ってくれた。
一度深呼吸をして、少しだけ腰をかがめながら病室の中へと入った。
「……久しぶり、天音」
文字通り、彼女は固まっていた。ぽかんと口を開いたまま。
怒られると思った。また、嫌みを言われると思った。
けれど彼女は、そのまま涙を流し始めた。
だから俺はやっぱり、どうすればいいか、わからなくなってしまった。
天音の涙が止まった頃には、既にお父さんは席を外してくれていた。病院の個室にいるのは、俺と彼女だけ。さっきお母さんが来たと言っていたけど、おそらくもう帰ったんだろう。
何から切り出したらいいのか、何を言えばいいのかがわからなくて、せっかくここまで来たのに頭が真っ白になって、沈黙だけが続いた。顔を合わせれば、どれだけだって言葉が出てきたはずなのに、それが懐かしい過去のように思えて、辛かった。
だから俺は、なんとかして言葉を絞り出す。
「……ごめん。電話に出なくて」
「ちゃんと、ご飯食べてた?」
「……うん。お父さんが用意してくれてて」
「そっか。それなら良かった」
何が良かったんだろう。天音は、ストレスで倒れてしまうほど追い詰められていたのに。俺は、ただ家でのうのうと生きていて、正直、恥ずかしかった。
「……ごめん、天音」
「そんなに謝らないで」
「ごめん……」
「もう」
困ったように笑う。なんでそんなに優しいんだよ。恨み言の一つでも吐けばいいのに。人を殴るような奴とは話したくないと言えばいいのに。なんで、そんなに……。
「私の方こそ、ごめんね。私と康平のことで、杉浦くんが謹慎になっちゃって」
「なんで……」
なんで自分のせいとか言うんだよ。傍目から見ても、どう考えたって明らかに俺が悪かったのに。どうして、こんなどうしようもない奴のことを、かばおうとするんだ。
「だって、私のために手を上げてくれたんでしょう?」
頭の中で、あの日のお父さんの言葉がリフレインした。
人は誰かのために、殴ったりはしない。
気付けば俺は真っ白な布団の上に手を置いて、土下座をするように頭を下げていた。
「違う……違うんだよ天音……! あいつを殴ったのは、俺のせいなんだ……! 俺がむかついたから、手を出したんだ……! だから、俺を責めてくれよ! なんで君が、余計なものまで背負おうとするんだよ……!」
子どものように、みっともなくわめいた。嫌われるには十分すぎるほど気持ちが悪いおこないをしたというのに、天音は俺の頭に手のひらを乗せてきた。あまつさえ、優しく撫でてくれた。
「間違えることは、誰にだってあるよ」
「だから、違うんだ! 俺は、子どもの頃にもクラスメイトの子を殴ったんだよ……! 昔から何も変わってないんだ! 夢で、見たんだ……」
「また、春希くんの夢を見たの?」
「ああ……俺、何も言わずに春希の前から姿を消したんだ……一人ぼっちにした。約束したのに……! だからきっと、あいつも怒ってるよ……」
「春希くんは、やっぱり怒ってるのかな?」
「怒ってるよ、きっと……」
「それじゃあ、ちゃんと謝らなきゃ」
「無理だ……どこにいるのかも、わからないんだから」
顔を上げると、天音と目が合った。申し訳なさで、胸がいっぱいになる。こんな話をするために、ここまで来たわけじゃないのに。
俺はいったい、何がしたいんだ。どうしてここにいるんだ。なんで、いつまで経っても元の体に戻れないんだ。もっと早く戻れていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。誰でもいいから、教えて欲しかった。
「ごめん……本当に、ごめん……」
「謝らなきゃいけないのは、私の方だよ」
「だから、なんでそんなこというんだよ……!」
「私は、とんでもない嘘つきだから」
「嘘つき……?」
訊ね返すと、頷いた。天音は、嘘が嫌いなはず。だから嘘つきのはずがなくて、これもまた俺の罪悪感を減らす気遣いなんだろうと思った。
誰かのために吐く、優しい嘘。そう、思っていた。
天音が、その言葉を口にするまでは。
「私、春希くんがどこにいるのか、本当は知ってるの」
飛び出した内容は、罪悪感で押し潰されそうになっていた俺の頭を真っ白に塗り替えるには十分すぎるほどで、一瞬彼女の発した言葉の意味さえ見失っていた。だから、頭の中で唱えるように反芻(はんすう)した。
春希が、どこにいるのか知っている。
「……嘘だろ?」
「本当だよ。実は、修学旅行が始まるよりも前から知ってた」
「冗談だよな……?」
「正直、確証は今もないけど。私なりに、これまでいろいろ調べてたの。杉浦くんには、ずっと内緒で」
「調べてたなら、教えてくれよ……!」
「ごめん。中途半端に教えたら、それこそ混乱するだけだと思ったから」
責めるような言い方になってしまったことに気付いて、また自分を恥じた。本当に俺は、学習しない奴だ。どれだけ彼女を傷付ければ気が済むんだ。
「話を戻すけど、杉浦くんは、春希くんと会わなくなる時までの記憶を、もう夢で見たんだよね?」
「……ああ。俺、何も言わずにいなくなった。本当に、無責任な奴だったんだ……」
「それは本当に、私もそう思う」
ハッキリ言ってくれることを望んだはずなのに、いざストレートに言われると辛かった。消えてしまいたいとさえ、思った。
「……それで、春希はどこにいるんだよ?」
「私が最初に想像していたより、ずっと近くにいたよ。正直なところ、過去から来たんじゃないかと思ってたから」
「そんなの、無理だろ……いや、体が入れ替わるのも無理があるけどさ……というか、そんな近くにいたなら、天音は会ったりしなかったの……?」
「実際に会って、話をしたことはあるね」
いまいち信用できなかった。事実ならとても喜ばしいが、春希と実際に会って俺に話さない理由がわからない。会わせない理由も。隠す必要なんて、ないはずなのに。
そこまで考えて、ある一つの推測が思い浮かんだ。
「もしかして、会わせられない理由があるの?」
「当たらずといえども、遠からずかな」
「……そろそろ、もったいぶらずに教えてくれよ」
催促すると、天音は一度姿勢を正した。それにならって、俺も椅子に座り直す。
「DIDだよ」
「……DID?」
呟いた言葉の意味は、もちろんぴんと来なかった。しかし、最近どこかで聞いたことのある言葉だ。あれは確か、みんなで学問の神様が祀られている神社へ行った時。宇佐美が拾った天音のメモ帳に書いてあったという、アルファベット。
あの時は、知らないと言ったはずなのに。
「それ、何かのお店の名前? そこに行けば、春希はいるの?」
「Dissociative Identity Disorder」
とても聞き取りやすい発音で、天音はDIDという言葉を略さず発した。しかし、特別英語が得意じゃない俺には、何のことかわからない。だから、首を傾げると。
「解離性同一性障害」
「……は?」
「多重人格って言った方が、わかりやすいかも」
唖(あ)然(ぜん)とした。馬鹿げている。もったいぶった答えに、落胆すらしてしまった。
「多重人格って……ありえないだろ。それじゃあ、俺が見た夢は全部ニセモノだったっていうのかよ? 作り込まれすぎだろ」
「落ち着いて」
「落ち着けるわけないだろ‼」
「それでも、落ち着いて聞いて欲しいの。全部、正直に話すから」
思わず、手近にあったテーブルを手のひらで叩いてしまった。天音の体が、びくりと震える。また、やってしまった。けれど、止まれなかった。さすがに、言っていることの意味が、わからない。
「なあ、意味わかんないよ……俺、笑えばいいの? ごめん、机叩いて。でも、本当に、何言ってるかわからないんだ。多重人格って、どういう意味だよ……? 夢の中の男の子だって、スギウラナルミって名乗ってたんだぜ……?」
「それ、偽名なの」
「は? 偽名? なんで、そんなことが天音にわかるんだよ。見てたのかよ。あの場所には、俺と春希しかいなかったんだぞ」
「違う。ずっと、君は勘違いをしてたの」
まさか、こんな大事な時にジョークを言うような奴だったなんて。
錯乱(さくらん)していると、天音が俺の手のひらを握ってくる。暖かいものが、手のひらを通じてじんわりと体の中に広がっていった。
「全部話すって、約束したから。しばらく、私の昔話に付き合って」
気付けば、俺は頷いていた。いつ、そんな約束をしたんだろう。わからなかったけれど、いつの間にかほんの少しだけ冷静になっていた。
だから、彼女の話す言葉にそっと耳を傾けた――
手がかりは、見つからなかった。あの意味深な態度も、春希に話したかったことも、すべてが想像すらできなかった。いったい、俺は何を言いたかったんだ。無事に、学校には通えたんだろうか。
「春希……」
呟くと、ベッドの上に無造作に置かれたスマホが鳴った。明坂からのメッセージだった。確認すると、それはあの日から学校を休んでる俺を心配する内容だった。
《橋本のこと殴ったって噂流れてるけど大丈夫か? 宇佐美も、ついでに姫森も心配してんぞ》
まさか、姫森も心配してくれているなんて。
天音の様子を訊ねてみると、おそらく授業中であるにもかかわらず、すぐに返信が来た。
《めっっちゃ意気消沈してる。全然話さなくなったし。というか、高槻さんも周りからいろいろ言われ始めてるんよ。橋本に浮気したとか、どうとか。もう、意味わかんねーよ。姫森とか宇佐美が、頑張って励ましてあげてるけどよ。橋本も、なんか学校休みがちになったし》
胸が痛んだ。俺が彼を殴らなければ、こんなことにはならなかった。もし過去をやり直せるなら、思いとどまりたかった。けれど悔やんでも、過去は決して変わらないし、戻ることもできない。
一度、天音に連絡を取ろうか迷った。連絡先を呼び出して、通話ボタンを押そうとしたところで、指が動かなくなってしまった。電話を掛けたところで、何を話せばいいかわからなかったからだ。
彼女のことだから、声が聞けただけでも嬉しいと言ってくれるかもしれない。それでも、怖かった。怒っているかもしれないから。
何より、夢で見た子どもの頃の自分から、結局何一つ変われていなかったことが恥ずかしかった。春希と、約束したのに。結局俺はいつまでも弱いままで、誰かを助けることのできるような人間じゃなかった。春希のことも、あの病院に置き去りにした。何も理由を告げずに。
天音から、また着信が来た。今度は留守番電話サービスに繋がるまでコール音が響いて、耳にも視界にも入れたくなかったから布団でスマホを押し潰した。
「ごめん……」
本当に、ごめん。日に日に申し訳なさは積もっていくばかりだった。
しばらく日にちが空き、また宇佐美から着信があった。ちょうど学校では、お昼ご飯の時間だったようだ。彼女は謹慎中の俺に定期報告をしてくれている。けれど状況は芳しくはないらしい。毎日飽きもせず、クラスメイトが裏でコソコソ俺と天音と橋本の話をしているんだとか。
言葉にはしなかったけど、現状をどうにかしようと頑張ってくれているんだろう。いつかの天音のように。嬉しいけれど、それが原因で仮に宇佐美がいじめられるようなことがあるなら、もうやめて欲しいと思った。この件に、彼女はまったく関与していないんだから。
今日も、その連絡だろうと思っていた。釘を刺すつもりだった。俺のことは気にするな、と。そのつもりだったのに、電話を掛けてきた今日の宇佐美は取り乱した声で。
『天音が、倒れた……!』
頭の中が、真っ白になる。あの健康優良児の天音が、倒れた。病気とは、まったく縁がなさそうなのに。そんな彼女が、倒れた。
「……どうして?」
『二時間目の体育の時間に、過呼吸起こしてっ……! 理由はよくわからないけど、たぶん、ストレスの限界が来たんだと思う……!』
説明してくれる宇佐美も、今にも過呼吸になりそうなくらい息が乱れていた。だから「宇佐美も落ち着け」と、冷静な言葉を掛けることができた。
呼吸を整えた彼女は『……ありがとう』と、落ち着いた声で答えた。
「それで、天音は保健室に行ったの……?」
『……ううん。救急車が来て、病院に運ばれてった……』
それは、重症なんだろうか。天音に限って、そんなことはないと思いたかった。
「……どこの病院に運ばれたのかはわかる?」
『わかんないけど、たぶん杉浦病院だと思う……』
「そっか。ごめん、一回切ってもいい?」
『天音に会いに行ってくれるの……?』
「そのつもり。会えるかは、わからないけど」
『……それじゃあ、もし会えたら後で大丈夫だったか聞かせてね』
「わかったよ」
電話を切ると共に、久しぶりに外出する服装へ着替えた。自宅謹慎中だから、本当は外出もしたらダメだけど。さっきの話を聞いて、大人しく部屋に閉じこもって反省し続けるのは無理だ。
家を飛び出して、杉浦病院へと走った。久しぶりの運動で体がなまっていて、足がもつれてころびそうになった。それでも、ただ走った。
杉浦病院のエントランスをくぐると、以前もかいだ消毒液の臭いが鼻をついた。嫌な臭いだけれど、そんなことに構っている暇はない。とにかく行き当たりばったりでここへ来てしまったが、向かう場所は決めていた。
ひとまず、ナースステーションへ行く。仮に天音が入院するのだとしたら、お見舞いだと一言伝えれば通してくれるかもしれない。とはいえ、二時間目に倒れたということだから、大ごとになっていたとしたら、今は会えない可能性の方が高い。その時のことは、考えていなかった。
「君、ちょっと待ちなさい」
帰宅する人たちがひしめき合っているロビーで、誰かに呼び止められた。振り返ると、そこには白衣を着た天音のお父さんが立っていた。
「あ、こんにちは……」
「偶然では、なさそうだね。もしかして、お見舞いに来てくれたの?」
ちょうどいいと思った。頷くと、それ以上は何も言わずに「おいで」と手招きされる。おかげでナースステーションをパスできた。病院の廊下を歩きながら、訊ねる。
「天音は、大丈夫なんですか?」
「持病を患ってるとかじゃないからね。疲労が溜まってたみたいで、それが突然爆発したらしい。今は落ち着いてるけど、妻が心配しているから念のため検査入院させることになったんだ」
「そうですか……」
安心した。もう会えなくなるといったような、最悪の事態になっていなくて。
「学校、抜け出してきたの?」
「いや……実は、自宅謹慎中で」
「へぇ、何か悪いことでもやっちゃった?」
「……クラスメイトを、殴りました」
「そうか。もしや、天音くんが最近元気ないのは、それが関係してるのかな?」
鋭い。そして、この人は娘の不調を察せられるほど、最近はちゃんとコミュニケーションを取っているらしい。上手くやれているようで、場違いにも安堵した。
お父さんと一緒にエレベーターへと乗り込み「すみません……」と謝罪する。
「どうして謝るんだい?」
「天音が倒れたのは、たぶん俺のせいです。余計な負担を、掛けてしまったので……」
「残念だけど、それは自惚れだよ。春希くん」
「……どういうことですか?」
「君の今回の件で、瞬間的に強いストレスがかかってしまったのかもしれないけど、そんなことで倒れたりするほど、あの子は弱くないんだ。自分で自覚してしまっているのがとても申し訳ないが、抱えている爆弾を爆発寸前まで持って行ったのは、僕と、それから妻のせいなんだよ。数年間、僕らは家庭で娘にストレスを与えすぎてしまった。いつ爆発してしまっても、おかしくはなかったと思う。君のおかげで、最近は少しだけ持ち直していたみたいだけど」
だから、君だけが悪いわけじゃないんだよ。安心させるように言って、お父さんは右肩に手を乗せた。引き金を引いた事実に変わりはないけれど、少しだけ心が軽くなったような気がした。
「それに、君にはとても感謝しているんだ。今も、昔もね」
「昔、ですか?」
「芳子さん……いや、妻にこの前聞いたんだけど、子どもの頃に君は、天音くんと遊んでくれていたんだろう?」
曖昧に頷く。そんな話は、一度たりとも天音の口から聞いたことがなかった。勝手に、春希とは高校に上がってからの付き合いなんだと思っていた。
「大変だったろう。子どもの頃の彼女は」
「今も、十分大変ですけどね」
今のは失礼だったかもしれない。けれど、笑ってくれた。
エレベーターを降りて、またしばらく廊下を歩く。それから病室の前で立ち止まった。見ると、入院患者のプレートには『高槻』と書かれていた。
「とにかく、君には本当に感謝してる。反省しなきゃいけないことはあるだろうけど、僕は君たちの交際に反対なんてしないから、安心してくれていい。むしろ包み隠さずにちゃんと話してくれて、好感が持てたよ」
「……ありがとうございます」
お礼を言うと、お父さんは病室のドアを三回ノックした。返事はなかったけど「入るよ」と言って、ドアをスライドさせる。うかがうように中を覗き見ると、その部屋のベッドで天音が病院服を着て座っていた。
俺には、まだ気付いていないようだった。
「さっき、病室にお母さんが来てね。すごく、泣かれた」
「へぇ、そうなんだ」
「倒れてしまうくらい、ずっと追い詰められてたんだねって。気付いてあげられなくて、本当にごめんなさいって、謝られた……」
「芳子さんは、天音くんのことを放任してはいるけれど、蔑ろにはしてないよ。少し前までは、どうすればまた話せるようになれるのか、僕に相談してくれていたからね」
俺は黙ったまま、親子の会話を聞いてしまっていた。また、盗み聞きしてしまった。これ以上は、聞かない方がいいのかもしれない。耳を塞ごうとしたら、お父さんが「その話は後で聞くとして。さっき、ロビーで見かけたんだ」と、俺の出るタイミングを作ってくれた。
一度深呼吸をして、少しだけ腰をかがめながら病室の中へと入った。
「……久しぶり、天音」
文字通り、彼女は固まっていた。ぽかんと口を開いたまま。
怒られると思った。また、嫌みを言われると思った。
けれど彼女は、そのまま涙を流し始めた。
だから俺はやっぱり、どうすればいいか、わからなくなってしまった。
天音の涙が止まった頃には、既にお父さんは席を外してくれていた。病院の個室にいるのは、俺と彼女だけ。さっきお母さんが来たと言っていたけど、おそらくもう帰ったんだろう。
何から切り出したらいいのか、何を言えばいいのかがわからなくて、せっかくここまで来たのに頭が真っ白になって、沈黙だけが続いた。顔を合わせれば、どれだけだって言葉が出てきたはずなのに、それが懐かしい過去のように思えて、辛かった。
だから俺は、なんとかして言葉を絞り出す。
「……ごめん。電話に出なくて」
「ちゃんと、ご飯食べてた?」
「……うん。お父さんが用意してくれてて」
「そっか。それなら良かった」
何が良かったんだろう。天音は、ストレスで倒れてしまうほど追い詰められていたのに。俺は、ただ家でのうのうと生きていて、正直、恥ずかしかった。
「……ごめん、天音」
「そんなに謝らないで」
「ごめん……」
「もう」
困ったように笑う。なんでそんなに優しいんだよ。恨み言の一つでも吐けばいいのに。人を殴るような奴とは話したくないと言えばいいのに。なんで、そんなに……。
「私の方こそ、ごめんね。私と康平のことで、杉浦くんが謹慎になっちゃって」
「なんで……」
なんで自分のせいとか言うんだよ。傍目から見ても、どう考えたって明らかに俺が悪かったのに。どうして、こんなどうしようもない奴のことを、かばおうとするんだ。
「だって、私のために手を上げてくれたんでしょう?」
頭の中で、あの日のお父さんの言葉がリフレインした。
人は誰かのために、殴ったりはしない。
気付けば俺は真っ白な布団の上に手を置いて、土下座をするように頭を下げていた。
「違う……違うんだよ天音……! あいつを殴ったのは、俺のせいなんだ……! 俺がむかついたから、手を出したんだ……! だから、俺を責めてくれよ! なんで君が、余計なものまで背負おうとするんだよ……!」
子どものように、みっともなくわめいた。嫌われるには十分すぎるほど気持ちが悪いおこないをしたというのに、天音は俺の頭に手のひらを乗せてきた。あまつさえ、優しく撫でてくれた。
「間違えることは、誰にだってあるよ」
「だから、違うんだ! 俺は、子どもの頃にもクラスメイトの子を殴ったんだよ……! 昔から何も変わってないんだ! 夢で、見たんだ……」
「また、春希くんの夢を見たの?」
「ああ……俺、何も言わずに春希の前から姿を消したんだ……一人ぼっちにした。約束したのに……! だからきっと、あいつも怒ってるよ……」
「春希くんは、やっぱり怒ってるのかな?」
「怒ってるよ、きっと……」
「それじゃあ、ちゃんと謝らなきゃ」
「無理だ……どこにいるのかも、わからないんだから」
顔を上げると、天音と目が合った。申し訳なさで、胸がいっぱいになる。こんな話をするために、ここまで来たわけじゃないのに。
俺はいったい、何がしたいんだ。どうしてここにいるんだ。なんで、いつまで経っても元の体に戻れないんだ。もっと早く戻れていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。誰でもいいから、教えて欲しかった。
「ごめん……本当に、ごめん……」
「謝らなきゃいけないのは、私の方だよ」
「だから、なんでそんなこというんだよ……!」
「私は、とんでもない嘘つきだから」
「嘘つき……?」
訊ね返すと、頷いた。天音は、嘘が嫌いなはず。だから嘘つきのはずがなくて、これもまた俺の罪悪感を減らす気遣いなんだろうと思った。
誰かのために吐く、優しい嘘。そう、思っていた。
天音が、その言葉を口にするまでは。
「私、春希くんがどこにいるのか、本当は知ってるの」
飛び出した内容は、罪悪感で押し潰されそうになっていた俺の頭を真っ白に塗り替えるには十分すぎるほどで、一瞬彼女の発した言葉の意味さえ見失っていた。だから、頭の中で唱えるように反芻(はんすう)した。
春希が、どこにいるのか知っている。
「……嘘だろ?」
「本当だよ。実は、修学旅行が始まるよりも前から知ってた」
「冗談だよな……?」
「正直、確証は今もないけど。私なりに、これまでいろいろ調べてたの。杉浦くんには、ずっと内緒で」
「調べてたなら、教えてくれよ……!」
「ごめん。中途半端に教えたら、それこそ混乱するだけだと思ったから」
責めるような言い方になってしまったことに気付いて、また自分を恥じた。本当に俺は、学習しない奴だ。どれだけ彼女を傷付ければ気が済むんだ。
「話を戻すけど、杉浦くんは、春希くんと会わなくなる時までの記憶を、もう夢で見たんだよね?」
「……ああ。俺、何も言わずにいなくなった。本当に、無責任な奴だったんだ……」
「それは本当に、私もそう思う」
ハッキリ言ってくれることを望んだはずなのに、いざストレートに言われると辛かった。消えてしまいたいとさえ、思った。
「……それで、春希はどこにいるんだよ?」
「私が最初に想像していたより、ずっと近くにいたよ。正直なところ、過去から来たんじゃないかと思ってたから」
「そんなの、無理だろ……いや、体が入れ替わるのも無理があるけどさ……というか、そんな近くにいたなら、天音は会ったりしなかったの……?」
「実際に会って、話をしたことはあるね」
いまいち信用できなかった。事実ならとても喜ばしいが、春希と実際に会って俺に話さない理由がわからない。会わせない理由も。隠す必要なんて、ないはずなのに。
そこまで考えて、ある一つの推測が思い浮かんだ。
「もしかして、会わせられない理由があるの?」
「当たらずといえども、遠からずかな」
「……そろそろ、もったいぶらずに教えてくれよ」
催促すると、天音は一度姿勢を正した。それにならって、俺も椅子に座り直す。
「DIDだよ」
「……DID?」
呟いた言葉の意味は、もちろんぴんと来なかった。しかし、最近どこかで聞いたことのある言葉だ。あれは確か、みんなで学問の神様が祀られている神社へ行った時。宇佐美が拾った天音のメモ帳に書いてあったという、アルファベット。
あの時は、知らないと言ったはずなのに。
「それ、何かのお店の名前? そこに行けば、春希はいるの?」
「Dissociative Identity Disorder」
とても聞き取りやすい発音で、天音はDIDという言葉を略さず発した。しかし、特別英語が得意じゃない俺には、何のことかわからない。だから、首を傾げると。
「解離性同一性障害」
「……は?」
「多重人格って言った方が、わかりやすいかも」
唖(あ)然(ぜん)とした。馬鹿げている。もったいぶった答えに、落胆すらしてしまった。
「多重人格って……ありえないだろ。それじゃあ、俺が見た夢は全部ニセモノだったっていうのかよ? 作り込まれすぎだろ」
「落ち着いて」
「落ち着けるわけないだろ‼」
「それでも、落ち着いて聞いて欲しいの。全部、正直に話すから」
思わず、手近にあったテーブルを手のひらで叩いてしまった。天音の体が、びくりと震える。また、やってしまった。けれど、止まれなかった。さすがに、言っていることの意味が、わからない。
「なあ、意味わかんないよ……俺、笑えばいいの? ごめん、机叩いて。でも、本当に、何言ってるかわからないんだ。多重人格って、どういう意味だよ……? 夢の中の男の子だって、スギウラナルミって名乗ってたんだぜ……?」
「それ、偽名なの」
「は? 偽名? なんで、そんなことが天音にわかるんだよ。見てたのかよ。あの場所には、俺と春希しかいなかったんだぞ」
「違う。ずっと、君は勘違いをしてたの」
まさか、こんな大事な時にジョークを言うような奴だったなんて。
錯乱(さくらん)していると、天音が俺の手のひらを握ってくる。暖かいものが、手のひらを通じてじんわりと体の中に広がっていった。
「全部話すって、約束したから。しばらく、私の昔話に付き合って」
気付けば、俺は頷いていた。いつ、そんな約束をしたんだろう。わからなかったけれど、いつの間にかほんの少しだけ冷静になっていた。
だから、彼女の話す言葉にそっと耳を傾けた――