夏になると思い出す。同じ年頃の近所の子供達と、探偵気取りであちこち散策しては、細やかな発見を無邪気に楽しんだ少年時代。

 砂に紛れた硝子の破片がダイヤモンドに見えたし、箪笥の奥から見つけた銅貨は魔法のコイン。
 駄菓子屋で買ったお揃いのバッジは仲間の印で、近所のお爺ちゃんは毎日変わる色んなカツラで、変装の名人だった。
 毎日飽きずに駆け回る、狭い世界の新発見。
 お隣さん家の立派な椅子の中にはきっと誰かが隠れているし、屋根裏の軋む音も鼠じゃなくて誰かが住み着いて居るに違いない。遠くに見えるあの島は、きっと誰かの秘密基地。
 あらゆるものを『きっと』の魔法で脚色しては、日々を謎で彩った。

 そんなとある夏の日に、僕はいつもの仲間達とはぐれ、隣町へと迷い込んだ。
 偶然見かけた大きく鮮やかな蝶を、幻の蝶だと追い掛けて。気付けば一人、見知らぬ土地へとやって来たのだ。


*****


 その日は酷く暑かった。まるで、切れ目を入れ忘れたまま焼かれるソーセージにでもなったような感覚。
 容赦なく脳天を焦がすじりついた陽射しと、呼吸をする度に熱湯に溺れているのかと錯覚しそうになる蒸し暑さに、身体の内側から膨れ上がって今にも爆発してしまいそうだった。
 熱中症なんて知識はなかったが、これはまずいと本能で感じ、僕は一先ず涼める場所を探す。

 とうに蝶は見失い、気力も体力も尽きた頃合いに、ふらふらと歩く僕は不意に大きな影を見付けた。
 建物が作るその暗がりに身を寄せて、冷えた地べたに座り人心地つく。日陰のじめっとした土の匂いが、沸騰間近の脳を冷ますようだった。
 火照る身体がそのまま溶けてしまわぬよう、その建物に背を預ける。伝うごつごつとした固い感触に、自分が液体ではないことを改めて認識した。

 暫く涼み、額を伝う汗を拭いながら何気なく見上げると、それは古い時計塔のようだった。
 昼間の陽射しを全て遮り影とする、全体的に苔むしたその建物は、人の気配も感じられず、さながら幽霊塔だ。
 誰か個人の所有物だろうか、それとも公共施設だろうか、若しくは本当に、幽霊の住まう城なのだろうか。

 僕は持ち前の好奇心から、その建物の入り口を探すことにした。疲労が蓄積された小さな身体も、好奇心の前では無尽蔵の体力を誇るものだ。壁に手を触れさせながら、ぐるりと大きな建物の周りを歩く。

 しかし壁沿いに幾ら歩いても、一向に扉らしきものは見当たらなかった。
 つまらない。そう思いかけたが、入り口の見付からないこの建物が何物なのか、益々気になった。

 僕は一旦、離れた所からその全貌を見渡すことにした。日陰から出ると、今までよくこの中を歩いて来られたものだと、改めて浴びる直射日光の洗礼に挫けそうになる。
 離れて仰ぎ見る陽炎に揺らぐ大きな塔は現実離れしており、今しがた触れていたにも関わらず、目を逸らした瞬間消えてしまいそうだった。

 周りに人は居ない、此処だけ切り取られた絵画のようだ。ぼんやりと眺めるその先に、不意に、塔の中に人影を見つけた。
 長い黒髪が、上階の窓辺に映る。中に人が居る。あれは、女の子だ。女の子が、真っ直ぐに僕を見ている。そう理解した瞬間、僕は再び塔へと近付いた。

 自分の家に来た不審人物を見咎めているだけかもしれない。けれど、そんなのは関係なかった、気分は既に、幽閉された姫を助けに来た勇者である。
 塔の謎やら帰り道やら、そんなことはすっかり頭から抜けて、ただ彼女に一目会ってみたかった。

 再び日陰に入り、建物の周りを回る。すると、先程見付からなかった筈の扉が、あっさりと見つかったのである。
 暑さで朦朧として見落としたにしては立派な、古い木の扉。見たところ鍵は掛かっておらず、チャイムもなかった。表札や看板もない。

 扉を見つけた高揚のままに、僕は躊躇いなく、ぎい、と大きな音を立てて、重い扉を押し開けた。その錆び付いた蝶番の立てる音に紛れて、建物へと足を踏み入れる。
 古い外観に違わず薄暗い室内は僅かに埃っぽく、電気は付いていなかったが、窓から差し込む日の光で事足りた。

 冷房がついている様子はないが、外に比べ幾分涼しい。見たところ、店や施設の類いではなさそうだ。けれど民家と言うには広過ぎるし、人の気配もない。

 もしかすると、本当に幽霊塔なのかもしれない。そういえば、塔を見付けてから今まで暫く彷徨いていたにも関わらず、車も歩行者も、野良猫一匹ですら、誰とも擦れ違わなかったと思い当たる。

 それでも好奇心は変わらず、僕は先程人影の見えた上階を目指した。
 ただの探検気分とは少し違う。あの長い髪、白い肌、遠目に見えた彼女に、どうしても一目会いたかった。

 軋む木の階段、一歩進む度埃が舞って、差し込む光でキラキラとした。耳が痛いくらいの静寂、呼吸の音と足音がやけに響く。
 やがて登り切った先、扉が僅かに開いた小部屋があった。先程外から見えたのは、あの部屋に違いない。僕は逸る鼓動を必死に抑えながら、こっそりとその部屋を覗いた。

 人の姿は、ない。けれどどうにも、何かの気配がした。もう今更後には引けず、深呼吸をして、意を決して中へと踏み込む。

 そこは無人の部屋だった。子供部屋のような小さな部屋に、不釣り合いな程大きな窓。そこから外を見下ろせた。太陽に照らされた見知らぬ町全体が、陽炎に揺らめく。

 不意に、背後から視線を感じて、反射的に振り向いた。
 眩しさから一転、暗い室内は目が慣れず、じっと目を凝らす。するとそこには、先程見掛けた長い黒髪の少女の……絵があった。

 絵の中の少女は、僕より少し年上のように見える。美しく天使のように穏やかに微笑んで、ただ静かにそこに居る。
 絵だったと言う落胆と、それでも尚目を惹く少女への興味、そして、ほんの僅かな違和感。
 下から建物を見上げて、果たして暗い部屋の壁に飾られたこの絵を見ることが出来たのだろうか。
 違和感は魔法のトリガーだ。僕は恐怖にも勝る好奇心で、その絵に語り掛ける。

「ねえ、きみの名前は?」
「さっき僕を見下ろしていたのは、きみ?」
「この塔は何なの?」
「いつからここに居るの?」
「きみは、一人なの?」

 僕の声だけが反芻する空間。それでも問いは止まらない。しかしすっかり喉はからからで、暫くして上手く声が出なくなった。
 答えが来る筈のない問い、静寂だけが包む二人きりの空間。

「もっと、きみに聞きたいこと、あったのにな」

 やがて日が傾いて、燃えるような赤い夕陽が、室内を満たすように差し込んだ。
 もうじき夜が来る。帰らなくては。微笑み続ける彼女へと、そっと、最後の別れを惜しむように手を伸ばす。
 彼女の微笑みは、美しい瞳は、何処か寂しげだ。置いて行くには忍びないと、幼心に感じた。
 彼女の輪郭をなぞるように、柔く撫でる。その手を離そうとした瞬間、突然何かに引っ張られるように、身体が宙に浮く。
 驚いて声を上げることも出来ないまま、直ぐにどしんと尻餅を付いた。