カーテンの隙間から差し込む朝焼けの眩しさで目を開いた。未だまどろみの中にいるような、意識が完全に覚醒するほんの少し前。ぼんやりとした視界の焦点を定めるために、一度まぶたをこすった。

 反射的に大きなあくびをすると、蛍が飛んでいるように見えた視界が澄み渡った。どうやら俺は、見知らぬ部屋のベッドの上に寝転がっているらしい。

 昨日のことを思い出そうとするが、まるで空を掴むかのように記憶が手のひらをすり抜けていった。それどころか、自分という存在すらもなぜか曖昧になっていて、思わず手のひらを額に当てる。どこかを打ったような痛みはなかった。

 ベッドから降りて、壁際に置いてあった姿見と対面してみる。そこに映っている姿に、しかし見覚えはなかった。夢じゃないかと思って軽く頬をつねってみたが、鈍い痛みと共に鏡に映る誰かの頬がほんのり赤く染まった。

「……俺は、誰だ」

 そして、お前はいったい誰だ。
 
 悪い夢なら覚めて欲しいと願って、きつく目をつぶって強く頭を振る。再び視界が明るくなった時、受け入れがたい現状に都合の良い変化は起きていなかった。

「春希!」

 不意に部屋の外から、誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。なんとなく、自分のことを呼んでいるような気がした。俺の名前は、『杉浦鳴海』だけれど。

「杉浦、鳴海……」

 ふっと頭の中に浮かんできた名前を口に出してみると、心のどこかでパズルのピースがぴたりとはまるような音が聞こえた。自分のことは、何もわからないのに。それだけは、唯一確かなものだと疑いもしなかった。

 取り乱してもおかしくない現状なのに、変に落ち着いている自覚はあった。ずっと、こうなることを望んでいたような気さえする。

 誰かに呼ばれているため、ひとまず部屋を出て階段を恐る恐る下りてみると、ちょうど『春希』を呼びに行くところだったのか、廊下で声の主とばったり遭遇した。

 先ほど鏡で見た自分の姿に似ている男性。おそらく父親だろう。大きく違うところと言えば、彼には年齢によるしわが顔に刻まれていて、眼鏡を掛けている。物腰のやわらかそうな人だった。

「なんだ、起きてたのか」
「あ、うん……」
「もしかして、今日は行くの?」

 目的語のない言葉に首を傾げると、怪訝そうな顔をしながら「学校」と付け加える。

「あ、あぁ。行くよ、もちろん」

 自身の記憶は混濁しているけど、学校は行かなければいけないものだという常識は持ち合わせていた。ということは、俺は春希と同じ学生だったのだろうか。

「……父さんが言うようなことじゃないけど、しんどかったら休んでもいいんだぞ? 今の時代、一休みするのはおかしなことじゃないんだから。辛かったら、別の道だっていくらでもあるんだし」
「え、何の話? 別に、風邪とか引いてないけど……」

 さっき鏡で見た自分は、特に体を壊しているようには見えなかった。

「そっか。それじゃあ、朝ご飯もうできてるから、顔洗ってリビングにおいで」
「わかった」

 反射的に返事をしたものの、家のどこに洗面台が置いてあるのかわからなかった。父親にたずねても良かったが、頭がおかしくなったと思われそうだから気が引けて、とりあえず近くにあったドアを三回ノックしてみる。中から返事はない。

 すると、リビングに向かっていた父親がこちらを振り返って、眉をひそめた。

「おい、大丈夫か? うちには父さんとお前しかいないぞ」
「あ、あぁ。そうだよね。ごめん、寝ぼけてた……」
「そんな怖いことしないでくれ」

 慌ててドアを開けると、その小さな空間には堂々と真っ白い便座が鎮座していた。洗面所じゃないことは一目瞭然だったが、開けてしまった手前、入らなければそれはそれで不審がられてしまう。

「ハル、トイレ終わったらちゃんと顔洗うんだぞ。一応、洗面所はあっちだから。久しぶりの学校なんだし、寝ぼけたまま行くなよ」
「……わかった」

 父親は訝しげな表情を浮かべ、指し示した洗面所とは反対側の扉を開けて入って行った。おそらくそっちがリビングだろう。トイレに入り鍵を閉めてから、ため息を吐いて壁にもたれかかる。尿意はもよおしていない。

 なんとなく流れに身を任せるように会話をしてしまったけれど、正直に今起きている出来事を話すべきだったんだろうか。けれど馬鹿正直に打ち明けてしまえば、頭がおかしくなったと思われて医者へ連れて行かれる気がする。こんな突拍子もない現象を、いったい誰が信じてくれるのだろう。

 自力でどうにかできる問題なら、ことを荒立てたくはない。

「すぐに、元の体に戻れるんだろうか……」

 そもそもどうやって体が入れ替わってしまったのか。杉浦鳴海としての記憶が欠落しているから、戻り方も戻るタイミングすらもわからない。

 問題は山積みだったが、ひとまずは顔を洗って飯を食わなきゃいけない。いつまでもトイレにこもっていれば、今度はお腹でも下したのかと心配されてしまう。

 意味もなく水を流してから、洗面所で顔を洗った。

 リビングへ行き、椅子に座って食パンをかじる頃には、しばらくの間は自分を春希だと偽って行動することにしようという意思が固まっていた。もし何日も続くのなら、それはまたその時に対策を考えようと、未来の自分に無責任にも決断を任せることにする。

 幸いにも、父親には息子の中身が入れ替わってしまったことはバレていないようだった。この近辺で高校生が車に轢かれる事故があったとか、芸能人の不倫に関するテレビのニュースを見ながら、新聞を広げてコーヒーを飲んでいる。

「一応聞いとくけど、まさか学校の場所を忘れたなんて言わないよな」
「馬鹿にしないでよ。忘れるわけないじゃん」

 そもそも通っている学校すら知らないなんて、言えるはずもない。気丈な言葉とは裏腹に、内心めちゃくちゃな焦りを感じていると、父親は首元のネクタイを締め直してから「久しぶりだから、車で送ってあげるよ」と言ってくれた。

 朝食後に一旦部屋へと戻り、クローゼットに掛けてあった制服に着替え、床に無造作に置かれていた黒色のリュックを持って玄関に向かう。

 待っていると、父親がリビングの方からひょっこりと顔を出した。

「お母さんに挨拶、していきな」

 さっきは二人暮らしと言っていたのに。

 リビングへ戻ると、棚の上に置かれている小さな写真立てに向かって父親が腰をかがめていた。隣に立って見てみると、その写真には輝かしい笑顔を浮かべた女性が写っている。

 なんとなく、春希の母親は亡くなってしまったんだと、察した。

「お母さん、ハルが元気に学校に行くって知ったら、喜ぶと思うぞ」
「……そうかな」

 俺は、春希じゃない。複雑な気持ちを抱えながら、写真の前で手を合わせる。途端に、大切な息子のふりをしている自分に、大きな罪悪感を抱いた。 

 だから「ごめんなさい」と、心の中で静かに唱えた。