【書籍版】壊れそうな君の世界を守るために

 翌日学校で見た天音は、いつも明るいけど、今までよりほんの少しだけ憑(つ)き物が落ちたようにすっきりとした顔をしていた。姫森も気付いたのか、珍しくわざわざ彼女がいない時を見計らってこちらへとやってきた。
「天音、もしかしてなんかいいことあったの?」
「知らないけど。新しい友達でもできたんじゃない?」
「また? 一緒に遊べる時間がもっと少なくなっちゃうじゃん」
「心配しなくても、天音にとって君は十分特別な人だと思うけどね」
「そ、そう?」
 思いのほか今の言葉が嬉しかったのか、恥じらいを隠すように指先で頬を掻いた。
「まあ、あんたが天音と付き合い始めたせいで、私との時間も減って残念だったんだけどね。けど、あの子にとっては良かったのかも。明るくなったし、私には与えられないものを、与えられてるみたいだし。ただの根暗だと思ってたけど、案外人付き合い上手だね」
「それ、いいこと言ってるように見えて、普通に失礼だからな」
「いいじゃん別に。天音のこと、これからもよろしくね。あの子は強いから、人に頼るって言葉を知らないのよ。たまに、相手さえよければ自分のことを顧(かえり)みなくなる時があるから。そういう時は、ちゃんと守ってあげなさい」
「何それ、君は俺の母親?」
「気持ち悪いこと言わないで。どちらかというと、私は天音の母親だから。それじゃ、修学旅行は同じグループ同士、楽しみましょ」
 ひらひらと手を振って、姫森は自分の席へと戻っていく。
 次の授業の準備をしていると、チャイムが鳴って天音が戻ってきた。その足は、リズムを刻んでいるかのように軽やかで、機嫌良く鼻歌まで歌っている。
きっと、学校以外にも自分の居場所ができたんだろう。こちらにまで、彼女から湧き出ている喜びが、届いてきそうだった。


 空港に向かうバスの中で無駄にテンションの上がっていた明坂は、機内に乗り込む前の手荷物検査の際に、青ざめた表情を浮かべていた。
「飛行機、落ちたりしねーよな……?」
「落ちるわけがないだろ」
周りを不安にさせるような発言はやめて欲しい。案の定、それに触発された宇佐美が「こ、怖いこと言わないでよ。この前、修学旅行の飛行機が墜落する小説を読んだんだから!」と、珍しく怯えた様子を見せた。
馬鹿にしているわけじゃないけど、いつも気丈に振舞っている彼女が非現実的なことに怯えているのを見ると笑ってしまう。天音は、まったく怖くないのか涼しい顔をしていた。
「こういう時、私もこわーいって言った方が、春希くんは気を使ってくれるの?」
「やめろよ、気持ち悪いから」
「ひどい!」
 耳のそばで響いた抗議の声にうんざりしていると、教師陣が「順番に機内に乗り込むぞー」と号令を掛けた。ちょうどいいやと思って、うるさい天音のことは無視して歩き出す。
搭乗通路を渡って機内に入り、事前に割り振られたシートに座った。
「よっこいしょっと。短い間だけど、よろしくね!」
天音が隣に座っているのは偶然などではなく、二人一緒に修学旅行のクラス委員をやっているからだ。俺たちは出席番号や男女の割り振りなど関係なく、強制的に前方の教師陣に近い位置へ配置された。
それから二人で点呼を取って、全員搭乗しているのを教師に報告する。後は離陸するだけという時になって、シートベルトを締めていると天音が「……落ちたりしないよね?」と、明坂みたいなことを訊ねてきた。
「一日に何便飛んでると思ってるんだよ。偶然、今日俺たちの乗る飛行機が墜落するわけがないだろ」
「だよね」
「なんだよ。怖いのか」
「ほんの少しね」
 強がっているのか、不器用に微笑んでくる。手元が覚束ないのか、装着しようとしているシートベルトが何度か空振りしていた。仕方ないから、代わりに差し込んでやる。
「怖かったなら、最初から強がるなよ」
「だって、さっきまでは大丈夫だったんだもん。それに怖いって言ったら、気持ち悪いって思うんでしょ?」
「なんでそのままの意味で受け取るんだよ……もう離陸するから、手でも繋いどくか?」
「……そうする」
 そんな話をしていると、焦る天音を急かすように、機長からもうすぐ離陸しますというアナウンスが入った。それが余計に不安な心を刺激したのか、軽く握っていただけの手の力を強めてくる。
握り返すと、少しは震えが収まったような気がした。しばらく後に、飛行機がゆっくり動き出す。窓際の席に座っているから、機体が地上を離れる瞬間が視覚的にわかった。やがて空へと上昇していき、体にわずかな重力がかかる。深い水の底にいるような、耳の奥の微(かす)かな不快感が押し寄せてくる。しかし、気付けば機体の揺れも収まっていて、雲の上を飛行していた。
 それでもしばらくの間は手を握っててやると、慣れたのかもう諦めたのかは知らないけど、いつの間にか握りしめてくるのをやめていた。
「窓の外、見てみなよ。綺麗だから」
 おっかなびっくりではあったけど、天音は窓の外へと視線を移す。そうして、感嘆の息を漏らした。
「綺麗……」
 当たり前だけど、雲の上は見渡す限りの青空だった。まるで天国へとやってきたみたいで、亡くなった人はお空に昇って行くという比(ひ)喩(ゆ)も、あながち間違いではないのかもしれないと思った。
「もう大丈夫?」
「ありがと。雲を見てたら、なんだか逆に落ち着いちゃった」
「どうして?」
「天国みたいだなって」
 俺と、同じことを考えていた。
「春希くんのお母さんも、この空のどこかにいるのかな」
「どうだろうね。でもこんなに広かったら、どこかを自由に飛んでたりするのかも」
「もしここにいるんだとしたら、残された私たちは安心できるよね。だって、こんなにも綺麗なんだから」
 雲(うん)海(かい)を見下ろす瞳は憂いを帯びていて、哀愁が漂っていた。他人事ではないんだろうなと、その目を見て察する。いくら優しい彼女でも、クラスメイトの母親のことを思って、こんなにも寂し気な表情を浮かべたりしない。
 だから春希の母親を思うその瞳には、名前も知らない別の人の笑顔も映っているんだろう。今すぐ俺を押しのけ、澄み渡る雲海へと身を投げ出すんじゃないかと思えて、咄嗟に手を掴んだ。
飛行機の窓なんて、空の上で開くわけがないのに。

 結局、飛行機は墜落することなく目的地へ到着した。空港を出ると、眩い日差しに目を細める。普段より随分南の地域のせいか、気温も何度か上がっているような気がした。
「やっぱり、どうせ行くなら東京が良かったわ。なんでまだ春なのに暑いのよ」
 青空を見上げながら、宇佐美はここでも悪態を吐く。東京へ行けば、今度は人の多さに文句を言いそうだ。結局どこに行っても不満はあるんだろう。
 なんだかんだで目的地に到着してしまったが、俺は未だに工藤春希のふりをしている。正直なところ楽しみではあったけど、申し訳なさもあった。
「せっかくの旅行なんだから、いろいろ気にせずみんなで楽しもうよ」
 浮かない顔をしていたらしく、天音が気遣うように肩を叩いてくる。
「何? 楽しみじゃなかったの?」
 俺たちの様子を見ていた宇佐美が、口を尖らせながら不満げに言った。
「いや、楽しみだったよ」
「それならもっと楽しそうにしなさいよ」
 彼女は彼女で、和ませようとしてくれているんだろう。どうやら自分で考えているよりもずっと、気分が落ち込んでいるらしい。病院へ行ってから天音と今後のことを話したけど、結局打つ手なしという結論が出てしまったからだろうか。
 一生このままなんじゃないかと思う時もあったが、とにかくあまり考え込まない方向へ意識をシフトした。俺が考え事をしていると、気にしてしまう人がいるから。それが最近まで一人だけだったのに、いつの間にか二人に増えている。申し訳なさも、二人前だった。
「ごめん、ありがと。宇佐美も」
「別に、あんたのために言ったんじゃないから。これから野外炊飯なのに落ち込んでる奴がいたら、空気が悪くなると思ったのよ」
 気持ちを切り替えて、俺たちは再び観光バスへと乗り込んだ。初日は山にあるキャンプ場で野外炊飯を楽しんで、午後はラフティングを行う。要するにボートに乗って川下りをするのだ。野外炊飯も川下りも、基本的にはクラス内で決めた自由行動のグループで行う。
 キャンプ場へ着くと調理場所の説明がされ、各グループに鍋やまな板や包丁などの必要器具が配布された。この日本には、ガスボンベを差せばスイッチ一つで点火できる文明の利器が存在するというのに、自然の過酷さを実感するためなのか、薪(まき)と新聞紙も同時に配られた。案の定、宇佐美は面倒くさそうに薪の束を見つめる。
「私たちは調理の方を頑張るから、男は火おこし頑張りなさいよ」
「おいおい、楽な方を選ぶなよ」
「楽じゃないから。だいたい明坂なんかに任せて美味しいカレーが作れると思ってるの?」
 失礼だが明坂じゃ無理だ。女性陣の中には天音がいるから、まず失敗することはない。こういう時は、大人しく従っておいた方が無難だと思い、明坂の肩に手を置いた。
「明坂には無理だ。サッカー得意なんだろ? それじゃあ、薪割りも得意だよな」
「いや、意味わかんねぇよ。薪割りとサッカーに何の関連性があるんだよ」
「とにかく、力仕事は男の役目だろ。面倒くさいかもしれないけど、俺たちが包丁握ってる隣で天音たちが薪を割ってたら、さすがに罪悪感抱くだろ?」
「まあ、そりゃあそうだけどさ……」
「それじゃあ、一緒に頑張ろう」
 上手く丸め込み、二人の言い合いを打ち切ることに成功した。明坂も宇佐美も、気は合わないくせに売り言葉に買い言葉で話すところは共通しているから、誰かが緩(かん)衝(しょう)材(ざい)にならなければ延々と口喧嘩してしまう。それを天音も理解していたのか、教師陣からもらったニンジンを持ちながら苦笑いを浮かべ「ありがとね」とお礼を言ってきた。
 言い合いをしているうちに、姫森はピーラーで皮の付いている食材を剥き始めた。
「ほら、俺たちが火をおこさないと料理が止まるから、早く行こうぜ」
「わかったよ……」
 納得はしてなさそうだったが、明坂を連れて薪割りの仕事へ急いだ。

 あらかじめ場所取りをしていた地点に行き、薪を割って見様見真似で手順通りに組んでいく。簡易的な窯(かま)の一番下に置いた新聞紙にマッチで火をつけ、うちわで適度に風を送り込んでいると、予想していたよりも簡単に火が燃え上がった。
「俺ら天才じゃね?」と、機嫌の良くなった明坂が尊大なことを口にする。
「これなら、無人島とか過去の世界に放り出されても二人で生きていけるだろ」
「無人島とか、ずっと昔の世界にはマッチなんて存在してないからな。一番面倒くさい工程を省いてるから簡単なんだよ」
「そういうことね。結局文明に頼ってんじゃん。なんか中途半端だな、徹底的にやればいいのに」
 そんなことを言ってしまえば、食材を切るための包丁やその他いろいろなものを自分たちで用意しなければいけなくなる。それなりに苦労をして成功体験を積めるこれが、ちょうどいい塩(あん)梅(ばい)なんだろう。
 適度に薪を追加しながら女性陣を待っていると、ボウルにカットした食材を入れてやってきた。
「お、ちゃんと上手くできてるね。二人ともやるじゃん」
 姫森がやる気の出ることを言ってくれる。対する宇佐美は「これくらい、できて当然でしょ」と、素っ気ない。
鍋を宇佐美が設置している時「料理できるの?」と何げなく訊ねてみた。
「今日は大したことしてないけど、まあそれなりにね。ママのを手伝ってるから」
「そっか。仲良いんだな」
 彼女の口からは、何度か『ママ』という単語が出てくる。だからただの感想のつもりだったけど、急に宇佐美は頬を赤らめてきた。
「……あのさ。ママ、ママって、私子どもっぽいかな?」
「別に気にしなくていいだろ。他の人はどう思うのか知らないけど、そんな風に慕ってくれてた方が、宇佐美のお母さんは嬉しいんじゃないの? 周りがどう思うかより、お母さんのことを気にしろよ」
「工藤、いいこと言うじゃん」
 切った野菜を天音と一緒に鍋へと投入していた姫森が、今の話を聞いていたのか口を挟んできた。
「私なんて、素直になりたいけど反抗期の時にいろいろ迷惑掛けちゃったから、いつも気まずいんだよ。だから、普通に真帆が羨ましい」
「私も」
 驚いたことに、たった一言だけだったけど天音も姫森の言葉に同調した。
「でもさ、親と二人で買い物行ったり外食してるの見られたら、普通に恥ずくね?」
 いい会話の流れだったのに、空気を読まない明坂が余計な言葉を挟んでくる。姫森は、途端に目を白けさせた。
「お父さんとお母さんのおかげで毎日ご飯食べれてるんだから、買い物くらい手伝ってあげなさいよ。あんた、親に買ってもらったスマホで、親に月額料金払ってもらってるのに、SNSに親うぜーとか書き込むタイプの人間でしょ。マジ最低だわ」
「隼人くんがのびのびサッカーできてるのも、優しいご両親のサポートがあるからなんだよ。ちゃんと感謝しなきゃ」
「死ね、明坂」
 女性陣から突然の総スカンを食らった明坂は、ほんの少し体が縮こまったような気がする。かわいそうだと思ったが、今の罵(ば)倒(とう)も的を射ているため、フォローを入れることはできなかった。
 それからグツグツと野菜を煮込んでいる天音の姿を眺めていると、隣にいた宇佐美が服の袖を軽く引っ張ってきて「……あのね、工藤。さっきはありがと」と囁いた。先ほど明坂に怨(えん)嗟(さ)の言葉を吐いた人間とは思えないほどに、素直な言葉だ。今でもこんなあどけない表情を浮かべられるんだなと、少し意外に思う。強がっているだけで、本質的な部分は幼い頃から変わっていないのかもしれない。
「カレーって、とろみつかない時あるわよね。なんかコツでもあるのかな」
「スプーンを使って何度も味見したりすると、唾液の中のアミラーゼっていう成分と混じって上手くいかないことがあるらしいよ」
「へぇ、さすが天音。詳しいね」
「ネットにそう書いてあったから。予備のジャガイモもあるし、もしシャバシャバになったらすり下ろして入れれば何とかなると思うよ。失敗はしないんじゃないかな」
 料理に関して、何も心配はいらなそうだ。あれから宇佐美も隣で炊いているご飯をじっと見守っている。なんだかんだまとまりのあるグループで、今さらながらに安心した。
 でき上がったカレーを盛り付ける係は、俺がやらせてもらう。火おこしは力仕事とは言えないほどに簡単な作業だったから、ここで料理の恩を返しておきたかった。明坂は椅子に座り込んで「まだかよー」と催促するだけだったけど。
 誰が作ってもカレーは失敗しないとは言うけれど、三人が作ってくれたカレーはとても美味しかった。炊飯器を使えないから難しいはずなのに、ご飯はふっくらとしていていつも家で炊いているものと遜(そん)色(しょく)がないでき上がりだった。
「とっても美味しいよ」
 素直な感想を口にすると、姫森が「そりゃあ、天音がいるからね」と誇らしげに持ち上げる。
「風香と真帆が手伝ってくれたからだよ」
「私、お米の係しかしてないし」
「ご飯も美味しいよ。宇佐美が水加減にちゃんと気を使ってくれたからだ」
「そ、そう? まあ、ここに来るまでにコツは調べておいたし、当然よ」
「明坂も、美味しいって思うだろ?」
 黙々と食べている明坂に話を振ってみた。
「まあ、うまいな。もうちょっと辛い方が、俺好みではあるけど」
 本当に余計な一言が多い奴だ。
 俺たちの周りには、和気あいあいと盛り上がっているグループが多かった。それに比べてここは落ち着いているけれど、このメンバーで良かったと思う。今だけは、ここに春希がいればとは、考えないようにした。
 食後、キャンプ場からしばらくバスで移動し、ラフティングを行う川の上流へとやってきた。インストラクターから簡単な説明を受けた後、支給されたライフジャケットを羽織る。ボートは八人乗りのようで、インストラクターが一名と、生徒は七名乗るらしい。一グループは五名しかいないため、追加の人員を確保するために、一時的にいくつかのグループが解体された。
幸いにも俺たちのグループはばらけることなく、別グループの人たちが人数合わせで入ってくることになった。予想外だったのは、橋本と一時的に同グループになってしまったことだ。
 こちらへ合流した途端、橋本に軽く睨みつけられる。空気を悪くしたくないから離れていると、俺が近くにいないのをいいことに、天音のそばへ行き仲(なか)睦(むつ)まじげに話し始めた。カレーは上手く作れたのか?だとか。明坂がいるから、大変だっただろう、とか。お前は料理が上手だから、俺も食べたかったよ、だとか。聞こえてくる会話の一つ一つに、なぜだか無性に腹が立って、そんな自分のことを気持ち悪いと思った。
「工藤でも嫉妬とかするんだ」
 宇佐美は一人になった俺の話し相手になってくれるらしい。
「してるように見えた?」
「今すぐ天音を橋本くんから引き離したいって顔してる」
「そんな顔してたのか。気持ち悪いな、俺」
「いいじゃん、彼女のこと大事に想ってて」
「そういう宇佐美も、嫉妬するんじゃないの?」
「まあ、ちょっと、ね」
 複雑そうな表情を見せた宇佐美は小声で「でも、もう振られてるから」と、寂しそうに言った。どうやらまだ吹っ切れてはいないらしい。
「馬鹿だよね。叶わない恋を、諦められないなんて」
「別に。誰を好きになるかなんてその人の勝手だろ。好きなら、好きでいいじゃん」
 思ったことを口にすると「……そう言ってくれると、ちょっと助かる」と、礼を言ってきた。
 それからも天音は、みんなと頑張ったから、美味しいカレーが作れたよ、だとか。隼人くんも春希くんと一緒に火おこしを頑張ってくれてたよ、だとか。私だけじゃなくて、みんなのおかげだよ、だとか、グループのメンバーのことを立ててくれていた。
 八人乗りのボートに乗り込む前に、インストラクターの方から簡単な説明を受けた。
初心者でも、パドルは全員で漕(こ)がなければ川(かわ)面(も)を進まないため、掛け声を決めようと天音が提案する。いくつか案が出たが、結局一番無難な『イチ・ニ・イチ・ニ』に決定した。いざボートへ乗り込むと、常に安定している地上とは違い、足を乗せるだけでぐらついた。体重がかかるから、水面にボートが沈むんだろう。
「きゃっ」
 一番前の席に座ろうとした天音が、軽くバランスを崩したのがわかった。咄嗟に体が動いて助けに回ろうとしたが、俺は後方にいるため間に合うはずがない。だから近くにいた橋本が、彼女の肩を掴んで支えていた。
「落ちたら危ないぞ」
「ごめんごめん」
「お前は本当に、たまにおっちょこちょいだな」
 また不自然に、心が揺れた。どうしてこんなにも、感情が揺り動かされているのか自分でもわからなかったけれど、宇佐美の言う通り、嫉妬しているのかもしれない。
 俺は、天音の彼氏じゃないだろ。そう自分に言い聞かせる。勘違いをすれば、痛い奴になるだけだ。彼女は春希のことが好きだから。俺から向けられる好意なんて、ハッキリ言って迷惑でしかない。それなのに、なんでこんな場所で自覚させられなきゃいけないんだって、思った。

 一定のリズムで周りと合わせてパドルを漕いでいると、水面を滑るようにボートは前に進んだ。想像していたよりも忙しく、掛け声を発しながら腕を動かしているため、運動不足の体が悲鳴を上げる。しかし疲れを見せているのは俺と隣にいる宇佐美だけで、後のメンバーはテニス部、サッカー部、バスケ部、運動神経抜群の天音という精鋭揃いのためか、一様に涼しい顔を浮かべていた。
「一番前の嬢ちゃん、漕ぐの上手いね! もしかして経験者?」
「初めてですよ! ちゃんと説明をしっかり聞いてただけです!」
 運動神経の良さは、どうやらここでも発揮されているらしい。現役運動部のメンバーを差し置いて、一番上手いと太鼓判を押されていた。
「ちょっと、工藤と真帆、大丈夫? 死にそうな顔してるけど」
「だって私、運動部じゃないし……吹奏楽部だし……」
「吹奏楽部も肺活量鍛えるために、校内走ってるじゃん」
「最近はサボり気味だったのよ! 悪い⁉」
 そんなことを、声を荒げながら言われても困る。
「ほらほら兄ちゃん、もっと頑張れ。そんなんじゃ、女の子にモテないぞ。後のみんなは涼しい顔して漕いでるじゃないか」
 気合を入れさせるためか、インストラクターが後ろから背中を叩いてきた。正直呼吸も乱れていたため、余計に体に負担がかかる。
「お兄さん、そいつもう彼女いますよ。目の前に座ってる、一番かわいい女の子です」
「なんだと。君、見かけによらないな!」
 何が嬉しいのか、笑いながらまるで太鼓のように肩を叩いてくる。疲労で声も上げることができなくて、ただただ痛みだけが体に蓄積されていった。
しばらくすると流れの速い地点までやってきて、パドルを漕がなくても前進していくようになった。
 けれどみるみるうちにボートの速度が上がっていき、まるでジェットコースターのように右へ左へと揺られながら川を下り始めた。女の子たちが悲鳴を上げる。
これは危ないんじゃないかと思ったが、インストラクターの人が後ろで方向を調整してくれているようだ。水しぶきを上げながら進むボートの上でも態勢を整えて導く姿は、さすがにプロだなと感嘆のため息を漏らした。
飛び散る水しぶきの向こうで、橋本が天音の肩に手を添えているのが目に入ってしまう。しかしその刹(せつ)那(な)、意識はまったく別の方向へと吸い寄せられた。
「きゃー! 水が目に入った!」
 宇佐美の、楽し気にはしゃぐ声。それだけならまだ良かったけど、そのすぐ後に彼女は冷静になって「やば、コンタクト外れた……」と呟いたのが耳に届いた。
 探してあげようかとも思ったけど、こんなにも揺れ動くボートの上じゃ身動きも取れないし、そもそも川の中に落ちた可能性だってある。どう考えても、ボートを降りるのを待つ以外に選択肢はなかった。
「片目だけ外れたの?」
 しがみつきながら、宇佐美に訊ねる。
「両方落ちた……」
 それは一大事だ。確か彼女は酷い遠視を持っているから、既に視界不良に陥(おちい)っているかもしれない。
「とりあえず、降りるまで我慢してて」
「うん……」
 インストラクターも察してくれたのか、急流地点を過ぎてからボートを漕ぐのを手伝ってくれた。

 岸辺に降りる時、宇佐美の手を握ってあげた。どうやら補正器具がないとまともに歩くこともできないようで、「足、ゆっくり上げて」と指示を出しながら彼女を手助けする。
「ごめん、工藤……」
 地上へ降りて、宇佐美は謝罪した。別に謝ることじゃない。ただ、手を離すと危なそうだったから、みんなが周りにいたけれど繋いだままにしておいた。
「真帆、大丈夫?」
 一番前にいたが、ちゃんと状況を掴んでいた天音は真っ先にこちらへ駆け寄ってくる。
俺と手を繋いでいることには、何の反応も示さなかった。
「コンタクトないと、ほんと何も見えないんだよね……」
「眼鏡、持ってきてないの?」
「あるけど、バスの中の荷物に入ってるから……」
 しばらくは、補正器具なしで歩かなければいけないということだ。
 どうしようか思案していると、橋本が近寄ってきて「少しの間くらい、なくても大丈夫だろ。そんなに離れてないんだしさ」と、とても無責任な発言をした。こいつには、人を思いやる心はないんだろうか。
「工藤さ、そのまま手繋いでてやれよ。宇佐美のことが好きだったんだろ? チャンスじゃないか」
 そして、ここぞとばかりに以前のいざこざを持ち出してくる。天音はまったく動じていない様子だったが、宇佐美の顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。自分から手を離そうとしてきて、けれど俺は力を緩めることができなくて。
そうこうしていると、代わりに声を上げてくれた奴がいた。
「春希って、高槻さんと付き合ってんだけど。もしかして知らねーの?」
「は?」
「俺、二人が休日にデートしてるところ見たことあるぞ。めっちゃ仲いいのに、今さら宇佐美を好きになるはずないじゃん。姫森もそう思うだろ?」
「まあ、そうね。というか、浮気してたら私がぶん殴ってるし」
 助け船を出してくれたのか、素でやっているのかは知らないけど、とにかく明坂のおかげで宇佐美の気分は少し落ち着いたようだ。けれど納得してない奴が、一人だけ。
「おいおい、なんだよ。お前たちも知ってるだろ。宇佐美が俺に振られたショックで落ち込んでる時に、工藤が弱みに付け込むみたいに慰めてきたって。気持ち悪いって、宇佐美も言ってたじゃないか」
「……そうだけど」
 図星だったのか宇佐美の手の力が徐々に弱まる。本当に、感情の起伏が激しい奴だ。
「お前だって、聞いたことあるだろ? 忘れてないよな、天音?」
「知ってるし、聞いたこともあるけど、春希くんはそんなことしない人だって、私は何度もみんなに説明したよ。康平にも、何回か言ったことあると思うんだけど。忘れたの?」
 恐ろしいほどに、冷めた声だった。明らかに怒っていたけど、この期に及んで、やはり橋本一人だけがわかっていないのか、鼻で笑っていた。
「天音がそう思っていても、実際みんな工藤をいじめてたじゃないか。ということは、やっぱり勘違いしてたんだよ」
「みんなの言ってることが正しいから、私の言ってることは間違ってるだなんて、よくもそんなことが平気な顔して言えるね。嫌いになれるほど、康平は春希くんのことを見てきたの?」
「そんなの知らないよ。他の全員が言ってるんだから、実際そうなんだろ。なあ、宇佐美?」
 俺のことが好きだったんだろ?とでも言いたげな、人を見下して利用しようとする目だった。宇佐美の口元は震えていて、いたたまれない気持ちになる。彼女は今でも彼のことを想っているのに、その心を利用しようとするのが許せなかった。そして、宇佐美の怯えた姿を見ていると、ざまあみろだなんて、思えなかった。
ここで橋本を殴れば大人しくなって、場が収まるのだろうか。そうすれば、宇佐美も天音も余計な感情を抱かなくて済む。人の心の傷を平気で抉(えぐ)ってくるような奴には、一度痛い目を見てもらう必要があると思った。
こんな奴に一発食らわせるぐらい、何も抵抗はない。けれど引き止めるように宇佐美が俺の手を固く握ってくるから、勝手に思いとどまってしまった。振りほどくこともできたけど、そうすれば定まらない視界の中に彼女を放り出してしまうことになる。
「とりあえずさ、真帆は工藤にちゃんと謝っときなよ」
 そんな膠(こう)着(ちゃく)状態で口火を切ったのは、今まで静観していた姫森だった。
「あんたの勘違いだったんでしょ。振られたショックなんかで動揺して、みんなにあることないこと吹聴しなかったら、工藤もいじめられなかったんだしさ。橋本はみんながどうこうとか言ってるけど、真帆が一番悪いからね。工藤は天音みたいに優しいから気にしてないのかもしれないけどさ、あんた面と向かってちゃんと一回謝ったの? いろんな人に、誤解を解く努力をしてきた? してないよね? だって、ここに一人だけ勘違いしてる奴がいるんだから。勝手に許されたって思ってるなら、とんだ最低女だよ」
 最初、姫森は橋本の肩を持っているのかと思ったけど、違った。どうすればこの場が収まるのかを理解していたのは、俺や天音ではなく彼女だった。知らなかったけど、春希がいじめられる原因を作ってしまった諸悪の根源は、今俺が手を握っている宇佐美だったらしい。なんとなく、そうじゃないかと薄々察してはいたけれど。
 みんなが言っているからという言葉を免罪符にして思考を停止させている橋本を黙らせるには、そもそも最初に勘違いがあったことを認めさせた方がいい。そのためには、やはりきっかけを作ってしまった宇佐美を矢(や)面(おもて)に立たせるしかなくて、天音も本当はそれがわかっていたのかもしれない。でも彼女は優しいから、宇佐美を傷付けるような選択肢を選ぶことができなかったんだろう。
 だから代わりに、姫森が罪の所在を明らかにした。宇佐美一人を犠牲にすることによって。
「私……」
 その声は、震えていた。
別に、宇佐美の謝罪なんていらない。だって俺は、工藤春希じゃないんだから。最初こそはいがみ合っていたけど、関わりを深めていくうちに彼女のことを理解していった。心の底から憎まなきゃいけないような奴じゃないんだって、思った。だから、宇佐美が真に謝らなければいけないのは春希だけで、本当に、彼女の謝罪は俺なんかが受け取っていいものじゃない。
「……いいよ、もうわかったから。勘違いだったんだろ? この前、保健室で話したじゃん。今さら俺から言われなくても、最初からわかってたって。宇佐美がわかってるなら、別に何の問題もないだろ」
 今の宇佐美はきっと、春希をいじめたことを後悔している。それだけで、もう十分だ。それなのに、手を握っている彼女は唇を震わせて、謝罪の言葉を口にしようとしている。
 見ていられなかった。気付けば俺は「眼鏡、取りに行くんだろ?」とだけ言って、手を引いて歩き出していた。なんでこんな、寄ってたかっていじめるようなことをしなきゃならないんだよ。いじめの主犯格だったからって、公開処刑みたいに傷付けていい理由にはならないだろ。
 天音なら理解を示してくれると思った。だから宇佐美と歩きながら、後ろは振り返らなかった。
 修学旅行のしおりで場所を確認しながら、バスが停めてある近くの駐車場まで宇佐美を連れて行った。
 道中、足がもつれて思わず転びかけてしまう。その拍子に治りかけの右足をついてしまったせいで、瞬時に痛みが足首から脳の方へと昇って行った。
「工藤⁉」
 宇佐美は目が悪いから、見えているはずがない。だから強がって「大丈夫だって。左足で受け身取ったから」と、嘘を吐いた。それから、足を少しだけ引きずりながら、なんとかしてバスまで辿り着き、そばでタバコを吸っていた運転手に事情を説明してドアを開けてもらった。
 宇佐美の席に置いてあるカバンを代わりに開けて、赤色の眼鏡ケースを取り出す。手渡すと、中の黒いふち眼鏡をすぐに掛けた。
「やっぱり、似合ってるじゃん」
「……馬鹿」
宇佐美は視界が良好になった途端、カバンの中を漁り始めた。取り出したのは、市販の湿布と包帯。
「だから、大丈夫だって」
「隣にいるんだもん。足引きずってたのぐらい、普通にわかるから」
 目が見えないくせに、察していたらしい。とんだ恥をかいてしまった。宇佐美はあの日と同じように、俺を座席に座らせて足に湿布を貼ってくれる。散々歩いて汚い足に、手を添えて。
「……私、最低だよね」
 湿布の上に包帯を巻きながら、呟く。
「何が?」
「あんたのこと、いじめてたから」
「今はもう反省してるんだろ? それなら、それでいいじゃん」
「それでも、ちゃんと謝っておくべきだった……そうじゃなきゃ、都合が良すぎるもん……」
「都合がいいなんて、そんなこと思わないよ。誰だって、間違えることはあるんだから。気付いた時に素直に反省できれば、それでいいんだよ。なんでそんな自分は悪いって、意地を張るんだよ」
 少しだけ言い合いのようになってしまって、思わずといったように宇佐美は涙を溜めた。いたたまれなくなって、彼女の肩に手のひらを乗せる。
「……もしかして、なんかあった? 最近の宇佐美、ちょっとおかしいよ」
「……ごめん」
 以前までの宇佐美は、こんな風に素直に謝るような奴じゃなかった。俺なんかに、涙を見せる奴でもなかった。今は怯えたように、足元からこちらを見上げてくる。
「……私、考えたこともなかったの。いじめた相手にも、優しいパパやママがいるんだって……ううん、考えないふりしてた……」
 もしかすると、保健室で父親と会った時のことを言っているのだろうか。
「あの時から、ずっとそんなこと気にしてたのか」
「そんなこと、なんかじゃないよ……」
 言葉にすると、彼女の瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。深く思い悩むようなことでもないと思ったけど、考え込んでしまうのは、きっと宇佐美がお父さんとお母さんを愛しているからなんだろう。
「もし私がいじめられたら、きっとパパやママも傷付くもん。工藤のパパに謝らなきゃと思ったけど、怖くて逃げ出したの……あんたは真っすぐ優しい人間に育ったのに、私はまるで逆のことをやってた……誰かを傷付けて、ようやくわかった……人は、決して一人じゃ傷付かないし、誰かを傷付ければ、大切な人の顔にも泥を塗ることになるんだって……」
 その事実に気付けただけでも、彼女は偉いと思った。本当にどうしようもない奴は、人を傷付けても痛みを感じたりしないし、いつかはなかったことにして忘れてしまうだろうから。
 だけど宇佐美は、都合の悪いことだと切り捨てたりはしなかった。等身大の自分の感性で、どこが間違っていて、何がいけなかったのかを自問自答した。だから、本当にもういいんじゃないかと思ってしまう。
けれども罰してくれないと気が済まないのか「気にしないで」と言っても、納得してくれない。どうして言葉にしているのに、伝わらないんだろう。微かな苛立ちを自分に対して覚えた時に、俺が嘘を吐いているからだと理解した。他の誰でもない俺自身が嘘を吐いているから、宇佐美はずっと勘違いをしているんだ。
目の前の少女は、俺のことを工藤春希だと認識している。だからいじめられたことを謝りたいと思うんだ。少し考えれば、わかったはずなのに。
彼女を苦しめているのは、他ならぬ自分だった。
だから、解決方法は一つしか思い浮かばなかった。
「……ごめん」
「……どうして、工藤が謝るの?」
「ずっと、宇佐美に嘘を吐いてたから」
「嘘……?」
「俺、本当は工藤春希じゃないんだよ」
 宇佐美が俺に罪の意識を持たず、一番穏(おん)便(びん)にこの場を収める方法は、これしかない。間違っていたことに気付いて謝罪してくれた相手に対して、俺もこれ以上嘘を吐き続けることはできない。
「……工藤春希じゃない? どういう意味?」
「そのままの意味だよ。ある日目が覚めたら、体が入れ替わってたんだ。こんなこと、信じてくれないかもしれないけど」
「ちょっと待って、ほんと、マジで意味わかんない……」
 意味のわからないことを言ったおかげか、とりあえず宇佐美の涙はぴたりと収まった。
「天音は、ずっと前に信じてくれたんだ。俺が、工藤春希じゃないって」
「天音が……?」
「付き合ってるのも、実は嘘なんだ。春希がこれ以上いじめられないように、気を使ってくれたんだよ。俺が元の体に戻る方法も一緒に考えてくれてて、だから公然と一緒にいられた方がいいから、みんなのことを騙してた」
 開いた口が塞がらないとはまさにこのことで、宇佐美は呆けたような表情で話を聞いている。今の言葉を脳が処理するまで、彼女のことを待った。
「……映画の設定とかじゃないんだよね? ふざけてるとかでも」
「こんな場面でふざけるわけないだろ」
「そっか……」
「信じれない?」
「ううん。でもなんか、腑に落ちたかも。工藤、別人みたいだったし……」
 落ち着いた宇佐美は不器用に笑って「工藤じゃないんだったね」と、自分の発言を訂正した。こんなにもあっさり信じてくれるとは思わなかった。それほど、俺と春希は性格や仕草が違うということなのかもしれない。
「そういうわけだから。宇佐美が俺に謝ることないよ。その謝罪は、春希が戻ってきた時に聞かせてやってくれ」
「だから、私に謝らせたくなかったの?」
「そうだよ。俺、別にいじめられてなかったから」
 それと、泣きそうになっている宇佐美を、見てみぬふりすることができなかった。
「あんたの本当の名前は?」
 素直に話せば、それも聞かれるだろうと思っていた。覚悟はしていたから、うろたえたりはしなかった。
「杉浦鳴海。それが、俺の名前。といっても、ほとんど記憶は忘れてるんだけど」
「鳴海……?」
「覚えてるだろ? 病院のこと」
 どんな反応を見せるのか、楽しみではあった。久しぶりと、笑ってくれるのをどこかで期待していた。けれど実際に見せた表情は、俺が予想していたどれにも当てはまらなくて、宇佐美は固まったまま、顔を真っ赤に染め上げていた。
「え、鳴海くん……? ということは春希って、もしかして本当に工藤だったの……?」
「今さら気付いたのかよ。鈍い奴だな」
「だってそんなの、わかるわけないじゃん……小学生の時だよ?」
「眼鏡のことはちゃんと覚えてただろ。春希が勧めてくれた奴。まあ、俺も宇佐美を思い出したのは、つい最近なんだけど」
 小顔の宇佐美にしては少し大きすぎるふち眼鏡のフレームに、優しく人差し指で触れる。彼女の体が、びくりと震えた。
「……ほとんど記憶を忘れてるって、どういう意味?」
「言葉通りの意味だよ。杉浦鳴海としての記憶が、なくなってたんだ」
「そんな……」
「でも昔、春希と友達だったことは思い出したから。なんで入れ替わったのかまでは、わからないけど。でも天音は、そのうち元に戻るんじゃないかなって言ってる」
「……それじゃあ、工藤は今どこにいるの?」
「それがわかったら、少しは解決に向かうのかもしれないな。見当もつかないから、探しに行けないんだよ」
 話せば話すほど、どうしようもない八方塞がりの現状に呆れてくる。
「とにかく、今話したことは他の誰にも言わないで欲しい。忘れてくれても構わないから」
「忘れられないよ……」
「それじゃあ、今まで通りに接してくれ。ごめんな、こんなこと話して」
「……どうして、私なんかにそんな大事なことを話してくれたの?」
「宇佐美のこと、信用してるからだよ」
 嘘偽りない本心だった。最初こそ印象は最悪だったけど、本当は素直でいい奴だってことが、だんだんとわかってきた。何度も宇佐美と会話をして、この目で見てきたんだから間違いはないと思った。
「……でも私、工藤がいじめられるきっかけを作ったんだよ。橋本にふられて、そんな時にたまたま工藤に慰められて……あいつには、たぶん百パーセントの善意しかなかったのに。私は捻くれてたから、当てつけみたいに友達にあることないこと話しちゃって……やっぱり私、最低だ……」
「そう感じるなら、春希が戻ってきた時にごめんって言ってやれ。それでさ、姫森が言ったように、今から誤解を解く努力をしなよ。間違えたら、そこで終わりってわけじゃないんだからさ」
「……今からでも、やり直せるのかな」
「ああ。そのためには、宇佐美が思う正しいことをやればいいんだ。そうしていれば、きっと周りや工藤にも宇佐美なりの誠意が伝わるよ」
「……わかった」
 曖昧じゃなく、確かな意思を持って頷いてくれた。それに安心して、俺も少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
 眼鏡を掛け直した宇佐美と、もう一度みんなのところへ戻る。その途中で「鳴海くんにも、謝っとかなきゃ」と、思い出したように言った。
「なんで?」
「私、君にも酷いことたくさんしたから。上履きだって、なくなって困ってたでしょ?」
「あぁ、あれ宇佐美がやったのか」
「みんなの悪ノリに乗せられて……っていうのは言い訳だよね。だって周りには友達がいたけど、結局は私が下駄箱から取っていってゴミ箱に捨てたんだもん。ほんと、馬鹿だ。調子乗ってた。死ねって、何回も言っちゃってたし……」
「やったことを全部いちいち振り返っても仕方ないよ。反省するなら何やってもいいってわけじゃないけど、後先考えて行動することを今後の課題にしたらいいんじゃない?」
「……そうする」
 それから宇佐美はぽつりと「天音は、たぶん気付いてたんだよね……」と話した。たぶん、俺もそう思う。あの時、遅れて教室へやってきた彼女は、今思えば明らかに怒っていた。
 初めから、全部知っていたんだろうか。振り返ってみれば、橋本が二年の終わりに告白されたという話も最初は天音の口から聞いたけど、あまりいい話じゃないからと言って詳細は明かさなかった。宇佐美が告白したと明かしてもいいはずなのに。クラスメイトの、ほとんど全員が知っていることなんだから。
 それでも何も知らない俺にあえて教えなかったのは、宇佐美をかばいたかったからだろうか。先ほど宇佐美は上履きをゴミ箱に捨てたと言ったけど、それも思い返してみれば、あの時は落ちてたよと説明していた。
天音はもしかすると、宇佐美が性根の部分までは曲がっていないことを知っていたのかもしれない。もしくは、信じていたのか。
「天音と話してると全部見透かされてるみたいに思えて、ちょっと怖い」
「それは俺もたまに思うけど、天音の良いところなんだよ。正直、かっこいい」
「誰かの助けなんて、いらないのかな」
 そんなことはない。天音は自分という存在をわきまえていて、同世代の誰よりも自己を確立している。けれど、そのせいでかえってすべてを抱え込む悪(あく)癖(へき)がある。そういう意味ではとても不器用な、普通の女の子だ。
 川辺へ戻ると、ラフティングの終わった生徒が徐々に集まり始めていた。天音たちの元へ向かうと、既に橋本の姿は見えなかった。
「自分のグループに戻ったの?」
「うん。工藤と真帆がいなくなった後、天音がキレて追い返した」
「ちょっと風香、キレたって言い方は語(ご)弊(へい)があるからやめてよ。次、春希くんに噛みついてきたら絶交するよって釘を刺しただけなのに」
「めちゃくちゃキレてるじゃん」
 思わず突っ込むと、不満げに頬を膨らませてくる。
「お、ていうか宇佐美の奴、眼鏡似合ってんじゃん。偏差値十くらい上がったような気がするぜ」
「それ、普通に馬鹿にしてるでしょ」
 と言いつつも、似合っていると言われてどこか嬉しそうだった。
「真帆」
 姫森が宇佐美の名前を呼んだ。先ほど、場を収めるためとはいえ、思っていることをストレートにぶつけた後だったから、メンバーの間に不穏な空気が流れる。仲(ちゅう)裁(さい)した方がいいのだろうか。口を開こうとした途端、天音と目が合って制止させられた。大ごとにはならないと、確信している表情をしていた。
「私が言ったこと、間違ってるとは思ってないからね」
「……うん。ありがと、ハッキリ言ってくれて」
「それでさ、私も自分が間違ってたって思う。人のことを言えるような立場じゃなかったから、ごめんなさい」
 筋は通すと言わんばかりに、姫森はこちらにも頭を下げてきた。
「全部勘違いだったって、宇佐美に聞いたから」
 それが姫森の立てた、この場を収めるシナリオのはずだった。
「違う。勘違いじゃないよ」
 けれど宇佐美が、そのシナリオを壊した。天音がほんの少し、目を見張ったのがわかった。
「私が子どもだったから。慰められた時に腹が立って、イライラをぶつけたかったの。最初にいじめを始めたのも、上履きを捨てたのも全部、私」
「それでいいの?」
 天音が短く訊ねる。そんなことを流(る)布(ふ)してしまえば、今度は宇佐美がいじめの標的にされてしまうかもしれない。それを案じているんだろう。
 けれど覚悟の決まっていた宇佐美は「それが本当のことだから」と答えた。もう、嘘は吐きたくないという目をしていた。
「私、とりあえず橋本に全部説明してくるね」
それから止める間もなく、彼女は橋本を見つけて走っていった。
「なんだか、さっぱりしてたね。春希くんが慰めてあげたんだ」
「別に、何もしてないよ。ただ思ってることを素直に言っただけ」
「そっか。でも本当にいいのかな? 今度は真帆がいじめられるかもしれないけど」
「そんなことになったら、俺たちが宇佐美のいいところを、みんなにわかってもらえるように説明すればいい、だろ?」
 いつだったか誰かさんに言われた行き当たりばったりすぎるセリフを吐くと、意表を突かれたのか目を丸くして「それは行き当たりばったりすぎ」と嬉しそうに返してくれた。
「あ、殴った」
 なんだかんだ心配だったのか、宇佐美の方を観察していた姫森が物騒な発言をする。俺がそちらに目を向けた頃には、既に彼女は怒り足でこちらへ戻ってくるところだった。
「真帆、思い切ったね」
 楽しそうに姫森が言う。
「だって、むかついたんだもん」
「なんて言われたの?」
「俺に振られたから、落としやすい工藤に鞍替えか、って。さすがに、手のひらで叩いちゃった」
「うわ、それは冷めるね」
「一応好きだったんだから、悪く言うのはやめてね。私も、振られたからって酷いこと言いたくないし」
「真帆は、なんで康平のこと好きになったの?」
 単純に疑問だったのか、天音が腕を組みながら訊ねた。
バスケで活躍している姿を見てとてもうっとりしていたから、さぞ高尚な理由があるんだろうと俺も予想していたけど、宇佐美が答えたのはたった漢字一文字で「顔」だった。想像はしていたのか、納得したように「イケメンだもんねー」と苦笑いを浮かべつつも天音が同意する。すると、明坂が。
「マジかよ、世の中やっぱり顔かよ……」
「私は外見だけで選ばなかったけど」
 天音が意味ありげにこちらを見つめてきたから、なんとなく顔をそらした。
「外見より、内面が大事なんだって学んだよ。私的には、前向きな失恋だったかな」
「良かったんじゃない? 前向きならそれで」
「ごめんね、たくさん迷惑掛けて」
 そんな話をしていると、最後のグループがラフティングから戻ってきた。これからまたバスに乗り込んで、今度は今日宿泊するための旅館へと向かう。初日だというのに、最終日のような疲れ具合だった。残りの二日間、体力が持つか不安だ。
 せめて、先ほどのような事件はもう起きないでくれと思いながら、今日の最終目的地へ向かうためのバスに乗った。
 宿泊する旅館は、修学旅行のための貸し切りとなっているらしい。フロント前を通る時に軽く従業員に会釈をして、既に運び込まれてロビーに置かれている着替えなどが入った大きい荷物を受け取った。
修学旅行前日、天音に「お揃いのストラップはちゃんと持ってきてね」と釘を刺されていたから、一応こちらのカバンに付けておいた。外れていないことを確認して、そのまま階段を上がって指定された宿泊部屋へと向かう。
生徒の使用する部屋はだいたい三人から四人ほどが割り振られている。事前に教師陣の方でランダムに決めてあり、今まで考えないようにしていたけど、間が悪いことに橋本と同部屋なのだ。
大人しくしてさえいれば、何の問題も起きないだろうと思っていた頃が懐かしい。ラフティングの時にいざこざがあったから、部屋の前で鉢合わせた時に気まずいことこの上なかった。そしてもう一人のメンバーも、これは運命のいたずらだろうか。偶然にも、一応の当事者である明坂だった。
部屋に入り、和室の隅っこに荷物を置かせてもらう。何か言われる前に、さっさと夕食会場へ向かおうと考えていたら明坂が「ま、いろいろあったけど仲良くしようや」と、橋本の肩を叩いた。
「黙れ」
 やはり慣れ合う気はないようで、橋本が明坂の手を乱暴に払う。それから荷物をがさつに投げ捨てて、早々に部屋を出て行った。
「なんだよあいつ、感じ悪いな」
「さっき喧嘩みたいなことしたんだから仕方ないって。あまり刺激しないでおこう」
 とはいえ、おそらく一番彼を刺激しているのは俺だ。天音と一緒にいることに腹を立てているんだから。橋本が彼女を諦めない限り、きっとこの関係は永遠に続く。
 一途すぎる彼のことだから、しばらくは絶対に和解することはないだろう。それを思うと、憂鬱な気分が押し寄せてきた。寝不足のまま明日を迎えそうだ。
「俺たちも、早く行こう」
「ちょっと待てよ、春希」
 玄関の方へ歩き出そうとしたところを呼び止められる。明坂はいつの間にか棚を物色していたようで、男物の茶色い浴衣を持っていた。
「せっかくだから着ていこうぜ」
「仕方ないな」
 せっかく旅館に泊まるんだからと思い、彼にならって浴衣に着替える。
 それからあらためて、夕食会場の大広間へと向かった。

 不純異性交遊防止のためか、男子と女子が寝泊まりする部屋は、お互い離れた棟にある。三階にある大広間に向かうまで、すれ違った人が男しかいなかったせいか、階段を降りて浴衣姿の女の子を見つけた明坂は「やっぱ修学旅行と言えばこれだよな!」と、無駄にテンションを上げて興奮していた。
 どうやら女性用は色を選べるようで、他の生徒に紛れて到着した天音はピンク色の浴衣を着ていた。隣にいる宇佐美は、水色を着ている。
「二人とも似合ってるね」
 以前天音に文句を言われたから、とりあえず感想を口にしておいた。けれど実際、本当に二人とも浴衣が似合っていて、決して義務的な発言ではない。
「はいはい、お世辞とかいいから。天音の隣にいたら、劣等感しか湧かないわよ」
「真帆も似合ってると思うけどね、眼鏡とか」
「浴衣関係ないじゃない!」
 背の低い宇佐美が、同年代の女の子と比較して身長が高めの天音と並んでいるのは、見劣りはしないまでもどこか姉妹のように見える。もちろん天音が姉で、宇佐美が妹だ。
それから遅れてやってきた姫森は、黒色のスウェットパンツにナチュラル色のオーバーサイズなスウェットを着ていた。
「浴衣とか動きづらくてかなわないわよ。見てる分にはいいけど、ぶっちゃけトイレするのもいちいちめんどくさいし」
 それを男のいる前で正直に話すのが彼女らしい。いい意味で、男女の距離感というか壁が薄い気がする。そもそも男として認識されているのかは怪しいけれど。
「春希くん」
 草履(ぞうり)をはいた足で、天音がトコトコこちらへとやってくる。その姿は高校生ながらとても品があって、綺麗だと思った。
カーテンのように垂れ下がった袖口から伸びる真っ白い手が、俺の着ている浴衣の袖をちょこんとつまむ。こんなことをされて、動揺しない男子高校生なんていないんじゃないだろうか。事実、俺は不覚にも視線を明後日の方へ向けていた。
「……どうしたの?」
 内緒話だろうと思い、声を潜める。案の定、彼女は会話を聞かれないように、体を少しだけこちらに寄せてきた。
「真帆に話したんだね」
 浮かれていた心が、すっと冷えていくのがわかった。彼女の発した声が、なぜか真冬の湖面のように凍っているみたいに思えた。表情を確認しようとするが、顔を俯かせていて覗き見ることができなかった。
「……そうだけど。俺は春希じゃないし、謝って欲しくなかったから……」
 何も、悪いことはしていないと思った。それなのにどこか怒っているようで、悲しんでいるようにも思えて、つまり彼女の真意を推し量ることができなかった。言い訳じゃないけど、言い訳のようになってしまった俺の発言を聞いた天音は、答えを得て満足したのか途端に身を引いた。
「真帆、それじゃあご飯食べに行こっか。風香も」
先ほどまでの様子を感じさせないような、明るく溌剌(はつらつ)とした声。俺はもしかすると、天音に何かしたのだろうか。まったく、見当もつかなかった。
「夕ご飯は自由席らしいし、工藤たちと固まろうよ。いいよね?」
 宇佐美が一緒に食べようと提案してくれて、こちらにも確認を取ってくる。その視線を、意図してやったのかわからないけど、天音が体で塞いだ。
「今日は私、女子会の気分なんだよね。だから、三人で食べようよ」
「そう? 私は別にいいけど」
 壁になった天音の肩先から、モグラのようにひょっこりと宇佐美が顔を出す。それでいいのか訊ねてきているようだったから、とりあえず頷いておいた。
「明坂と食べるよ」
「そ」
 宇佐美はどこか残念そうに肩を落としながら、三人一緒に大広間へと入っていった。
「なんか怒ってるみたいだったな」
 普段適当なことしか言わないくせに、どうしてこういう時は鋭いんだろう。
「なんかしたの?」
「いや、知らない」
「それじゃあ、あれじゃね。いきなり生理が来たとか」
「一回女の子に殺された方がいいと思うよ、君」
 デリカシーという言葉を知らない彼を置いて、俺も大広間へと足を踏み入れた。

 偏見かもしれないが、旅館の料理は高校生の自分の舌に合うものがあるのかいささか不安だった。しかしそれは杞憂だったようで、おそらく今時の若者が問題なく食べられるような料理に変更されていた。その中でも豚肉のすき鍋が絶品で、食後の抹茶のムースも控えめに言って最高に美味しかった。
 食後、風呂の用意をするために一度部屋へと戻る。橋本が先に大広間を出て行くのを見かけたから、もう既に戻っていると思ったけど、部屋にはいなかった。一足先に、大浴場へと向かったのだろうか。
「それにしても、不用心な奴だな」
 突然、明坂がぼやく。
「何が?」
「鍵、閉めてないだろ。あいつが持って行ったのに」
 そういえば大広間へ行く時も、橋本が先に部屋を出て鍵を持って行ってしまった。本来なら鍵を掛けなければいけないのだが、一本しか支給されていないから、開けっ放しで俺たちは向かったのだ。
「普通、一番最後の人に鍵を預けるよな。ここオートロックじゃないんだし」
「食事した後、さっさと戻って着替えを取りに行きたかったんじゃない?」
「それにしても、一言声を掛ければ済む話だろ」
 それはそうだ。
「本当に、団体行動ができない奴だな」
「もう気にしても仕方ないよ。人のものを盗る奴なんていないだろうから、また開けっ放しで大浴場に行こう」
 これ以上空気が悪くなるのも嫌だったから、明坂のことは適当にあやしておいた。けれど珍しく不機嫌だから、カバンから急いで下着を取り出す。その際に、ほんの少しだけ違和感のようなものを覚えたけど、用意の終わった彼が「早く行こうぜ」と急かすものだから、注意深くいろいろと確認することはできなかった。
「今行くよ」
 一応電気を消して、一緒に部屋を出る。やはり今日は満足に眠ることができるのか心配だ。部屋の前を通過していくクラスメイトたちは、こっそり深夜に抜け出して夜通し遊ぶ計画を練っていた。

 いつも入っているお風呂より何倍も広い温泉に浸(つ)かり疲れをほぐした後、明坂は脱衣所に備え付けられているバスタオルで体を拭きながら「覗きに行こうぜ」と、また意味のわからないことをぬかした。
「いい加減、節(せっ)操(そう)ってものを覚えないといつか捕まるぞ」
「そうじゃなくて、風呂上がりの女子ってなんかいいじゃん。色気あるっていうかさ。入り口のところの椅子に座って、休憩してるのを装って拝もうぜ」
「馬鹿じゃないの。勝手に一人でやってなよ」
 素っ気なく言って、髪を乾かすべく洗面台へと向かった。しかし諦めが悪いのか、髪を拭きながら後をついてくる。
「なー付き合ってくれよ。高槻さんのも見れるんだぜ?」
「興味ないよ。それに、なんか今不機嫌そうだから、あんまり刺激したくない」
「なんだよ、つまんねー奴だな。宇佐美のも、興味ない?」
「最近関係が良好になったのに、またこじらせたくないね」
 明坂の下心が透けて見えたら、どうせまた『死ね』と言われるに決まっている。
「姫森は?」
「そんなの、同上に決まってるだろ」
 ようやく諦めてくれたのか、がっかりしたようにため息を吐いた。俺は本当に、そのうち彼がセクハラや猥(わい)褻(せつ)行為で新聞の小見出しに名前が載るんじゃないかと思って、勝手にも不安になった。その時は春希が、いつかやると思ってましたとインタビューで答えなければいけないのだろうか。
 落胆していたのがかわいそうだったから、明坂の着替えが終わるまで待ってあげる。それから二人で脱衣所を出ると、たまたま偶然にも天音たち御一行と風呂上がりのタイミングが被った。
 先に気付いた宇佐美が、二人と会話していたのを中断して「今から卓球しようかって話してたんだけど、工藤たちも来る?」と、またわざわざ誘ってくれた。返事に窮(きゅう)していると、なぜか天音と一瞬目が合って、そらされる。
 今日は断ろう。そう思っていたら。
「ごめん真帆、私やっぱりパスしとくね。春希くんたちと楽しんできて」
 天音が先に、宇佐美へお祈りを伝えた。
「えー、なんで? 乗り気だったじゃん」
「なんか、ちょっとのぼせたかも」
「のぼせたって、あんた誰よりも先に脱衣所戻って涼んでたじゃん。五分も浸かってなかったよ」
「じゃあ、汗掻きそうだから」
 じゃあってなんだよと、笑顔で言い放った彼女に思わず突っ込みそうになる。同じことを思ったのか、宇佐美も呆れたように口を半開きにしていた。もっとマシな言い訳を考えられないのだろうか。
 それから当然のように姫森も「天音が行かないって言うんならパスするね。ごめん、真帆」と、右に同調した。なんだか、宇佐美がかわいそうだ。しかし本人はそれほど気にしていないのか「それじゃあ今の話、全部聞かなかったことにして」と、一応記憶喪失の俺に記憶の忘却を強制してくる。
 結局お三方は、仲良く部屋へと戻っていった。
「なあ、春希」
「なに」
「やっぱり高槻さん、色気あっただろ?」
 いつの間にか、明坂の鼻の下が伸びている。そんなことを確認している余裕のなかった俺は、いい加減彼のことを無視して部屋へと戻った。

 部屋のドアは幸いにも開いていた。しかし出て行った時と同じく、橋本の姿はない。大浴場で友人たちと温泉に浸かっているのを見たけど、俺たちよりは先に上がっていた。ということは、別の友人がいる部屋に遊びに行っているのだろうか。それならしばらく顔を合わせることもないだろう。
 テレビを付けてスポーツ番組にチャンネルを合わせ、自分の家のようにくつろぎ始めた明坂を横目に、ひとまず散らかさないよう自分の荷物を整理することに決めた。そうしてカバンのチャックを開けようとしたところで、あることに気付く。
「……ない」
 天音とお揃いで買ったボーリングのピンのストラップが、いつの間にか消えていた。ひとまず周囲を確認したが、畳の上にそれらしきものは落ちていない。
「どしたん?」
「……いや、ストラップを付けてたんだけど、どこかに行ったみたいなんだ」
「あー高槻さんとお揃いの奴な。あいつ、盗ったんじゃないか?」
「決めつけるのは良くないだろ」
「今まで散々因(いん)縁(ねん)付けられてきたのに?」
 頷く。所詮橋本の行動は、天音への行きすぎた好意が招いていることだから、こんな直接的な窃盗行為をする奴だとは思いたくなかった。嫉妬はすれど、最低限の良識は持ち合わせていると信じたい。
「落としてないか、探してくるよ」
「俺も行こうか?」
「いや、いい。休んでなよ」
 旅館に来た時には、確かに付いてた。ということは、部屋に向かう時に外れて落とした可能性が高い。とりあえずフロントまで戻るだけだから、一人で十分だ。
 本当に失くしたのなら買い直せばいいだけだけど、あれは天音から初めてプレゼントされたものだ。替えが効かないし、落として失くしたと言ったら彼女も悲しむかもしれない。
 どうか、落ちていますように。それだけを祈りながら、部屋を出た。

 初めに通った道の端から端をくまなく確認したけど、ロビーに着くまでにそれらしきものは落ちていなかった。いったい、どこへ行ってしまったのか。明坂は、橋本が盗ったんじゃないかと言っていたけど、やはり信じたくない。
勘違いのせいでいじめられてしまった人のことを、知っているから。俺自身が、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
ひとまず、落とし物のことに詳しそうなフロントに向かった。
「すみません。少しお時間いいですか?」
若い男の従業員に声を掛ける。フロントで作業をしているところだったけど、話し掛けたら手を止めてくれた。
「どうしました?」
「この辺に、ストラップ落ちてませんでしたか? ボーリングのピンの形をしたものなんですけど」
「いや、見てませんね。まだ届いてないだけかもしれないけど」
 わざわざ落とし物ボックスも確認してくれた。けれども、そんなストラップは届けられていないらしい。
すると、夕食の際に料理を運んでくれていた若い女性の接待さんがフロント前を横切った。
「あ、太(た)村(むら)さん。ちょっといい?」
「なんですか、川(かわ)端(ばた)さん」
「この子がストラップを落としたらしいんですけど、見てないかな?」
「あー、知らないですね」
 思わず、肩を落としてしまう。すると太村さんと呼ばれた女性の接待さんが。
「大事なものなの?」
「……はい」
「彼女さんにプレゼントされたとか?」
「まあ、はい。そうですね……」
「それってもしかして、今君の後ろにいる子?」
 言われて、思わず後ろを振り返る。そこにいたのは天音じゃなくて、幸いなことに宇佐美だった。小動物みたいに首を傾げてくる。
「いや、この子じゃないです……」
「そっか。私も探してあげたいのは山々なんだけど、明日も君たちの朝ご飯を用意するために早起きしなきゃいけないから。一応、他の接待さんにも聞いといてあげるね」
「ありがとうございます」
 お礼を述べて、頭を下げた。太村さんは仕事終わりで疲れていたのか、あくびを噛み殺しながら「青春してていいなぁ」と呟いて、帰って行った。
「どしたの?」
「いや、ちょっと落とし物を探してて」
「大事なもの?」
「まあ。天音からプレゼントされたものなんだ」
 正直に答えると、途端に宇佐美の目の色が真剣なものに変わった。
「超大事じゃん。私も探すの手伝うよ」
「いいよ。落ちてそうな場所は、もう全部回ったし」
「それでも、見落としがあるかもしれないじゃん」
 一人より二人だと、彼女は言った。その厚意を無(む)碍(げ)にすることができなくて、それから一緒に落とし物を探した。しかし人数が一人増えても、ストラップは見つからなかった。目につく場所のゴミ箱も開けてみたけど、捨てられたような形(けい)跡(せき)はない。
 捜索が徒労に終わってしまったのが申し訳なかったから、一階奥のゲームセンターにあった自販機で飲み物を奢(おご)った。それから、近くの椅子に座って休憩する。
「ごめんね、見つけてあげられなくて」
「宇佐美が謝ることじゃないだろ」
 コーラのプルタブを開けたことによって、プシュッという炭酸の抜ける音が静けさの漂う館内に響いた。従業員も生徒の姿も、館内の奥まった場所だからか一人も見受けられず、話し声すら聞こえなかった。
「鳴海くん、天音と喧嘩でもしたの?」
 そういえば、宇佐美は二人きりになったら俺のことを名前で呼んでくる。なんだかんだ天音には名字で呼ばれているから、新鮮だった。
「覚えはないけど、なんとなく避けられてる」
「……私が天音に話したことと関係があるのかな。もしかしたら、話さない方が良かったのかも」
「宇佐美が気に病むことないよ。俺も口止めしてないし、そもそも二人きりになったら話すつもりだったから。でも、話した時はどんな顔してた?」
「別に、普通だったと思う。あ、聞いたんだ、みたいな。反応が薄すぎて、逆に拍子抜けしたというか。そのまま、わかったよって言われて会話も打ち切られたし」
 天音の態度が急変した原因が、わかったような気がした。
彼女は何かを誤魔化したり会話を打ち切りたい時、あるいは堪忍袋の緒が切れた時、それまでとは打って変わって冷めた口調になる。
 だからといって天音が怒っているとは思えないけど、俺が宇佐美に話したことに、何か思うところがあるというのは確かだ。体が入れ替わっているという不可思議な現象を他者と共有して、二言三言で会話を終わらせるわけがないんだから。
「天音のことは、こっちでなんとかするよ。宇佐美は気にしてないふりしてて」
「いいの? 間に入らなくても」
「そうだな。あいつが全然話してくれなくなったら、たまに話し相手になってくれると嬉しいかも」
「それ、私の得意分野じゃん」
 歯を見せながら、笑いかけてくる。
 赤色のコーラの缶を両手で包み込むように持つ宇佐美は、残りをあおるように一気に飲み干した。
 それからしばらくの間、何も話さない無言の時間が続く。まだお互いのことをよく知らなくて、探り探りに会話を繋いでいたあの頃が少し懐かしいと感じた。今も、宇佐美のことをよく知っているとは言えないけど。この空白の時間を気まずいと思わなくなるくらいには、距離が縮まったということだろう。
「鳴海くんはさ」
 囁くように宇佐美がまた話し始めたから、耳を傾ける。
「なに?」
「……天音のこと、好きなの?」
「は?」
 瞬間、右肩に微かな重みを感じる。驚いて隣を見ると、宇佐美が頭を乗せていた。なんでそんな思い切ったことをしてきたのか疑問に思ったけど、理由は明白だった。気持ち良さそうな寝息が、わずかに開いた口元から漏れ聞こえてきたから。
「このタイミングで寝るかよ、普通」
 いろいろあって、疲れていたのかもしれない。俺も今すぐ布団に入って寝入りたいくらいには、疲(ひ)弊(へい)していた。けれど今しがた寝てしまった宇佐美を叩き起こせなくて、せめて消灯時間まではそっとしておくことに決める。
「天音のことが好きなの?か……」
 正直、考えたことがなかったと言えば嘘になる。少し前までは、俺を杉浦鳴海だと知る唯一の人物で、問題解決のために協力してくれて、偽の恋人も演じているんだから。そのおかげもあって、少しだけ弱みを見せてくれるくらいには打ち解けて、完璧ではない部分を支えてあげたいと思って……時折どうしようもないくらいに胸が焦がれる。
 特別な感情を抱いていることを、認めたくなかった。認めてしまえば、一定のバランス感覚で保たれていたお互いの関係性が、一気に崩壊してしまう。なぜなら、天音はこの体の宿主である、工藤春希のことが好きだから。
「いったい、いつまでこんな状況が続くんだよ……」
 弱音を吐いても、現状は変わらない。
 けれど、もし偶然でも何でもなく、この状況が誰かの望んだことなのだとしたら。
 一生このまま、工藤春希として生きて行かなきゃいけないのだとしたら。
 いつか必ず、間違いを起こしてしまう予感があった。

 消灯時間の十分前に宇佐美を起こすと、気持ちよさそうなあくびと共に「……ごめん」と謝ってきた。
「私、なんか変なこと言ってなかった?」
「別に、何も。あんまり男の隣で無防備に寝たりするなよ」
「それ、心配してくれてるの?」
「まあ、一応。寝顔とか、写真で撮られたりするかもしれないしさ」
 俺は明坂じゃないから、ストレートには言わず言葉を濁す。
「撮らなかったよね?」
「撮るわけないだろ」
「そ。まあ、鳴海くんは天音のことが好きだからね」
 いきなり断定口調で言われて、言葉に詰まった。
「……ふりをしてるだけだよ」
「あんたを見てたら、本当に好きだってことぐらいわかるわよ」
 女の勘って奴だろうか。だとしたら、認めたくはなかったけど、本当はずっと前から恋に落ちていたのかもしれない。
「ほんっと、しょうがないわね」
 呆れたように言って、宇佐美は立ち上がる。それから腕を組んで、椅子に座っている俺のことを見下ろしてきた。
「全部解決したら、機会ぐらいは作ってあげるわよ。工藤と鳴海くんと天音と私で、どっか出かけよ」
「なんだよそれ、ダブルデートみたいじゃん」
「それもいいかもね。私、幼い頃に工藤と変な約束しちゃってたみたいだし」
 自分で言っておいて、なぜか恥ずかしそうに目をそらしてくる。
「春希みたいな根暗は、嫌いなんじゃなかったのかよ」
「忘れてよ。今度からはちゃんと人と向き合おうって決めたんだから。それに私、よく考えたら嫌いになれるほど工藤のことを知らなかった」
 照れ隠しの裏側に、ほんの少しの後悔が見える。
 人を好きになることも、嫌いになることも短絡的に決めていたらしい宇佐美だが、どうやらいつの間にか変わったらしい。いいことなのか、それとも悪いことなのかはわからないけど、今の彼女は前より清々しい表情をしていた。
「まあ私、おしとやかじゃないから、工藤の好きなタイプの女の子じゃないけどね。料理は、そこそこできるけど」
「別に、出てるところも特にないしな」
 冗談のつもりだったが、宇佐美は顔を真っ赤にしながら「うっさいっ‼」と叫んで赤いコーラの缶をぶん投げてきた。頭に当たって、コツンという小気味の良い音が鳴る。
『死ね』と言われなかったことが、嬉しかった。

消灯時間に一度だけ橋本は部屋へと戻ってきたけど、点呼が済むと早々に出て行った。どうやら睡眠時間であっても慣れ合う気はないらしい。気にしないことを覚えた明坂は「早く寝ようぜ」と言って布団の中へと入って行き、俺もそれにならった。
その日は旅の疲れのおかげか、よく眠ることができた。
しかし翌朝、自然に目が覚める前に体を揺すられて、強制的に意識を覚醒させられる。目を開けた途端、視界いっぱいに明坂の顔があって、正直言うとこれまでの中で一番最悪の目覚めだった。
「おい、起きろよ。気持ち良く寝てる場合じゃないぞ」
「起きてるよ。明坂のせいで、気分は最悪だけど」
「それは悪い……でもとにかく大変なんだよ」
「……寝坊でもした?」
 部屋の掛け時計を見たが、まだ起床時間の三十分も前だった。安堵していると、明坂は持っていたスマホの画面をこちらに見せてくる。
「これ」
 その画面に映っていたのは俺と、俺に寄り掛かって寝ている宇佐美の姿だった。
「盗撮してたのかよ。最低だな」
「違う、俺じゃないって。クラスのみんながいるグループメッセージに送られてたんだよ」
「……なんだって?」
 起きがけでまどろんでいた意識が、途端に覚醒する。
それは、まずいんじゃないか。こんな場面を見たら、勘違いをする奴がいてもおかしくない。慌ててグループのメッセージを確認したけど、時既に遅しと言うべきか、クラスメイトの半数ほどの既読が付いていた。画像が投稿されたのは、深夜の二時だというのに。
「寝とけよ、深夜なんだから……」
「みんな浮かれてるからな。起きてたんだろ」
 話をしている間に、既読の数が一つ増える。大ごとになる前に、投稿した奴に消させるべきだと思った。誰がこんな週刊紙の記者染みたことをしたのか確認すると、驚くことにそいつは橋本だった。
「知らないアドレスから送られてきたって書いてるけど、そんなんぜってー嘘だろ。てかさ、この写真も本物なわけ? さすがに作り物だろ」
「いや、本物だよ……」
 明坂に昨日の経緯を説明し終わると、いつの間にか起床時間になっていた。すると玄関のドアが開き、あくびをしながら橋本が部屋へと入ってくる。その能天気な姿に苛立ちを覚えたのか、明坂は彼に掴みかかった。
「おいお前、マジで最低だな」
「は? 何の話?」
 とぼけたように返す。明坂は持っていたスマホを彼の顔の前に突き出した。
「こんな写真バラまいてさ、楽しいかよ」
「あぁ、寝ぼけてたみたいだ」
「はぁ?」
「宇佐美に送るつもりだったんだよ。これ、本当にお前と工藤か?って。知らないアドレスからメールが来てたから」
「そんなん言い訳にならねぇぞ」
「本当だよ。信じてくれないと困る」
 明坂は俺のためにヒートアップしてくれているようだが、ここで言い争いを続けても埒(らち)が明かないし意味はないと思った。真実はわからないけど、現状どうするのが一番なのかを考えなきゃいけない。
「とりあえず、それ消してよ。それぐらい、今すぐできるでしょ?」
「できるけど、意味ないと思うぞ。もうクラスメイトの半分以上が見ちゃってるからな」
「それでも、消して。そんな写真がいつまでも残ってたら、悪気はなかったのかもしれないけど、君まで趣味の悪い奴だって思われるから。嫌だろ? 勘違いされるのは」
 一応彼の心配をしておくと、それが癪(しゃく)に障ったのか苛立ちを隠しもせずに舌打ちした。しかし、画像はこちらの要望通り消してくれるみたいだ。
「ほらよ、これで満足か」
「そうだね。それでいいよ」
「ところで、さっきの写真は本当か? 高槻天音っていうかわいい彼女がいるのに、根暗野郎じゃなくてとんだプレイボーイだな」
「よく、どこの誰に送られてきたかもわからない写真のことを、そこまで気にしていられるね。自分のアドレスが流出したことを、真っ先に心配した方がいいんじゃない?」
「なんだと?」
「それと一応言っておくけど、ただ話をしてただけだから」
「こんな館内の奥まった場所でか? 寄り添い合ってて、密会みたいに見えるけどな」
「よくこの写真だけで、どこで撮られたものなのかがわかったね。まるでその場で見てたみたいだ」
 天音のように揚げ足を取ると、橋本はもう一度舌打ちした。毎度のごとく天音に付き合ってあげている俺は、もしかするととんでもなく優しい奴なのかもしれない。
「行こう、明坂」
「ちょ、春希。いいのかよ」
「やってないって言ってんだから、責め立てるのも良くないだろ」
「でもさ……」
 納得しない明坂の手首を掴んで、玄関を出ようとした。するとまだ何か用があるのか、橋本は「おい」と呼び止めてくる。
「これ、ゴミ箱に捨てられてたぞ」
 橋本は、汚れでくすんだボーリングのピンのストラップを投げてきた。取り付けるための紐(ひも)は無造作に千切れていて、心が痛んだ。
「これ、どこのゴミ箱に捨ててあったの?」
「この階のゴミ箱だよ。たまたま深夜トイレに行った時見つけたから、拾っておいてやったんだ」
「そうか、ありがとう。何度も確認して、それこそ宇佐美にも探すのを手伝ってもらったんだけど、見つからなかったんだ。失くしたって言ったら、天音に怒られるところだった」
「そんなことより、もっと別のことを気にした方がいいんじゃないか?」
「そうだね」
 短く返事をして、明坂と共に部屋を出た。何か言いたげな雰囲気だったが、無視をする。
すれ違うクラスメイトたちから、奇異の視線を向けられた。懐かしいなと、思った。
 勘違いをされるのは、これで二度目だった。

 朝食会場に着くと、宇佐美が泣きそうな顔で「ほんとにごめん……」と謝ってきた。その隣には、天音がいる。同部屋だから、おそらく辛かっただろう。期せずして三人が揃ったことによって、周りから「マジ、修羅場じゃん……」という声が聞こえてきた。割合的に宇佐美を貶(けな)す言葉が多くて、彼女の表情は青ざめている。
 俺からあらためて経緯を説明しようとすると、天音は「真帆から全部聞いたよ」と、先に教えてくれた。
「気にしなくてもいいよって言ってあるんだけど、この通りで。落としたストラップを一緒に探してくれてたんでしょ?」
「まあ、うん。一応、見つかりはしたんだけど……」
 橋本からもらったという言葉を添えて、ポケットの中から黒ずんだボーリングのピンのストラップを取り出す。申し訳なさで心が痛んだ。ついでに、聞いた話をかいつまんで話す。
「そっか。ゴミ箱に捨てられてたんだ」
「橋本が言うには」
「春希くんは、康平が言っていることを信用してる?」
 問われて、言葉に詰まる。正直なところ、八割くらいはどちらも彼がやったことだと思っている。ストラップに関しては二人でゴミ箱の中も確認したし、そもそも購入してまだ数か月も経っていない。経年劣化によって紐が千切れるにしては、あまりにも早すぎる寿命だ。
 写真に関しては、もはやボロが出すぎていた。映っていたのは、撮る時に拡大でもしたのか、俺と宇佐美が椅子に座っている部分だけだった。
 その考えを、素直に天音に伝えても良かった。けれど、伝えてしまったら最後、彼女は橋本康平と確実に縁を切るだろう。二人の関係性がどうなろうと興味はないが、たとえ許せない相手だとしても、彼女が誰かを明確な敵と断定するのは嫌だった。
放っておいても、いずれ崩壊する関係だとしても。
今度は彼が、天音に牙を向けるかもしれないから。
それに、二度も誰かが傷付くのも、傷付けられるのも、見たくなかった。
だから俺は、言った。
「信用、したい」
 天音は、天音だけは最後まで、春希のことを信じていたから。たとえ偽善でも、信じる人が馬鹿を見る世の中だったとしても、彼女が信じようとしているものを俺も信じてみたいと思った。春希に向けられた勘違いを解くことも、宇佐美の心だって、変えることができたんだから。
 答えに満足したのか、天音は急に笑顔になって「信用したい、か」と、噛みしめるように俺の出した言葉を唱えた。
「酷いことされたのに、それでもやってないって信じるんだ」
「だって、クラスメイトはみんな友達なんだろ。天音の友達を信じるの、ダメかよ」
「ううん、嬉しい。わかったよ。それじゃあ、真帆と春希くんの誤解を解くことから始めなきゃね」
「どうするか、決めてるの?」
 訊ねると、天音は当然だと言わんばかりに胸を張った。昨日から感じていた違和感は、いつの間にか綺麗になくなっていた。
「私たちが真帆のいいところを、みんなにわかってもらえるように説明すればいい、でしょ? そうすれば、人の彼氏を寝取るような人じゃないって、みんながわかってくれるよ」
 今度は一本取れたと言うように、したり顔を浮かべてくる。かなわないなと、思った。そして同時に、俺はやっぱりこの女の子が好きなんだということを、ハッキリ自覚させられた。
 それから、寝坊でもしたのかあくびをしながら姫森がやってくる。宇佐美の死にそうな表情と、周囲の視線で察したのか、天音に小声で「もしかして、何かあったの?」と訊ねる。
「風香はさ、真帆が人の彼氏を寝取ろうとする人には見えないよね?」
「は? いきなり何言ってんの?」
「春希くんが、浮気するような人だと思う?」
 周りの人たちにも聞こえるように、いつもより声を張って言った。
「真帆はともかく、工藤はそんなことできるほど器用な男じゃないでしょ」
「真帆も、実はそんなに器用じゃないよ」
「まあ、そっか。真帆って高校デビューだったもんね」
「高校デビューって何?」
 知らない言葉に口を挟むと、申し訳なさで沈黙していた宇佐美の頭に姫森が手のひらを乗せた。
「中学では目立たなかった人が、高校生になってから一念発起でイメチェンをして明るくなろうと頑張ることかな。中学の頃の真帆って、どちらかというと暗かったし、コンタクトじゃなくて今みたいに眼鏡だったし、まあ工藤みたいな奴のことだね」
「へーそうなんだ」
 宇佐美にも、そんな過去が。だから根暗が嫌いだったんだろうか。同族嫌悪って奴かもしれない。やはり仲良くなったつもりでいても、知らないことばかりだ。暗い過去は隠しておきたかったのか、宇佐美は頭に手を乗せられたまま顔を赤くさせる。
「言わないでよ、隠してたのに……」
「みんな知ってるって。知らなかったの工藤くらいだよ」
「なんかごめん、隠してたこと知っちゃって」
 ただ、今のは本当に不可抗力だと思う。
「遅かれ早かれ、というか数分後には黙ってても耳に入ると思うから先に私の口から説明するけど、昨日真帆が春希くんに寄り掛かって寝てたんだって」
「へぇ、そんなことが」
「それをわざわざ盗撮した人がいるみたいで、浮気してるって二人とも疑われてるの」
「なるほどね。だからそんなこと聞いてきたんだ。というかそんな大変なことになってるなら、起こしてくれれば良かったのに」
「だって気持ち良さそうに寝てたから」
「危うく寝過ごすとこだったよ。それでまあ、浮気してるとかいう話だっけ。本当に浮気してるなら、私が工藤のことぶっ殺すけど」
「してないって」
 物騒な発言が聞こえてきたから、慌てて訂正した。
「それじゃあ、真帆はどうして寄り掛かって寝ちゃったの」
「ねむたかったから……」
 子どもかよと、呆れる。天音も苦笑いを浮かべた。けれど昨日は怒(ど)涛(とう)の一日だったから、仕方ないと言えば仕方がないのかもしれない。
「あのさ、工藤だったからまだ良かったけど、真帆はちゃんと気を付けな? 大学生になってからそんなことやらかすと、普通にお持ち帰りされるからね。知らない人の家とかホテルで、裸のまま朝を迎えたくないでしょ?」
 昨日は気を使って濁したというのに、姫森の発言はストレートすぎる。もしかすると彼女も、明坂並みにデリカシーがないのかもしれない。俺の気遣いが無に帰してしまった。
「気を付ける……」
「とにかく、言わせとけばいいのよ。だからそんなに凹むな。私はあんたたちがそんなことする奴じゃないって信じてるから、しばらく黙って大人しくしときなさい。そうすればたぶん収まるし、私も真帆の味方でいるから。でもまあ、一応加害者だったんだから、手痛いしっぺ返しが来たんだと思って反省しなさいね。人を呪わば穴二つ、って奴よ」
 厳しい言葉だが、節々に宇佐美への優しさが溢れていた。俺の時は、私もいじめられたくないからと言って多数派に合わせていたのに。そう考えるとやっぱり、嬉しくもあった。
「ありがと、風香……」
「俺も俺も」
「明坂も……」
 姫森のついでのように言われた明坂だったが、どこか嬉しそうだ。単純な奴だが、そこがいいところでもある。
無事に仲間内での話がまとまったところで、天音は仕切り直しだと言うように手を叩いた。
「それじゃあ、今日はみんなでご飯食べよっか。昨日は女子会だって言って、男性陣を蔑(ないがし)ろにしてごめんね」
理由はどうあれ、いつの間にか機嫌が戻ったようでホッとした。本当に、嫌われたんじゃないかと少し不安だった。
 朝食の席は、みんなで話し合って俺と天音で宇佐美を挟むようにして食べた。最初こそ迷惑を掛けるから離れて食べると言って聞かなかったけど「一緒に食べなかったら絶交する」と天音が笑顔で言うものだから、宇佐美の発言権は消失した。
 俺たちが仲良く席を囲んだおかげで、周りのクラスメイトたちは一様に首を傾げた。本当に、工藤と宇佐美は浮気をしていたのだろうか、と。それでも宇佐美のことを『尻軽女』だとか、『高校デビューしてから調子乗りすぎ』と揶(や)揄(ゆ)する人は一定数いた。その人たちは、きっと宇佐美のことを何もわかっていない。
 真実かどうかもわからないのに、不確かな情報に踊らされる奴らが、とても滑(こっ)稽(けい)に見えた。いったい、何度間違えれば自分たちの過ちに気付くのだろう。
 理想論かもしれないが、いつかみんなにわかって欲しいと思った。見てみぬふりをする人も、便乗する人も、すべからく人を傷付ける行為に加担しているということを。
 そしてそれは、誰かが勇気を振り絞って立ち上がって手を上げれば、驚くほど簡単に解決に向かうかもしれないのだ。いつか、天音がそうしてくれたように。
 朝食を食べ終わっても、まだ俺と宇佐美に軽(けい)蔑(べつ)の視線が向けられていた。当事者意識の低い、日本人らしい奥ゆかしさのある陰湿ないじめのやり方だ。言いたいことがあるなら、ハッキリと言えばいいのに。安全圏から人を叩けるのが、最高に気持ちいいんだろう。
 一応の被害者である天音が許しているのに、第三者が非難をやめないという構図は理解に苦しむ。俺たちが周りにいったい何の不利益をもたらしたというのだろう。
 もはや考えても仕方のないことだから、さっさと部屋に戻って身支度を済ませ、集合場所であるロビーへと向かった。今日は、みんなで回る場所を決めた自由行動の日。
 グループごとに行動する予定なのに、宇佐美は俺たちを避けるように遠くで縮こまっていたから、手を引いて無理やり輪の中へ入れた。手を繋いだ瞬間にまたどよめきが上がったような気がしたけど、いい加減無視した。
「パフェ食べたいんだろ? それじゃあ、一緒にいないと迷子になって食べれないぞ」
「置いてってもいいよ、迷惑掛けたくないし……」
「それがもう迷惑なんだよ。何も悪いことしてないんだしさ、堂々としてろって」
「そうだよ真帆。それに、真帆が春希くんと幼い頃に会ってたことも知ってるし。幼馴染みたいなものなんだから、別にあれくらいなら気にしないよ」
 それから天音は急に真面目な表情を作って。
「気まずくて、離れたいって気持ちもわかる。でも、向き合わなきゃ。逃げてても、いつまで経っても解決しないよ。春希くんは、真帆にちゃんと向き合った。そのおかげで今、みんな一緒にいるの。誰かが変わるのを待ってるんじゃなくて、自分が変わらなきゃいけないの」
「……自分が?」
「そうだよ。真帆だって、本当はわかってるでしょ? 変わりたいって思ったから、一度は眼鏡を外したんだもんね。それを馬鹿にする人もいるけど、私は美しいと思う。変わりたいと思って行動に移せた真帆は、本当に強い。私が保証する。ずっと昔から、真帆が知らないだけで、私は真帆のことを見てたんだから。だから真帆も、春希くんみたいに向き合うことができるでしょ?」
 本当に、いつだって天音は正しいことを言う。誰よりも、どんな時だって相手を心の目で見つめているから、気持ちに訴える会話ができるんだ。だから彼女は、きっと誰のことも裏切ったりはしないのだろう。
 同い年の高校生たちがひしめき合う中、悪意の視線が絶えず俺たちに降り注ぐ。それでも宇佐美は、今度こそハッキリと頷いた。逃げたりせずに、悪意に立ち向かう覚悟を決めた。その姿に、勇気をもらえたような気がした。
 だから俺も、どうしようもない理不尽な現実に直面したとしても、逃げずに戦いたいと思えるようになった。

 自由行動が始まれば、そこからはもう安息の時間だった。息苦しかったことを忘れるために、大きく深呼吸をする。南の地域の空気は、ほんのりと潮の香りが漂っているような気がした。海なんて、どこにも見えやしないけれど。
 一番初めに向かったのは、戦争の歴史を写真や資料で知ることができる平和祈念館だった。今ここにいるのはただの旅行ではなく、学びを修めるためだから、後でレポートに学習内容をまとめなければいけない。
そのために訪れた歴史的な場所だが、過ぎ去りし時に興味はないのか、明坂は受付をしている時にあくびをするという罰当たりなことをしていた。
「もうちょっとさ、勉強をしに来たって意識を持ちなよ」
「無理だって。俺、暗記科目とか苦手だし。後で写させてくれよ」
「俺じゃなくて、他の人に頼んでね」
 まあ、天音はおろか宇佐美も姫森も断るだろうけど。
 そんなやる気のない彼だったが、展示されている巨大な戦闘機を前にして「かっけぇ!」と、子どものような感想を口にした。その戦闘機が後に特攻のために使用されたものだということを知ると、無邪気な顔から一転して珍しく険しい表情へと変わった。それからは、まるで人が変わったかのように口を閉ざし、特攻隊員の遺書や戦争の記録を観(かん)覧(らん)して、まだ新品だったメモ帳に一生懸命文字を書き込んでいた。
「これがきっかけで、少しは勉強に身が入ってくれればいいんだけど」
 一通り見て回ったのか、姫森が親みたいな感想を口にする。寝て忘れるような奴じゃなければ、前向きに取り組むだろう。つまり、修学旅行が終わってからの行動次第で、姫森の明坂に対する評価が変わるということだ。いい機会なんだから、せめて歴史の勉強ぐらいは頑張って欲しいと思う。
 それから俺も、明坂にならって見たことや感じたことをメモしていく。体が元に戻っても、春希がしっかりレポートに取り組めるよう詳細に書いた。
真面目な天音は、そこら辺を歩いている従業員を引き止めて質問していた。その行動力を少しは見習いたいけど、さすがにそこまで真剣にはなれなかった。
「鳴海くん」
 俺にだけ聞こえる控えめな声で、宇佐美が名前を呼んでくる。
「どうした?」
「ちゃんと、もう一回謝っておいた方がいいと思って」
「そんなことより、見て回ったのか? 自分のことで悩んで適当やってたら、レポート書けなくなるぞ」
「明坂が頑張ってるんだから、レポート書けるくらいには回ったよ。風香と一緒に」
 なんだかんだ、あいつも面倒見がいい奴だ。
「あの、それで。ごめ……」
「最近さ、宇佐美は謝りすぎ。本当に一番謝らなきゃいけなくなった時に、ごめんねの価値が下がるよ」
「だって、迷惑ばかり掛けてるから……」
「そういう時は、ありがとうでいいんだよ」
 月並みな言葉だと思った。この前リビングで父親と観たドラマの主人公も、同じことをヒロインに話していた。けれど、今の宇佐美に一番必要なセリフだと思った。
「……ありがとう」
「うん」
「本当に、いつもありがとう」
「わかったって」
 今度はありがとうの回数が増えそうで、おかしかった。けれど言葉を覚えたインコのようにごめんを言い続ける宇佐美よりかは、ずっとマシだ。
「……私、工藤の気持ちが少しだけわかったような気がする。当事者になるまでわかんなかったのが、すごく恥ずかしいけど、誰も味方になってくれる人がいなかったら、死にたくなってたかも」
「そんな物騒なこと言うなよ」
「だって、毎日クラスメイトと顔を合わせるんだよ。学校も、行けなくなるよ……私が、行けなくさせたんだ……」
「また謝るのか?」
 宇佐美は必死に首を振った。艶やかで、何色にも染まっていない黒髪も左右に揺れる。
「それは、工藤が戻ってきた時のために取っておく。今の私にできるのは、私がやったおこないを受け止めて、これからどう生きていくか考えることだから」
「そっか。それは見つかりそう?」
 まだ、訊ねるのは早かったかもしれない。けれど宇佐美はわずかな間の後に、未だ真面目にメモを取り続けている彼女を見て言った。
「私は、天音みたいな人になりたい」
「行動を見習うのはいいと思うけど、宇佐美は宇佐美だよ。別に、それこそ俺は今の君のままでもいいと思う」
「そう?」
「気付いてないだけで、宇佐美はもう十分変わったよ。変わりたいって思うこと自体は前向きでいいと思うし、もう少しだけ気楽に考えてみたら?」
「……わかった」
 それからぎこちなくだけどはにかんで、あらためて「ありがとう」と言った。
きっとこの子はもう、自分から間違った道に進むことはないだろう。

 お昼の代わりにパフェを食べて、一行は次の目的地の神社へと向かった。高校二年生で学問の神様のいる場所へお参りに行くのは、いささか急ぎすぎているような気もしたが、これからの成績が伸びるようにお願いするとすれば悪くはないだろう。
成績なんて、結局は自分の頑張り次第ではあるけれど。
 鳥居をくぐる時、天音が礼儀良く頭を下げたから、それにならって頭を垂れた。しばらく歩くと、明坂が立ち止まり「なんか、牛の像が置かれてるぞ」と指を差す。
「護(ご)神(しん)牛(ぎゅう)って言うんだって。たとえば足の具合が悪かったら、牛の足を撫でた後に自分の足を撫でれば快復に向かうって言い伝えがあるらしいよ」
 事前に調べてあったのか、メモ帳を開きながら天音が説明してくれる。
「マジか、すげえ。ここら辺に住んでたら薬とかいらねえじゃん」
 こいつはいつか、怪しい宗教に引っかかるような気がした。先ほど少しは汚名を返上したというのに、姫森は呆れたようにため息を吐く。
「そんじゃあ、頭良くなりてーからたくさん撫でとこ!」
「あんた、他力本願だと何も変わんないからね」
「わかってるって。一応、念のためにだよ」
 本当に念のためかはわからないけど、とても念入りに頭を撫でているから、もしその手が欲望にまみれているのだとしたら、いつか罰が当たるだろう。
 本殿でお参りを済ませた後、各々行きたい場所に行って、しばらく経ってから集まろうという話になった。姫森はお守りを買いに行くと言い残し、明坂は護神牛があと十体いることを知ると、「探してくるわ!」と言って元気に走って行った。
 宇佐美はというと、なぜか俺の隣で棒立ちになったままフリーズしたように動かない。
「見て回んないの?」
 訊ねると、同じく動き出さない天音と俺とを交互に見つめて。
「三人で回りたいって言ったらダメ?」
「私は別に構わないけど」
 一秒も迷うことなく天音は即答する。俺はと言えば、特に回りたいところもないから頷いておいた。
「さっき出店があったから、何か食べたい」
 宇佐美が提案してくれたから、とりあえずそこへ向かおうということになって、天音は手に持っていたメモ帳をサイドバッグの中へしまおうとした。そのタイミングで、たまたま彼女の背中が通行人と接触し、こちらへよろめく。俺は、反射的に体を受け止める。けれどメモ帳が地面に落ちた。
「あ、すみません!」
先に彼女が謝った。しかしぶつかってしまった人は、気にした様子もなく歩いて行く。ほんの少しだけむっとしたが、天音は歩いて行った人の方を見つめているだけで、特に気にしていないようだったから忘れることにした。
代わりに、メモ帳を拾ってあげる。拾い上げた時、落ちた衝撃で適当に開かれていたページが目に入った。本当にたまたま、そのページは俺に関してのことが書かれている箇所だった。
杉浦市、汐月町、三船町。懐かしいなと思った。汐月町と三船町が杉浦市に合併して、今の杉浦市となった。俺は過去から来たんじゃないかと、天音が冗談みたいに言って、なんちゃってと、おどけたようにメッセージを送ってきて。あれから少しだけ時間が経ったけど、知らない間に記述が増えている。一人の間にも、考えてくれてたんだろうか。
「鳴海くんの名前、書いてある」
 偶然目に入ったのか、宇佐美が横で呟いた。基本的には秘密主義者の天音のことだから、見られるのは心情的に良くないだろうと思い、一応気を使ってページを閉じてすぐに返した。
「ごめんね、ありがと」
「今までいろいろ考えてくれてたんだね」
「何もできないけど、ずっとなんとかしたいって思ってるから」
 そう言って、メモ帳をバッグの中へとしまった。
「ねえ天音、DIDって何?」
 宇佐美が突然、聞き慣れない単語を口にする。
「なんだよそれ」
「いや、たまたま目に入って」
 聞き覚えがないのだろうか。首を傾げるそぶりを見せた後に、「気のせいじゃない?」と天音は言った。
「そう?」
「うん、書いた覚えもないし。それよりさ、私あれ食べたいんだよね。梅(うめ)ヶ(が)枝(え)餅(もち)」
「それ、私も食べたかった奴!」
 疑問なんて、餅菓子の前ではたちどころに霧(む)散(さん)する。
「行こっか、杉浦くん」
 天音に名前を呼ばれて、俺も二人の後をついていった。

 ベンチに座って梅ヶ枝餅に舌(した)鼓(つづみ)を打った後、自分がまとめたメモ帳を読み返している天音に「そういえば、どうして昨日怒ってたの?」と、宇佐美が平然とした顔で訊ねた。オブラートに包まず直球で聞いたものだから、緊張で背筋が張り詰める。
「怒ってるように見えた?」
「天音って、怒ったら目が笑わなくなるし」
「そっか、目が笑わなくなるのか」
 今の状態を確認するためか手鏡を取り出すと、そこに自分の顔を映し始めた。
「今日は普通だよ」
「杉浦くんも、怒ってるって思ったの?」
「何か含みはありそうだったかな」
「それじゃあ、普通にバレちゃってたんだね」
 俺が指摘をすると、案外あっさりと認めた。
「怒ってたの?」
「怒ってたというか、なんというか。乙女心は複雑なんだよ」
 歯切れの悪い話し方は珍しいが、冗談を言うのは相変わらずだった。
「二人だけの秘密みたいな感じだったのに、あっさり真帆に話しちゃうんだーとは思ったかな」
「あれだけ一緒に考えてたのに一言も相談しなかったのは、ちょっと申し訳ないなって思ったよ。でも、あのタイミングで言わなきゃ不誠実かなって思ったんだ」
「そっか。そう思ったならしょうがないよね。まあ、なんとなく察してたんだけど。私も、まだまだ子どもってことだね」
「天音は私よりずっと子どもでしょ」
 驚くことに宇佐美がそんな発言をして、さすがの天音もきょとんと目を丸くした。ということは、宇佐美よりは大人だという自覚が天音にもあったということだ。お互いに、とても失礼な奴である。
「どうしてそう思うの?」
 二人の背丈の違いを思い浮かべながら訊ねてみると、宇佐美はしたり顔で話した。
「だって、飛行機で怖がってたじゃん。近くにいたから知ってるもん。私、それ見て逆に怖くなくなったし」
「あー」
 無邪気な勝ち誇った笑みを見せられ、天音も乾いた笑いを漏らす。そういう程度の低いことでマウントを取ろうとする姿勢は十分子どもだ。思ったけど、口にはしない。
「そっかー真帆は大人だね」
「でしょ?」
「うんうん」
 遠からず天音も似たようなことを思ったのか、いつの間にか我が子を見守るような眼差しに変わっていた。この二人は案外、相性がいいのかもしれない。
 学問の神様を祀(まつ)っている神社だからか、それから自然と会話の内容が自分たちの希望する進路の話へと移り変わっていった。とはいえ俺は春希の進む道なんて知ったこっちゃないため、今回は聞く側に回ることにする。天音も、どうせこの件については、はぐらかして話さないだろうと思っていた。それなのに。
「私は、お母さんからお医者様になりなさいって言われてるんだよね」
 とてもあっさりと、自分で将来の話を口にしたから驚いた。いいのかよと視線を送ると、もういいのと言うように、彼女は笑った。
「お医者様って、医学部に通わないとダメなんだよね? すっごい大変なんじゃないの?」
「そうだよ。お金も、すごーくたくさん掛かっちゃうの」
「やっぱそうだよね。私なんか、今から頑張っても普通に無理なとこだ。裕福じゃないし、そもそも学力も足りてないし」
「天音の気持ちはどうなの?」
 思わず、訊ねていた。聞いてもいいのかわからなかったけど、今のはお母さんの希望を口にしただけで、天音の本心が含まれていなかった。だから、どう考えているのかが、知りたかった。
「とても素晴らしい仕事だと思うよ。お父さんも、やりがいを持って仕事してるみたいだし。この頃は、二人きりの時によく話を聞いてるの」
「お父さん、お医者様なの?」
「そうだよ。血は繋がってないんだけどね」
 カミングアウトの連続に、宇佐美は口を開いたまま放心した。俺はと言えば、それとは違う理由で固まってしまう。あれだけ必死に隠していたことを、次々と暴露していくものだから。
「それって、もしかして……」
「亡くなったとかじゃないよ。離婚して再婚したの。私が小学生の時に」
「マジ……やば……」
俺が思いのほか衝撃の表情を浮かべていなかったからか、宇佐美はうかがうようにこちらを見つめてきて「知ってたの?」と遠慮がちに訊ねてくる。
「まあ、もう天音が話したから言うけど、知ってた。でも、少し前に偶然成り行きで知っちゃっただけ。必死になって隠してたのに、話しても良かったの?」
 会話のボールを天音に投げてみると、今度は複雑な表情をたたえながら「今なら、ちゃんと話せるかなと思って」と、これまた行き当たりばったりなセリフを吐いた。
「そんな大事なこと、話してくれてありがと……でも、私なんかが聞いても良かったの?」
「杉浦くんと真帆は特別。どのみち、いずれ二人にはもっと詳しく話さなきゃいけないと思ってたから」
 それは、天音と仲良くしているからだろうか。それだけが理由じゃないような気もした。いつも、いつだって天音の発言には、何かしらの裏の事情も隠されているような気がする。
「……天音のお母さんって厳しい人だよね? 何度か見たことあるけど」
「厳しいね。でも、やることやってたら、大抵のことは許してくれるから。放任主義なんだよ、うちは。怒るとヒステリー起こすところが大変だけど。そういえば、お母さんと最後に話をしたの、いつだったかな」
「思い出せないくらい前なの?」
「ううん。今思い出した。四月の、三者面談の時だ」
 それはまた、随分前だなと思った。
「一緒にご飯食べる時に話さないの?」
「一緒に食べてないんだよ。私、こう見えて反抗期がずっと続いちゃってて。ちょっと前までは、お父さんのことも避けててね。だって、いきなり知らない人が家にやってきたら、戸惑っちゃうでしょ?」
「笑わないからな」
 一応釘を刺しておくと、天音は「ありがと」と礼を言った。宇佐美は笑うどころか、他人の家の話だというのに泣きそうになっていた。俺も初めて聞いた時は、何もしてやれないもどかしさを感じた。
「それで、何の話をしてたっけ」
 俺に打ち明けてくれた時よりもハイペースで話しているせいで、心が追い付いていないんだろう。天音の息がほんの少し上がっている。軽くなるように背中をさすってあげると、「ありがと」と言って笑った。
「天音が考えてる、将来に対する気持ちだよ」
「そっか。そうだった」
 一度深呼吸をしてから、話を戻した。
「正直、なりたくない。目指すのが大変とか、仕事が大変だからとかじゃないよ。人の生き死にに関わることが怖いの。それに慣れちゃいそうになる自分が嫌だ。血を見るのも嫌いだし」
 それはもう、どうしようもないほどにしっかりとした理由だった。なれるなれないよりも、向き不向きの問題だからだ。
「やっぱり、お母さんに言えないの?」
「面と向かって話ができないの。だから、勉強だけはしっかりやってる」
 まず、こんなモチベーションですんなり医者という職業に就くことなんて、到底不可能だ。天音ならばそれをやってのけるかもしれないけど。
「天音がやりたいことはないの?」
 今度は宇佐美が訊ねた。しかしその質問に首を振る。
「やりたいことがあれば、説得材料になるんだけど。高校二年じゃ、将来やりたいことなんてなかなか見つからないよね」
「まあ、確かに……私も、全然未知だし」
「お父さんは、天音の将来について何か言ってるの?」
「お父さんは、やりたいことをやりなさいって言ってくれてる。でも、基本仲が悪いからね。うちの親」
 せっかく再婚したというのに、仲が悪いなんて。これ以上は、きっと踏み込まない方が良いんだろう。天音の問題ではなく、俺から見れば第三者である父親と母親の問題になってしまうから。
 次の言葉を探していると、天音は気分を転換するように、自分の太ももを両手で一度叩いた。
「でも、ちょっと前向きになった。真帆のおかげで」
「どうして私?」
「真帆も、逃げずに立ち向かって戦ってるから」
「背中を押してくれたのは、天音じゃん……」
 どこか照れくさそうに話す。
「逃げるなって言ったのに、私がいつまでも逃げてたら示しがつかないよ。とりあえず修学旅行が終わったら、一度話してみるつもり」
「いい結果が出るように、応援してるよ」
 言葉で励ますことしかできなかったけど、俺とは違って宇佐美は急に立ち上がって「お参りしとこう!」と高らかに宣言した。これにはさすがに、天音と一緒に呆気(あっけ)にとられる。
「ここ、学問の神様だよ?」
「いいじゃん。神様なんだから、ちょっとぐらい大目に見てくれるでしょ。それに、三人分のお願いだよ。絶対にご利益あるって!」
 明坂みたいなことを言い出すものだから、軽く吹き出してしまった。天音もそうだったのか、口元を押さえる。
「それじゃあ、お参りしとこうかな」
 天音が同意してくれたことによって、俺たち三人は本殿へと戻ることになった。大きな綱を揺らして、鈴の下で俺は祈った。
天音の迷い事が、いつかすべて晴れますように、と。

「なんだか頭が良くなった気がするぜ」
 集合場所に現れた明坂が嬉しそうにそんなことを言うものだから、逆に頭が悪くなったんじゃないかと憂う。逆効果だったとしたら、それはご利益がなかったわけではなく、きっと神罰によるものだろう。
 持ち直していた明坂に対する株も、一瞬にして底値まで下落した。
「あんたはそのくらい楽観的な方が性に合ってるのかもね」
 もはや諦めたように姫森が言う。彼女のカバンには、さりげなく学業成就のお守りが付いていた。宇佐美も偶然同じものを購入していて、同じ場所に付けている。
 俺は購入するつもりはなかったけど、天音が鈴の付いた赤青色違いの開運お守りを指差して「これ、お揃いで買おうよ」と言ったから、青色を買った。曰(いわ)く、破損してしまったストラップの代わりらしい。堂々としていれば別れたと疑う人もいないと思ったけど、今の彼女の中では別の意味が含まれているような気がした。わざわざ口実を使わなかったから、それがなんだか、無性に嬉しかった。
「今度は落とさないようにしなきゃね!」
「気を付けるよ」と、不器用に笑う。ちりんと優しい鈴の音が鳴った。
 それからまた各地を転々としながら、短い旅の出発点でもあった旅館へと戻ってくる。到着した頃にようやく思い出したけれど、俺と天音と宇佐美は絶賛修羅場中だと噂されているのだ。
くだらないと思った。宇佐美もそうだったのか、「もう大丈夫だよ」と笑った。夕食の時間も、この五人で席を隣り合わせ集まって食べた。それを笑いものにする奴らがいたけど、もう俺も気にはしなかった。

昨日と同じく、橋本は教師の点呼が終わると別の部屋へと向かった。何かまた嫌みを言われたような気がしたけど、適当に相槌を打っていたから内容は忘れた。
「もう放っとけよ」
 言いながら、明坂は布団の中へ潜り込んだ。俺も、明坂に続いて布団に入る。
「明日で終わりだな」
 彼が言った。どこか、名(な)残(ごり)惜しさを含んでいるような響きをしていた。
「もっと遊んでいたかった?」
「ま、案外楽しかったからな」
「同じグループになったこと、後悔してない?」
「なんで」
「なんだかんだ、いろいろあったじゃん。姫森と明坂は、なんというか巻き込んじゃったから」
「それもまた、旅のいい思い出だろ」
 珍しくいいことを言う。柄にもなく感傷的な気分に浸っているのだろうか。
 いつもとは違う天井で、普段暮らしているところから離れた場所で、クラスメイトと一緒に床に就く。そういうのも案外、悪くなかった。
「俺、春希に誘ってもらえて良かったと思ってるよ。なんというか、なんだかんだみんな、いいところがあるんだなって気付けたし」
「そう?」
「宇佐美とか、男子の俺から見たら、口も性格も悪い奴にしか見えなかったから」
「言いすぎだろ」
「言いすぎじゃねーよ。春希のこと、いじめてたんだから。でもさ、どうしようもない奴でも、変わることってできるんだな。元の印象が最悪だったから、本当はいい奴だったとは絶対に思わないけど、今のあいつは悪くはないなって思うよ」
「そういう嫌なこと、忘れてやれよ」
「忘れねーよ。ああいう奴がいたんだってことを覚えとかなきゃ、いつか俺も同じ間違いをするかもしれねーから。過去はさ、簡単に消せねーんだよ」
 普段はふざけていて、何も考えていないようにも見えるけど、明坂にも明坂なりの信念というものがあるんだろう。知らなかった。俺は彼という男を、少しみくびっていたのかもしれない。
「どうしたら、過去の罪は許されるの?」
「春希が許してくれたら、許されるんじゃない?」
「それじゃあ、宇佐美はとっくに許されてるよ」
「お前さ、春希じゃないだろ」
 虚を突かれる。暗がりの中、思わず明坂を見た。どういう表情をしているのかは、わからなかった。
「……いつもの冗談?」
「外れってわけじゃないだろ。なあ、杉浦」
 驚いた。まさか、名字で呼ばれるなんて。ということは、彼は本当に知っているということだ。
「……天音か、それとも宇佐美から聞いたの?」
「宇佐美も、杉浦のことを知ってんのか」
 つい、口を滑らせる。降参だというように、ため息を吐いた。
「気を付けてたつもりなんだけど。一応、どうしてわかったの?」
「駅前で、高槻さんが春希のことを杉浦って呼んでるのが聞こえたんだよ」
「なるほどね。そんな前から知ってたんだ」
「俺、案外知らないふりするの上手いだろ?」
 得意げに言ってきて、正直負けたと思った。
「ごめん、隠してて」
「そんなん言ったら、俺だって知ってたこと隠してたんだからさ。あ、別に事情とかは話さなくていいからな」
「なんで。一番知りたいところじゃないの?」
「たぶんそれ聞いたって、馬鹿だからわかんねーと思うし。でも一応、春希はちゃんと戻ってくるんだよな?」
 確証なんてなかったけれど、俺は「戻るよ」と口にしていた。戻らなければ、いけないから。
「杉浦は? 春希が戻ってきた後に、ちゃんと会えんの?」
「天音と宇佐美とは、会おうって約束してるよ」
「それじゃあ、俺とも約束な。体育館で、春希も混ぜてバスケしようぜ。俺も、実は春希のことよく知らねーから」
「わかったよ」
 いつになるのかはわからないけれど。その約束は、ちゃんと守りたいと思った。
 それから目をつぶって、お互い寝ることに集中する。けれど先に入眠してしまった明坂のいびきがとてつもないほどうるさくて、なかなか寝付くことができなかった。
 眠いけど、寝ることができないのは苦痛だ。可能ならば別の部屋で寝たいが、俺は橋本のように男の友人が多いわけではないから、選択肢はここしかない。
「さすがに、天音たちと寝るわけにもいかないからな……」
 もし彼女たちから許可をもらえても、教師に見つかれば平穏な学校生活は無事に終わりを告げるだろう。
「散歩でもするか……」
体を動かして、少しでも寝られるようにしよう。そう思い立って、こっそり部屋を出た。
日中より薄暗い旅館の廊下は、物陰から幽霊が飛び出してくるんじゃないかと身構えてしまう。少しの物音にも敏感に反応してしまって、自分が案外びびりなんだということを自覚した。
どうにかして人には見つからずエレベーターに乗り込み、一階まで下りる。フロントの方を物陰から覗き見たが、幸い従業員は立っていなかった。
ホッとしたのも束の間、背後から物音がして慌てて振り返る。見ると、エレベーターが二階、三階と上昇していた。誰かが触らなければ、それは動くはずもない。ということは、上階で誰かがボタンを押したということで。もしかすると、一階まで下りてくるのかもしれない。
先生だったらまずいと思い、とにかく知っている道を選んで逃げるように走った。気付けば、昨日宇佐美とやってきたゲームセンターにいた。愉快なBGMを聞きながら息を整えて、落ち着くために自販機でコーラを買う。プルタブを開けて口に含むと、炭酸の弾ける感触で余計に目が覚めた。
ホッと息を吐こうとした時、やってきた方向から人の気配がした。宇佐美と一緒に休憩していた場所だ。思わず物陰に身を潜めたが、こちらまではやってこない。
大人だろうか。見回りに来たのか、それとも俺を見つけて追ってきたのか。どちらにせよ見つかれば、何かしらの責任を負わされそうだ。確か、夜間出歩いているのが見つかったら、廊下に正座させられるんだったか。
部屋は明坂がうるさいから、それもいいかと思ったけど、やはり見つからないに越したことはない。物陰に潜んだままやり過ごそうとしていると、声が聞こえてきた。
「嬉しいよ。こんな時間に呼び出してくれて」
 期待のこもった色が、その声には含まれている。遠くからでも、わかった。そこにいるのは、橋本だった。
「なんで橋本が……」
 しかし、状況的に一人じゃなくて二人いる。耳を澄ますと、いつも聞き慣れている彼女の声が聞こえてきた。
「私が呼び出した理由、康平はわかる?」
 天音だった。驚いて、思わず身を乗り出してしまう。出て行くわけにはいかなかった。でも、耳を塞ぐこともできない。
「それはわからないけど。こんな夜遅くに呼び出すってことは、とても大事な話なんだろ? それこそ、誰にも聞かれたくないような」
「そうだね。大事な話。特に春希くんに聞かれるのは、本当に困る」
 逃げ出したかった。けれどゲームセンターの奥は卓球用の小さな体育館があるだけで、その先は行き止まりだ。戻ろうにも、今二人がいる場所を通らなければいけない。
 つまりこの会話が終わらないと、俺も解放されないということだ。
「工藤か。そういえば、宇佐美に浮気してたんだっけ」
「みんなそう言ってたね。真帆が色目使ったとも言ってたけど」
「どっちも正解かもしれないね。最近、二人は仲が良いから。自由行動のグループも一緒だろう」
「そうだね」
「昨日は、ラフティングの後に宇佐美の手を引いて行った。君という彼女がいながら、手を繋ぐなんて。俺は、二人は本当に浮気してると思ってるよ」
 全部、橋本の勘違いだ。もしくは、都合の良いように解釈してるだけなのか。とにかく、まだそんなことを言ってるのかと腹が立った。
「俺はね、正直彼とは別れた方がいいと思ってるんだ。あんな奴じゃ、君を幸せにはできないよ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、引きこもりだったじゃないか。修学旅行の委員も、自分がやりたいって言ったのに全部君に押し付けて。代われるなら、代わってあげたかったよ」
「それじゃあ、先生に言って代わってもらえば良かったんじゃない? 後からああすれば良かったって言うのは、卑怯だと思う」
「俺も、バスケ部で忙しかったんだよ。三年の先輩が引退するからさ、主将を任されるんだ。すごいだろ?」
 天音が、わかりやすく大きなため息を吐いたのが聞こえてきた。
 俺も、正直ここまでとは思わなかった。
ここまで、人の気持ちがわからない奴だとは。
「春希くんが委員に選ばれたのは、みんなが彼に押し付けたからだよ」
「仮にそうだったとしても、最後にやるって言ったのはあいつだろ? 責任感のない奴は、本当に困る」
「一番責任感がないのは、押し付けた人たちだと思うけど。やる気もないのに責任感って言葉を口にしてる人の方が、よっぽど恥ずかしいって。途中で投げ出したのはいけないことかもしれないけど、それでも誰もやりたくなかったことを引き受けた彼は、褒められるべきだよ」
「お前は、昔から優しいからそう思うんだよ」
「……それやめてって、ずっと前に言ったよね‼」
 思わず背筋が凍り付いた。温度のない淡々とした口調ではなく、それは明らかに熱のこもった声音だったからだ。今までは、心の底から本気で怒っているわけじゃなかったんだと、わからされた。
ギリギリのところで自分を押さえていたからこそ、天音はいつも冷静だったんだ。
「おいおい、怒るなよ。なんでそんなに声を荒げるんだよ」
「私さ、人のことをお前って言うのはやめてって、中学の頃に言ったと思うんだけど」
「言ったっけ、そんなこと。ごめん、忘れてた。今度から気を付けるよ」
「このやり取り、一回目じゃないよ。三回目。この際だからハッキリ言うけど、そういうところが私は合わないと思ってるの」
 まるで、あなたは口だけだと言っているかのようだ。それは、天音が一番嫌う類の人間であることを意味する。
「これからは気を付けるって」
「ほんと、康平は……」
 出掛かった言葉を飲み込んだ。それが、天音の良心だった。そうやって優しさがちらつくから、彼も付け上がるんだ。
「……幸せって、与えられるものじゃなくて、自分で掴むものだと私は思う。もちろん与えられる幸せもあるけど、大切な人と一緒に、同じペースで見つけていくのが、一番素敵なことだと思うの。どちらかが頑張ってても、疲れるだけだから」
「それじゃあ、あいつと一緒にいたら天音がずっと頑張ってなきゃいけないだろ」
「そんなことないよ。みんな、知らないだけ。春希くんは、人の痛みを一緒になって分かち合える人なんだよ」
「天音の悩みに共感できたって、どうにもできなかったら幸せになれないだろ。あいつなんかに、何ができるんだよ。天音のお父さんやお母さんに、ちゃんと意見できるのか?」
「そんなの、康平にだってできないでしょ」
「俺ならできるよ。ちゃんといい大学に入って、その時に言ってやるんだ。あんたの娘は、別に医者になんかなりたくないんだって。天音の両親に宣言するんだ。天音には、天音の人生があるって」
「それ、別にもう私一人だけでも言えるから。修学旅行が終わったら、伝えるつもりでいるし」
「それでも、一度家族以外の人間がハッキリ言ってやるべきだろ! 娘の人生を弄ぶなって! 義理の父親が医者だからって、そんなことまで娘に背負わせるなって! だって、血も繋がってないんだからさぁ!」
「お母さんが私に医者になって欲しい理由と、お父さんが医者だということは、全然イコールじゃないよ。康平は私を助けたくて、事実を自分にとって都合の良い物語に捻じ曲げてる。だいたい、お父さんは私に医者になって欲しいとは思ってない。それはこの前、ちゃんと話をして聞いたから」
 天音の声のトーンが下がっていくたびに、橋本の声に熱がこもっていく様が、聞いていて哀れに思えた。もう、ずっと前から天音は決めているんだろう。天音は決して彼の恋人にはならないし、そんな彼女にいくら自分が有用な人間だとアピールしても、それは一生届くことはない。
「そんな風に一生懸命私のことを考えてくれてるのは嬉しいけど、康平の望むようなものを私は何一つあげられないよ。それに、もうあなたが思ってるほどかわいそうな女の子じゃないの、私は。だから、ごめん。今までずっと、ハッキリ言わなくて」
「なんだよそれ……」
「そういうわけだから」
 話は終わったんだろうか。片方の足音が、遠ざかっていくのが聞こえる。聞き耳を立ててしまったのが、ちょっとだけ申し訳なかった。明日、天音には正直に謝ろう。
 そう考えたところで、声が響く。
「ちょっと待てって!」
 鬼気迫る声だった。彼が発した、天音を引き止めるための言葉だ。その直後、「離して!」と、彼女が叫んだ。反射的に、俺の腰は浮いていた。
「なんで、なんでだよ! あいつ、浮気してたんだぞ⁉ 天音のお母さんや本当のお父さんと同じで、浮気してたんだ! 許せるわけがないだろ‼」
「お父さんやお母さんと、春希くんは関係ない! だいたい浮気じゃなかったってこの前お父さんに聞いたし、そもそも春希くんは浮気なんてしてないから! いい加減、なんでも自分の都合の良いように考えるのやめてよ‼」
「あんなの、どう考えても浮気だろ! 宇佐美の奴が、そこのベンチで工藤に寄り掛かって寝てたんだぞ! こんな人気もない奥まった場所で!」
 まずい。そう思った。信じていたものが、崩れていくような音がした。抵抗する物音が、聞こえなくなった。どちらかが、冷静になったんだ。
 気付いて欲しくない。そう祈った。けれど、人の揚げ足を取ることが大好きな彼女が、その言葉で確信を得ないはずがなかった。
「……どうして、ここがその場所だってわかるの。あの写真は、拡大されててどこで撮ったかなんてわからなかったのに」
 黙っていれば良かったのに。黙っていれば、もうほとんど真実が白日の下に晒(さら)されたけど、気付かないふりをしていられた。そういうところが、彼女は本当に不器用だった。
 そして彼も、悲しくなるくらいに、彼女への想いが切実だった。
「そんなの……俺が撮ってやったからに決まってるだろ! 天音はあいつに騙されてるから、誤解を解く必要があったんだ‼」
 救いようのない奴でも、変わることができるんだろうか。それは、否だった。彼女が一度は見逃すことを選んだのに、彼は自分の欲望のために真実を話してしまった。そんな奴に、きっともう天音は優しさなんて振りまかない。
「……私、次はないって言ったよね。春希くんに危害を加えたら、絶交するって」
「そ、そんなの冗談だろ……?」
「冗談で、こんなこと言わないよ。それに、康平は真帆のことも傷付けた」
「あいつだって、工藤のこといじめてただろ! なんで天音は許してるんだよ!」
「真帆は、ちゃんと変われるって信じてたから。私は、ずっと前からあの子のことを理解してるの」
「そんなの、俺だって知ってるよ。中学が一緒だったから。でもあいつも、元は根暗で……」
「もういいよ、話し掛けないで。信じてたのに。そんな良識が欠如してる奴だなんて、思いたくなかった」
「待てよ‼」
 その叫び声と共に、何かが床に叩きつけられるような音が響いた。まさかと、心臓が早鐘を打つ。考えるよりも先に、足が前に出ていた。
 そこで俺が見たものは、床に倒れた天音と、それを見下ろしている橋本の姿だった。あいつが、彼女を突き飛ばした。危害を加えた。俺も、そんなことはしない奴だと信じていたのに。
何も気にせずに、走っておけば良かったと後悔した。
 打ち付けた場所が痛むのか苦(く)悶(もん)の表情を浮かべ、天音はそれでも俺が現れたことに気付いて、目を見開いた。
「……春希くん?」
「なんだと……?」
 理性を失った瞳がこちらを射抜く。驚くほどに、俺の心は冷え切っていた。天音が怒っている時もこんな感じだったのだろうかと、ふと思った。
「……一応聞くけどさ、ストラップも君が捨てたの?」
 答えがどうあれ、俺がこの後に起こす行動は決まっていた。ただ、加減をするかどうかというだけで、しかしどうやらその必要はないようだった。
 彼は、自分の功績を自慢するように、笑った。
「当たり前だろ。お前が、いつも調子に乗ってるからだ」
 信じていたものが裏切られた時、口の中に錆(さび)の味が広がるらしい。とにかく、怒りのせいでどこかが切れてしまったみたいだ。それを舌で味わいながら、彼も同じ目に遭わせてやろうと思った。
 近付いて、俺は躊躇らうことなく拳を振り上げ、橋本の頬を殴りつけた。そんなことをする勇気が工藤春希にはないとでも思ったのか、彼は驚(きょう)愕(がく)の表情を浮かべた。残念だけど、俺は工藤春希じゃなく杉浦鳴海だ。
そのふざけた顔に、もう一発拳を入れる。すると無(ぶ)様(ざま)にも、その場に尻もちをついた。
「何だよお前……! こんなことして、ただで済むと思ってんのかよ!」
「お前が天音を一番困らせてることに、どうして気付かないんだよ!」
 叫んだ。彼がハッとした表情を浮かべていたけど、もう一発殴らなければ気が収まらなかった。宇佐美の分が、まだだったから。馬乗りになって、もう一発だけ殴るつもりでいた。動き出したところで、俺は何か優しいものに後ろから押さえつけられた。
「もうやめて、杉浦くん……! もう、いいからっ!」
「……は? 杉浦……?」
 橋本が呟いた時、こちらに迫ってくる足音が聞こえた。あれだけ、彼が無様に叫んでいたんだ。むしろ、遅いぐらいだ。なんでこんなタイミングで来るんだよと、自分の不幸を呪った。
「お前ら! そこで何やってるんだ‼」
 やってきたのは、担任教師だった。俺を止めるために押さえつけている天音と、二発殴りつけて横たわっている橋本の姿を目撃されてしまう。もう一度倒れ込んだ彼を見てみると、殴った箇所に青痣(あざ)ができていて、唇から血が滲んでいた。
これはどう考えても、もうダメだ。
 天音が俺を解放する。肩で息をしていると、彼女が震えているのがわかった。泣いていた。泣かせたくないと思ったのに、他でもない俺が、泣かせてしまった。
 担任教師が、こちらに迫る。
「お前が橋本を殴ったんだな?」
「……」
「原因は、痴(ち)情(じょう)のもつれか」
「……」
「ほどほどにしておけよって、俺言ったよな?」
 随分前に、そんなことを言われた気がする。今さら、思い出した。
「先生、違うんです。春希くんは……」
「高槻は黙ってろ。俺は今こいつと話をしてるんだ」
 それからあらためて、担任教師は俺を見る。
「理由はどうあれ、手を上げた奴が一番悪いぞ。見た感じ、正当防衛でもなさそうだ。橋本、間違ってないよな?」
 彼も動揺していた。大ごとになるとは思わなかったんだろう。唇が、震えている。
「いや、あのっ……おれはっ……」
「俺は、一発も殴られてません」
 ハッキリ、真実を口にした。橋本の目が見開かれる。天音が、一歩前に出た。まずいとでも、思ったんだろう。
「先生。ここでのこと、全部お話します。康平とも、一度話し合いたいです。できれば、三人だけで。私も悪かったから。だから、どうかここは見なかったことに……」
「全部、俺がやりました」
「……ちょっと、黙っててよ春希くんは‼」
 その絶叫に、怯んだりはしなかった。俺は、天音を押しのける。それから担任教師を見据えた。
「こいつ、気が動転してるみたいなんで。部屋に戻して、休ませてあげてください。たぶん、そうした方がいいです」
「春希くん‼」
 担任教師が、俺と天音と橋本を見比べていく。誰に話を聞いた方がいいか、思案しているんだろう。殴られた橋本は、目の焦点が合ってない。天音は、見るからに取り乱している。加害者の俺は、一番落ち着いている自信があった。そして、俺がやったんだと罪を認めている。
 選択肢が一つしかないのは明白だった。
「橋本。保健の先生を起こすから、手当てしてもらえ。高槻は今から、女の先生を呼ぶ。部屋に戻れ。工藤は……」
「先生‼」
 納得いかないのか、みっともなく天音が叫んだ。やっぱりこいつは、馬鹿だ。そういうところが本当に不器用だ。大切な誰かを助けたくて、後先を考えないところが。
 それからほどなくして、呼び出された女の先生がやってくる。天音は連れて行かれる時にもがいて、俺の潔白を証明しようとしたけれど、その行動は精神状態が不安定だという推測を裏付けるだけだった。橋本は、何も話さなかった。動揺しているのか、罪を背負った俺をあざ笑っているのかは知らないけど、ただ最後まで、何も言わなかった。
 俺は、担任教師に連れて行かれる。
 楽しかった修学旅行の最後は、とても残念な幕切れで終わってしまった。
 使用していない空き部屋に通されて、俺はことの経緯の説明を求められる。言えるわけがなかった。なんで俺が激昂したのか、その理由を話したくなかった。話せば、天音のことも口にしなければいけないから。たとえ、担任教師が彼女の家庭の事情を知っているのだとしても、話したくはなかった。
 だから俺は、嘘を吐いた。
「あいつと仲良くしてるのが許せなくて。ついカッとなって、やりました」
 担任教師の目には、俺が青臭いガキのように映っているだろう。それで良かった。天音のことを話さなくて済むのなら、それくらいの恥(ち)辱(じょく)は甘んじて受け入れるつもりだ。
「工藤は、この年まで彼女ができたことがなかったんだろう」
「……はい」
「男と女っていうのはな、何度も引っ付いたり別れたりして成長していくんだよ。辛いかもしれないけどな、工藤が経験したことは、大人になればよくあることで、社会に出てから同じことをやったら傷害で警察に捕まるんだ」
「……はい」
「お前なら、先生の言いたいことがちゃんとわかるよな?」
 俺は、聞き分けのいい子どものように頷いた。目の前の大人は、未だ子どもの俺を憐れむような目で見つめてくる。
「お前はしばらく学校に来てなかったんだから、あまり親御さんに迷惑を掛けるんじゃないぞ。そうしないと、父も母も悲しむ」
 言葉にした後、気まずそうに頬を掻いた。
「……そうだった。工藤のお母さんは、確か今年の冬に亡くなったんだったな。傷を掘り返したみたいで、すまない。たぶん、いろいろ整理ができていないんだろう。不安定だったんだよな」
「はい……」
「工藤は真面目な奴だから、もうあんなことはしないって信じてるぞ。先方の親御さんには、俺から説得しておくよ。保証はできないけど、学校には戻れるようになんとか掛け合ってみるから」
「すみません……」
「それは落ち着いたら、橋本に言ってやれ。謝る相手は、先生じゃないだろ?」
 俺は、何も答えなかった。
「とりあえず、しばらくの間は自宅謹慎になると思う。明日は、朝一で先生と飛行機に乗って帰ろう」
「……わかりました」
「それじゃあ、布団敷いてこの部屋で寝なさい。荷物は明日の朝、明坂にまとめさせるから」
 最後にそれだけ言って、担任教師は部屋を後にする。俺は、布団も敷かずに畳の上に横になった。何も、考えたくなかった。けれどただ一つだけ。
春希に対しては、本当に申し訳ないことをしてしまった。
何度もポケットの中のスマホが振動したけれど、一晩中それを無視して過ごした。

翌日、担任教師は俺の旅行カバンを持ってきた。みんなは朝食を食べている時間だったから、誰ともすれ違うことはなかった。旅館を出て、空港までタクシーに乗って、飛行機に搭乗する。
思考を停止していると、驚くほどすぐに杉浦市へと帰ってきた。担任教師と自宅へ行くと、事前に報告をしていたのか父親が俺を出迎えた。
「本人も動揺しているみたいなので、しばらくは自宅で過ごさせてください」
「……わかりました。この度は、うちの息子がご迷惑をお掛けしてしまって、本当に申し訳ございません……」
「若者ですから。よくあることですよ。ははっ」
 最後に担任教師は俺を見て「反省するんだぞ」と釘を刺し、帰っていった。父親に「とりあえず、入りなさい」と言われて、素直に従った。
 リビングには、朝食の匂いが立ち込めていた。見ると、テーブルの上には一人分の目玉焼きと、ウインナーと、ご飯が置かれている。
「先生が、朝ご飯は食べてないって言ってたから」
 喉を通りそうだったら食べなさい。優しく言うと、お母さんに「春希が帰ってきたよ」と報告した。
「……ごめんなさい」
「朝ご飯は食べられない?」
「そうじゃなくて……」
 平日だというのに、仕事も休ませてしまった。俺は、わかってなかった。誰かを殴ると、いろんな人に迷惑が掛かるということを。
「とりあえず、食べなよ。お腹いっぱいになったら、いろいろ聞いてあげるから」
「……うん」
 気分は死んでいるも同然だったのに、人間の欲求に逆らうことはできなくて、出されていたものをすべて胃の中へ入れた。すると今度は、温かいお茶を用意してくれる。父親はブラックのコーヒーを淹れて、隣に座った。
「まずは、修学旅行の楽しかったことから話してみる?」
 優しく笑った。怒ってこないのが、逆に怖くもあった。
「それとも、いきなり本題から入ってみる?」
 控えめに頷いた。今楽しかった思い出を振り返ると、虚(むな)しさでどうにかなってしまいそうだった。
「それじゃあ、どうしてクラスメイトの子を殴ったの?」
 わずかな間の後、口を開く。
「……許せなかったんだ」
「馬鹿にでもされた?」
「……天音を、守ってあげたかった。必死だったんだ。放っておけば、無責任に彼女のことをもっと傷付けそうだったから、黙らせたかった……」
「そっか」
 噛みしめるように呟いた後、父親は言った。
「理由はどうあれ、手を上げるのはダメだよ」
「……先生にも言われたよ」
「でもお母さんが傷付けられてたとしたら、お父さんも手を上げてたかもしれない。男って、単純な生き物なんだ」
「……浅はかだった」
「そうだね。可能ならば、話し合いで解決するべきだった」
「話を聞いてくれないような奴だったら……?」
「それでも話をするんだよ。暴力で従わせる解決に、意味はないんだから。天音さんだって、きっとそんなことを望んだりはしないだろう」
 当たり前だ。天音はどれだけ苛立ちを覚えても、決して暴力で解決したりしない。
けれど、そんな優しい人が、匙(さじ)を投げるような奴だったんだ。あまつさえ、暴力を振るわれていた。父親が言っているのは理想論で、ただの絵空事だ。
「手を出さなきゃ、きっと今度は俺が殴られてた。あいつは、天音を突き飛ばしたから……天音にだって、もっと暴力を振るったかも」
「暴力を振るった理由はどうあれ、君は無傷だ。第三者だったはずなのに。やり返すとしたら、君じゃなくて天音さんの方だろう?」
「あいつは、暴力なんて振るわないから……だから代わりに、俺が……」
「天音さんはそんなことを望まないって、お父さんさっき言ったよね?」
 優しく、諭(さと)すような話し方をする。それに苛立ちを覚えてしまう自分が、恥ずかしかった。けれど見ていないからそんなことが言えるんだと、思った。
「……それじゃあ、天音が殴られるのを黙って見てれば良かったって言うの?」
「そうじゃない。本当に大切なら、天音さんの代わりになって説得を試みれば良かったんだ」
「それで上手くいかなかったら、殴られろって……?」
「ああ。殴るより、殴られる方がずっと強いよ」
 断言してくる。わけがわからなかった。そんなのは、格好が悪い。
「厳しいことを言うけれど」
 一度カップの中のコーヒーを口に含んでから、畳み掛けるように父親は話した。
「誰かのためという理由は、偽善だとお父さんは思う」
「偽善……?」
「もっと端的に言うなら、体の良い言い訳だよ。自分の行動理由を、相手のためだと言い張るのは。人間は往々にして、誰かのために人を殴ったりはしないと思うんだ。お父さんは人を殴ったことはないけれど、きっと手を出す瞬間は誰かのためというよりも、自身の怒りの感情の方が大きく勝っていると思う。無責任なことは言えないからあらためて聞くけれど、君は殴った瞬間に何を考えていた?」
 問われて、思い出したくもない昨日の出来事を回想した。二人の話を盗み聞いていた俺は、誰かが倒れる音を聞いて飛び出した。そこへ行くと、橋本が立っていて、天音が倒れていた。許せないと、思った。天音が忠告をしたというのに、彼は聞き入れもせずにそれを無視したからだ。
 誰かがわからせないといけないと思った。痛みを伴わなければ、人は理解しようとしない。だから天音の代わりに、踏み出した。
 それでも俺は、最後に彼に訊ねていた。ストラップは、お前が捨てたのかと。その返答を聞いて、頭で理解して、血が上って、殴った。
誰かのためじゃなくて、自分自身の義(ぎ)憤(ふん)を晴らすために。
それに気付いた途端、愚かだったのは自分だったということを思い知った。
「……あの場所で一番強かったのは、天音だった」
 突き飛ばされても、天音はやり返さなかった。女のくせに体力のある彼女なら、少しは抵抗することもできたはずなのに。担任教師が来た時も、三人で話し合うことを望んでいた。
 それに比べて、俺はどうだ。橋本を恐怖で立てなくなるほど強く殴り飛ばした。誰も来なければ宇佐美の分だと言い訳して、もう一発殴っていたかもしれない。
俺は本当に、愚か者だ。気付いた瞬間に後悔が溢れてきて、涙が頬を濡らした。そんなどうしようもない俺の背中に、優しく手のひらを添えてくれる。
「殴られるのは痛いかもしれない。それでも、やりかえすよりはずっとマシさ。本当に強い人は、暴力で訴えたりしない。誰かを守れるほどの強さがあるなら、受け流すことはできるんだ。だからどんな理由があるにせよ、最初に拳を握ってしまった人は負けだよ」
 心のどこかで、上手くやれていると思っていた。春希よりも、工藤春希をやれていると、自(うぬ)惚(ぼ)れていた。彼の守ることができないものを、俺なら守ることができると高をくくっていた。そんな慢(まん)心(しん)が招いてしまった、本当にどうしようもない間違いだった。
 ごめんなさい。いろんな人に、謝らなければいけなかった。一番変わらなきゃいけなかったのは、他ならぬ俺だった。
変わることが、できるんだろうか。
救いようのない、こんな俺でも。
「とにかく、やったことは反省しなさい。反省して、やり直すことさえできれば、君はちゃんと強くなれるよ」
「……はい」
 涙が溢れる。後悔のしずくだった。それが、とめどなく流れた。
 変わらなきゃいけないと、強く思った。

 しばらくの間、自室に引きこもった。気付くと夜が来て、夕ご飯だと言われてリビングへ行き食事をして、また閉じこもった。そうして反省をすることが、今の俺にできる最大限の償(つぐな)いだと思った。
 また気付けば、朝になっていた。もうとっくに、みんなもこっちへ帰ってきているだろう。今日は、振替休日。天音からの着信は、昨日から鳴り止まなかった。一時間おきに、かかってきた。自宅謹慎をしているんだから、放っとけよ。今は合わせる顔も、掛ける言葉も見つからないんだから。
 お昼に、宇佐美から着信があった。天音の連絡を無視して出るのは気が咎めたが、誰かの声が聞きたくて、応答をタップしていた。誰でもいいから、俺をなじって欲しかった。最初に戻るみたいに、死ねと言われても良かった。けれど彼女の第一声は『大丈夫?』だった。
 本当に、宇佐美真帆は変わった。その事実が余計に心を刺激して、涙が溢れてきた。
『ちょ、本当に大丈夫……?』
「……昨日よりも、ちょっとは落ち着いた」
『……そっか。天音からは、一向に電話に出てくれないって聞いてるけど。なんで私には出てくれたの?』
「声が、聞きたかったから……」
 電話の向こうの彼女が、赤くなったような気がした。もちろんそんな意味で言ったんじゃない。
『天音には、繋がらなかったって言っておくよ』
「ごめん、ありがとう」
『ごめんはいらないから。鳴海くんが言ったんでしょ?』
 そうだった。落ち着いた俺は、思わず苦笑した。
「……天音から、事情は聞いたの?」
『ううん。教えてくれなかった。でも、噂で聞いたよ。橋本を殴ったって』
 宇佐美曰く、突然帰宅した工藤春希と、顔に痣ができている橋本康平と、意気消沈している高槻天音という状況証拠から、そんな噂が広まっているらしい。概ね、間違いはなかった。こんな時だけとても正確なのが、なんだかやりきれないと思った。
『それで、なんで殴ったの?』
「許せなかったんだよ」
『天音がなんか言われたから?』
「……いや、もっと個人的な。どうかしてた。だから今、ちゃんと反省してる」
『そっか』
「引いたよな」
『別に。私も橋本のこと叩いたし。だから仲間だね』
 冗談を言う時みたいに、笑みを含ませながら宇佐美は言った。そのおかげでちょっとだけ、元気がもらえた。
「天音、結構参ってると思うから。宇佐美が見ていてあげて欲しい。お願いできるかな?」
『言われなくてもそうするつもりだよ。でも鳴海くんがいなくて不機嫌になられても困るから、早めに戻ってきてね』
「……ありがと。橋本は、どんな感じだった?」
『天音と一緒。怖いくらい黙り込んでた。天音と顔合わせる時もあったのに、一言も会話してなかったし。まるで、人が変わったみたいだった』
「そっか……」
『それが原因で、みんな根拠のない憶測ばかり言ってる。また、ちょっと前に戻ったみたいで、なんか嫌だった。前のは、私が蒔(ま)いた種だったけど……』
「今回ばかりは仕方ないよ。俺が殴ったんだから。本当に、春希に申し訳ない。また学校を居心地の悪い場所にしちゃった」
『大丈夫だよ。今度は私が、鳴海くんのことも春希のことも助けてあげるから』
「いいよ。宇佐美もいじめられたら、かわいそうだし」
『それで私がいじめられるなら、一緒にいじめられるよ。というか、私の疑惑もまだ解消されてないし。だから、本当に大丈夫。安心して戻っておいで』
 何も大丈夫なんかじゃないけれど、宇佐美の優しさが身に染みた。
「ありがとう」
 最後にもう一度だけお礼を言って、通話を切った。スマホを机の上に置いて、ベッドに横になる。いろいろと、考えなきゃいけないことがあった。
春希のことと、これからのこと。それと、どんな顔をして天音に会えばいいのかが、未だにわからなかった。元の体に戻るまでに、やらなければいけないことが増えてしまった。元通りになるまでに、全部それを解決することはできるんだろうか。
考えても、ネガティブな未来しか今は思い浮かばなかった。