学校の正門前に息子を下ろすと、父親はすぐに仕事場へと車を走らせて行った。

 家を出る時、玄関前の表札で『工藤』という名前を確認した。この宿主は『工藤春希』というようで、やっぱりその名前に聞き覚えはない。忘れているのか、そもそも知らないのかは判断ができなかった。

 同じ制服を身に纏った男子生徒たちと、襟がえんじ色をしたセーラー服を着た女子生徒たちの群れに導かれるようにして、校舎の中へと入って行く。皆一様に、迷うことなく自分の靴箱から指定の上履きスリッパを取り出しているが、学年もクラス番号もわからない俺は立ちすくんでしまった。

 これからどうしようかと考えていた時、

「久しぶり、春希くん」

 いきなり『春希くん』と呼ばれ、反応が遅れつつも声のした方を振り返る。いつの間にかそこには笑顔の女子生徒が立っていた。同じくらいの背格好で、どこか雰囲気が今朝見た写真の女性に似ている気がする。周りの生徒より、随分大人びて見えた。
胸元に付けている白いネームプレートには、『高槻』と彫られている。

「久しぶり、高槻さん」

 すると高槻は一瞬だけ逡巡するように口ごもった後、また微笑みを浮かべ、冗談でも言うように、

「春希くんがしばらく休んでたから、最近全部の日程を一人で決めてたんだよ」と、やはり俺にはわからない類いの会話を振ってきた。適当なことは言えないから「任せっきりになっちゃった」と、話を合わせておく。

「別にいいよ。春希くんも、いろいろ大変だからね。でも学校に来られるぐらいには回復したみたいで、安心したよ」
「ありがと。ごめんね心配掛けて。俺はもう大丈夫だから」

 にこやかに言うと、彼女は纏っていた笑みを急に引っ込め、見ず知らずの人に向けるような真顔の表情になった。その突然の変わりように、俺は焦りを覚える。

「……あの、どうかした?」
「ううん。勝手に私が心配してただけだから。それより、早く靴変えよ」

 先ほどまでとは違う平坦な声に違和感を抱いたが、こちらの返事も待たずにスタスタと歩き始めたため、小さく揺れるハーフアップにまとめられた長髪を追いかけた。
話の雰囲気的に、春希と高槻は仲が良いんだろうか。

 はぐれたりしないように後ろをついて行くと、彼女は下駄箱の中から自分の上履きを取り出した。当然、下駄箱に名前なんてものは書かれておらず、番号だけが割り振られている。とりあえず、目についた場所を適当に開けた。

「そこ、風香の場所だよ」
「あ、そうだっけ……」
「春希くんのは、こっち。久しぶりだから、忘れちゃった?」

 自分が開いたところから右斜め上の下駄箱を、細く綺麗な指先で示してくれる。

「そうだった、忘れてたよ」

 違和感を抱かせないよう、取り繕いながら言われた場所を開いて、やけに小さな上履きを手に取った。すると、
「その下駄箱も、実は真帆のなんだけどね。春希くんの足じゃ、そんな小さいのは入らないよ?」

 何も言わずに上履きを戻す俺を見て、彼女は意味ありげに笑っていた。からかったつもりだろうか。それなら、まったく面白くない。

 今度は本当の場所を教えてくれるのか、先ほど自分が上履きを取り出した場所のすぐ隣を開けた。しかしそこに、上履きは入っていなかった。

「まだこの冗談続けるの?」
「……いや、この場所で合ってるはずだけど」

 しばらく空の下駄箱の中を見つめていた彼女は、思い出したように眉根を寄せ、不快そうに表情を歪めた。それから開いた時よりも強い勢いで扉を閉める。カシャンという間抜けな音が昇降口に響き、生徒たちの喧騒の中に掻き消された。

「……もしかして、怒ってる?」

 恐る恐る訊ねると、数秒前の出来事など忘れてしまったかのように、笑顔が戻った。

「探しといてあげるから、今日はとりあえず職員室で予備の奴借りなよ」
「あ、うん……」
「場所、わかるよね。二階だから。そこの階段上がってすぐの場所。それじゃ、二年三組で待ってるね」
「え、ちょ」

 待ってよ。その言葉を発する前に、高槻は俺を置いてスタスタと歩いて行った。あわよくば、教室まで一緒に行こうと思ったのに。

 とりあえず教えてもらった場所に外履きだけ片付けて、二階にあるという職員室へ靴下のまま向かうことにした。