それからしばらくの間、特に目新しい情報が見つかることもなく、穏やかに学校生活は過ぎていった。
 当初、俺と天音が付き合っていることに懐疑的な目を向けていたクラスメイトたちだったが、彼女のマメな説明が功を奏したのか、未だに歓迎されてはいないものの、二人は付き合っているという共通認識が得られた。そのおかげもあってか、春希に対するクラスメイトの扱いも変わったような気がする。
 上履きを隠されることもないし、教室にいても注目を集めるような存在ではなくなった。宇佐美からは、目が合うと未だに睨まれてしまうけれど。
 何も情報が集まらなければ二人で話し合う意味もないため、必然的に天音と放課後に話す機会は少なくなった。そもそも彼女は放課後、アルバイトに勤(いそ)しんでいるみたいだ。ずっと、暇人なのだと勘違いしていた。
勤務先を訊ねたが、恥ずかしいからと言って教えてはくれなかった。アルバイトをしていたことよりも、彼女の辞書に羞恥心という言葉があることに驚いた。そういうものが欠落していると思っていたから。
 以前、焦らずにゆっくり考えようとアドバイスをもらったが、こうして春希として振舞う生活を続けていると、いつまでこの生活が続くのだろうと焦(しょう)燥(そう)感(かん)に駆られる。

「それにしても、春希って本当に高槻さんと付き合ってんの?」

 体育の時間。バスケの試合を観戦しながら、次の自分のチームの番が回ってくるまで隅で待機していると、明坂がふらふらとこちらへ駄(だ)弁(べ)りに来た。器用に指先でバスケットボールを回しながら。

「もう納得したんじゃなかったの?」
「その時は納得したけど、あれから特に二人とも話してないじゃん。同じクラスにいるのに」
「なんで俺が率先して天音と話さなきゃいけないんだよ」
「だって恋人同士じゃん。最近、本当は付き合ってないんじゃないかって女子がまた噂してんぞ」

 その噂好きな女子たちは、体育館のもう半面を使ってバレーの試合をしている。ちょうど天音はコートに出ており、チームメイトがトスしたボールに合わせて跳躍し、相手コートにスパイクを叩きつけた。ボールが地面にぶつかった音か、天音の着地した際の衝撃かはわからないけれど、こちらの床までもがほんの少し揺れたような気がする。
 天音はコミュ力があって勉強ができるだけでは飽き足らず、スポーツまでそつなくこなせるらしい。天は二物を与えずとは言うけれど、神様はいったい天音に何を与えなかったのだろう。

「毎日メッセージでやり取りはしてるよ」
「何回くらい」
「一回か、多くて三回くらいだけど」

 そのメッセージも基本的には天音が律(りち)儀(ぎ)に送信してくる《おはよう》と《おやすみ》にスタンプを返し、時折互いの情報を交換しているだけだ。これでも多い方だと思うけれど、明坂はそんな俺に憐(あわ)れむような視線を向けてきた。

「こりゃあ、時間の問題だな」

 呆れたように明坂が言った瞬間、体育館内に女子の黄色い歓声が上がった。どうやらこちらでは、橋本がロングシュートをゴールに入れたらしい。

「俺も、あんな風にモテたいよ」

 悔しさを噛みしめるようにぼやく。

「明坂も、サッカーでいいところ見せればいいじゃん」
「男子がサッカーやってる時は、女子は屋内でバドミントンやってんだよ! それぐらい知ってるだろ!」

 残念ながら、この学校の体育事情なんて俺は知らない。
 それから試合を圧勝した天音と目が合って、いつもの個性的な挨拶をされた。俺も、無意識に手を閉じたり開いたりして返事をする。それを明坂が見ていたようで「いちゃついてんじゃねーよ」と、脇腹を肘で小突かれた、
 しばらくすると、俺と明坂のチームの試合が回ってくる。相手チームには橋本がいて、向かい合って挨拶をした時、見下すような目で「天音に、格好いいところを見せれたらいいな」と挑発された。とりあえず「へへっ」とだけ笑っておいた。
 持ち場について試合開始のホイッスルを待っていると、それが吹かれるよりも先に「頑張ってねー!」という天音の声援が体育館に響く。それが俺一人に向けられたものだと誰もが察し、チームメイトから白けた視線を送られる。向こうのコートの橋本は、露(ろ)骨(こつ)に苛立ちを滲ませた表情を浮かべていた。
 彼が天音に好意を抱いているのは、普段の態度からわかりきっている。どうやら横から奪った形になった俺は嫌われているらしい。早く別れろとでも思っているんだろう。とても残念なことに、それはきっと元の体に戻る時までおそらく叶わない。
仮に元に戻ったとしても、春希のことを気遣って天音はこの偽装交際を続けるだろう。それを思うと、彼のことが途端に不(ふ)憫(びん)に思えた。俺に苛立ちをぶつけるのは、無意味な行為だからだ。
やがて試合が開始される。しかし、こちらにボールが回ってくることがあっても、橋本がディフェンスに入ってきて、シュートはおろかドリブルもさせてもらえなかった。それだけならまだしも、彼が強引に迫ってくるものだから、思わず尻もちをついてしまうことが多々あった。そのたびに授業をサボっている天音が「ドンマイドンマイ!」と、声を掛けてくる。正直、恥ずかしいからいい加減やめて欲しい。

「高槻! お前はバレーの方を応援しろ!」

 さすがにその行為は教師の目に余ったのか、一喝された天音は唇を尖らせながらバレーの観戦へと戻る。それから静かになっても妨害をされ続け、チームに貢献はおろか足を引っ張る結果となった。試合終了後、気遣ってくれたのか「橋本はバスケ部の次期エースだから、しゃーないよ」と明坂が肩を叩いてきて、すっと頭が冷えた。
 我ながら、理不尽な仕打ちを受けてほんの少しだけ憤(いきどお)っていたらしい。

「やっぱり、橋本くんかっこいいなぁ」

 コートを出る前に、そんな羨望の声が耳に届く。口にしたのは宇佐美のようで、授業をサボって友達と観戦してたみたいだ。曇りのない、キラキラとした目をしている。もしかすると、彼のことが好きなのかもしれない。

「それに比べて、工藤ときたら」
「ねー格好悪いよね」

 不意に目が合った俺には、相変わらず憐れみを含んだ声をぶつけてくる。
これでも、顔を合わせるたびに『死ね』と言われていた頃からは、いくらかマシになったような気がする。何が彼女の態度を軟化させたのかは、皆目見当もつかないけれど。
 時折、俺はいったい何をしているんだろうと思う。
春希のふりをして、体育の時間はバスケに勤しんで。もっと他にやることがあるんじゃないか。本来の目的を忘れたわけじゃないが、情報がなく変わり映えのない日々に嫌な焦燥感を覚える。春希の不登校と、この現象が関係しているんじゃないかとも考えたけど、それらを結び付けられるような材料も不足していた。
幸いなことに明日は休日だから、思い切って杉浦病院に行ってみようかと、着替えをしながらふと思う。
しかし決意が固まった放課後に、久しぶりに天音から「今日は一緒に帰ろうよ」と誘われてしまった。最近の彼女と言えば、仲の良い友達と一緒に下校していたというのに。偽装交際をしている手前、断るわけにはいかなくて、気付けば首を縦に振っていた。
それからタイミング悪くテニスラケットの女の子がやってきて、

「ねえ天音、今日は……」
「ごめん! 今日久しぶりに春希くんと帰るんだー」
「あぁ、そうなんだ」

 いつの間にか、一緒に帰るということにいちいち騒ぎ立てるクラスメイトはいなくなっていた。今日は部活が休みなのか、天音に声を掛けてきた女の子は、俺を一(いち)瞥(べつ)して「それじゃあ、工藤と帰った後に遊びに行かない?」と代替案を提示する。

「それも、ほんっとにごめん!」
「えー放課後も工藤?」
「そこは、彼は関係ないんだけど。私個人の用事で」

 その用事というのは、きっとアルバイトのことだ。この学校は基本的に生徒のアルバイトを禁止しているが、天音は友達にも隠して働いているらしい。そんな事情は知らないテニスラケットの女の子は、断られて唇を尖らせる。怒っている、という風ではなく、単純に拗ねているように見えた。

「最近、天音ノリ悪くない?」
「ちょっといろいろ忙しくてさ」
「へぇ、そうなんだ。それじゃあ、また今度ね」

 天音を誘うことに失敗した彼女は、それからまた一瞬だけこちらを見て、軽くひらひらと手を振ってくる。挨拶のつもりだろうか。会(え)釈(しゃく)だけすると、教室から出て行った。

「それじゃあ、行こっか」

 声を掛けられて、頷きと共に立ち上がる。
 クラスメイトからの敵意のこもった視線はなくなった。
けれども一人だけ、橋本は未だに俺のことを忌々しく思っているのか、ふと偶然視線が合う前から軽く睨まれていた。
 こればかりは、時間が経っても解決してくれないらしい。

 放課後すぐのバスは部活動をしていない帰宅ラッシュの生徒に揉(も)まれるため、歩いて帰ろうと天音が提案した。正直徒歩は面倒くさかったが、反論を唱えた方が後々面倒なため、素直に従って隣を歩いた。
 桜はもうほとんど散ってしまい歩道のわきでくすんでしまっているけれど、五月の空は青く澄み渡っていて心が爽(そう)快(かい)な気持ちになる。そんな穏やかな心で歩いていたというのに、天音は仏頂面で単刀直入に切り出してきた。

「最近、杉浦くんが恋人のふりをしないせいで、クラスメイトから本当に付き合っているのか怪しまれています」
「別に、もういいんじゃないの? 続けることに何か意味があるのか疑問に思ってきたところなんだけど」
「もうちょっと乗り気になってよ! お互い恋人同士の関係でいた方が一緒にいて違和感ないし、気軽に春希くんのこととか相談できるんだから!」
「だからって、クラスメイトの前で恥ずかしげもなくいちゃつくのは嫌だよ。体育の時間に白けた目で見られてたんだぞ」

 バスケの試合を思い出して、胃にむかむかしたものが溜まる。見様見真似でやっていたから、上手くいかないのは当然のことだと割り切れるけど、さすがにあそこまで橋本に粘着されると穏やかにはいられない。

「そういえば、康平にボコボコにされてたね」
「思い出させるなよ。それに君がうるさいせいで、余計に注目を浴びた」
「なに? 私が悪いって言いたいわけ!」
「どう考えても注目されたのは天音のせいだろ」

 思わず正論を吐き出すと、言い返せなかったのか押し黙った。
仕方なくため息を吐いて、溜飲を下げる。

「天音の口からも、何かあいつに言ってやってくれよ。敵意剥き出してきて、正直面倒くさいんだけど」
「それ無理。だから、ごめん……」

 思いのほか真剣な表情で顔を伏せてくる。そんな風に落ち込むのは珍しいことだから、逆にいたたまれない気持ちになった。

「もしかして、天音も困ってるの?」
「困ってるっていうか、なんというか。いいところはもちろんあるんだけど……」

 この様子だと、おそらく彼から好意を向けられていることを理解しているんだろう。だから、それをあえて言葉にはしないであげた。

「私より魅力的な女の子なんて、周りを見渡せばたくさんいるのにね」
「知らないけど、橋本には天音のことを特別に思える何かがあるんじゃないの?」
「どうだろ。昔から、なんだかんだ仲は良かったけど。ちょっといろんなことを話しすぎちゃったからかな」

 不意に『毒親』という単語を思い出して、それを頭の隅に追いやる。付き合いの長い彼は、きっと天音のことを俺よりたくさん知っているのだろう。試合に負けて悔しくはなかったけれど、その事実だけはいつまでも心の中で引っかかっていた。

「いろんなことって?」

 記憶も何も持っていないけど、話し相手くらいにはなれるかもしれない。だから思い切って、踏み込んだことを訊ねてみた。彼女は歩みを進めていた足を止めて、こちらではなく道の先を遠い目をしながら見つめる。
 春希の偽物である俺に話せることなのかどうか、思(し)案(あん)しているのだろうか。数秒の空白の後、出てきた言葉はどこか諦めたような「いろいろ、だよ」だった。まだその『いろいろ』の境界線を、越えることができていないらしい。

「……橋本に恋人でもできたら変わるんだろうね」
「高校二年に上がる前に告白されたけど、康平は断ったのよ。あんまりいい話じゃないから、ここだけの話ね」

 まあ、みんな知ってることなんだけど。冷めた口調で話して、天音は再び歩き出した。俺も、遅れて彼女の隣に並ぶ。

「それで話を戻すんだけど、みんなに怪しまれてるから明日は恋人らしくデートしようよ」
「まだその話って続いてたんだ」
「場所は明日集まってからのお楽しみってことで。一応、動きやすい服装でね!」
「遊園地にでも行くの?」
「お昼のことは考えなくてもいいからね。私の方で用意するつもりだから」

 どうやら明日の予定は何一つ教える気がないようで、笑顔でこちらの質問は無視された。拒否権なんてものは、もちろんないんだろう。病院へ行くつもりだったけど、その予定は後日にあらためることにした。