宿泊する旅館は、修学旅行のための貸し切りとなっているらしい。フロント前を通る時に軽く従業員に会釈をして、既に運び込まれてロビーに置かれている着替えなどが入った大きい荷物を受け取った。
修学旅行前日、天音に「お揃いのストラップはちゃんと持ってきてね」と釘を刺されていたから、一応こちらのカバンに付けておいた。外れていないことを確認して、そのまま階段を上がって指定された宿泊部屋へと向かう。
生徒の使用する部屋はだいたい三人から四人ほどが割り振られている。事前に教師陣の方でランダムに決めてあり、今まで考えないようにしていたけど、間が悪いことに橋本と同部屋なのだ。
大人しくしてさえいれば、何の問題も起きないだろうと思っていた頃が懐かしい。ラフティングの時にいざこざがあったから、部屋の前で鉢合わせた時に気まずいことこの上なかった。そしてもう一人のメンバーも、これは運命のいたずらだろうか。偶然にも、一応の当事者である明坂だった。
部屋に入り、和室の隅っこに荷物を置かせてもらう。何か言われる前に、さっさと夕食会場へ向かおうと考えていたら明坂が「ま、いろいろあったけど仲良くしようや」と、橋本の肩を叩いた。
「黙れ」
やはり慣れ合う気はないようで、橋本が明坂の手を乱暴に払う。それから荷物をがさつに投げ捨てて、早々に部屋を出て行った。
「なんだよあいつ、感じ悪いな」
「さっき喧嘩みたいなことしたんだから仕方ないって。あまり刺激しないでおこう」
とはいえ、おそらく一番彼を刺激しているのは俺だ。天音と一緒にいることに腹を立てているんだから。橋本が彼女を諦めない限り、きっとこの関係は永遠に続く。
一途すぎる彼のことだから、しばらくは絶対に和解することはないだろう。それを思うと、憂鬱な気分が押し寄せてきた。寝不足のまま明日を迎えそうだ。
「俺たちも、早く行こう」
「ちょっと待てよ、春希」
玄関の方へ歩き出そうとしたところを呼び止められる。明坂はいつの間にか棚を物色していたようで、男物の茶色い浴衣を持っていた。
「せっかくだから着ていこうぜ」
「仕方ないな」
せっかく旅館に泊まるんだからと思い、彼にならって浴衣に着替える。
それからあらためて、夕食会場の大広間へと向かった。
不純異性交遊防止のためか、男子と女子が寝泊まりする部屋は、お互い離れた棟にある。三階にある大広間に向かうまで、すれ違った人が男しかいなかったせいか、階段を降りて浴衣姿の女の子を見つけた明坂は「やっぱ修学旅行と言えばこれだよな!」と、無駄にテンションを上げて興奮していた。
どうやら女性用は色を選べるようで、他の生徒に紛れて到着した天音はピンク色の浴衣を着ていた。隣にいる宇佐美は、水色を着ている。
「二人とも似合ってるね」
以前天音に文句を言われたから、とりあえず感想を口にしておいた。けれど実際、本当に二人とも浴衣が似合っていて、決して義務的な発言ではない。
「はいはい、お世辞とかいいから。天音の隣にいたら、劣等感しか湧かないわよ」
「真帆も似合ってると思うけどね、眼鏡とか」
「浴衣関係ないじゃない!」
背の低い宇佐美が、同年代の女の子と比較して身長が高めの天音と並んでいるのは、見劣りはしないまでもどこか姉妹のように見える。もちろん天音が姉で、宇佐美が妹だ。
それから遅れてやってきた姫森は、黒色のスウェットパンツにナチュラル色のオーバーサイズなスウェットを着ていた。
「浴衣とか動きづらくてかなわないわよ。見てる分にはいいけど、ぶっちゃけトイレするのもいちいちめんどくさいし」
それを男のいる前で正直に話すのが彼女らしい。いい意味で、男女の距離感というか壁が薄い気がする。そもそも男として認識されているのかは怪しいけれど。
「春希くん」
草履(ぞうり)をはいた足で、天音がトコトコこちらへとやってくる。その姿は高校生ながらとても品があって、綺麗だと思った。
カーテンのように垂れ下がった袖口から伸びる真っ白い手が、俺の着ている浴衣の袖をちょこんとつまむ。こんなことをされて、動揺しない男子高校生なんていないんじゃないだろうか。事実、俺は不覚にも視線を明後日の方へ向けていた。
「……どうしたの?」
内緒話だろうと思い、声を潜める。案の定、彼女は会話を聞かれないように、体を少しだけこちらに寄せてきた。
「真帆に話したんだね」
浮かれていた心が、すっと冷えていくのがわかった。彼女の発した声が、なぜか真冬の湖面のように凍っているみたいに思えた。表情を確認しようとするが、顔を俯かせていて覗き見ることができなかった。
「……そうだけど。俺は春希じゃないし、謝って欲しくなかったから……」
何も、悪いことはしていないと思った。それなのにどこか怒っているようで、悲しんでいるようにも思えて、つまり彼女の真意を推し量ることができなかった。言い訳じゃないけど、言い訳のようになってしまった俺の発言を聞いた天音は、答えを得て満足したのか途端に身を引いた。
「真帆、それじゃあご飯食べに行こっか。風香も」
先ほどまでの様子を感じさせないような、明るく溌剌(はつらつ)とした声。俺はもしかすると、天音に何かしたのだろうか。まったく、見当もつかなかった。
「夕ご飯は自由席らしいし、工藤たちと固まろうよ。いいよね?」
宇佐美が一緒に食べようと提案してくれて、こちらにも確認を取ってくる。その視線を、意図してやったのかわからないけど、天音が体で塞いだ。
「今日は私、女子会の気分なんだよね。だから、三人で食べようよ」
「そう? 私は別にいいけど」
壁になった天音の肩先から、モグラのようにひょっこりと宇佐美が顔を出す。それでいいのか訊ねてきているようだったから、とりあえず頷いておいた。
「明坂と食べるよ」
「そ」
宇佐美はどこか残念そうに肩を落としながら、三人一緒に大広間へと入っていった。
「なんか怒ってるみたいだったな」
普段適当なことしか言わないくせに、どうしてこういう時は鋭いんだろう。
「なんかしたの?」
「いや、知らない」
「それじゃあ、あれじゃね。いきなり生理が来たとか」
「一回女の子に殺された方がいいと思うよ、君」
デリカシーという言葉を知らない彼を置いて、俺も大広間へと足を踏み入れた。
偏見かもしれないが、旅館の料理は高校生の自分の舌に合うものがあるのかいささか不安だった。しかしそれは杞憂だったようで、おそらく今時の若者が問題なく食べられるような料理に変更されていた。その中でも豚肉のすき鍋が絶品で、食後の抹茶のムースも控えめに言って最高に美味しかった。
食後、風呂の用意をするために一度部屋へと戻る。橋本が先に大広間を出て行くのを見かけたから、もう既に戻っていると思ったけど、部屋にはいなかった。一足先に、大浴場へと向かったのだろうか。
「それにしても、不用心な奴だな」
突然、明坂がぼやく。
「何が?」
「鍵、閉めてないだろ。あいつが持って行ったのに」
そういえば大広間へ行く時も、橋本が先に部屋を出て鍵を持って行ってしまった。本来なら鍵を掛けなければいけないのだが、一本しか支給されていないから、開けっ放しで俺たちは向かったのだ。
「普通、一番最後の人に鍵を預けるよな。ここオートロックじゃないんだし」
「食事した後、さっさと戻って着替えを取りに行きたかったんじゃない?」
「それにしても、一言声を掛ければ済む話だろ」
それはそうだ。
「本当に、団体行動ができない奴だな」
「もう気にしても仕方ないよ。人のものを盗る奴なんていないだろうから、また開けっ放しで大浴場に行こう」
これ以上空気が悪くなるのも嫌だったから、明坂のことは適当にあやしておいた。けれど珍しく不機嫌だから、カバンから急いで下着を取り出す。その際に、ほんの少しだけ違和感のようなものを覚えたけど、用意の終わった彼が「早く行こうぜ」と急かすものだから、注意深くいろいろと確認することはできなかった。
「今行くよ」
一応電気を消して、一緒に部屋を出る。やはり今日は満足に眠ることができるのか心配だ。部屋の前を通過していくクラスメイトたちは、こっそり深夜に抜け出して夜通し遊ぶ計画を練っていた。
いつも入っているお風呂より何倍も広い温泉に浸(つ)かり疲れをほぐした後、明坂は脱衣所に備え付けられているバスタオルで体を拭きながら「覗きに行こうぜ」と、また意味のわからないことをぬかした。
「いい加減、節(せっ)操(そう)ってものを覚えないといつか捕まるぞ」
「そうじゃなくて、風呂上がりの女子ってなんかいいじゃん。色気あるっていうかさ。入り口のところの椅子に座って、休憩してるのを装って拝もうぜ」
「馬鹿じゃないの。勝手に一人でやってなよ」
素っ気なく言って、髪を乾かすべく洗面台へと向かった。しかし諦めが悪いのか、髪を拭きながら後をついてくる。
「なー付き合ってくれよ。高槻さんのも見れるんだぜ?」
「興味ないよ。それに、なんか今不機嫌そうだから、あんまり刺激したくない」
「なんだよ、つまんねー奴だな。宇佐美のも、興味ない?」
「最近関係が良好になったのに、またこじらせたくないね」
明坂の下心が透けて見えたら、どうせまた『死ね』と言われるに決まっている。
「姫森は?」
「そんなの、同上に決まってるだろ」
ようやく諦めてくれたのか、がっかりしたようにため息を吐いた。俺は本当に、そのうち彼がセクハラや猥(わい)褻(せつ)行為で新聞の小見出しに名前が載るんじゃないかと思って、勝手にも不安になった。その時は春希が、いつかやると思ってましたとインタビューで答えなければいけないのだろうか。
落胆していたのがかわいそうだったから、明坂の着替えが終わるまで待ってあげる。それから二人で脱衣所を出ると、たまたま偶然にも天音たち御一行と風呂上がりのタイミングが被った。
先に気付いた宇佐美が、二人と会話していたのを中断して「今から卓球しようかって話してたんだけど、工藤たちも来る?」と、またわざわざ誘ってくれた。返事に窮(きゅう)していると、なぜか天音と一瞬目が合って、そらされる。
今日は断ろう。そう思っていたら。
「ごめん真帆、私やっぱりパスしとくね。春希くんたちと楽しんできて」
天音が先に、宇佐美へお祈りを伝えた。
「えー、なんで? 乗り気だったじゃん」
「なんか、ちょっとのぼせたかも」
「のぼせたって、あんた誰よりも先に脱衣所戻って涼んでたじゃん。五分も浸かってなかったよ」
「じゃあ、汗掻きそうだから」
じゃあってなんだよと、笑顔で言い放った彼女に思わず突っ込みそうになる。同じことを思ったのか、宇佐美も呆れたように口を半開きにしていた。もっとマシな言い訳を考えられないのだろうか。
それから当然のように姫森も「天音が行かないって言うんならパスするね。ごめん、真帆」と、右に同調した。なんだか、宇佐美がかわいそうだ。しかし本人はそれほど気にしていないのか「それじゃあ今の話、全部聞かなかったことにして」と、一応記憶喪失の俺に記憶の忘却を強制してくる。
結局お三方は、仲良く部屋へと戻っていった。
「なあ、春希」
「なに」
「やっぱり高槻さん、色気あっただろ?」
いつの間にか、明坂の鼻の下が伸びている。そんなことを確認している余裕のなかった俺は、いい加減彼のことを無視して部屋へと戻った。
修学旅行前日、天音に「お揃いのストラップはちゃんと持ってきてね」と釘を刺されていたから、一応こちらのカバンに付けておいた。外れていないことを確認して、そのまま階段を上がって指定された宿泊部屋へと向かう。
生徒の使用する部屋はだいたい三人から四人ほどが割り振られている。事前に教師陣の方でランダムに決めてあり、今まで考えないようにしていたけど、間が悪いことに橋本と同部屋なのだ。
大人しくしてさえいれば、何の問題も起きないだろうと思っていた頃が懐かしい。ラフティングの時にいざこざがあったから、部屋の前で鉢合わせた時に気まずいことこの上なかった。そしてもう一人のメンバーも、これは運命のいたずらだろうか。偶然にも、一応の当事者である明坂だった。
部屋に入り、和室の隅っこに荷物を置かせてもらう。何か言われる前に、さっさと夕食会場へ向かおうと考えていたら明坂が「ま、いろいろあったけど仲良くしようや」と、橋本の肩を叩いた。
「黙れ」
やはり慣れ合う気はないようで、橋本が明坂の手を乱暴に払う。それから荷物をがさつに投げ捨てて、早々に部屋を出て行った。
「なんだよあいつ、感じ悪いな」
「さっき喧嘩みたいなことしたんだから仕方ないって。あまり刺激しないでおこう」
とはいえ、おそらく一番彼を刺激しているのは俺だ。天音と一緒にいることに腹を立てているんだから。橋本が彼女を諦めない限り、きっとこの関係は永遠に続く。
一途すぎる彼のことだから、しばらくは絶対に和解することはないだろう。それを思うと、憂鬱な気分が押し寄せてきた。寝不足のまま明日を迎えそうだ。
「俺たちも、早く行こう」
「ちょっと待てよ、春希」
玄関の方へ歩き出そうとしたところを呼び止められる。明坂はいつの間にか棚を物色していたようで、男物の茶色い浴衣を持っていた。
「せっかくだから着ていこうぜ」
「仕方ないな」
せっかく旅館に泊まるんだからと思い、彼にならって浴衣に着替える。
それからあらためて、夕食会場の大広間へと向かった。
不純異性交遊防止のためか、男子と女子が寝泊まりする部屋は、お互い離れた棟にある。三階にある大広間に向かうまで、すれ違った人が男しかいなかったせいか、階段を降りて浴衣姿の女の子を見つけた明坂は「やっぱ修学旅行と言えばこれだよな!」と、無駄にテンションを上げて興奮していた。
どうやら女性用は色を選べるようで、他の生徒に紛れて到着した天音はピンク色の浴衣を着ていた。隣にいる宇佐美は、水色を着ている。
「二人とも似合ってるね」
以前天音に文句を言われたから、とりあえず感想を口にしておいた。けれど実際、本当に二人とも浴衣が似合っていて、決して義務的な発言ではない。
「はいはい、お世辞とかいいから。天音の隣にいたら、劣等感しか湧かないわよ」
「真帆も似合ってると思うけどね、眼鏡とか」
「浴衣関係ないじゃない!」
背の低い宇佐美が、同年代の女の子と比較して身長が高めの天音と並んでいるのは、見劣りはしないまでもどこか姉妹のように見える。もちろん天音が姉で、宇佐美が妹だ。
それから遅れてやってきた姫森は、黒色のスウェットパンツにナチュラル色のオーバーサイズなスウェットを着ていた。
「浴衣とか動きづらくてかなわないわよ。見てる分にはいいけど、ぶっちゃけトイレするのもいちいちめんどくさいし」
それを男のいる前で正直に話すのが彼女らしい。いい意味で、男女の距離感というか壁が薄い気がする。そもそも男として認識されているのかは怪しいけれど。
「春希くん」
草履(ぞうり)をはいた足で、天音がトコトコこちらへとやってくる。その姿は高校生ながらとても品があって、綺麗だと思った。
カーテンのように垂れ下がった袖口から伸びる真っ白い手が、俺の着ている浴衣の袖をちょこんとつまむ。こんなことをされて、動揺しない男子高校生なんていないんじゃないだろうか。事実、俺は不覚にも視線を明後日の方へ向けていた。
「……どうしたの?」
内緒話だろうと思い、声を潜める。案の定、彼女は会話を聞かれないように、体を少しだけこちらに寄せてきた。
「真帆に話したんだね」
浮かれていた心が、すっと冷えていくのがわかった。彼女の発した声が、なぜか真冬の湖面のように凍っているみたいに思えた。表情を確認しようとするが、顔を俯かせていて覗き見ることができなかった。
「……そうだけど。俺は春希じゃないし、謝って欲しくなかったから……」
何も、悪いことはしていないと思った。それなのにどこか怒っているようで、悲しんでいるようにも思えて、つまり彼女の真意を推し量ることができなかった。言い訳じゃないけど、言い訳のようになってしまった俺の発言を聞いた天音は、答えを得て満足したのか途端に身を引いた。
「真帆、それじゃあご飯食べに行こっか。風香も」
先ほどまでの様子を感じさせないような、明るく溌剌(はつらつ)とした声。俺はもしかすると、天音に何かしたのだろうか。まったく、見当もつかなかった。
「夕ご飯は自由席らしいし、工藤たちと固まろうよ。いいよね?」
宇佐美が一緒に食べようと提案してくれて、こちらにも確認を取ってくる。その視線を、意図してやったのかわからないけど、天音が体で塞いだ。
「今日は私、女子会の気分なんだよね。だから、三人で食べようよ」
「そう? 私は別にいいけど」
壁になった天音の肩先から、モグラのようにひょっこりと宇佐美が顔を出す。それでいいのか訊ねてきているようだったから、とりあえず頷いておいた。
「明坂と食べるよ」
「そ」
宇佐美はどこか残念そうに肩を落としながら、三人一緒に大広間へと入っていった。
「なんか怒ってるみたいだったな」
普段適当なことしか言わないくせに、どうしてこういう時は鋭いんだろう。
「なんかしたの?」
「いや、知らない」
「それじゃあ、あれじゃね。いきなり生理が来たとか」
「一回女の子に殺された方がいいと思うよ、君」
デリカシーという言葉を知らない彼を置いて、俺も大広間へと足を踏み入れた。
偏見かもしれないが、旅館の料理は高校生の自分の舌に合うものがあるのかいささか不安だった。しかしそれは杞憂だったようで、おそらく今時の若者が問題なく食べられるような料理に変更されていた。その中でも豚肉のすき鍋が絶品で、食後の抹茶のムースも控えめに言って最高に美味しかった。
食後、風呂の用意をするために一度部屋へと戻る。橋本が先に大広間を出て行くのを見かけたから、もう既に戻っていると思ったけど、部屋にはいなかった。一足先に、大浴場へと向かったのだろうか。
「それにしても、不用心な奴だな」
突然、明坂がぼやく。
「何が?」
「鍵、閉めてないだろ。あいつが持って行ったのに」
そういえば大広間へ行く時も、橋本が先に部屋を出て鍵を持って行ってしまった。本来なら鍵を掛けなければいけないのだが、一本しか支給されていないから、開けっ放しで俺たちは向かったのだ。
「普通、一番最後の人に鍵を預けるよな。ここオートロックじゃないんだし」
「食事した後、さっさと戻って着替えを取りに行きたかったんじゃない?」
「それにしても、一言声を掛ければ済む話だろ」
それはそうだ。
「本当に、団体行動ができない奴だな」
「もう気にしても仕方ないよ。人のものを盗る奴なんていないだろうから、また開けっ放しで大浴場に行こう」
これ以上空気が悪くなるのも嫌だったから、明坂のことは適当にあやしておいた。けれど珍しく不機嫌だから、カバンから急いで下着を取り出す。その際に、ほんの少しだけ違和感のようなものを覚えたけど、用意の終わった彼が「早く行こうぜ」と急かすものだから、注意深くいろいろと確認することはできなかった。
「今行くよ」
一応電気を消して、一緒に部屋を出る。やはり今日は満足に眠ることができるのか心配だ。部屋の前を通過していくクラスメイトたちは、こっそり深夜に抜け出して夜通し遊ぶ計画を練っていた。
いつも入っているお風呂より何倍も広い温泉に浸(つ)かり疲れをほぐした後、明坂は脱衣所に備え付けられているバスタオルで体を拭きながら「覗きに行こうぜ」と、また意味のわからないことをぬかした。
「いい加減、節(せっ)操(そう)ってものを覚えないといつか捕まるぞ」
「そうじゃなくて、風呂上がりの女子ってなんかいいじゃん。色気あるっていうかさ。入り口のところの椅子に座って、休憩してるのを装って拝もうぜ」
「馬鹿じゃないの。勝手に一人でやってなよ」
素っ気なく言って、髪を乾かすべく洗面台へと向かった。しかし諦めが悪いのか、髪を拭きながら後をついてくる。
「なー付き合ってくれよ。高槻さんのも見れるんだぜ?」
「興味ないよ。それに、なんか今不機嫌そうだから、あんまり刺激したくない」
「なんだよ、つまんねー奴だな。宇佐美のも、興味ない?」
「最近関係が良好になったのに、またこじらせたくないね」
明坂の下心が透けて見えたら、どうせまた『死ね』と言われるに決まっている。
「姫森は?」
「そんなの、同上に決まってるだろ」
ようやく諦めてくれたのか、がっかりしたようにため息を吐いた。俺は本当に、そのうち彼がセクハラや猥(わい)褻(せつ)行為で新聞の小見出しに名前が載るんじゃないかと思って、勝手にも不安になった。その時は春希が、いつかやると思ってましたとインタビューで答えなければいけないのだろうか。
落胆していたのがかわいそうだったから、明坂の着替えが終わるまで待ってあげる。それから二人で脱衣所を出ると、たまたま偶然にも天音たち御一行と風呂上がりのタイミングが被った。
先に気付いた宇佐美が、二人と会話していたのを中断して「今から卓球しようかって話してたんだけど、工藤たちも来る?」と、またわざわざ誘ってくれた。返事に窮(きゅう)していると、なぜか天音と一瞬目が合って、そらされる。
今日は断ろう。そう思っていたら。
「ごめん真帆、私やっぱりパスしとくね。春希くんたちと楽しんできて」
天音が先に、宇佐美へお祈りを伝えた。
「えー、なんで? 乗り気だったじゃん」
「なんか、ちょっとのぼせたかも」
「のぼせたって、あんた誰よりも先に脱衣所戻って涼んでたじゃん。五分も浸かってなかったよ」
「じゃあ、汗掻きそうだから」
じゃあってなんだよと、笑顔で言い放った彼女に思わず突っ込みそうになる。同じことを思ったのか、宇佐美も呆れたように口を半開きにしていた。もっとマシな言い訳を考えられないのだろうか。
それから当然のように姫森も「天音が行かないって言うんならパスするね。ごめん、真帆」と、右に同調した。なんだか、宇佐美がかわいそうだ。しかし本人はそれほど気にしていないのか「それじゃあ今の話、全部聞かなかったことにして」と、一応記憶喪失の俺に記憶の忘却を強制してくる。
結局お三方は、仲良く部屋へと戻っていった。
「なあ、春希」
「なに」
「やっぱり高槻さん、色気あっただろ?」
いつの間にか、明坂の鼻の下が伸びている。そんなことを確認している余裕のなかった俺は、いい加減彼のことを無視して部屋へと戻った。