リビングのテーブルの上に置いてある、一枚のパンフレットを見た。

『はなの絵展 』

 今は九月。北海道ではちょうどこの時期に見頃な、ピンク色のコスモスの花が二輪、パンフレットいっぱいに大きく描かれていた。それに寄り添うように見覚えのある名前はあった。

『神楽渉《かぐらわたる》』

 ――この名前、彼だよね?

 彼とは中学の途中まで、同じ美術部だった。何故途中までなのかというと、中学二年生の時、彼は転校してしまったから。

 あの頃も、私の絵なんて全く敵わないなと思える程に、彼は絵を描くのが上手かった。けれども、今、私の目の前にある絵はもっと上手く、今すぐにコスモスがゆらゆらと風に揺られそうだった。繊細でリアルな絵。なんていえば良いのか分からないけれど、とにかく上手かった。



 中学一年生の時の記憶がよみがえる。

 うちの中学の学区は、主にふたつの小学校から生徒が集まっていた。

 神楽渉くんは私とは別の、もうひとつの小学校からやってきた。それに、クラスも五クラスまであり、彼は一組、私は五組だったから美術部の存在のみで繋がっている、そんな感じだった。

 彼は放課後、誰よりも早く美術室に来て、ひとりの世界に入り、ひたすら絵を描いていた。部活の時間、誰よりも真剣に絵を描いていて、更に周りの部員が帰ってもひとりで残り絵を描いていた。

 最初は “ 神楽渉くんは絵が上手くて、不思議な人 ” としか、思っていなかった。けれど、私もある程度は絵が上手くなりたいって願望はあったから、彼の上手い絵を眺めて、どうやったらそんな風に描けるのだろうと、彼が絵を描いている姿を日々目で追うようになった。

 ひたすら観察をしていると、気がついたことがある。

 彼は絵を描き始めると、違う世界に行っているようになる。描き始める前となんとなく雰囲気が変わるのが分かる。描くのが好きなんだなと、少し離れた席から見ても伝わってきた。



 秋頃だったかな?

 私も部員達が帰った後、残って絵を描くようになっていった。残って描くようになったきっかけは、部員達が帰った後も彼は黙々と絵を描いているのかな?って、ただの好奇心。

 私が宿題やる時みたいに、ひとりになると漫画読んだり、他のことをはじめちゃったりしないのかな?って。

 それは違った。

 彼は、何ひとつ変わることなく描くことに集中していた。

 美術室にふたりきりでいる時、最初は彼の席と離れた席で私は自分の絵を描いていたけれど、やがて、彼の隣で描くようになった。

 必要最低限の会話しかしない。

 描いているふりをして、横目でちらり視線をやる。

 彼は私の視線には一切気がつかないで、画用紙に描いている紫陽花に、絵の具の柔らかな水色を載せていた。さらさらとその絵の命を深めるように。

「神楽くんの描く花、好きだな……」

 私がぽつりそう呟くと、彼は両眉を上げ、こっちを二度見してきた。そして、動きを止めた。

 私は、黙々と進めていた彼の作業を妨げ、とても申し訳ない気持ちになり「ごめんね」と謝った。

 彼は「うん」と頷いて、その後、何事も無かったかのように再び絵を描いていた。



 日々変わらずに部員が帰っても、私は残って絵を描いていた。
 彼も変わらず、絵を黙々と描いていた。

 ただ、少しの変化があった。彼の作業を一瞬止めてしまったあの日から、たまに彼はパレットの中に微妙に違う色を何色か並べて、私に「どの色がいい?」なんて質問をしてくれるようになった。

 そして、気のせいなのかもしれないけれど、彼が花の絵を描く日が増えた気がした。

 ふたりきりで、彼の隣で絵を描くのが、当たり前になっていた。
 この空気感が好きだった。

 けれど、この時間はなくなった。
 彼は中学二年生の夏、突然転校していった。



 あの時を思い出してみると、あのふたりきりで美術室にいた時間は、なんだか特別だったように思える。

 再びパンフレットを見つめた。
 いつまで開催されているのかな?

『9月24日(日)まで』

 日曜日は会社が休みだから、最終日行けるかな?



 当日。なんとなく、いつもよりも丁寧にメイクをした。彼が描いた絵に合いそうなベージュ色のワンピースも買い、普段は軽く整えて終わりな髪の毛も丁寧に編み込んだ。

 同級生の絵を鑑賞しに行くだけなのに、なんだか好きな人に会いに行くみたい。

 車で約十五分の距離に、ショッピングモールがあり、その中にある、時期によって様々なイベントが行われる場所に彼の絵は展示されている。

 館内は日曜日だからか、特に親子、カップルなどで賑わっている。

 人混みをくぐり抜け、彼の絵がある空間にたどり着いた。

『はなの絵展・神楽渉』

 パンフレットが大きく印刷され、入口に飾られていて、このふたつの言葉がぱっと目に入ってきた。

 中に入ると、すぐに彼と再会した。
 私の姿を見ると彼の両眉が勢いよく上がった。

「如月、さん?」
「うん、久しぶり」

 十年ぶりに再会した。

 彼の姿は、中学生の時の面影があった。
 雰囲気があの頃よりも明るくなった気がする。

 久しぶりに出会い、緊張感はあったものの、あの頃の空気感は、ほぼ変わらずにいた。 



 彼と少し話をした後、私は絵を順番にみていった。

 転校してからもずっと彼は絵を描き続けていたんだろうなって想像させる程に、とても絵が上手くなっていた。

 一番最後に見た、大きな絵には衝撃を受けた。私が一番好きな、沢山のピンク色のコスモスの花が、広大な夕焼けの空と共に描かれていた。

 絵の世界に入りたい程に、美しかった。
 
 目の前に立つ。それだけで周りのにぎやかな音は聞こえなくなり、惹き込まれ、絵の中の世界が、まるでリアルな世界のように感じていく。

 立ち止まり眺めていると、隣に神楽くんが来た。

「如月さん、今でもコスモス好きなの?」

「うん、好き。えっ? てか何で私がコスモス好きなの知ってるの?」

 彼にコスモスが好きな話なんて一度もしたことがない、と思う。なのに何故彼は、それを知っているのだろう。

「ちょっと待ってて?」

 彼はそう言うと、会場の裏側に行った。
 それからすぐに戻ってきて、私は、ある懐かしいものを手渡された。



「これ、私の? 中学の時なくしたやつ……」

 鞄に付けていて、落としてなくしたと思っていた、コスモス柄の小さな鏡のキーホルダー。当時、その柄にはまっていて、ペンケースとか文房具もコスモス柄で揃えていた。

 彼はそれを見ていて、覚えていて……。
 だから私がコスモス好きな事を?

「これ、拾った時からずっと如月さんに渡さないとって思ってたんだけど、遅くなって、ごめん」

「ごめんも何も……。もう十年ぐらい経ってるのに、よく捨てないでいてくれたね!」

「うん。中学の時に、僕の描いた花の絵を、如月さんが好きって言ってくれて、実はあれから花の絵を描くことに自信が持てたんだ」

 えっ? あの何気なく言ったひとことが?

「その言葉を、如月さんが落としたこの鏡に詰め込んで、夢を叶える為のお守りみたいにして持ち歩いていた。ありがとう。そして返すね」

「えっ? でもそんな大切に持ってくれてるなら、そのまま持っててもいいよ?」

「でも、もとは如月さんのだし……」

 しばらくそんな会話が繰り返された後、私は言った。

「じゃあ、その鏡、あげます。その代わり、絵を描いている姿、近いうちにまた見せてもらってもいい?」

 ちょっと間があったけれど、彼は「うん」と、微笑みながら頷いてくれた。