「いつも、息子と仲良くしてくれてありがとね」
トイレに向かう時、春希の母親はナルミにお礼を言った。
「別に、俺も楽しいから。春希と一緒にいると」
お願いされたから一緒にいるわけじゃない。自分が春希のそばにいたいから、最近は病室へ遊びに行っている。だからお礼を言われるようなことは何もしていないと思った。
「本当に、ありがとね。一度、親御さんに挨拶させてもらってもいいかな?」
「いいけど、今は弟の病室にいるから」
「病室? 入院してるの?」
ナルミは小さく頷いた。春希には内緒だよと言うように、口元に人差し指を当てる。母親が小さく頷いたのを見て、あらためて口を開いた。
「ずっと、病気してるんだよ。最近は特に酷くて。寝てる時の方が、長いんだ」
「そうだったんだ……弟くんも入院してるから、いつも病室に遊びに来れたんだね」
「そうだよ。春希には、心配掛けたくなくて言ってないけど。だからここだけの話」
「わかった」
しっかり頷いてくれたのを見て、ナルミは安心する。春希の母親のことは、春希と同じくらい信用していた。同じくらい優しいお母さんに、きっと春希は似たんだろうから。だからお母さんには、特別懐いていた。
「ナルミくんは、学校に行かなくてもいいの?」
ほとんど毎日春希の病室に訪れているから、それは至極当然の疑問だった。
「学校、行きたくないんだよ。いじめられてるんだ」
正直に言うと、お母さんは驚いて目を丸くした。
「そうなんだ……」
「これも、春希には……」
「うん。言わないわよ」
ナルミは安心しつつ、それからぽつぽつと自分のことをお母さんに話した。
やがて、トイレの前に着く。場所は知っているから一人で来ることもできたけど、そうしなかった。いつか話さなきゃいけないことを、お母さんには知っておいてほしかったからだ。
トイレから出た後、最初はやっぱり驚いて目を丸めていたけど、すぐにそれが笑顔に変わった。
初めて家族以外の人間に受け入れられたような気がして、ナルミはちょっとだけ、泣いた。
* * * *
私が高校二年に上がってから数日経ち、修学旅行のクラス委員を選ぶことになった。けれど誰もそれをやりたがらず、手も上げない。そんな時、誰かが言った。
「工藤とか、適任じゃないですか?」
無責任な言葉だった。クラスメイトの嘲笑が混じる。後ろの席の春希くんが、どんな表情をしているのか、うかがうことはできなかった。
「工藤、やってみるか?」
先生は期待を込めた眼差しで優しく訊ねた。おそらくそれもまた、無責任な言葉なんだろう。
わずかな間の後、春希くんは「……わかりました」と、了承してしまった。
その瞬間から、きっともう誰も相方として手を上げる人なんていないことが、私にはわかってしまった。この後は結局、無責任な推薦やじゃんけんをして、やりたくもない人が選ばれてしまう。それじゃあ、あまりにも彼がかわいそうだ。
だから誰かが何かを言う前に、手を上げた。
「高槻、やります」
クラスメイトたちがどよめく。
言いたいことは山ほどあったけど、ひとまず私はそれを呑み込んだ。彼がいじめられている現状を何とかするチャンスだとも思ったから。
放課後、空き教室に彼を呼び出して「これからよろしくね」と挨拶した。彼はとても困ったように逡巡して、
「……気を使って、手を上げてくれたんでしょ?」
「私、あんな噂話は信じてないから。ここで話したことも、別に誰かに話すつもりもないし。普通にしてていいんだよ」
「……ごめん」
「謝らないで。でも、聞かせて欲しいな。実際に、何があったのか。別に、どんないきさつだったとしても、私は気にしたりしないから」
真実を知るために優しく問い掛けると、彼は話してくれた。
「……たまたま、宇佐美さんが昇降口で男の人に告白してるところに出くわしちゃって。それで、宇佐美さんが泣いてたから、慰めようとしただけなんだ。でも、やっぱり僕も悪いよ。勘違いされるようなことをしちゃったから……」
そんなことだろうなと、最初からわかっていた。優しい彼が、人の弱みに付け込むはずがないんだから。今だって、二人に気を使って康平の名前は出さなかった。
それからしばらく、春希くんと一対一で話をした。その別れ際、覚悟を決めていた私は彼に言った。
「私が、これからは春希くんの味方でいるからね。だから、安心していいよ。真帆のことも、なんとかできるように私が頑張るから」
「……高槻さんがそんなことをしたら、それこそ僕みたいにいじめられるよ」
「いいよ、それぐらい。君をいじめたりするような友達なんて、いらない」
春希くんは何も言ってくれなかったけど、明日から私は、彼をいじめる人を誰一人として許さないつもりでいた。
そのつもりでいたのに。
翌日から、彼は学校に来なくなった。
トイレに向かう時、春希の母親はナルミにお礼を言った。
「別に、俺も楽しいから。春希と一緒にいると」
お願いされたから一緒にいるわけじゃない。自分が春希のそばにいたいから、最近は病室へ遊びに行っている。だからお礼を言われるようなことは何もしていないと思った。
「本当に、ありがとね。一度、親御さんに挨拶させてもらってもいいかな?」
「いいけど、今は弟の病室にいるから」
「病室? 入院してるの?」
ナルミは小さく頷いた。春希には内緒だよと言うように、口元に人差し指を当てる。母親が小さく頷いたのを見て、あらためて口を開いた。
「ずっと、病気してるんだよ。最近は特に酷くて。寝てる時の方が、長いんだ」
「そうだったんだ……弟くんも入院してるから、いつも病室に遊びに来れたんだね」
「そうだよ。春希には、心配掛けたくなくて言ってないけど。だからここだけの話」
「わかった」
しっかり頷いてくれたのを見て、ナルミは安心する。春希の母親のことは、春希と同じくらい信用していた。同じくらい優しいお母さんに、きっと春希は似たんだろうから。だからお母さんには、特別懐いていた。
「ナルミくんは、学校に行かなくてもいいの?」
ほとんど毎日春希の病室に訪れているから、それは至極当然の疑問だった。
「学校、行きたくないんだよ。いじめられてるんだ」
正直に言うと、お母さんは驚いて目を丸くした。
「そうなんだ……」
「これも、春希には……」
「うん。言わないわよ」
ナルミは安心しつつ、それからぽつぽつと自分のことをお母さんに話した。
やがて、トイレの前に着く。場所は知っているから一人で来ることもできたけど、そうしなかった。いつか話さなきゃいけないことを、お母さんには知っておいてほしかったからだ。
トイレから出た後、最初はやっぱり驚いて目を丸めていたけど、すぐにそれが笑顔に変わった。
初めて家族以外の人間に受け入れられたような気がして、ナルミはちょっとだけ、泣いた。
* * * *
私が高校二年に上がってから数日経ち、修学旅行のクラス委員を選ぶことになった。けれど誰もそれをやりたがらず、手も上げない。そんな時、誰かが言った。
「工藤とか、適任じゃないですか?」
無責任な言葉だった。クラスメイトの嘲笑が混じる。後ろの席の春希くんが、どんな表情をしているのか、うかがうことはできなかった。
「工藤、やってみるか?」
先生は期待を込めた眼差しで優しく訊ねた。おそらくそれもまた、無責任な言葉なんだろう。
わずかな間の後、春希くんは「……わかりました」と、了承してしまった。
その瞬間から、きっともう誰も相方として手を上げる人なんていないことが、私にはわかってしまった。この後は結局、無責任な推薦やじゃんけんをして、やりたくもない人が選ばれてしまう。それじゃあ、あまりにも彼がかわいそうだ。
だから誰かが何かを言う前に、手を上げた。
「高槻、やります」
クラスメイトたちがどよめく。
言いたいことは山ほどあったけど、ひとまず私はそれを呑み込んだ。彼がいじめられている現状を何とかするチャンスだとも思ったから。
放課後、空き教室に彼を呼び出して「これからよろしくね」と挨拶した。彼はとても困ったように逡巡して、
「……気を使って、手を上げてくれたんでしょ?」
「私、あんな噂話は信じてないから。ここで話したことも、別に誰かに話すつもりもないし。普通にしてていいんだよ」
「……ごめん」
「謝らないで。でも、聞かせて欲しいな。実際に、何があったのか。別に、どんないきさつだったとしても、私は気にしたりしないから」
真実を知るために優しく問い掛けると、彼は話してくれた。
「……たまたま、宇佐美さんが昇降口で男の人に告白してるところに出くわしちゃって。それで、宇佐美さんが泣いてたから、慰めようとしただけなんだ。でも、やっぱり僕も悪いよ。勘違いされるようなことをしちゃったから……」
そんなことだろうなと、最初からわかっていた。優しい彼が、人の弱みに付け込むはずがないんだから。今だって、二人に気を使って康平の名前は出さなかった。
それからしばらく、春希くんと一対一で話をした。その別れ際、覚悟を決めていた私は彼に言った。
「私が、これからは春希くんの味方でいるからね。だから、安心していいよ。真帆のことも、なんとかできるように私が頑張るから」
「……高槻さんがそんなことをしたら、それこそ僕みたいにいじめられるよ」
「いいよ、それぐらい。君をいじめたりするような友達なんて、いらない」
春希くんは何も言ってくれなかったけど、明日から私は、彼をいじめる人を誰一人として許さないつもりでいた。
そのつもりでいたのに。
翌日から、彼は学校に来なくなった。